オオカミ様が代わられてから数年が経った。

俺も仕事を覚え数多くの現場をこなし、自分でも辛うじて一人前の仲間入りを果たす事が出来たと実感するようになった。
また、兄弟子たちも独立し、または職を変えるなどしていつの間にか俺が一番の古弟子となった。
弟弟子も多くの者が入れ替わり、古くからの奴は三人ほどとなった。
その中で、俺と一番息が合い、本当の兄弟のようになった晃は、かつてお狐様に憑かれて昏倒した男だ。
「でも、俺はお狐様を恨んではいないんですよ」
あの時の話になると、晃は必ずこう言う。

「確かに俺は憑かれたけれど、夢の中で見た彼女はとても寂しそうで、なんていうか、無理をしている感じだったんですよね。だから、護ってあげたくなると言うか……」
ちなみに、あの時神主さんの奥様とお嬢さんは酷い目に遭ったが、どちらも本当にお狐様の所為だったかは微妙である。
また、郵便受けに投げ込まれていた犬の耳と鼻は神主さんがすぐに処分してしまったが、一件落着した数日後、殺されたと思った飼い犬は無事に縁の下から発見された。
その後、俺もお狐様に憑かれそうになった事もあったが、オオカミ様の少年のお陰で事なきを得、その騒動の後で俺は神主さんの娘の優子さんと親しくなり、時々食事やドライブをしたりする様になった。

彼女は国立大学出の才媛であり、長い黒髪を持つ美人である。

頭の良い彼女との会話は楽しく勉強になる事ばかりで、優子さんと過ごす時間はとても楽しいものだった。


ある日、俺が事務所に帰ると優子さんが待っていた。
「お忙しいのにごめんなさい。ちょっと○○さんにご相談したい事があって……」
俺が書類をまとめるまで待ってほしいとお願いすると、親方とおかみさんにそんな事は明日でいいからとっととデエトに行け、とむりやり押し出されてしまった。
なぜか晃が拗ねた様だったのが気になったが俺たちは車に乗って走り出した。
しばらく走り、食事をしようと行きつけの和食屋へ入る。
料理が運ばれてきてから、彼女が話を始めた。

「実は、最近夢にあの女性が良く出てくるのです……」
「お狐様、ですか」
「はい……」
優子さんの話はこうだ。

ぽつん、と立っているお狐様をたくさんの鬼火や狐が囲んでいる。

そして、なにか罵倒するような言葉を彼女に投げていると。
余りにもたくさんの言葉が渦巻くために良く聞き取れないのだが、その中からなんとか拾い出した言葉は「恥曝し」だとか「名折れ」等の言葉で、どうも吊るし上げを喰らっているようだと。
また、明らかに低級な狐霊からもいいように罵られ、キツイ瞳に涙を一杯溜めながらもキッと歯を食い縛り耐えているそうだ。

それを見ている優子さん自身も悲しく昏い気持ちになって涙が流れ出す所になって目が覚め、枕を濡らしていると。
「……私には、彼女が悪い神様には思えないのです。元々、父が彼女のお社を放ったらかしていたのが原因で彼女が怒り、祟って来た訳だし……それに、だれか命を落とした訳でもないし」
優子さんの言いたい事は解るし、お社を修復していた時に現れた彼女の嬉しそうな様子を思い出すと、彼女はとても悪い神には思えない。
あの時、抱きついた彼女を振り払った自分に対して取った行動も、少々エキセントリックな人間の女性が好きな男に振られた際に取る様な程度ではないかと思える。
あのまま襲われた時のダメージは人間の女性とは比較にならないと思うが……。

「お父様にはお話したのですか?」

「はい……でも、どうすれば良いか解らないから様子を見るしかない、と」
俺は少々心当たりがあるので、少し時間を呉れる様優子さんにお願いをし、その後は他愛もない話をして楽しく食事をした。
優子さんと食事を終わらせ、彼女を送り届けるために車を走らせていた。

なんとなく静かになってしまった車内の空気を紛らわす為にカーステレオのラジオをつけようとした時、優子さんが口を開いた。
「今夜は、まだ帰りたくないな……」
俺は心臓が飛び跳ねる様な感触を抑えつつ、冷静を装って答えた。
「じゃあ、もう少し走りますか」
「はい!」
優子さんが嬉しそうに答える。

俺は、夜景が綺麗に見える峠を目指してハンドルを切った。
峠道を走り、夜景の見える展望台に辿り着く。

車を駐車場に停め、展望台へ向かう階段を上っているとき優子さんが俺に身を寄せて来た。
「寒くないですか?」

「少しだけ……」

俺は優子さんにジャンバーを貸そうと脱ぎかけたが、優子さんがそれを制して俺の手を握ってきた。

「○○さんの手、暖かいんですね」
絡めるように繋いだ優子さんの手がドキドキと脈打っているのが感じられる。
いや、俺の心臓の鼓動も激しくなっている。
階段を上りきると、目の前に広がる町の灯りは陳腐な表現だがまるで宝石箱の様だ。

「きれい……」
優子さんが呟く。

俺たちは手を繋ぎ、寄り添ったまましばらく無言で煌く宝石箱を眺めていた。

しばらくの静寂を破り、優子さんが口を開いた。
「○○さんは……想われてる方がいらっしゃるんですよね……?」
驚いた俺が顔を向けると、彼女は大きな瞳で俺を見つめていた。
「…そんな事、誰からお聞きになったんですか?」
「父から、聞きました。あと、晃さんからも」

俺は答えに窮して沈黙した。
優子さんは、手を繋いだまま俺の前に廻り込んで来た。
「でも、その方は人間じゃない……オオカミ様なのでしょう?」
まっすぐに見つめて来る彼女の瞳から目が離せない。
そして、彼女の瞳に涙が浮かんでいる事に気付いた。

空いていたもう片方の手も繋いでくる。
華奢な手はひんやりとしていた。
「……はい。俺は、オオカミ様の事を愛してしまったようです」

自嘲気味に呟く。
やはり、現実に存在するかどうかも解らない方を想っている、等と口にするのは憚られてしまう。
「そんなの、おかしいよ!」
突然優子さんが叫ぶ。大きな瞳から、涙の粒が零れ落ちている。

「だって、オオカミ様なんて、神様なんて現実に存在しない!もし存在したとしても、人間となんて結ばれる訳ない!なんで、そんな方の為に貴方が苦しまなきゃならないの!そんなの、お狐様にとり憑かれた晃さんと変わらないよ!」
俺の瞳をしっかりと見つめながら叫ぶ優子さん。
俺は驚きと、腹の底から湧き上って来る様な愛おしさに戸惑っていた。
「私は……私は○○さんが好き!初めて逢った時から、好きだった!だけど貴方は、貴方は……」
「あ~ん」と子供のように泣きじゃくり始めた彼女を両手で抱き締めた。
その瞬間は、彼女がこの世で最も大切な、護って上げたい存在だった。
泣き止み、しゃくり上げながら俺の顔を見つめる優子さん。
見つめ返すと、彼女はそっと目を瞑った。

俺は、彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
そっと唇を離すと、はにかむ様な、満面の彼女の微笑みがあった。
俺も恥かしくなり、彼女をぎゅっと抱き締める。
「えへへ……」

照れた様に笑い、彼女も俺の背中に廻した手に力を込めた。
その時、彼女の肩越しに誰かが立っているのを見つけた。
俺は優子さんを脅かさない様、抱き締めたまま人影に目を凝らした。
長い髪、切れ長の目、高い鼻梁、厚めの唇……。
あれは、お狐様!しかし、彼女は今までとは違う穏やかな微笑を浮かべていた。
まるで、俺達を見守るような、可愛らしいとさえ思える笑顔……。
その時、俺は気付いた。

お狐様の微笑みと、優子さんの微笑みがそっくりな事に。
瞳のキツさを除けば、まるで双子かと思うほど良く似ている。
そうだ、だから初めてお狐様に逢った時、優子さんの姉と名乗られても不審に思わなかったのだ。
「○○さん、どうなさったんですか……?」
優子さんが俺の腕の中で声を出す。

その瞬間、お狐様の姿はふうっと消え去った。
「いや、なんでもないです。そろそろ帰りましょうか」
「はい。ちょっと名残惜しいけど……」
俺は彼女の肩を抱きながら階段を降り始めた。


彼女を家に送り届け、泊まっていく様に薦めてくれる神主さんに明日仕事が早いのでと丁重に辞して家へ向かう。
日付変更線を超える直前に家に着くと、家の前の空き地に停まっていた車から誰かが降りてきた。
「こんばんは。兄さん、遅かったですね……」

「晃、か。どうした、こんな時間に」
「ちょっと、相談に乗っていただきたい事があって……」
俺はドアを開け、晃に入るように促した。
部屋に入り、灯りを点ける。
缶ビールを取り出し、口を開けて晃に渡す。

しかし、晃は今夜は帰るからと辞退した。
「で、相談ってのはなんだい?」
缶ビールをコップに注ぎながら問うと、晃が話し出した。
「実は、優子さんのことなんです……」
優子さんは前回の騒動以来、なんだかんだとウチの事務所に顔を出し、時々会計や帳簿つけの手伝いをしてくれるようになった。

また、親方やおかみさんもシャキシャキした気持ちの良い性格の優子さんをとても気に入っており、手伝ってくれた時にはバイト代もちゃんと払いなんだったら正式に就職してほしいとまで言っていた。
料理も上手く、よく気が利くので弟子達からも姉貴分として人気が高い。

「で、優子さんの素晴らしさは良く解ったし俺も知ってるが、結局何が言いたいんだ?」
優子さんの事を誉めるのは良いのだが、ちっとも相談事に入らない晃に業を煮やした俺は先を促した。

「……兄さんは、優子さんの事をどう想ってるんですか?」
突然の問いに、俺は口に含んだビールを噴出してしまった。
げほごほとむせる俺に台拭きを渡しながら、晃はこちらを見ている。
俺は平静を装いながら、逆に聞き返した。
「なぜ、そんな事を聞くんだ?お前には関係ないだろう」
少しの間を置き、晃が答えた。
「俺は……俺が、優子さんを好きだからです」
言われてみれば、心当たりが無い事は無かった。

優子さんが来ている時の晃の態度や、俺と優子さんが出かける時に何度か見せた。
ちょっと不貞腐れてるというか、拗ねているような態度。
そうか、こいつ……。
その時、先ほどまで一緒だった優子さんの姿がフラッシュバックした。
くちづけた時の柔らかな唇、抱き締めた時の感触と髪の甘い香りが鮮明に甦り、俺は気恥ずかしさと自分への苛立ちからつい語気を強めてしまった。
「お前が優子さんを好きだと言うのは解った。だが、それを俺に伝えてどうしようと言うんだ?
もし俺が優子さんと付き合っているなら、別れてくれとでも言うのか? それとも、そうだったら諦めようとでも思ってるのか?
それよりも、優子さんにお前の気持ちを伝えるのが先だろうが!」

晃はキッと俺を睨み、答えた。
「優子さんには気持ちを伝えました!そして、答えは貰いました……優子さんは兄さんが好きなんです……優子さんは、泣きながら俺に謝りました。どうしようもないくらい、兄さんが抄きなんだと……。

兄さんが想っているのがオオカミ様だと、とても敵わない方だと解ってるけど、でも死にそうな位好きなんだと……」

俺は返す言葉もなく晃をみつめた。

「だから、兄さん!お願いします!優子さんの……優子さんの気持ちに……」

最後は言葉にならない。晃は泣いていた。
その後、俺も晃も無言のまま、晃は帰って行った。
俺は今夜の自分の行動を思い起こし、自分の迂闊さを責めながら風呂に入り、寝床へと入った。
電気を消し、目を瞑るがまったく眠れない。
優子さんを愛おしく想ったのは勘違いなんかじゃない。

しかし、男女としての愛情であったのかは自信が無かった……。


結局眠れぬまま、窓の外が白んできた。
時間を見るとまだ午前五時前だ。
俺は起き出し、着替えるとヘルメットとグローブを掴んで外に出た。
バイクにキーを差込み、オオカミ様の社へと向かい薄暗い闇の中に滑り込んだ。
林道を走り、オオカミ様の階段下へ辿り着く。

その時、階段の上から誰かが降りてくるのが見えた。

『こんな時間に、一体……?』俺は不審に思いながらバイクから降り、人影に顔を向けるがまだ暗くて良く解らない。

しかし、靡く長い髪が認められた。
『まさか……オオカミ様!?』心臓がドクンと脈打つ。
俺は、逸る気持ちを抑えながら階段を上り始めた。
ハッキリとその顔が見えたとき、俺の全身に冷や汗が噴出した。
『あれは……お狐様!』

つい数時間前に見た、妖艶な姿がそこに在った。

足を止めた俺の所まで音もなく彼女が降りてくる。
そして、俺の横でピタリと止まった。
「久しぶり、ね。○○さん。逢いたかったわ……」
俺の目は彼女の切れ長の瞳に吸い付いたまま離せない。
しかし、やはりかつて感じた様な険は無い。

「ふふ、でもさっき逢ったばかりよね。貴方は優子と接吻してたけど」
紅い唇の端を上げ、妖艶に微笑う彼女。脳髄まで蕩かされそうな艶っぽさだ。
「優子は、良い娘よ。泣かしたりしないでね」
彼女は突然、固まったままの俺の頬に接吻した。

そして、そのまま階段を降り始めた。
「貴女は、誰なんですか!優子さんの、何なんですか!?」

俺の口から咄嗟に一体何を聞きたいのか解らない様な言葉が出た。
彼女は、少しだけ振り返りながら小声で答えた。
「私と優子は、○○○だから……」
「え……?」
肝心な所が良く聞こえず、聞き返す俺に目も呉れず彼女はふっと姿を消してしまった。
残された俺は呆然と立ち尽くしていたが、突然響き出した笛の音で我に返った。

振り返ると、階段の上にあの少年が立ち、笛を吹いていた。
少しの間、美しく響く笛の音に聞惚れていたがはっと我に返り、階段上の少年を見上げる。
俺を見つめながら吹いているようだが、薄暗さで表情は確認できない。
俺は意を決し、階段を上り始めた。
一段一段、しっかりと踏みしめながら上ってゆく。

少年の表情が確認できそうな位置まで来た途端、少年の姿が掻き消えた。
しかし、笛の音はまだ響いている。
階段を上り切ると、少年が社の前で笛を吹いている。
俺は一礼すると、鳥居を潜り社へと向かおうとした。
鳥居を潜ろうとした瞬間、俺の体はピタッと動かなくなった。

そして、俺の目の前に少年の顔があった。

オオカミ様と同じ、宇宙の深遠を思わせる漆黒の瞳に俺の目は奪われた。
息が掛かりそうなほどの距離で俺は少年と対峙している。
どれほどの時間が過ぎただろうか、少年の朗々とした声が響いた。
「迷いか、惑いか」
俺は意味が解らず、呆気に取られた。少年は繰り返した。
「迷いか、惑いか」

その時、いつか見た夢が甦った。
少年から手渡された髪飾りを抱きながら涙を流していたオオカミ様の姿。

そして、あの時の言葉。

「あのひとは……強い人です。迷う事はあれど、惑う事はありません」
全てが溶け去るようだった。
惑いも、迷いも。

俺は答えた。
「迷いも惑いも、今は無し」
少年の瞳に驚きの色が浮かんだようだった。

そして、オオカミ様とよく似た穏やかな微笑を浮かべ、すっと消えてしまった。
そのままへたり込み、俺は眠ってしまった。
目覚ましが鳴っている。俺はガバッと身を起こした。
辺りを見回すと、自分の部屋である。
まるで狐に摘まれた様で、何がなんだか解らない。
俺はバイクでオオカミ様の社に行った筈だったが……。
時間は六時半。いつも起きる時間だ。

夢、だったのか……?
まどろみながら見た、夢……?
昨夜からの出来事と、自分の迷いが見させた夢だったのか……?
釈然としないまま身支度をし、外に出る。
車に向かいながらバイクの脇を抜ける途中、マフラーに手が触れた。

熱い感触に驚き手を戻す。エンジンにも手を触れてみると、つい先ほどまで走っていたように熱を持っていた。


昼休み、優子さんの勤務先に電話をする。
優子さんに今夜時間を取ってもらうようお願いすると、電話の向こうで嬉しそうに了解してくれた。
今夜、彼女の喜びを壊す事になると思うと気が重かったが、このままでは彼女を更に苦しめてしまうと自分を叱咤した。
現場を早めに切り上げ、事務所に帰る。
そこには既に優子さんが到着し、おかみさんと談笑していた。

彼女の輝く様な笑顔は、昨夜の事があるからだろう。
俺を見つけると嬉しそうに駆け寄って来た。
「お疲れ様でした!」
無邪気な笑顔を見ていると胸が苦しい。

俺達が出掛ける寸前に晃が帰ってきた。
「デートですか。行ってらっしゃい」
晃は俺達を寂しそうに、しかし穏やかな微笑で見送った。

食事中も楽しそうに話をする彼女。

しかし、途中で俺の様子に気付き、心配そうに聞いてきた。
「どうしたんですか? 具合でも悪いの?」
なんでもないよ、と答える俺。
そして食事も終わり、彼女を送る為に車を走らせていると優子さんが頬を染め、はにかむ様にして微笑み、口を開いた。
「今夜は帰らないかも、って両親には言って来ました……。○○さん、今夜は、私……」
俺は申し訳無さで押し潰されそうだった。

ポケットの中に入っているお守りを握り締め、俺は口を開いた。
「……優子さん、ごめん。俺は、貴女の気持ちに応えられない……」
彼女は、微笑んだまま凝固した。
空気さえも固まった様な車内にどれほどの時間が流れただろうか。
「……え? ……ごめんなさい、意味が……解らない……よ?」

本当に混乱している。可愛らしい微笑を張り付かせたまま。
「俺は、貴女が好きだ。でも、それは親友として、妹の様な存在としてなんだ。男女の愛情ではないんだ」
俺の言葉は彼女の心を貫き、引き裂いた。
「……なんで……だって、昨夜……そんなの、ないよ…………」
彼女の表情から微笑が消える。

彼女は驚きと悲しみの表情を張り付かせたまま、黙り込んでしまった。
五分後、彼女の家の玄関に着く。

黙ったまま車から降り、ふら付きながら玄関へと向かう彼女を見送り、俺は車を出した。


翌日は重い気分のまま仕事に出たがやはり気が乗らず、仕事が遅々として進まない。
予定の半分程も進まないので弟子達は先に事務所に帰して俺は一人で遅くまで仕事したが結局捗らず、区切りを付けて事務所へと戻った。

ドアを開けると、真っ赤に泣きはらした顔の優子さんと晃が居た。
「……」

流石になんと言って良いか解らず、黙って自分の机に座る。
そして、業務日誌をつけながら口を開いた。
「優子さん、お話はちょっと待ってて下さい」
優子さんがこくんと頷くのを確認し、次は晃に聞く。
「親方は?」
「もう休みました……」
「そうか……」

しばらくは俺の鉛筆の音と時計の針の音だけが事務所に響いていた。

日誌を書き終わり、一つ深呼吸をしてから優子さんに声を掛ける。
「外に出ましょうか」
「いいえ、ここで良いです」

真っ赤な目で俺を見つめながら優子さんが答える。
俺は晃に帰宅するように促すと、晃は拒否した。
また、優子さんも晃に居て欲しいと言うので、俺は優子さんに向かって話し始めた。
俺は優子さんに再び詫びた。詫びるしか無かった。
優子さんの大ききな目から涙がポロポロと零れ落ちる。
しばらくの静寂の後、優子さんが嗚咽し始めると、晃が俺を睨みながら叫んだ。

「なんでなんです!優子さんをこんなに追い詰めて、悲しませてまでオオカミ様の事を想い続ける必要なんて無いでしょう!」

俺は晃に向かい、オオカミ様への想いの深さを語った。
それは、優子さんに聞かせるためでもあった。
しばらくの間晃と口論するうち、ふと優子さんの様子がおかしいのに気付いた。
下を向いたまま、何かぶつぶつと呟いている。
晃も異常に気付き、優子さんを見詰めた。
すう、と優子さんが顔を上げた。

その顔を見て、俺の背筋に冷たい汗が吹き出る。
同時に、晃が擦れた様な声でつぶやいた。
「お、お狐様……」
しかし、彼女は先日あった優しげな雰囲気は微塵も残していない。
それどころか、明らかに強烈な怒りの波動を持って顕現した。

「なぜ、泣かせたの……」

彼女の厚めな唇から、地獄から響いてくるような声が吐き出された。

すうっと椅子から立ち上がる。
俺も晃も、恐怖で半ば腰が抜けたようになってしまっていた。
「優子は、私の分身(わけみ)……貴方なら受け止められるのに……」

かっ、と目を開き、俺に近寄ってくる。
「赦せない……赦さない……優子の心を踏み躙ったお前を……」
その顔は徐々に獣のものへと代わりつつある。

背中を丸め、力を溜めるのが見て取れる。
俺も、晃もその顔から目を離す事も、動く事も出来ない。

「!?」
彼女が一瞬声にならない程の呻きをもらした。
瞬間、表情が優子さんのモノに戻る。
その一瞬、電光石火で晃が彼女を抱き絞めた。
「駄目だ!優子さん!目を覚まして!」

叫ぶ晃。

しかし彼女は暴れ出し、晃の肩にがっと歯を立て喰らい付いた。
晃の白いシャツが見る見る赤く染まる。
「晃!」

我に返った俺が駆け寄ろうとすると、晃が叫んだ。
「来ないで下さい!」

晃は暴れる彼女を抱き締め、押さえつける。
そして、彼女の耳元で叫んだ。

自分が優子さんをどれだけ愛しているかを。

「お狐様、俺は優子の為なら命だって惜しくない…俺を殺しても構わないから、優子を放してやって下さい!」
ふ、と彼女の体から力が抜けた。
晃の肩から口を離し、晃の血で染まった唇で彼女が俺に向かって問うた。

「お前は、あの方を想い続けるのか……」
「……はい、俺はオオカミ様だけを想い続けます」

「そう……」

怒ったような、優しい様な不思議な微笑みを見せ、彼女が呟く。
「もし、その言葉、違える事あれば、また逢いに来るわ……必ず、ね」
晃の腕の中でがく、と崩れる彼女。
既にその顔は優しげな優子さんの顔へと戻っていた。

ただ一つ、晃の血で塗れた紅い唇を除いて。

三日後、念の為に入院した優子さんが退院した。
晃は親方の許可を貰って付きっ切りで看病していた。
花束を持ってお祝いに行った俺に、二人は照れながら

「結婚、します」
と打ち明けてくれた。

俺は心から喜び、祝福した。

晃に促され、優子さんが俺の前に来た。
「○○さん、これからも、今までみたいに遊んでくれますか?」
「もちろん。俺達はいつまでも親友だよ」

優子さんはにこっと微笑むと、背伸びして俺の頬にキスをくれた。
「私、○○さんの恋を応援しますね!」

その笑顔は、少しだけ、お狐様の微笑と被って見えた。