【閲覧注意】怪談の森【怖い話まとめ】

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カテゴリ: 宮大工見習いシリーズ

オオカミ様が代わられてから数年が経った。

俺も仕事を覚え数多くの現場をこなし、自分でも辛うじて一人前の仲間入りを果たす事が出来たと実感するようになった。
また、兄弟子たちも独立し、または職を変えるなどしていつの間にか俺が一番の古弟子となった。
弟弟子も多くの者が入れ替わり、古くからの奴は三人ほどとなった。
その中で、俺と一番息が合い、本当の兄弟のようになった晃は、かつてお狐様に憑かれて昏倒した男だ。
「でも、俺はお狐様を恨んではいないんですよ」
あの時の話になると、晃は必ずこう言う。

「確かに俺は憑かれたけれど、夢の中で見た彼女はとても寂しそうで、なんていうか、無理をしている感じだったんですよね。だから、護ってあげたくなると言うか……」
ちなみに、あの時神主さんの奥様とお嬢さんは酷い目に遭ったが、どちらも本当にお狐様の所為だったかは微妙である。
また、郵便受けに投げ込まれていた犬の耳と鼻は神主さんがすぐに処分してしまったが、一件落着した数日後、殺されたと思った飼い犬は無事に縁の下から発見された。
その後、俺もお狐様に憑かれそうになった事もあったが、オオカミ様の少年のお陰で事なきを得、その騒動の後で俺は神主さんの娘の優子さんと親しくなり、時々食事やドライブをしたりする様になった。

彼女は国立大学出の才媛であり、長い黒髪を持つ美人である。

頭の良い彼女との会話は楽しく勉強になる事ばかりで、優子さんと過ごす時間はとても楽しいものだった。


ある日、俺が事務所に帰ると優子さんが待っていた。
「お忙しいのにごめんなさい。ちょっと○○さんにご相談したい事があって……」
俺が書類をまとめるまで待ってほしいとお願いすると、親方とおかみさんにそんな事は明日でいいからとっととデエトに行け、とむりやり押し出されてしまった。
なぜか晃が拗ねた様だったのが気になったが俺たちは車に乗って走り出した。
しばらく走り、食事をしようと行きつけの和食屋へ入る。
料理が運ばれてきてから、彼女が話を始めた。

「実は、最近夢にあの女性が良く出てくるのです……」
「お狐様、ですか」
「はい……」
優子さんの話はこうだ。

ぽつん、と立っているお狐様をたくさんの鬼火や狐が囲んでいる。

そして、なにか罵倒するような言葉を彼女に投げていると。
余りにもたくさんの言葉が渦巻くために良く聞き取れないのだが、その中からなんとか拾い出した言葉は「恥曝し」だとか「名折れ」等の言葉で、どうも吊るし上げを喰らっているようだと。
また、明らかに低級な狐霊からもいいように罵られ、キツイ瞳に涙を一杯溜めながらもキッと歯を食い縛り耐えているそうだ。

それを見ている優子さん自身も悲しく昏い気持ちになって涙が流れ出す所になって目が覚め、枕を濡らしていると。
「……私には、彼女が悪い神様には思えないのです。元々、父が彼女のお社を放ったらかしていたのが原因で彼女が怒り、祟って来た訳だし……それに、だれか命を落とした訳でもないし」
優子さんの言いたい事は解るし、お社を修復していた時に現れた彼女の嬉しそうな様子を思い出すと、彼女はとても悪い神には思えない。
あの時、抱きついた彼女を振り払った自分に対して取った行動も、少々エキセントリックな人間の女性が好きな男に振られた際に取る様な程度ではないかと思える。
あのまま襲われた時のダメージは人間の女性とは比較にならないと思うが……。

「お父様にはお話したのですか?」

「はい……でも、どうすれば良いか解らないから様子を見るしかない、と」
俺は少々心当たりがあるので、少し時間を呉れる様優子さんにお願いをし、その後は他愛もない話をして楽しく食事をした。
優子さんと食事を終わらせ、彼女を送り届けるために車を走らせていた。

なんとなく静かになってしまった車内の空気を紛らわす為にカーステレオのラジオをつけようとした時、優子さんが口を開いた。
「今夜は、まだ帰りたくないな……」
俺は心臓が飛び跳ねる様な感触を抑えつつ、冷静を装って答えた。
「じゃあ、もう少し走りますか」
「はい!」
優子さんが嬉しそうに答える。

俺は、夜景が綺麗に見える峠を目指してハンドルを切った。
峠道を走り、夜景の見える展望台に辿り着く。

車を駐車場に停め、展望台へ向かう階段を上っているとき優子さんが俺に身を寄せて来た。
「寒くないですか?」

「少しだけ……」

俺は優子さんにジャンバーを貸そうと脱ぎかけたが、優子さんがそれを制して俺の手を握ってきた。

「○○さんの手、暖かいんですね」
絡めるように繋いだ優子さんの手がドキドキと脈打っているのが感じられる。
いや、俺の心臓の鼓動も激しくなっている。
階段を上りきると、目の前に広がる町の灯りは陳腐な表現だがまるで宝石箱の様だ。

「きれい……」
優子さんが呟く。

俺たちは手を繋ぎ、寄り添ったまましばらく無言で煌く宝石箱を眺めていた。

しばらくの静寂を破り、優子さんが口を開いた。
「○○さんは……想われてる方がいらっしゃるんですよね……?」
驚いた俺が顔を向けると、彼女は大きな瞳で俺を見つめていた。
「…そんな事、誰からお聞きになったんですか?」
「父から、聞きました。あと、晃さんからも」

俺は答えに窮して沈黙した。
優子さんは、手を繋いだまま俺の前に廻り込んで来た。
「でも、その方は人間じゃない……オオカミ様なのでしょう?」
まっすぐに見つめて来る彼女の瞳から目が離せない。
そして、彼女の瞳に涙が浮かんでいる事に気付いた。

空いていたもう片方の手も繋いでくる。
華奢な手はひんやりとしていた。
「……はい。俺は、オオカミ様の事を愛してしまったようです」

自嘲気味に呟く。
やはり、現実に存在するかどうかも解らない方を想っている、等と口にするのは憚られてしまう。
「そんなの、おかしいよ!」
突然優子さんが叫ぶ。大きな瞳から、涙の粒が零れ落ちている。

「だって、オオカミ様なんて、神様なんて現実に存在しない!もし存在したとしても、人間となんて結ばれる訳ない!なんで、そんな方の為に貴方が苦しまなきゃならないの!そんなの、お狐様にとり憑かれた晃さんと変わらないよ!」
俺の瞳をしっかりと見つめながら叫ぶ優子さん。
俺は驚きと、腹の底から湧き上って来る様な愛おしさに戸惑っていた。
「私は……私は○○さんが好き!初めて逢った時から、好きだった!だけど貴方は、貴方は……」
「あ~ん」と子供のように泣きじゃくり始めた彼女を両手で抱き締めた。
その瞬間は、彼女がこの世で最も大切な、護って上げたい存在だった。
泣き止み、しゃくり上げながら俺の顔を見つめる優子さん。
見つめ返すと、彼女はそっと目を瞑った。

俺は、彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
そっと唇を離すと、はにかむ様な、満面の彼女の微笑みがあった。
俺も恥かしくなり、彼女をぎゅっと抱き締める。
「えへへ……」

照れた様に笑い、彼女も俺の背中に廻した手に力を込めた。
その時、彼女の肩越しに誰かが立っているのを見つけた。
俺は優子さんを脅かさない様、抱き締めたまま人影に目を凝らした。
長い髪、切れ長の目、高い鼻梁、厚めの唇……。
あれは、お狐様!しかし、彼女は今までとは違う穏やかな微笑を浮かべていた。
まるで、俺達を見守るような、可愛らしいとさえ思える笑顔……。
その時、俺は気付いた。

お狐様の微笑みと、優子さんの微笑みがそっくりな事に。
瞳のキツさを除けば、まるで双子かと思うほど良く似ている。
そうだ、だから初めてお狐様に逢った時、優子さんの姉と名乗られても不審に思わなかったのだ。
「○○さん、どうなさったんですか……?」
優子さんが俺の腕の中で声を出す。

その瞬間、お狐様の姿はふうっと消え去った。
「いや、なんでもないです。そろそろ帰りましょうか」
「はい。ちょっと名残惜しいけど……」
俺は彼女の肩を抱きながら階段を降り始めた。


彼女を家に送り届け、泊まっていく様に薦めてくれる神主さんに明日仕事が早いのでと丁重に辞して家へ向かう。
日付変更線を超える直前に家に着くと、家の前の空き地に停まっていた車から誰かが降りてきた。
「こんばんは。兄さん、遅かったですね……」

「晃、か。どうした、こんな時間に」
「ちょっと、相談に乗っていただきたい事があって……」
俺はドアを開け、晃に入るように促した。
部屋に入り、灯りを点ける。
缶ビールを取り出し、口を開けて晃に渡す。

しかし、晃は今夜は帰るからと辞退した。
「で、相談ってのはなんだい?」
缶ビールをコップに注ぎながら問うと、晃が話し出した。
「実は、優子さんのことなんです……」
優子さんは前回の騒動以来、なんだかんだとウチの事務所に顔を出し、時々会計や帳簿つけの手伝いをしてくれるようになった。

また、親方やおかみさんもシャキシャキした気持ちの良い性格の優子さんをとても気に入っており、手伝ってくれた時にはバイト代もちゃんと払いなんだったら正式に就職してほしいとまで言っていた。
料理も上手く、よく気が利くので弟子達からも姉貴分として人気が高い。

「で、優子さんの素晴らしさは良く解ったし俺も知ってるが、結局何が言いたいんだ?」
優子さんの事を誉めるのは良いのだが、ちっとも相談事に入らない晃に業を煮やした俺は先を促した。

「……兄さんは、優子さんの事をどう想ってるんですか?」
突然の問いに、俺は口に含んだビールを噴出してしまった。
げほごほとむせる俺に台拭きを渡しながら、晃はこちらを見ている。
俺は平静を装いながら、逆に聞き返した。
「なぜ、そんな事を聞くんだ?お前には関係ないだろう」
少しの間を置き、晃が答えた。
「俺は……俺が、優子さんを好きだからです」
言われてみれば、心当たりが無い事は無かった。

優子さんが来ている時の晃の態度や、俺と優子さんが出かける時に何度か見せた。
ちょっと不貞腐れてるというか、拗ねているような態度。
そうか、こいつ……。
その時、先ほどまで一緒だった優子さんの姿がフラッシュバックした。
くちづけた時の柔らかな唇、抱き締めた時の感触と髪の甘い香りが鮮明に甦り、俺は気恥ずかしさと自分への苛立ちからつい語気を強めてしまった。
「お前が優子さんを好きだと言うのは解った。だが、それを俺に伝えてどうしようと言うんだ?
もし俺が優子さんと付き合っているなら、別れてくれとでも言うのか? それとも、そうだったら諦めようとでも思ってるのか?
それよりも、優子さんにお前の気持ちを伝えるのが先だろうが!」

晃はキッと俺を睨み、答えた。
「優子さんには気持ちを伝えました!そして、答えは貰いました……優子さんは兄さんが好きなんです……優子さんは、泣きながら俺に謝りました。どうしようもないくらい、兄さんが抄きなんだと……。

兄さんが想っているのがオオカミ様だと、とても敵わない方だと解ってるけど、でも死にそうな位好きなんだと……」

俺は返す言葉もなく晃をみつめた。

「だから、兄さん!お願いします!優子さんの……優子さんの気持ちに……」

最後は言葉にならない。晃は泣いていた。
その後、俺も晃も無言のまま、晃は帰って行った。
俺は今夜の自分の行動を思い起こし、自分の迂闊さを責めながら風呂に入り、寝床へと入った。
電気を消し、目を瞑るがまったく眠れない。
優子さんを愛おしく想ったのは勘違いなんかじゃない。

しかし、男女としての愛情であったのかは自信が無かった……。


結局眠れぬまま、窓の外が白んできた。
時間を見るとまだ午前五時前だ。
俺は起き出し、着替えるとヘルメットとグローブを掴んで外に出た。
バイクにキーを差込み、オオカミ様の社へと向かい薄暗い闇の中に滑り込んだ。
林道を走り、オオカミ様の階段下へ辿り着く。

その時、階段の上から誰かが降りてくるのが見えた。

『こんな時間に、一体……?』俺は不審に思いながらバイクから降り、人影に顔を向けるがまだ暗くて良く解らない。

しかし、靡く長い髪が認められた。
『まさか……オオカミ様!?』心臓がドクンと脈打つ。
俺は、逸る気持ちを抑えながら階段を上り始めた。
ハッキリとその顔が見えたとき、俺の全身に冷や汗が噴出した。
『あれは……お狐様!』

つい数時間前に見た、妖艶な姿がそこに在った。

足を止めた俺の所まで音もなく彼女が降りてくる。
そして、俺の横でピタリと止まった。
「久しぶり、ね。○○さん。逢いたかったわ……」
俺の目は彼女の切れ長の瞳に吸い付いたまま離せない。
しかし、やはりかつて感じた様な険は無い。

「ふふ、でもさっき逢ったばかりよね。貴方は優子と接吻してたけど」
紅い唇の端を上げ、妖艶に微笑う彼女。脳髄まで蕩かされそうな艶っぽさだ。
「優子は、良い娘よ。泣かしたりしないでね」
彼女は突然、固まったままの俺の頬に接吻した。

そして、そのまま階段を降り始めた。
「貴女は、誰なんですか!優子さんの、何なんですか!?」

俺の口から咄嗟に一体何を聞きたいのか解らない様な言葉が出た。
彼女は、少しだけ振り返りながら小声で答えた。
「私と優子は、○○○だから……」
「え……?」
肝心な所が良く聞こえず、聞き返す俺に目も呉れず彼女はふっと姿を消してしまった。
残された俺は呆然と立ち尽くしていたが、突然響き出した笛の音で我に返った。

振り返ると、階段の上にあの少年が立ち、笛を吹いていた。
少しの間、美しく響く笛の音に聞惚れていたがはっと我に返り、階段上の少年を見上げる。
俺を見つめながら吹いているようだが、薄暗さで表情は確認できない。
俺は意を決し、階段を上り始めた。
一段一段、しっかりと踏みしめながら上ってゆく。

少年の表情が確認できそうな位置まで来た途端、少年の姿が掻き消えた。
しかし、笛の音はまだ響いている。
階段を上り切ると、少年が社の前で笛を吹いている。
俺は一礼すると、鳥居を潜り社へと向かおうとした。
鳥居を潜ろうとした瞬間、俺の体はピタッと動かなくなった。

そして、俺の目の前に少年の顔があった。

オオカミ様と同じ、宇宙の深遠を思わせる漆黒の瞳に俺の目は奪われた。
息が掛かりそうなほどの距離で俺は少年と対峙している。
どれほどの時間が過ぎただろうか、少年の朗々とした声が響いた。
「迷いか、惑いか」
俺は意味が解らず、呆気に取られた。少年は繰り返した。
「迷いか、惑いか」

その時、いつか見た夢が甦った。
少年から手渡された髪飾りを抱きながら涙を流していたオオカミ様の姿。

そして、あの時の言葉。

「あのひとは……強い人です。迷う事はあれど、惑う事はありません」
全てが溶け去るようだった。
惑いも、迷いも。

俺は答えた。
「迷いも惑いも、今は無し」
少年の瞳に驚きの色が浮かんだようだった。

そして、オオカミ様とよく似た穏やかな微笑を浮かべ、すっと消えてしまった。
そのままへたり込み、俺は眠ってしまった。
目覚ましが鳴っている。俺はガバッと身を起こした。
辺りを見回すと、自分の部屋である。
まるで狐に摘まれた様で、何がなんだか解らない。
俺はバイクでオオカミ様の社に行った筈だったが……。
時間は六時半。いつも起きる時間だ。

夢、だったのか……?
まどろみながら見た、夢……?
昨夜からの出来事と、自分の迷いが見させた夢だったのか……?
釈然としないまま身支度をし、外に出る。
車に向かいながらバイクの脇を抜ける途中、マフラーに手が触れた。

熱い感触に驚き手を戻す。エンジンにも手を触れてみると、つい先ほどまで走っていたように熱を持っていた。


昼休み、優子さんの勤務先に電話をする。
優子さんに今夜時間を取ってもらうようお願いすると、電話の向こうで嬉しそうに了解してくれた。
今夜、彼女の喜びを壊す事になると思うと気が重かったが、このままでは彼女を更に苦しめてしまうと自分を叱咤した。
現場を早めに切り上げ、事務所に帰る。
そこには既に優子さんが到着し、おかみさんと談笑していた。

彼女の輝く様な笑顔は、昨夜の事があるからだろう。
俺を見つけると嬉しそうに駆け寄って来た。
「お疲れ様でした!」
無邪気な笑顔を見ていると胸が苦しい。

俺達が出掛ける寸前に晃が帰ってきた。
「デートですか。行ってらっしゃい」
晃は俺達を寂しそうに、しかし穏やかな微笑で見送った。

食事中も楽しそうに話をする彼女。

しかし、途中で俺の様子に気付き、心配そうに聞いてきた。
「どうしたんですか? 具合でも悪いの?」
なんでもないよ、と答える俺。
そして食事も終わり、彼女を送る為に車を走らせていると優子さんが頬を染め、はにかむ様にして微笑み、口を開いた。
「今夜は帰らないかも、って両親には言って来ました……。○○さん、今夜は、私……」
俺は申し訳無さで押し潰されそうだった。

ポケットの中に入っているお守りを握り締め、俺は口を開いた。
「……優子さん、ごめん。俺は、貴女の気持ちに応えられない……」
彼女は、微笑んだまま凝固した。
空気さえも固まった様な車内にどれほどの時間が流れただろうか。
「……え? ……ごめんなさい、意味が……解らない……よ?」

本当に混乱している。可愛らしい微笑を張り付かせたまま。
「俺は、貴女が好きだ。でも、それは親友として、妹の様な存在としてなんだ。男女の愛情ではないんだ」
俺の言葉は彼女の心を貫き、引き裂いた。
「……なんで……だって、昨夜……そんなの、ないよ…………」
彼女の表情から微笑が消える。

彼女は驚きと悲しみの表情を張り付かせたまま、黙り込んでしまった。
五分後、彼女の家の玄関に着く。

黙ったまま車から降り、ふら付きながら玄関へと向かう彼女を見送り、俺は車を出した。


翌日は重い気分のまま仕事に出たがやはり気が乗らず、仕事が遅々として進まない。
予定の半分程も進まないので弟子達は先に事務所に帰して俺は一人で遅くまで仕事したが結局捗らず、区切りを付けて事務所へと戻った。

ドアを開けると、真っ赤に泣きはらした顔の優子さんと晃が居た。
「……」

流石になんと言って良いか解らず、黙って自分の机に座る。
そして、業務日誌をつけながら口を開いた。
「優子さん、お話はちょっと待ってて下さい」
優子さんがこくんと頷くのを確認し、次は晃に聞く。
「親方は?」
「もう休みました……」
「そうか……」

しばらくは俺の鉛筆の音と時計の針の音だけが事務所に響いていた。

日誌を書き終わり、一つ深呼吸をしてから優子さんに声を掛ける。
「外に出ましょうか」
「いいえ、ここで良いです」

真っ赤な目で俺を見つめながら優子さんが答える。
俺は晃に帰宅するように促すと、晃は拒否した。
また、優子さんも晃に居て欲しいと言うので、俺は優子さんに向かって話し始めた。
俺は優子さんに再び詫びた。詫びるしか無かった。
優子さんの大ききな目から涙がポロポロと零れ落ちる。
しばらくの静寂の後、優子さんが嗚咽し始めると、晃が俺を睨みながら叫んだ。

「なんでなんです!優子さんをこんなに追い詰めて、悲しませてまでオオカミ様の事を想い続ける必要なんて無いでしょう!」

俺は晃に向かい、オオカミ様への想いの深さを語った。
それは、優子さんに聞かせるためでもあった。
しばらくの間晃と口論するうち、ふと優子さんの様子がおかしいのに気付いた。
下を向いたまま、何かぶつぶつと呟いている。
晃も異常に気付き、優子さんを見詰めた。
すう、と優子さんが顔を上げた。

その顔を見て、俺の背筋に冷たい汗が吹き出る。
同時に、晃が擦れた様な声でつぶやいた。
「お、お狐様……」
しかし、彼女は先日あった優しげな雰囲気は微塵も残していない。
それどころか、明らかに強烈な怒りの波動を持って顕現した。

「なぜ、泣かせたの……」

彼女の厚めな唇から、地獄から響いてくるような声が吐き出された。

すうっと椅子から立ち上がる。
俺も晃も、恐怖で半ば腰が抜けたようになってしまっていた。
「優子は、私の分身(わけみ)……貴方なら受け止められるのに……」

かっ、と目を開き、俺に近寄ってくる。
「赦せない……赦さない……優子の心を踏み躙ったお前を……」
その顔は徐々に獣のものへと代わりつつある。

背中を丸め、力を溜めるのが見て取れる。
俺も、晃もその顔から目を離す事も、動く事も出来ない。

「!?」
彼女が一瞬声にならない程の呻きをもらした。
瞬間、表情が優子さんのモノに戻る。
その一瞬、電光石火で晃が彼女を抱き絞めた。
「駄目だ!優子さん!目を覚まして!」

叫ぶ晃。

しかし彼女は暴れ出し、晃の肩にがっと歯を立て喰らい付いた。
晃の白いシャツが見る見る赤く染まる。
「晃!」

我に返った俺が駆け寄ろうとすると、晃が叫んだ。
「来ないで下さい!」

晃は暴れる彼女を抱き締め、押さえつける。
そして、彼女の耳元で叫んだ。

自分が優子さんをどれだけ愛しているかを。

「お狐様、俺は優子の為なら命だって惜しくない…俺を殺しても構わないから、優子を放してやって下さい!」
ふ、と彼女の体から力が抜けた。
晃の肩から口を離し、晃の血で染まった唇で彼女が俺に向かって問うた。

「お前は、あの方を想い続けるのか……」
「……はい、俺はオオカミ様だけを想い続けます」

「そう……」

怒ったような、優しい様な不思議な微笑みを見せ、彼女が呟く。
「もし、その言葉、違える事あれば、また逢いに来るわ……必ず、ね」
晃の腕の中でがく、と崩れる彼女。
既にその顔は優しげな優子さんの顔へと戻っていた。

ただ一つ、晃の血で塗れた紅い唇を除いて。

三日後、念の為に入院した優子さんが退院した。
晃は親方の許可を貰って付きっ切りで看病していた。
花束を持ってお祝いに行った俺に、二人は照れながら

「結婚、します」
と打ち明けてくれた。

俺は心から喜び、祝福した。

晃に促され、優子さんが俺の前に来た。
「○○さん、これからも、今までみたいに遊んでくれますか?」
「もちろん。俺達はいつまでも親友だよ」

優子さんはにこっと微笑むと、背伸びして俺の頬にキスをくれた。
「私、○○さんの恋を応援しますね!」

その笑顔は、少しだけ、お狐様の微笑と被って見えた。 このエントリーをはてなブックマークに追加



十年程前、親方の親友でやはり宮大工の棟梁であるKさんが病気で倒れてしまった時の事。

親方とおかみさんは急遽お見舞いに行き、俺は親方の代理で現場を取り仕切った。
三日程して親方達は帰ってきたが、Kさんの所の手が足りなくて非常に困っているので、俺が助っ人として行く様に親方から頼まれた。
俺は自分の仕切っている現場を親方と晃を中心に引き継いでもらい、地元から千キロ近く離れているKさんの所へと向かった。
Kさんは非常に古風な親方で、弟子達も常時ぶっ飛ばされたり小突かれたりして指導されているらしく、俺が事務所で挨拶した時にも皆おどおどした印象だった。

そして、Kさんから指示を受けているという弟子頭三人に仕事の現況を聞いても、今までずっと全てをKさん自身で決定してしまっていたので、弟子達はただ言われた事をやっているだけと言う状態で一向に埒が明かない。
結局俺は医者と看護婦に睨まれながら三日間、Kさんの病室に缶詰となり現在の仕事の状況とこれからの方向性を相談した。

三日間も仕事にならない状況が続いたので現場はてんやわんやとなってしまった。
俺はあちこちの現場を分刻みで飛び廻りながら指示をしたが、助かったのはK親方が弟子達に叩き込んだ技術が非常に優れている事で、指示さえすれば驚く程の正確さと技量で仕事をこなしていく。
また、基本が完璧なのですぐに応用が出来るようになり、メキメキと腕を上げていく。
俺は最初の頃、『厳しくも優しく仕事を教えてくれた自分の親方に比してK親方は頭が固くてちょっと困った方だ』と思っていたのだが、弟子達を見ていると、やはり本物の職人とは方向性を変えても間違いの無い指導をするものなのだと感銘を受けた。

俺も寝る間を惜しんで仕事をしていたので弟子達とはすぐに打ち解け、彼らも俺の事を慕ってくれるようになった。


俺が助っ人に来て二週間ほど経った土曜の夜。
現場から帰ってきて三人の弟子頭と酒を飲みつつ打ち合わせをしていると、二十歳になったばかりのA君が現場から帰ってきた。
「あれ? どうしたんだその顔は?」

A君の左目が腫れている。俺が問うと、彼は怯えたように答えた。
「いえ、何でもありません…。お先に上がります」

俺達を避ける様にA君は帰って行った。
A君はちょっと太目で動作が鈍く、他の弟子達から少々バカにされているが、K親方の目が行き届いているので職場での苛め等は無い。
また仕事は真面目で一生懸命であり、欄間の細工や彫細工が芸術的に上手いのでK親方も目を掛けているらしい。

心はとても優しく、非常に動物好きで、巣から落ちたツバメを育てて自然に帰したり、犬や猫が轢かれていると近場に埋めてあげたり、生きていれば自腹で
動物病院に連れて行きそのまま飼ったりし、今でも数匹の犬猫を飼っているとのことだ。

最近では一年程前に山の中の現場で仔猫を拾い、事務所から程近い自分の家で飼っているそうだ。
この猫も彼に非常に懐き、またすんなりとした姿の良い白猫で時々事務所にも姿を見せて、マスコットとして可愛がられている。

俺にも甘えるので抱き上げて可愛がっていても、A君の姿が見えるとさっさと彼の所に行ってしまうところが小憎らしいが。


俺はA君の顔の怪我が気になったので、弟子頭達に聞いてみた。
彼らは明らかに何かを迷っていたが、結局「知らない」と答えるのみだった。

俺は事務所の中にある空き部屋に借り住まいをしていて、弟子頭達が引き上げた後に布団を敷いていたらドアをノックする者がいる。
「開いてるよ」
俺が答えると「失礼します」と女の声がしてドアが開いた。
そこには、年の頃なら二十歳前後の透き通った白い肌の美女が立っていた。

「…どちら様?」
彼女から常人と違う気配を感じながら、俺は誰何した。
「私はAの彼女の舞と申します。○○さんにはいつもAがお世話になってます」
「…もうA君は帰りましたよ。自分の家でしょう」
「はい、分かっています。私は彼の家から来たのですから…あの、実は○○さんにご相談したい事があって…」


彼女の話はこうだ。
A君は高校を中退してここの弟子になったが、その原因の一つに高校での苛めがあったそうだ。

そして、当時A君を苛めていた不良グループが最近またA君に近づいてきて、金の無心をしたり彼を下僕の様に扱ったりしていると言う。
気の弱い彼は逆らえず、また他の弟子達も親方が居ないので、どうして良いか分からずに手を出し兼ねているとの事。

「…なるほど、それで俺にその不良を何とかしてくれ、と」
「いいえ、違います。それでは○○さんが居なくなったら元の木阿弥です。○○さんは古武道の達人っておかみさんに聞きましたので、彼を鍛えて上げて欲しいのです」
「なるほど。まあ、達人なんて程じゃないけどね。うーん…」

彼女はバッと三つ指を突きながら頭を下げ、
「お願いです。○○さんしか頼れる方が居ないのです…」
と瞳からポロポロと涙をこぼして訴えた。

「よし、解った。彼次第だと思うが、やってみるよ」
「ありがとうございます!ただ、私がお願いしたと言うのは彼に内緒にしてくださいませんか? 彼にも自尊心がありますので…」
俺が承知すると舞は俺に抱きついて礼を言った。

「もう遅いから送ろうか」と俺が言いながら外に出ると、数匹の犬猫が待っている。
「みんな、A君の飼っている子達なんです」
そう言うと舞は犬猫を引き連れて、何度も頭を下げながら帰って行った。

翌朝、俺はA君の家に行き、彼を叩き起こして稽古を始めた。
それから毎朝と仕事後に二時間程の稽古を行なうようになり、その内他の弟子達も稽古に参加するようになった。
初めは半泣きだったA君も、段々と面白くなってきたらしく進んで稽古するようになり、体も引き締まり、逞しくなって来た。

そして、K親方の退院の目処がようやくつき、俺が助っ人に来てから三ヶ月程が過ぎた頃。
A君が例の不良グループを追い払ったと言う話を弟子達から聞いた。
そして、翌日全身傷だらけにしたA君が俺にバッと頭を下げ

「ありがとうございました!」
と礼を言った。

そして、K親方退院の日。
俺の親方もお祝いにやってきた。

K親方は俺の手を握り、

「お前さんのお陰で、本当に助かった。ありがとう」
と深々と頭を下げてくれた。
そして俺の親方に向かって礼を述べ、二人の親方は涙ながらにガッチリと手を握り合った。


三日後、引き継ぎを終え盛大な送別会をしてもらった俺は、親方と一緒に帰途についた。
少し走ると、道端で女性が手を振っている。
車を止め、窓を開けるとそこには舞が立っていた。

「○○さん、本当にありがとうございました」
舞は涙ぐみながら礼を言った。

「また、遊びに来てくださいね!」
「ああ、また来るよ。元気でな」
俺は舞のキスを頬に受け、ちょっと照れながら車を出した。

ふとバックミラーに映る舞を見ると、そこには舞の姿は無く、一匹の白猫がしゃんと背を伸ばして座っている。
そして、その背後に犬と猫が数匹控えていた。

『ああ、やはりあいつだったか』と思いクスリと微笑う俺に、親方が質問のマシンガンを浴びせてきた。
「まあ、ゆっくり話しますよ」

親方に答えながら、俺はこの土地での充実した三ヶ月間を脳裏に思い返して





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とある休日、久しぶりにオオカミ様の社へと参りに出かけた。
途中、酒を買い求めて車を走らせる。
渓流釣りの解禁直後とあって、道には地元・県外ナンバーの四駆が沢山停まっている。

中には林道にはみ出して停めている車もあり、毎年の事ながらマナーの悪さに閉口しつつ、社へと上がる階段の前に辿り着いた。
小さな駐車スペースにも数台の車が停まっており、なんとか隙間に自分の車を滑り込ませて階段を上った。
すると、雪に覆われた境内に大きなテントが設置されていた。
また、水場には炊事用具やゴミが散らかっている。
流石に頭に来たが、当人たちは釣りに行き不在なので文句の言いようも無い。
こんな状況で心静かに祈れるわけもないので、取り敢えず散らかっているゴミと用具をまとめ、テントの中に放り込む。
そして、車に戻って木の板にマジックで
「ゴミはちゃんと片付けて帰って下さい。また、境内でのキャンプは禁止です」

と書き、テントの前に戻り立て掛けた。
そして、酒を捧げお祈りをしてから引き上げた。



しかし、家に戻ってからもどうも気持ちがスッキリしないので、夕方にもう一度お社へと出掛けてみた。
階段前には既に車は一台も無い。
そして、階段を上がってみると目を疑わんばかりの惨状が広がっていた。
俺の立て掛けた看板は二つに折られてゴミと共に燃やされており、ビールの空き缶とタバコの吸殻はあちこちに散乱している。
俺の納めた酒は瓶が叩き割られ、なんと水場には渓流魚を捌いた後のはらわたが大量に散乱している。

神のおわす場所で殺生を行うとは…。
俺は余りの事に頭が真っ白になったが、どこにも怒りをぶつけられずに震えるばかりだった。



なんとか片付け終わった頃には既に日は落ち、辺りは真っ暗である。
ため息をつきながらゴミ袋を抱えて立ち上がり、社に向かい一礼し頭を上げると、そこにはあの少年が背を向けて立っていた。
いつもの、穏やかな雰囲気は微塵も無い。

また、彼の体から蒼い炎のようなモノが吹き上がっている様にも見えた。
俺の口からカチカチと音が出ている。
恐怖の為に歯の根が合っていない事に気付くのにしばらく掛かった。
彼がこちらに向かってゆっくりと振り向こうとしている。

俺は『ヤバイ』と直感しバッとひれ伏し、頭を地面に着けて震えていた。

その一瞬の後、俺の横を熱い風が通り抜ける。
しばらくしてから体を起こすと、俺の横には一筋、雪が溶けて出来た道があった。


それから一ヶ月ほど経った後、恐ろしい夢を見た。
釣り人の格好をした見ず知らずの男四人が、雪溶け直後の大きな滝つぼで半ば溺れる様にして、真っ青な顔で震えながら必死で泳いでいる。
すると、そこに巨大な釣針が放り込まれ、男たちの首や体に突き刺さり宙吊りとなる。

そして宙吊りのまま、突然腹が割かれて臓器が湯気を立てながら零れ落ちる。
断末魔の絶叫を上げ動かなくなる男達。
しかし、また滝つぼに放り込まれると元に戻り泳ぎだす。
延々と繰り返される地獄絵図にたまらなくなり目を逸らすと、滝の上に誰か立っているのが見えた。
目を凝らし見つめると、それがあの少年の姿である事が分かった。

表情までは見えないが、いつもの微笑を浮かべている様だ。
しかしそこに慄然としたものを感じ、背筋が凍るような感覚に苛まれる内に目が覚めた。


後日、弟子の一人から県外から来た釣り人が四名行方不明になっているという話を聞いた。
それがあの男たちなのかどうかは確かめる術も無く、また必要も無いだろうと考え記憶の隅へと追いやった。







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晩秋の頃。

山奥の村の畑の畦に建つ社の建替えを請け負った。
親方は他の大きな現場で忙しく、他の弟子も親方の手伝いで手が離せない。
結局、俺はその仕事を一人で行うように指示された。
その社は寺社のような大掛かりな建物ではなく、小じんまりとした人一人が入るのがやっとの大きさで、中に親子の狐の石像が祭られている社だ。
一応稲荷と言えるが、地元の年寄りが掃除をする位の土着の社神である。

よく手入れはされているものの、ここ何十年以上も手が入っておらず痛みは激しい。
そこで、近所の農家のお年寄りがお金を出し合って建替える事にしたのだ。
小さいと言っても建替えとなればまとまったお金は要る。
農家のお年寄りが出せる精一杯の額だろうが、その額は材料代にも満たない額。
しかし親方は、「ようがす。これでやりましょう」と引き受けた。


馴染みの稲荷神社の神主さんにお願いし、祈祷をして貰った翌日。
車に道具と荷物を積み、現場へと向かう。
お社の前でお祈りをしてから社の中に入ってみると、仔狐を背中に乗せ、ちょこんと座っている可愛らしい親子の狐像が鎮座していた。
手を合わせ、

「お狐様、しばらく仮住まいに移って下さいませ」
とお願いし、弟弟子と一緒に丁寧に拭き上げ、そっと運び出す。
前もって造ってあるミニ社を畦道の片隅に置き、そっと親子狐様を安置した。
翌日からは俺一人で仕事に向かう。お社を丁寧に解体し、使える材料を選り分ける。
昼飯は近所のおばあちゃんが交代で弁当を持ってきてくれる。
昔ながらの田舎弁当が嬉しい。

十時と三時には漬物でお茶だ。ほっと一息つく、至福の時である。
ある日のお茶の時間、一人のおばあちゃんが
「○○ちゃん、わしらの出したおぜぜじゃあホントは足らんのじゃろう」

と言って来た。
「そんことは気にしなくて良いんですよ。親方がやる、と決めたんだから問題ないです」
「すまんのう、ただ働きみたいな事させちまって…」
「俺達は、ただ金の為にこの仕事してるんじゃありませんから心配しないで下さいね」
おばあちゃん達は涙ぐみながら、
「あんがとね、あんがとね」
と繰り返した。


そんな経緯もあり、俺の仕事に更に気合いが入った。
金や名誉より、人や神様仏様との触れ合いや心の繋がりこそがこの仕事の醍醐味なんだと改めて感じた。
そして、そろそろ初雪が来るだろうとおばあちゃんたちが話す中、お社は完成した。
その夜親方に完成報告をし、翌日同行して確認して貰える様お願いした。
翌朝起きると、とうとう降りて来た初雪で家の周りは一面の銀世界。

「ホントにギリギリだったな…」と呟き仕事場に向かう。
すると、親方が玄関の前にしゃがみ込んで首を傾げている。
「おはようございます。玄関先でしゃがみ込んでどうしたんですか」

「おう、おはよう。○○、こりゃなんだと思う?」
サクサクと雪を踏みしめながら玄関に向かう。

すると、親方の前には幅広の笹の葉に乗った古銭がじゃらっと置いてある。
「なんですか、こりゃ?」
「わかんねえ。朝起きたらあったんだ」
ふと周りを見回すと、獣の足跡が大小二つ、雪の上についている。
俺ははっとして、その足跡を追ってみると、お社のある村の方から続いている。
「親方、この足跡見てください」

足跡を見て、親方がはっとした顔をしてから顔を綻ばせた。

「おう、なるほどなぁ…義理堅い稲荷様だなぁ。こんなに貰っちゃあ、これ以上頂くワケにゃいかねえな」
親方は俺の顔を見て、にやっと笑う。

「さ。行くべか!」
「はい!」
俺達は車に乗り込むと、小さな足跡を追うように車を走らせた。





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 お伊勢参りの翌年、梅が開き始める頃。

山の奥にあるお稲荷様の神主さんから、お社の修繕依頼が入った。
そう、弟弟子の一人が憑かれたあのお稲荷様の社だ。

親方に呼ばれ、
「まあ、おめぇにやってもらおうか」
と任される事になった。

とりあえず久しぶりに様子を見に行くと、昨年の台風で結構痛んでいる。
一通り見積もって、一休みしようとお社の縁に腰を下ろすと左横に女が座っていた。
俺が座った後から座ったのではなく、俺が座った時には既に女が座っていた。
もちろん、俺が座る前には姿など見えなかったし、境内には俺以外の誰も居なかったはずだ。
驚きはしたが、とりあえず気付かない風を装って直視せずに様子を見る事にした。
俺も女も何も喋らず、ただ時間だけが経過していく。
どれほど経っただろうか、女が立ち上がった。
長い髪が風に揺れているのが視界の端に映る。女が俺を見下ろしているのが気配で感じられた。
どうやってこの状況から脱するべきなのかと考え始めた時、鳥居の向こうに人影が現れ、こっちに向かって声を掛けてきた。

「やあ、○○さん!ご苦労さん」

このお社の神主さんだ。
俺が一瞬あちらに気を取られた瞬間、女の気配は無くなっていた。
ふう、と大きく息を吐き立ち上がる。
神主さんが一人の女性を連れてこちらへやってきた。
連れの女性は神主さんの娘さんだそうで、長い黒髪の中々の美人。
以前、お稲荷さんの祟りの一件では交通事故で入院していたので今回が初見だった。
しかし、彼女は父親から話を聞いていて俺の事を良く知っているようで、親しげに話し掛けられた。
その後、本社に移動してからとりあえず見積もりを説明する。
神主さんは前回の事で相当懲りているらしく、

「キミに任せるからお稲荷様が満足するように仕上げてください」
と言ってくれた。
それでは、と失礼しようとするともう夕方だから夕食でもと引き止められ、親方に叱られますからと言うと神主さんはウチの事務所に電話して親方から
「今日は直帰で良い」
との許可を取り付けてしまい、結局夕食をご馳走になる事に。

その日は娘さんが腕を振るい、とても美味しい家庭料理をご馳走になった。
神主さんご夫婦は食後にいつの間にか俺と娘さんの二人を残して退散してしまい、娘さんと俺は二人で遅くまで話しこんでしまった。


23時を回ってしまった帰り道。
俺が山際の道を急いでいると、左手の森沿いに人が手を上げているのを見つけた。

車でもエンコしたのかと思い、人影の前で車を止める。
ヘッドライトに浮かび上がったその姿は、髪の長い女だった。
瞬間、全身総毛立つ。
人では無いものの様な気がしてそのまま通り過ぎようかと思ったが、もし本当に困っているのなら放っておく訳には行かないと思い直して車を停めた。

助手席側の窓を少しだけ開け、
「どうかしましたか?」
と声を掛ける。

「ちょっと置いてけぼりにされちゃって…」
ハスキーな声で女が応える。

ああ、人間だったかと胸を撫で下ろして
「良ければお送りしましょうか?」と聞くと、
「良いんですか? じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます」と乗り込んできた。
気の強そうな切れ長の瞳、つんと上を向いた形の良い鼻、少々厚めな紅い唇、きゅっと尖った顎。
乗り込んだ女の顔を見た俺は、その美貌にちょっと驚き見つめてしまった。

「私の顔に何か付いてます?」
小首を傾げながら女が聞く。

彼女の甘ったるい体臭が鼻に付く。
普通の男ならイチコロでやられてしまうのだろうな、と考えながら
「いや、貴女の様な美人を置いてけぼりにする男が居るなんて、と感心したんですよ」
と平静を保ちつつ答えた。

「まあ、お上手」
唇に手を当てて、コロコロと笑いながら女が答える。
切れ長の瞳が俺を見詰めているが、俺は運転に集中して気付かないフリをした。

この視線、どこかで感じた覚えがある。それも、ごく最近…?
おっと、彼女の行き先を聞かなければと思い聞いてみると、なんと今辞したばかりのお稲荷様の神主さん宅だとの事。
俺が驚くと、彼女も神主さんの娘だと言う。俺がさっきまで談笑していたのは、彼女の妹だそうだ。
とりあえずUターンして今来た道を帰る。

そして神主さん宅に着くと、彼女は「またお会いしましょう」とウインクして家の中へ入って行った。
何か、どこかに違和感を覚えながら俺は家路を急ぐ。


しばらく走り、先ほど彼女を拾った辺りまで差し掛かると、またも人が手を上げて立っている。
一体今日はどうなってるんだと思いつつ車を停めてみると、そこにはなんとオオカミ様の社で会ったあの少年が立っていた。
助手席側の窓を開けると、少年は屈んで顔を近づけて
「努々、惑わされませぬ様…」

と言い、助手席に何かをポトっと置き、さっと森の中に姿を消してしまった。
俺はしばらく呆けていたが、彼が助手席に置いていったものを手に取ってみるとそれはオオカミ様のお守り。
ハッと気が付き懐を探る。しかし、そこにはいつも身に付けている筈のオオカミ様のお守りが入っていなかった。
家に戻ってから、あの少年から貰ったお守りを開けて見る。
中には、艶やかな一房の黒髪。
確かに、俺のお守りだ。
なぜ、いつの間に無くなっていたのか。
そして、なぜあの少年が持っていたのか。

混乱しながらも、考えを纏めて行くうちにあの時感じた違和感の正体が閃いた。
神主さんのお子さんは、一人娘のはずだ!
と言う事は、山際で拾った切れ長の瞳の美女は誰だ!?
しかし、確かに神主さんの家に送り届けたし、普通に家に入って行った。
俺は布団の中で考えながら、いつの間にか眠ってしまっていた。

…俺は見たことも無い大きな神社の境内に居る。
その広さも、建っているお社の巨大さも驚くほどだ。
大木の根に腰を下ろし、境内を歩くたくさんの巫女や神官の姿をボーっと見つめていると、大きな鳥居を潜ってあの少年が歩いて来た。
俺に気付く風も無くお社に近付いて行く。
すると、幾つもある戸の一つが開いて見覚えのある艶やかな黒髪が顔を覗かせた。

「オオカミ様!」

俺は叫んで、立ち上がろうとした。が、声も出ず、身体も動かない。
少年がオオカミ様に話し掛けているが遠過ぎて声も聞こえない。
なんとか動こうともがいてみるが、辛うじて手指の先が動くくらいだ。

俺は動く指の先に全神経を集中し、『動け動け動け』と念じていた。
すると、なんとか腕までが動くようになった。

丹田に気合を集中して呼吸を錬る。
「ふっ!」気合を入れ、一気に立ち上がると全身が辛うじて動くようになった。
ノロノロと足を出し、オオカミ様と少年が話している方へ歩き出す。
通り過ぎていく巫女達が不振気に俺を注視するが、お構い無しに歩みを進めた。
果てしなく長い距離を徐々に詰めていくとようやく二人の話し声が聞き取れる程の距離まで辿り着いた。

「…ありがとう。貴方には苦労を掛けますね」

鈴の鳴るような澄んだオオカミ様の声が聞こえる。
俺はいつの間にか涙を流していた。
「では、これをお渡ししておきます」

少年がオオカミ様に何かを手渡す。
ああ、あれは銀の髪飾りだ。
少年は約束を守ってくれたのだ。

オオカミ様はそれを受け取ると、胸に抱くようにして手を交差させた。
オオカミ様の瞳から、涙が流れるのが見えた。
「しかし、あの方は惑わされないでしょうか? 人は弱い者ゆえ…」
少年が呟く。

「あのひとは…強く、優しいひとです。人ゆえに、迷う事はありますが、あの方が惑う事はありません」
オオカミ様が静かに、ハッキリと答えるのを聞きながら俺の意識は闇に落ちて行った。


翌朝目を覚ますと、俺は夢の内容をもう一度反芻した。
そして、親方に電話を入れ、直接神主さんの家へ向かう。
俺が到着した時、ちょうど娘さんが出勤の為に玄関から出てきた所だった。
まあ、と驚く彼女に昨晩のお礼を述べ、出勤するのを見送る。

彼女は家の中へ俺の来訪を告げると名残惜しそうに出勤して行った。
「やあ、おはよう。今朝も早いね」

神主さんが玄関に顔を出した。
挨拶を済ませ、中へとお邪魔する。
奥さんが出してくれたお茶を頂きながらお社の事について少し相談した後、俺は意を決して昨晩のことを話した。

「そんなバカな。ウチには一人しか娘は居ないよ。何かの間違いじゃ…」
「いえ、確かにこちらへお送りして、玄関を開けて入っていく所まで確認しました」
「その時間はもう家族全員眠っていたはずだ。誰も家に入ってきた跡など無い…」
俺は一つ、思い当たる事がある旨を伝え、電話をお借りして事務所に連絡した。

おかみさんにまだ現場に向かっていないはずの弟弟子の一人を呼んで貰う。

ヤツは、例の一件でお稲荷様に取り憑かれた男だ。
イヤな事を思い出させてすまない、と断った上であの時夢の中でオオカミ様に踏み付けられていた女の人相を聞いてみた。
気の強そうな切れ長の瞳、カタチの良い鼻、少し厚い紅い唇、きゅっと尖った顎。
やはり、間違いない。昨晩拾ったのは、おそらく…。
「もしかして、今度は腹いせに○○さんに祟る積りじゃあないか…?」

神主さんが不安気に呟く。
確かに、今現在オオカミ様は留守だ。

しかし、あの少年は少なくとも敵では無い。
それに、俺には伊勢神宮で手に入れた確信がある。

「大丈夫です。ご心配には及びません」
俺が力強く答えると、神主さんは安堵の表情となった。
「そうだな、キミがそう言うなら大丈夫だな…ところで、突然話が変わるが○○さんにはお付き合いしている女性は居るのかな?」
本当に突然の問いに俺はビックリしたが、ハッキリと答えた。

「はい、お付き合いしているのではありませんが、強く想っている女性が居ります」
「ふーむ。そうか…いや、ヘンな事を聞いた。忘れてください」
俺は神主さん宅を辞すと、これからやるべき事を整理しながら事務所へと向かった。


翌朝一番でオオカミ様の社に酒を持ってお礼に行く。
鳥居を潜り、お社に酒を奉じてお祈りをする。
そしてそのまま稲荷様の社へ修繕に向かった。
途中で弟弟子達と合流し、お社で荷物を下ろす。
弟弟子達は荷物を下ろすと自分たちの割り当てられている現場へと散って行く。

社の中へ入り、図面を見ながら大まかなイメージを創り、早速仕事へ掛かった。

俺は仕事に夢中になると時間のたつのを忘れる事が多く、また集中力を途切れさせたくないので一人で行う現場の時には昼飯を抜くか、夕方近くなって一段落着いてから食べる事が多い。
この日も仕事に興が乗って、気がつけばもう夕方の五時近くなり夕焼けが見え始めていた。
ふう、と一息つくと腹がぐうと鳴る。
この辺りで切り上げて事務所に戻るか、それとも弁当を食べてからもう一息頑張るか迷っていると突然社の扉が開いた。

「○○さん、ご苦労様」
入って来たのは例の美女。

妖艶な笑みを浮かべながら俺の左横へ立つと甘ったるい体臭が鼻を突く。
俺はオオカミ様のお守りが胸にある事を確認したが、確かに入れておいたはずのお守りがなくなっている。
狼狽してしまった事を隠すように平静を装いながら俺は答えた。
「こんにちは。どうしました?」
「うふ、貴方の仕事振りを見てみたくて。お邪魔だったかしら?」
小首を傾げながら聞く彼女に迷惑だと言える男はほとんど居ないだろう。

「いいえ、散らかっていますが、宜しければ見て行ってください」

女は社の中を見回すと、
「まあ…とても綺麗になってるのね。いいわぁ…」
本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。
俺が道具を片付け、立ち上がった瞬間に女が後ろから抱き付いてきた。
「貴方って、素敵な方ね…」

背中に豊かな胸が押し付けられる感触が広がる。
頭の中が熱くなり、欲望が湧き上ってくる。
思考が停止し、振り向き様に女を抱き締めてしまう。

「優しく、ね…?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべた女の顔が目の前にある。
目を瞑り、紅い唇を近付けてくる。
俺の理性は跡形も無く崩れようとしていた。
次の瞬間、俺の脳裏に髪飾りを抱き締めながら涙を溢れさせていたオオカミ様の顔が甦った。
熱くなった脳髄がすーっと冷え、理性があっという間に戻ってくる。
俺は女の肩を掴むと、体から強引に引き剥がした。

「――っ!?」
彼女は目を開け、呆けたようにポカンとした後、夜叉の様な顔となった。
「私に恥を掻かせるなんて…どういうつもり…?」
切れ長の眼が夕日を受けて赤く光る。その迫力に、俺は竦んでしまった。
なんとか後ずさりしつつ扉へと近付く。

女の顔は、既に人のそれではない。
鼻が尖り、口からは尖った歯が覗き始めている。

「なぜ…? そんなに想える…? 此処には居ない方を…人の癖に…」
ぶつぶつと呟きながら徐々に近付いてくる。

俺は本能から来る恐怖に慄きながらも、オオカミ様を想い祈り始めた。
今にも女が俺に向かって飛びかかろうとした瞬間、俺の真後ろから声が響いた。

「その辺になさいませんか? 岩倉之眷属殿」
この声は、あの少年の声。俺はふっと安堵し、そのまま意識が遠のいてしまった。
意識が戻った時、俺は布団の中で見覚えの無い天井を見上げていた。

ふと横を見ると、其処には神主さんの娘さんが座っていた。
「よかった…気が付いたのね…」

彼女は涙ぐんでいる。
彼女が呼ぶと、神主さんご夫婦と親方が部屋に入ってきた。
「俺は…一体どうしたんです?」
俺が呟くと親方が答えた。
「夜になってもおめぇが帰ってこないんで、お社へ行ったら中でおめぇがオオカミ様のお守り握り締めてぶっ倒れてたんだ。

こりゃ以前と同じ事になっちまったかと救急車呼ぼうとしたら妙な子供が現れて、○○様は寝かしておけば心配ないと言うのでとりあえず神主さん家にお邪魔したんだ。
一体何があった? あの子供、ただもんじゃねえな?
あと、お社から泣きながら駆け出てきた女が居たが誰なんだ?」
矢継ぎ早に質問してくる親方に途惑いながら、俺は明日、オオカミ様の社へお礼に参らなければと考えていた。

そして、オオカミ様の社はおそらくあの少年が主となったのだ、と漠然と感じた。



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