「とうま◆xnLOzMnQ」 2021/02/11

俺には4つ年上の姉がいる。
見えるモノと見えないモノの世界の間を、ゆらりゆらりと泳ぎ生きているような姉が。
薄暗がりの異質な境界を俺がおっかなびっくり歩く時、何だかんだと言いながらも先に立って追いつくのを待っていてくれるのだ。
視える世界と、聴こえる世界の話を、今日はしようと思う。


夜中にかかってきた電話で、眠りの淵から叩き起こされたことはあるだろうか?
急速な意識の覚醒と、それに追いつかない体の感覚。
時刻は真夜中の2時を少し過ぎたばかりだった。鈍い体の動きを総動員して通話ボタンを押す。

「・・・・・・・・・・・・」

無言。
何なんだといぶかりながらも、こんな時間に一体何の用だと、相手が誰かも判然としないまま通話口に向かって「もしもし?」と話しかける。

「・・・・・・・・・・・・」

無言の中に聞こえる、わずかな息づかい。電話を通して、暗闇の向こうにいる『誰か』の気配を感じる。

考えてほしい。

電話に出る前に、相手が誰かをディスプレイの表示で見たか。
知り合いの名前だったか。
眠っていたところから電話に出て、ロクに確認をしなかったとしてもごく普通の反応だと思う。



けれど、もう一度考えてほしい。

午前2時という真夜中に電話をかけてくるような知り合いがいるか。
そんな時間に連絡をとらなければならないような緊急の用事だとして、ならば何故黙っているのか。
しんと静まりかえった夜の中で、真っ暗な部屋の中で、握りしめた小さな通話機ごしに自分が本当は『ナニ』と繋がっているのかを。
それが、『誰』からのコールなのかを。
だいぶ前の話になる。
「はい、姉はただいま電話に出ることが出来ません。用件のある弟君は、ピーという発信音がしたらそのまま電話をお切りください。ピー」
「おい」
「ピー」
「やっと電話に出たと思ったら悪ふざけか!」
携帯電話から耳に入ってくる姉の声に、俺はいよいよ溜息をついた。
相談したいことがあって何度となく電話をかけたのに、いっこうにつかまらない。一週間かけてやっと繋がったと思ったら、妙な留守電風メッセージで対応してくる。
「・・・・・・ちっ」
「露骨な舌打ちやめろ!」
ついには女らしさの欠けらも無い低音の舌打ちをされて、俺は4つ年上の姉がかなり気合いの入った電話嫌いであることを思い出したのだった。
「それで?ご用件は何ですか」
いかにも渋々と言った感じで、姉が電話の向こうで話しかけてくる。
「電話嫌い、いまだに直ってなかったんだ?」
「電話もメールもきーらーいーでーすー」
「機械系強いのに」
「それとこれとは別なんですー」
間延びしたしゃべり方。完全に拗ねている。
だったらどうして今出てくれたのかと聞けば、「留守電に切り替えようとしたら、手が滑った」と呆れるような理由を聞かされた。
着信履歴の多さから、弟の用件を聞く気になってくれたわけではないらしい。
世の中にスマホが普及してずいぶん経つのに、姉は相変わらずその利便性よりも自分の好き嫌いを優先しているようだった。家族と親しい友人ならば、留守電を入れておけばそこそこ連絡はとれるが、それ以外にはまず出ない。
俺は生活上、何につけても便利なので今更スマホの無い生活なんて考えられないが、姉はできるならば手放してしまいたいとよく言っている。
仕事には必要なので、嫌々ながら持っているといった感じだ。我が姉ながら、それでよくやっていけてるなあと、感心半分呆れ半分で俺は溜息をついた。
「とうま君、用が無いなら切っていいですか」
「用件はメールで送ってあるだろ!?」
「メール?あぁ、来てたねそういえば」
『かたればさわる』という姉の言葉が、ずっと引っかかっていた。
まるで無知ではいられないと、事故にあってから初めて俺はオカルト関連の書籍に手を延ばした。
自分が書き綴った記録のせいで、誰かに災難や厄が降りかかるかもしれないなど、放っておけなかった。
姉が関わったオカルトや鬼といった、俺には全くどうすることも出来ない世界の話を多少なりとも知ろうとした過程で、『共感呪術』というものがあることを俺は知った。
確かJ・G・フレーザーだったと思う。本は読むが、オカルトの専門書のような書物を俺は今まで手に取ったことがなかった。
読むと言っても新書を普通に読む程度。姉のように、ジャンルも専門の度合いもバラバラにものすごい冊数を読むというわけでもない。いつだったか母が「本の重さで二階の床が抜けてきそうで怖いわ」と漏らしたことを考えれば、姉の読書量がなんとなく想像してもらえるだろうか。
初めて目を通したオカルトの専門書は、難解で正直理解できた感じはなかったが、共感の法則の「接触したもの同士には、何らかの相互作用がある」という記述が印象に残った。
『語れば触る』ということなのか、『語れば障る』ということなのか。
そもそも、この考えであっているのか。
俺が語り、誰かが読むことを「接触」とみなし、そこに『赤い鬼』が残滓として影響を与えるならば、読んでくれた人に悪影響が出ないようにする方法はないのかというのが、姉に送ったメールの内容であり、俺が解決したい用件だった。
既に「さほど影響はないだろう」と姉に言われてはいたものの、自分が投稿したせいで誰かに災厄が降りかかるなんてことは万が一にもあってほしくなかったのだ。
改めて電話でその旨を伝えると、
「心配性になったよねぇ、とうまは。もはやうっすらぼんやりしか存在していない、残滓とも言えないようなモノが与える影響のことまで考えるか・・・・・・」
と何処か遠い場所でも眺めるような、ぼんやりとした声が返ってきた。自分の身に起こった様々な事を思い出しているのかもしれない。
姉の指摘に対し、そんなことは無いと否定はできなかった。
最終的には俺だって『赤い鬼』が引き起こした事の顛末から完全に逃れることはできなかったし、オカルトが人にもたらす影響の恐ろしさは身をもって知ることになったのだ。
「三日後の予定は空いてる?」
「え?あぁ、空いてるけど」
唐突な問いかけに、頭の中で予定をさらって答えると、電話の向こうの気配がうっすらと暗くなったように感じた。
「・・・なら丁度いいか。じゃあ三日後に図書館のカフェで。ただ働きはしないからな」
何処か渇いた印象の鋭い声音に切り替わる。口調と声音の切り替えは姉が鬼と関わるうちに身につけた、クセの一つだ。
きっと、この電話の向こうでうっすらと笑んでいるのだろう。
あの敵意が自分に向いているものでないとわかっていても、ぞわぞわと背筋が逆立つ感覚が襲ってくる。
「全て残らず片付けてやる」
そう言って、電話は切れた。
いつだったか生物学の本で読んだ、『微笑みの起源は威嚇である』という話を思い出した。
もっとも、姉の笑みは少しばかり皮肉気に見える薄い笑いで、ニホンザルのグリマス表出のように歯をむき出しにして嗤っていたのは、姉が敵と見なしていた赤い鬼の方だったのだが。


三日後、俺は待ち合わせのカフェでぼんやりしていた。黒のジーンズにシャツ、暖かい陽気だったから軽いジャケットを着ただけのラフな格好でスマホをいじる。
直接会うのは事故以降初めてだから、結構時間が空いたなと今更考えた。俺も姉もそれなりに多忙な日々を送っていたということだろう。
県内でも有数の大型図書館は、姉の気に入りの場所だ。同じフロアにカフェがあることから、いつでも多くの利用者がいる。
「カフェに着いた」とメールして15分もしない内に、姉が姿を見せた。相変わらず色が白い。肌が弱く、日焼けを避けるせいだ。金属にも負けるから、アクセサリーもほとんど身につけない。
赤みがかった髪は地毛だ。俺の黒い髪とは全く別な色味。並ぶと姉弟というよりは男女の双子のようだと言われるほど年が近く見える俺と姉だが、長い付き合いの友人達は口をそろえて「似てるのはぱっと見の外見だけ」と評する。
たぶん、言動と表情が全く似ていないことが、長く付き合わないとわからないからだ。普通の皮をかぶっている状態の姉は、単純に明朗快活に見えて、俺とよく印象が似ているらしい。
その日の姉はグレー地にラインの入った、タイトなスーツを着て姿を現した。仕事じゃ無い日にかっちりとした格好は珍しく、俺ははてと首を傾げた。
「お待たせ」
俺の左隣の席に着いて、接客に来た店員に珈琲を頼む。
姉が落ち着いたのを見計らって、「どうなった?」と切り出した。
三日前、電話越しに聞いた『全て残らず片付けてやる』という薄暗い声を思い出す。
あの晩の気配を微塵も感じさせない明るい様子で、
「始末は全部つけました。何の影響も出ないように片付けたから、今後一切とうまが無駄な心配をする必要はありません」
何をどう片付ければオカルトの影響が出ないようになるんだと尋ねた俺に、図書館入り口の方を示し、
「九野に全部喰わせた。もうこの世に影響の与えようも無い。『赤い鬼』の残滓も、関わりも、慣れの果ても、よすがの全て放り込んでやった」
人の悪い笑みを浮かべて姉は答えた。
その名前に俺は思わず腰を浮かせかけ、姉が素早く静止する。
「はい、とうま逃げない。というより逃げても遅い、もう遅い」
罠にかけられた気分になった時には、すでにその人物は入り口の扉をくぐって、こちらの席に向かっていた。
「・・・・・・九野さん」
「とうま君、久しぶりー。なんか面白いことやらかしちゃったって?」
軽い口調で俺の正面の席に腰掛けた男性は九野(くの)さんという。
年は姉の一つ上。高一の時に姉が唐突に「友達連れてくるから」と言って家に招いたのが初の出会いだが、その時は姉と違う高校の制服を着ていた。
下の名前は未だに知らない。
背はそれほど高くなく、肉付きもどちらかといえば薄い方だろう。
色素の薄い髪色と若干の猫背。顔が良く、人当たりも良く、相談事にのるのが得意で多方面に友人が多い。
何度となく会ったことのある人だったが、とにかく俺はこの人が苦手だった。深く関わりたくないため、九野さんに関する詳しい情報を意識的に耳に入れることを避けるほどに。
苦手とするのに十分な理由がある。気さくなこの人が、その軽さとは裏腹に姉と同程度かそれ以上にどっぷりとオカルトに浸かっていることを知っているからだ。

「とうま君が持ち込んでくれた相談事ね、おいしかったよ。ごちそうさま」
「そう・・・・・・ですか。良かったです」

九野さんは、『異様』だ。
表情や語る声音は朗らかで、人格的には決して嫌いじゃない。
暴力的なところもなく、話題も豊富で面白い人だ。
けれど、相対する度、ぬぐい去れない違和感が増していく。
人間を相手にしている感じがしない、という違和感が。
姉や本人の言動の端々を素直に受け取るなら、オカルト的な現象もその理由の大元も、九野さんは『喰える』ことになる。
オカルトに対処できる手段を持っている人間の中で、持ち込まれた相談事に『おいしかった』と感想をつける人はどれぐらいいるだろうか。
それが厄介で悪質であればあるほど、九野さんは嬉しそうに、満足そうにするのだ。
九野さんという人は、怖い。
何処までいっても得体が知れない。それは、とても不快な感覚だった。
「どういうことだよ」
姉に真意を問う声が、自然とキツさを増す。
この人が出てくるような大事が、何かあるとでもいうのか。
「そう怒るな。ただ働きはしないって言ってあるだろう?私も九野も、基本的にこの手の頼まれごとはボランティアではしないことにしてる。それが身内でもな。とうまには少し手伝ってほしいことがあるだけさ。お前は自分の友達をみすみす見捨てる真似なんかしたくないはずだが?」
「何のことを言ってるんだよ」
その時、俺の背後、図書館側からゆっくりと近づいていたその人物が、右隣の椅子を引くのを視界の端に捕らえた。
瞬間、照明の明かりが翳り、急激に周囲の温度が冷えたような感覚に陥る。
何だこれはと考えるより先に、相当にまずいナニカに関わっている人間が放つ独特の気配が伝わってきた。
全身に鳥肌がたつ。
カタッ、ススーッという椅子の脚がリノリウムの床にこすれる音が、妙に引き延ばされ雑音となって耳の中で反響した。
右隣に腰掛けた人物を、見たくない、でも見なければならないという相反する気持ちの中で視線をやり、自分の目で確認して俺は驚愕に凍りついた。
外の暖かい気候にまるでそぐわない、冬用の分厚いニットカーデを羽織ったその人物に見知った面影を見つけたからだ。
青白いというよりは土気色のような憔悴しきった面持ち。
生気に乏しく、影までもが薄い。
「・・・・・・まさかSか?」
「あぁ。とうまは変わりなさそうだな」
人違いであってほしいという希望は、即座に打ち消された。
「本当にSなのか?何なんだその顔・・・お前何kg減ったんだ。何があったんだよ」
弱々しい笑みを浮かべ、やつれて見る影も無いほど変わってはいたが、紛れもない親しい男友達の姿がそこにはあった。
「悪い。こんなみっともないところ見せて。お前にも迷惑かける。でも、俺もうこれ以上は無理で・・・・・・」
Sは痩せた手にスマートフォンを握りしめていた。
指先が白くなるほど力を入れ、震えながらSが俺を見上げてくる。
「助けてくれ・・・・・・夜になると電話が、ずっと、電話がかかってくるんだ」
「・・・・・・誰から」
俺の問いかけに、Sは恐怖に目をいっぱいに見開きながら、消え入りそうな声で答えた。
「沼の底の、幽霊から」
俺はもう一度、Sの手の中のスマホを見た。握られたままではよく見えないため、強ばったSの手を開かせ、スマホをテーブルに移す。
テーブルに移そうと機器を受け取った瞬間、今ままで人の手の中にあったとは到底思えない、一切の熱を感じさせない冷たい温度が伝わってきた。
あまりの冷たさに驚いて、テーブルの上に投げ置くような形になってしまう。
液晶には罅が入り、電源も落ちたスマホは真っ暗な画面しか映していない。
ううぅ、と嗚咽を漏らし始めたSがどんな状況にあるのか、俺には想像もできなかった。
テーブルの上で照明の光を反射するスマートフォンが、不気味な存在感を放っていた。


背を小さく丸めてぽつぽつと語り出すSの姿を、俺はどことなく悲しい気持ちで見つめていた。
元々Sはどちらかというと大柄でがっしりとした体格をしていた。それが今は筋肉は衰え、ふたまわりも痩せたように見える。年明けに会った時には何ら変わらず、面倒見のいい兄貴分をやっていたのに、ここまで変わってしまうものなのか。
明らかに不健康にやせ衰え、重篤な病気を患ったと言われても何ら疑いを抱かないだろう容貌になってしまった友人。
席に着いたSが話始めたのは、よくあると言えばよくある、オカルト系ではテンプレートな話だった。
2週間前のこと。
久々に地元で集まった友人達で遊び、男も女も酒を飲み、さんざん騒いだあと心霊スポットに行こうという算段になった。
誰も幽霊や心霊現象を信じていないから話はエスカレートする。何も起こらなかったら興冷めだし、どうせなら県内でも1、2を争うやばいところに行こうと決まった時にはもはや異様なテンションで嫌だと言い出す事すらできなかった。
Sが下戸だったのも災いした。元々飲み会のあとの送迎役を引き受けていたのが、まさか心霊スポットへの運転手になるとは思っていなかったそうだ。
「ちょっと行って、多分すぐに女子が怖がって帰ろうって話になるだろうって。それが、あんな、あんな事に・・・・・・」
うつむき喋るSの目の下には濃いクマが浮かんでいた。きっとロクに眠れてもいないのだろう。
「お前、何処に行って何をしてきたんだよ。こんな酷い状態になるような何かしてきたのか?」
今までの経験で禁止されている事にはちゃんと意味があり、破れば相応の罰といえる現象が起きる事は理解していた。遊び半分の肝試しがどういう結果になるかも、巻き込まれた形ではあったがどれだけヤバイか体験している。
それでもたった2週間で俺が知っているSから、これほど憔悴して激痩せするほどの変化を見せた人間にはまだ行き会ったことが無かった。
3ヶ月の間、心霊現象に悩まされ姉のもとへ相談に来た女性でも、ここまで激変してはいなかった。あの女性を悩ませていたモノだって決して生易しい存在ではなかったのに。
「お前達N山に行ったんだろう」
姉の言葉に、Sはがばりと音が出そうなほどの勢いでうつむいていた顔を上げた。
表情は恐怖に強張り、けれど目が妙に爛々と輝いている。
「男5人、女4人」
「なんで・・・・・・なんでわかるんですか・・・俺まだ何も説明してないのに」
N山。姉の口から出てきた地名に俺はぞっとした。
N山には沼がある。ネットで検索すればすぐにわかる心霊スポットで、近辺ではたまに不審死が出ることで有名だった。
姉に以前、絶対に近づくなと渡された地図の中で大きな赤丸が記してあった場所だ。
ついにSは泣きながら、その夜起こった事件を語り始めた。


車2台で辿り着いたN山の公園駐車場は実にもの寂しい様子だった。
昼間でもあまり人が寄りつかないそこは草刈りなどの手入れもされず、木の枝も伸び放題で見るからに薄気味が悪い。
風は夜だというのに妙に生暖かく、だが誰もそんな事は感じないようで心霊スポットにはしゃいでいた。
「なんだっけー?道はあるけど沼に行っちゃうとアウトなんだっけー?」
「沼だか池だかに女の幽霊が出るんだろ?」
「早く行こーぜ。飲みなおしたいしさ」
てんでバラバラにわいわいと、山の奥へと分け入っていく。幸い、途中で人数分の懐中電灯を買ってきたので、集まっていればいくらかは明るかった。
心細さが少しはマシになる。
「ここって山の裏側に神社あるんだっけ?あんまよく知らないけど」
「足痛くなってきた。何にも出ないしつまんない。もう帰りたいよー」
「なんだよSそんな後ろにいて。まさかお前ビビッてんのか?」
「いやビビッてるわけじゃなくて、足場悪いなと思って。女の子達ヒールだしこの山道は辛いんじゃないかなってさ」
「S君やさしー」
内心では今すぐ帰りたいほどだったが、正直に言っても面白がられるだけだと、相手を気遣って帰る方へ話を誘導しようと試みる。
「でもせっかくここまで来たならやっぱり心霊現象の一つぐらい体験したいじゃん」
その時、友人たちの向こうに何か白いモノが見えた気がした。
目の錯覚かと思い、立ち止まってその白いものが何なのか目を凝らす。
ひゅっと自分の喉が恐怖に鳴る。
いる。道の3mほど奥、木々の間に。
ざんばらの長い髪の女。
肌は生きている人間の色をしていない。生白く、青褪めた死人の色。向こうの景色がうっすらと透けていた。
ソレがこちらを見ている。髪の毛と髪の毛の間から覗く、血走った目がじっとりと睨んでいる。
映画で観たことのある、『農民』といった風体のナニかに、友人達は気づかずにどんどんと近づいていく。
目の前にいるのに、見えていない。
「おい!!止まれって!!」
「はぁ?なんだ急に」
女の手には鎌が握られていた。大ぶりの、錆ついた鎌が。
男友達の1人に振り下ろされるまでは、一瞬の事だった。
ばたりと、先頭を進んでいた男が倒れる。
「ちょっと大丈夫!?」
「おい、どうした!?おい!!」
倒れた友人のもとへ皆が駆け寄り、その体を抱え起こした瞬間、悲鳴があがった。
「は?なんだよこの傷!!」
傷は深くは無いものの、肩口から腹の半ばぐらいまで一気に服と共に引き裂かれていて、そこから血がシャツにじわじわと染み出していた。
「とりあえず車戻って病院!」
「抱えるの手伝ってくれ!」
気絶した男の周囲でばたばたとあわただしく、皆が動く。
Sは動けなかった。女がまだ皆を睨んでいた。
見えていない。誰にも視えていない。
女の口がぱかりと開く。
『『『ねんねぇん ころぉりよ おころりぃよ』』』
傷を負って倒れた男の口から、女の声の子守唄が溢れた。
何重にも音が重なった、叫ぶような女の声の子守唄。
世界が歪むような、重なるような妙な浮遊感の後、友人達は不意に女に気がついたようだった。
今は血を纏わせた鎌を握る、ざんばら髪の女の幽霊に。
一瞬にして場はパニックになった。
男女問わず絶叫を上げながら、我先に女から離れようとバラバラの方向へ走っていく。
車の方へ戻ればいいものを、誰一人として来た道へと引き返してこない。
『『『坊やは よいこだ ねんねぇしなぁ』』』
倒れていた男が白目を向いたまま起き上がる。その口からはいまだ子守唄が響いていた。
硬直したSは動くことも、逃げることもできない。
蛇に睨まれたカエルのように、女に睨まれてSの体は動くという機能を失ってしまったようだった。
その足にコツリと、何かがぶつかった感覚があった。
体は動かない。呼吸だけが荒い。視線が動かしたくないのに下へ下へと向いていく。
足元へ。
ぶつかったものへと。
右足下に何か小さい丸いものが転がっている。
見たくない・・・視たくない!!!!!!
土で汚れた、赤ん坊の頭が、首が無惨に引き千切れたソレが。
赤ん坊のその口から。
「だずげで、S」
今度は子守唄を唄っている友人の哀願する声が、零れた。
そこからは意識が無い。


気がつくと全員が沼のほとりにいた。
何人かは沼の中にふくらはぎまで水に浸して呆然と立っている。
沼の水は不思議と冷たくない。むしろ生温いほどで、何故か「羊水か。お母さんの中だ」と自然に納得していた。
今思えば異様なことだとわかるが、その時は心地良いとすら感じていた。 
全員の首にはお揃いのように幾筋も、浅い切り傷が刻まれていた。
近くで女の子守唄が聴こえる。あぁ、自分の喉からだ。
「何よ・・・・・・何よこれ!?」
女友達の1人が正気にかえったようだ。
「みんなしっかりして!!戻ろう!!帰ろうよ!お願いだから!!」
うるさいな。子守唄が聴こえない。
バチンッと頬に熱い衝撃があった。焦点が合う。世界が鮮明になっていく。
「Sもしっかりして!手伝って!!みんなが沼の中に進んでいくのよ!!」
他にも2人正気づいて、沼の中に行こうとする友人達を必死に引き留めていた。ごめんと思いながら男友達を殴った。子守唄がやみ、ゆっくりと正気にかえっていくのがわかる。
「なんだよここ!?」
「おいやめろ!進むな!!」
残った友人達を全員で正気づかせ、ほうほうの体で沼から這い上がる。
ほっとした瞬間、暗闇の中で一斉にスマホの着信音が響いた。バラバラの不協和音が鳴り響く。
「もうやめて!!」
女友達の1人が、近場にあった石に向かってスマホを力いっぱい投げつけた。
バキッと音がして液晶画面にヒビが入り、音が止む。それをきっかけに、それぞれがスマホを石へ向かって叩きつけて、やがてあたりはしんと静かになった。
もう嫌だ。何もかも嫌だった。
最初にスマホを投げつけた女子が、目の前にわずかに見える道へと走り出す。足が傷つくのもかまわずに、ヒールを脱ぎ捨て裸足でその場から逃げ出した。
ばたばたと足音は続き、全員が駐車場を目指して駆け出す。遅れて走り出し、けれど何故か一瞬沼へと引かれるように振り返ってしまった。
女の上半身が沼の中心に浮かんでいた。まだ睨まれている。見える距離ではないのに、何故かはっきりとわかった。
そのまま背を向けて、ゆっくりと沼の中へ沈んでゆく。
背中には赤子をおぶっていた。頭の無い赤子を。


「そこからどうやって帰ったかは記憶にありません」
Sの告白は壮絶だった。
だが心霊スポットを甘く見てN山に立ち入った以外、少なくともこれほど酷い罰や災厄が降りかかるようなことはしていない気がした。
今まで経験した心霊現象は、もっとはっきりと因果関係がわかるものだった。
そこまで考えておかしな事に気づく。
テーブルに置かれた壊れたスマートフォン。これは新しく契約したものなのか?
「なあS、このスマホって」
新しいのを買ったのかと尋ねるより先に、
「戻ってきたんだ」
暗い声でSが呟く。
「次の日の夜になったら机の上にあった。何度捨てても戻ってくる。昼間は電源は入らないし、確かに壊れてるんだ。でも夜になると」
「勝手にスマホが鳴って、通話を始めなくてもN山で聴いた子守唄が流れ始める。そうだろう」
姉の指摘に、Sは必死な様子で頷いた。
「通話を切る事はできない。一定時間が経って子守唄が止んだ後、水音のようなものが聴こえて不意に静かになる」
「そうです。でもいつまた同じ事が起こるか不安で、毎日あの唄が聴こえて、怖くて、眠れなくて、何度も謝った。謝ったけど、許してもらえない。辛くて死にたくて、でも死んだらあんな風になるんじゃないかと思うと、死ぬのも怖くて」
もう耐えられないとSは疲れ切った顔で漏らした。この話をした時間で一気に年をとったようにすら見える。
「一緒に行った友人とその後連絡はとれたのか?」
「怖くて確認してません。俺だけなのか、みんななのか、それとももっと酷い事になってるかもって思うと確かめられないんです。情けないってわかってるけど」
助けてくださいというSの声は消え入りそうだ。
「あそこに行ったって奴は他にもいるし、そいつらはネットに書き込んでて、写真だってあげてるのになんで俺達だけ・・・・・・」
きみ、きみと脈絡なく九野さんが語りかけた。
「友達の中にN山近くの地元の子が混ざってたでしょう?その子が心霊スポットに行こうって言い出した、違うかな?」
穏やかな、人を安心させる語り口。
Sはしばらく考えるそぶりをみせて、やがて頷いた。
「じゃあきっと下見に行ったんだな。それで運悪く、君達は彼女に呼ばれてしまった」
「なんで俺達が・・・・・・」
「それはね」
「九野。やめろ」
姉が制止した。姉と九野さんの間で視線がぶつかる。姉は軽く睨んでいて、九野さんは嗤っている。
ものの30秒ほどで九野さんが肩をすくめ、それで九野さんはひいたようだ。
「助けてもいい。ただし条件がある」
「何ですか!?何でもします!!」
Sが必死な様子で立ち上がり、声を上げた。周囲の人間が何事かとこちらを見た。
「静かにしろ。座れ」
素直に再び椅子に戻り、集まっていた視線が外れていく。
視線が自分達から完全にばらけたのを確認し、姉はSへと語りだした。
「一つ、そのスマホを渡すこと。契約は解約していい。二つ、悲しいだろうが一緒に行った友人達には今後一生会わないこと。電話はもちろん駄目だ。仮に手紙が来たら見ないで捨てろ。三つ、この件に関して一切理由を問わないこと。忘れろ。四つ、家族を大事にすること。以上だ。これが守れない場合、身の安全は保障できない」
「それだけ、ですか」
2週間苛まれ続けたSにとっては、拍子抜けするような条件らしい。
「それだけとは?」
「お祓い?をしてもらうのにお金がいるとか」
「金銭はいらない。代わりに君は今日、8人の友人を失う。それはもう一生戻らない。軽くはないと思うが?」
Sは考えこんだ。苦渋と、それにまさる根強い恐怖がうかがえた。
「他のみんなも、助かりますか?」
「あぁ。君が条件を守ればみんなが助かる。みんなを助けると思って、友人の事を忘れろ。連絡は決してとらないこと。あとは心霊スポットに付き合うなんて馬鹿な真似を二度としなければ、そんな怖い目には逢わずにすむ」
「わかりました」
 テーブルの上のスマホを差し出し、姉が受け取る。九野さんは何故か少し残念そうにしていた。
「よろしくお願いします」
「引き受けた。もう子守唄は聴こえない。友人のことは縁が無かったと思え。忘れろ」
深々と頭を下げて、Sは カフェを出て行った。
藁にもすがるしかないし、Sは姉を信じるしかないのだろう。
姉は俺にただ働きはしないと言っていた。手伝ってほしいとも。つまり俺はこれからこの件に関して何かさせられる。
「俺には事のあらましを訊く権利があるんだろうな、姉君様」
少しばかりの嫌味を込めて言うと、姉は笑った。
皮肉気でない、素直で明るい笑顔で。
「3日前の件を含めて、肉体労働と引き換えに」
それならば乗りかかった船、あるいは毒を喰らわば皿まで。
きっちり納得のできる終わりを与えてもらおう。

九野さんの運転する車で姉のが住むマンションに寄り、待つこと10分程。
もういいの?と訊ねた九野さんに、いいと姉は短く返した。
思えばこの2人の関係もよくわからないままだ。
高校からの友人だという事は知っているが、時折さきほどのように姉が九野さんを睨みつけたりしている時もあるし、どの程度親しい間柄なのかも実のところ不明だった。
再び車に乗り込んで、次に到着したのはホームセンターだった。枝切バサミを2本購入して、今度こそN山へと向かう。
N山に到着するまでは少々時間がある。
「今回の件、どういう事なのか説明してほしいんだけど」
どういう理由でS達は酷い心霊現象に悩まされているのか。捨てたスマホが戻ってくるという物理的にありえない現象はなんなのか。
訊きたい事はたくさんあった。
「せっかちだなあ、とうま君は」
「九野さんは黙っててもらえますか」
この人と話していると話を色々と混ぜっかえされ、そうこうしている内に本題がなんなのかわからなくなる事がしばしばあった。
うやむやにされた話題がいくつあったかは数えたくない。
「説明されてないのにN山へ行ったってわかった事とか、何人で行ったかとか。際立って罰当たりな事をしたわけでもないS達がどうしてあそこまで憔悴するような目にあっているかとか」
「理由は赤ん坊だよ」
助手席にいる姉の表情は見えない。
「Sの足元には9人の赤ん坊がいた。1人ははっきりしていて、あとは視え方が薄かった。体は赤ん坊だったが、頭は大人のものがついていた。男5人と女4人。目の前にいるSの顔もあったぞ。首には赤い線状の傷が何本も走っていた。ここいらでそんな目に遭いそうな場所、N山しか私は知らない」
赤ん坊の体に、大人の首が乗っている。想像して気持ちが悪くなった。気味が悪いにもほどがある光景だ。
「N山に行ったのは最近それぞれに結婚した連中で、まだ産まれていなくとも子供を授かっていた。単純な話にすれば、自分が失ってしまった愛しい存在をこれから手に入れる者へ、あの山にいるモノが嫉妬した。妬んだ、恨んだ。あそこにナニがいるかは、さすがにお前でも知っているだろう?それに彼等はさわってしまった」
N山に出るモノがどういった存在かは、確かに俺でも知っていた。それほどやばいと有名な場所なのだ。

産まれて間もない赤子をおぶってあやしながら、その母親は熱心に農作業に励んでいた。子守唄を唄っていると泣いていた赤子が静かになって、眠ってくれたのだろうと母親はその後も畑仕事を続けた。
女が仕事を終えて赤子の世話をしようとすると、赤子の首が、頭がどこにも無かった。母親の愛しい赤子の首は、働いている最中に当たった鎌で不幸にも切り落とされていた。
首はいくら探しても見つからなかった。
手元に残ったのは赤子の血で赤く染まった鎌。発狂した母親はN山にある沼へと身を沈め亡くなったが、それ以来、山には赤子の首を探してさ迷う女の幽霊が出るようになった。

ひどく悲しい話だ。
不幸で、救われない。母親も、赤ん坊も。

「子守唄が聴こえるのは母親が亡くなった時間だよ。水音は入水した母親が沼底に沈んでいく音だ」
姉によって語られる毎夜Sを悩ませた心霊現象の真相に、ぞっとせずにはいられなかった。誰かが死ぬ時の音を、Sは何度も何度も繰り返し聴いていた事になる。
教えても恐怖が増しただけだろう。
九野さんはSに問われたから、これらの事実を教えようとしたのか。
「おいしそうだったんだけどなあ」
「黙れ、九野」
「彼等は悪気無しに面白がって行ってはならない場所へ踏み入って、酷く悲しみ、悔いている母親を怒らせた。助からない因果は十分に成立していると思うんだけど」
「産まれてくる子供に罪は無い」
「優しいなあ」
「黙れ」

姉の声音はいっそ憎々しげだった。対する九野さんは楽しそうだ。
だからこの人は苦手なのだ。
朗らかで、悪意が無い。けれど善良では決してない。
得体がしれない。気味が悪い。近づきたくない。

ほどなくして、N山に辿り着いた。
時刻は昼の2時をまわったところで、まだまだ十分に陽が高い。
予想していたが、俺達の他には誰もいなかった。公園駐車場の周囲もSが言っていたとおり草が伸び放題で、荒んだ印象の強い景色だった。
先ほどホームセンターで購入してきた枝切バサミを車から姉が持ち出して、俺と九野さんに一つずつ渡すと、
「さあ、きりきり働いてもらうぞ。男共。夕方までには片づけたい」
N山の奥へと向かっていった。
のだが、道らしきところを進んでわりとすぐに、生い茂ったツタやら長く伸びた樹の枝やらで、それ以上進むのが困難になった。跨げば進めるとかそんなレベルではない。
Sの話とずいぶん違う。別の道があったのだろうかと首を傾げていると、
「ほら、切って進むぞ」
と枝切バサミを指さされた。このために準備してきたなら、この状態を予想というより確信していたのだろう。
「S達は一体どこを通ったんだよ」
「呼ばれた子達がまっとうな道を進めるわけがないんだよねえ」
肉体労働は範疇外なんだけどなぁと呟きながら、九野さんがてきぱきと道を切り開いていく。
1時間ほどかけて、俺達はようやく問題の沼に辿り着いた。俺も九野さんもすっかり汗だくだ。大バサミを使い続けた腕が軋んで悲鳴をあげている。
湖面は穏やかに凪いでいて、不気味さは感じられない。とても恐ろしいモノが出るような場所には見えなかったが、確かに民間伝承には母と赤子の悲劇が記されている。
腹が減ったし割に合わないと、九野さんは座りこんでぶつぶつ呟いている。どうやら拗ねているようだった。
俺も休憩に地面に座って、辺りを見渡してみた。どこを見ても、切り開いてきた道以外に辿りつけそうな場所は無い。どこも草木がぼうぼうでツタが多く、夜に来て簡単に辿りつけるようには思えなかった。
九野さんが言ったように、S達はまっとうでない道を通ってしまったのだろうか。そうでもないと説明がつかなかった。
姉は沼の周囲を歩き回って、何かを探している風だ。
そういえば夜になると手元に戻ってくるスマホの件を訊きそびれている。ここに捨てたスマホが家まで戻るやら、再びゴミに出しても戻るやらの説明がされていない事を思い出した。
「あったぞ」
姉が少し離れた場所で手招きしている。
億劫だったが腰をあげて姉が立つ場所に向かうと、そこには9つの壊れたスマホが残されていた。
「は?」
思わず声が出た。姉が受け取ったはずの、カフェで見たSのスマホまでそこにあった。
「意味がわからない。なんで?スマホは幽霊に行き会った奴らのところに戻ってるんじゃなかったの?」
「戻ってなんかいない。捨てられたスマホはずっとここに在った。ただ、Sには手元に戻ってきてしまったモノが視えていたし、ソレから聴こえる子守唄も水音も聴こえていた。遭ってしまったもの同士には、相互に何らかの縁が作用する。関わりあい、まじないあう」
それは。
共感呪術に関する記述にとてもよく似ていた。
「Sに差し出されたスマホは最初から透けていた。Sには触れるし、Sと一緒にいる間は見えるし触れる。だがSから離れてしまうと、関係が絶たれてソレは無くなってしまう。ここにいる母親と縁が結ばれてしまった者だけが、彼女からのコールを受ける資格がある。だからスマホは見えるし、彼等のもとには存在する。捨てることなんか不可能なんだよ。実物はここにあるんだから」
関わった者だけに視えるもの、聴こえる音。
境界に存在する、不可思議な世界。
「じゃあどうしたら終わるんだ」
その時じっと、背にした沼の方からじいぃっと何かが見つめる強い視線を感じた。
寒い。鳥肌が立つ。関わってはならないモノが放つ独特の気配が、Sがカフェに現れた時にも感じた気配が、強烈な存在感で不意に『こちら側』に浮かび上がる。
沼の方を振り向いても俺には何も視えない。
だが視線は強く強く睨むようにこちらを視ているのがわかった。
足がすくむ。動けない。こんなものどうやってなんとかするんだ。視えなくてもこんなに恐怖を感じる相手なのに、実際に視えていたS達を助けることなんてできるのか。
姉がゆっくりと沼の方へ足を進める。
「ねんねん ころりよ おころりよ」
子守唄を歌い、一歩。
「坊やは良い子だ ねんねしな」
二歩。
「ねんねのお守りは ここにおる」
三歩。足元が水に浸かる。
「この沼いでて 赤子抱く」
四歩。いつの間にか、姉の手の平には簡素な赤子の人形が握られていた。
「人のみやげに こをあげよ」
五歩。ふくらはぎまで沼に入って、人形をそっと沼へ流す。
「ねんねん ころりよ おころりよ 母も良い子だ ねんねする」
赤子の人形は吸い込まれるように沼の中心へ流れ、とぷんと静かに音をたてて消えた。
俺が知っている子守唄とは途中から音階も違っていたが、今ここではそれが正しかったのだろう。
視線はすでに消えていた。あれほど感じた寒気もおさまっている。
沼から足を引き上げると、びしょびしょだと姉は苦笑した。
「これは食べちゃっていいよねー?」
壊れたスマホが落ちていた場所で、九野さんが声をあげる。
「勝手に喰え!悪食!馬鹿!」
「いただきます」
ぱんっと手を一度打ち鳴らすと、スマホの残骸から何か黒い靄が九野さんの方へ流れて消えた。一瞬の事だった。
相変わらず、九野さんは意味不明だった。
「まったく、しまらんヤツだ」
いつのまにか陽が暮れようとしていた。
夕焼けの赤色が沼を染めて、静かに閑かに輝いた。


帰りの車の中で、赤子の人形を贈ったから母親は満足したのかと俺は訊いてみた。
すると少し違うと、姉から応えがあった。
「母親は許されたかったんだよ。己の手で子供を殺めてしまったこと。首を探し出せなかったこと。身を沼に沈めて、命を捧げて、赤子はとうに母の背に還っていたのに、気づくことができなかった。だから赤子に少しだけ形を与えて、その手の内に届けた。正しい赤子の形を得て、ようやく母親は我が子と眠りについた。それだけ」
「優しいなぁ」
「黙れ」
来た時とまるで同じやり取りがされて、思わず俺は笑ってしまった。
そうか、子供と一緒に眠ったのか。
「子供を大事にして、眠ったんだよ」
空は燃えるような赤。この色に姉は何を思い出しているのだろう。
「視えないものが、視えるようになっただけ。最初からそこにいたんだよ」
優し気な、囁くような声だった。
S達も、今夜からは平穏に眠れることだろう。

この話は、これでおしまい。
親子の暗がりは、すでに無い。

【4つ上の姉にまつわる話だ】⑫ 青い鬼