話題は少し変わりますが、【神様系】ある眷属からの言伝 の続きです。


現状のコロナ禍において、人それぞれ、考え方が大きく違うことが明確になりました。取ると危険な行動は、かなり明らかになってきており、周知もされています。にもかかわらず、危険な行動をとる人が多数います。

このような人たちを責めるつもりはありません。その人たちは危険な行動をとることを自由意思で選択したのであり、その選択は尊重されるべきです。もちろん、その結果には、その人自身が責任を持つ必要があり、後に後悔するくらいなら、最初から違う行動をとるべきです。

さて、ここからが本題ですが、鎌倉時代に制定された御成敗式目の第一条の最初に、このような節があります。

「神者依人之敬增威、人者依神之德添運」

書き下すと、「神は人の敬いに依りてその威を増し 人は神の徳に依りて運を添う」となります。

この節は、800年近く経った今でも真理です。

御成敗式目の存在については小学校で習いますし、その内容については、今ではインターネットで簡単に調べることができます。何の予備知識もなくこの節にたどり着くことはなかなか難しいですが、数十年前よりは、ずっと探しやすくなりました。

神を敬することで神の運を授かることを選ぶか否かは、あなた自身の、自由意思による選択です。

神を敬するなんてどういうことだ、どの宗教・宗派に入るべきか、そもそも何をしたらいいのか。

いろいろ聞きたいことがあるかと思います。突き放した感じかもしれませんが、答えは「あなた次第」です。

先祖代々の祀りを行うもよし、気に入った特定の神を崇敬してもよし、迷ったら地元の神社を訪れてもよし。

あるいは、あなた自身が新たな信仰を切り開いてもよいのです。

教祖になって人を支配するのではなく、あなたと神の、互いに納得がいく、新たな世界を創りあげるのです。
誰もがチャレンジすることができますが、特に、頭が柔らかい方、若い方の挑戦を歓迎します。

自分の経験や学びを他人と共有するのはよいことです。結果、師と仰がれることもあるかもしれませんが、驕り高ぶらなければ問題ありません。しかし、自分の信仰の形を人に強制したり、信仰を他人から搾取するための道具にするのは、あってはならないことです。

信仰は本来、あなたと神々の間の直接の関係であり、間に第三者を必要としません。

信仰の形を各人で考えていくのは、難しいことです。誰かに言われたままに行動することは簡単ですが、それですと進歩がありません。別にそれでも全く問題ないですが、より多くを得るためには努力が必要です。世界のありとあらゆることと同じです。

さて、わかりやすい反応がないと、どうしても、「やはり神はいないのでないか?」との疑念ができ、信仰が終わりやすくなります。これは面白味がありません。

今後、日本の神界は、必要と判断した場合、人間への接触を今までより積極的に行うことになりました。また、今までタブー視されていた行為も、必要ならば解禁していくことになりました。今までのままでは、先細りになるので、打開策に出ます。

一方通行の信仰でも構わない、手を合わせて感謝するだけでそれで満足だ、という人も多いと思います。それはそれで、一向に問題ありません。

しかし、既存の常識には囚われすぎたくない、異世界冒険譚よろしく、新たな世界で神とともに幸せになるんだ、との考えを持つ勇気のある人には、神々も積極的に応援します。

そんな冒険者の方々に、少しアドバイスを。

神々との接し方を考えて、と急に言われても困る方へ。恋人など、大切な人を相手するときの接し方をヒントにしてください。決まった日に神社に必ず来るべきとか、毎日特定の所作を行うべきとか、そのような縛りを設ける必要はありません。家に神棚を置く必要もありません。(もちろん、そうすることを選ぶ自由もあります。)人同士の、家同士の付き合い方も、何十年前とは大きく変わってきました。現代で受け入れられやすい、神と人との新しい付き合い方が、そろそろ出てきてもおかしくありません。昔ながらの信仰を否定せずに尊重しつつも、新しい信仰の形を追加するのです。既に布団が敷いてある寝床に新たに一枚、布団を重ねるように。

信仰は本来、押し付けられるもの、抑圧や搾取のためにあるもの、義務感でやるもの、祟られる恐怖を遠ざける逃避で行うもの、では決してありません。果たして、そのような信仰で神への「敬」は生まれるのでしょうか。日本では信教の自由が認められています。信仰の強制は、あってはならないものです。付き合いで様々な儀式を行わなざるを得ない場合もありますが、心の中では従う必要がありません。そして、新たな信仰を行う権利もあるのです。

信仰は楽しんでいいのです。形に縛られず、自由に、よりよい方向を模索してもいいのです。時には自由に遊べていた童子の心に戻ったりして、楽しみながら、いろいろ盛り上がりながら、神々と向き合うのも「敬」の一つの形です。

人に嘘をつくことは、ときには必要です。でも、自分の心に嘘をつかないでください。心の中のいい感情も悪い感情も、素直に受け入れてください。神々には、心の中について、一切隠し事はできません。でしたら、いっそのこと開き直ってしまいましょう。悪い感情を全く持たない人間なんて、誰もいないのですから。

さて、知名度が高い神々は日本に多々いますが、そのような神々が人と直に接することは、まずありません。代わりに、有名な神々に仕える、無名な眷属が接します。ふらっと大会社を訪れても社長と話できることはまず不可能で、かわりに名を聞いたことのない社員が対応するようなものです。名乗る神名が有名であればあるほど、その者は偽物である可能性が高いと心得てください。

裏を返すと、あなたに最も身近となる神界の存在は、眷属となることが多いです。眷属が仕える神を敬すことは全く問題ありませんが、神があなたのために割くことができる労力は、そう大きくありません。このため、運を添えていただきにくいです。一方、眷属を敬すと、眷属はあなたに身近な存在であるため、運を添えていただけやすいです。また、直に接する眷属とは自然と、密接な関係になりやすいです。一般論として「某神の眷属」を敬す人はあまりいないですが、結果を強く求めるのであれば、このような形もあります。もちろん、神と眷属を両方敬すのも、全く問題ありません。

眷属があなたと接触することを選び、あなたの前に現れることにしたら、眷属は自分の名を告げます。名をイメージで送ることもあれば、一音一音、あなたが探っていく場合もあります。眷属は、その名前であなたと接します。逆に、あなたが眷属と直に接触する場合、あなたは自分の名前ではなく、必ず、別の名前を使ってください。インターネットのハンドルネームのようなものです。眷属があなたの名をつけることもありますし、あなた自分が選ぶこともあります。眷属と接するときのあなたのイメージは、本来の見た目と異なっていても構いません。服装だけでなく、身長や体形、髪型、年齢、性別すら変えることもできます。まるでアバターを自由に着せ替えるように、あなたのキャラクターを作りこむことができます。もっとも、眷属の好みが自然と反映されることも多々ありますが。眷属はそれぞれ異なる性格があり、個性豊かです。あなたと触れ合う眷属は、あなたと相性が合うからあなたを選ぶのです。ぜひ、仲良くなって、大切にしてください。

あなたのハンドルネームと、眷属の名は絶対に他人に話さないでください。そして、絶対に記録として残さないでください。もし、あなたを攻撃する存在に名前がばれた等、危険を感じたら、あなたの名は放棄してください。そうすると、危険があなた本体には及びません。のっとられたアカウントを放棄して逃げるようなものです。新しいアカウントで再度頑張ってください。なお、あなたの頭の中の記憶から眷属の名が消えているのなら、その間は接触を断られていることを意味します。

眷属との意思疎通方法として、以下のような手法が考えられます。例えば、最近流行りのワイヤレスイアホンが耳に入っており、そこから眷属の声が聞こえてくることをイメージする。VRディスプレイで眷属が語りかける。(この場合、眷属の見た目は、眷属からヒントをいただくか、自分で画像をいっぱい見て、ピンときたものを基本にしてください。)チャットで文字や画像が現れるように、眷属からのメッセージが来る。眷属にメッセージを送る場合は、脳内でのやりとりとなり、実際に声に出す必要はありません。迷ったら口元にあるマイクに話すイメージでもよいです。現代の技術の様々な概念を援用して、イメージをふくらませてください。簡単にできる話ではありませんが、いろいろ試行錯誤してください。まずは「はい/いいえ」の二択の判断を、しっかり受け取めることから慣れるとよいでしょう。

最後に。神に対する「敬」ですが、その結果が神の「徳」になり、その結果が人の「運」となります。つまり、神への敬が、そのまま人の運になって跳ね返っています。常日頃から、悪い感情を神にぶつけてばかりいると、悪循環になってしまうので、できれば避けたいところです。たまに愚痴るくらいなら構わないのですが。

それでは、皆様のご活躍を心から楽しみにしております。

(注:本稿は怪談の森さんの元記事へのリンクを条件に転載自由としてください)





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