「とうま◆xnLOzMnQ」 2021/08/12
俺には4つ年上の姉がいる。
暗がりの世界を覗き込み、薄く笑ってその淵に佇む。
祀られたモノ、家に棲むナニか。
古い庭の片隅、ぽつりと存在する家守神の鳥居の奥からするする伸びた、女の手。
きゃはきゃはと耳障りな、かすれて甲高い子供の声。
鬼のいる場所は一つではない。
姉が中学に入ってから、初夏の話である。
祖父母の家から新居に移ってだいぶ時間が経ってから知った事だが、引っ越しの理由とそれにまつわる父の素行は、悲しい事に田舎ゆえの遠慮の無さで当時かなりの早さで親達の間で広がったらしかった。
わかっていた事だが、父は世間からの自分の評判に対して大いに荒れた。
深酒をして世間への恨みを暴言でもって挙げ連ね、それは時折2階の子供部屋まで響いたらしい。
らしいという曖昧な表現になるのは、不思議なことに俺の記憶には父の罵声などほとんど残っていないからだ。子供ゆえの恐怖心で忘れてしまったのかとも考えたが、当時の事を姉に問うと、
「あんたは『赤い鬼』の外側にいた。奴等の邪魔者は増えないにこした事は無かったんだろう。鬼にとってはあんたも目障りな『とや』にかわりはない」
と、興味なさげに呟くだけだった。
俺にはわからなくとも赤い鬼はあの時も確かにいて、家族の中を荒らしまわっていたのだと思うと今でも酷く悲しい気分になる。
あの頃、姉の目には赤い鬼達がどう視えていたのだろう。
ともかく、親が白い目で見れば子供もそれに習うもの。
姉と小学校での友人は引っ越しを起点にずいぶん疎遠になっていた。
結局中学に上がって以降、小学校の時に友人だった人達の名前を、俺は一度も姉の口から聞くことはなかった。
代わりに姉は中学に入ってしばらくして、新しく親友と呼べる人を2人得たようだった。
同学年の恵さんとコノミさん。
二人ともたまに家に遊びに来ることがあったし、逆に姉が遊びに行くこともあったようだ。
恵さんはわりといいところのお嬢さんらしく、おっとりとした雰囲気の優しげな人だった。会社の社長さんの娘さんで、恵さんの弟は俺が転校したの小学校で同じクラスになった活発な少年だった。
俺も恵さんの弟のT君とはわりと早く仲良くなり、一緒に遊ぶことも多かった。
穏やかな風貌の恵さんに対して、コノミさんは当時小学生の俺でもわかるような大人びた雰囲気のすごい美人だった。
人を寄せ付けない雰囲気で、黙っていれば高校生に見えるぐらい落ち着いていた。俺にはとても優しい人だったが、町での評判はあまり良くなかった。
大学生ぐらいの男の車に乗って、頻繁に夜まで帰らずに遊びまわっている不良娘。
お嬢さんと素行不良少女。
この正反対とも言える二人が、中学生の3年間、姉と長く時を過ごす事になる。
一方で父と姉の仲はいよいよ険悪になっていた。
新居に引っ越して2階に1人部屋を得た事も大きかっただろう。姉は家にいる時間のほとんどを自室で過ごし、そうでなければ町の図書館でいつも調べ物をしているようだった。
中学生が読むには分厚すぎる古い本を何冊も借りては読みふけっていた。
調べ物以外の時間は、父の外出している時間を見計らって恵さんの方が家に遊びに来ることが多く、逆にコノミさんとは外で会っている姿をよく見かけた。
もっとも父は世間に対しては極めて『普通』の父親の姿像をしていたから、恵さんと鉢合わせることがあっても愛想よく振る舞っていたそうだった。
『これ以上悪評がたっても困るって、流石にあの人がいくら馬鹿だってわかるさ』と、二階の子供部屋で姉は皮肉げに笑んでいた。
「姉ちゃん、さすがにお父さんが怒るよ」
「あの人はもう、いつでも怒ってるよ。それ以外は欲と恨みしか無いんだよ」
それはもはや中学生が浮かべる表情ではなく、父親というよりは嫌悪する他人に向ける何処か遠い言葉だった。
姉の言葉はいつも難しく、俺にはわからないことばかりだった。
大人になった今でも、あの日の姉を理解できているとは思っていない。
その頃、俺は俺で一つの悩みを抱えていた。
学校に行くと、ある特定の条件の時に嫌な音がするのだ。
最初ソレが聞こえた時は、何の音だろうと一瞬首をかしげて、けれどキャッチボールの最中だったからすぐに意識の外に行き、そのまま忘れてしまった。
音は、最初は遠かったのだ。
それがだんだん近づいてきた。
それは多分足音で、しかも徐々に数を増やしている気がした。
ひた、ぐちゃ、ひた、にちゃ、ひたひた、びちゃっ。
足音というのはあまりに気色の悪い、何かでぐっしょりと濡れたモノが徐々に距離を詰めてくる。
決まって、それはT君と二人きりの時。もっと酷いのは、恵さんが小学校へT君を迎えに来た時だった。
「こんにちは、とうま君。いつもTと一緒に遊んでくれてありがとうね」
「姉ちゃんうっせー!恥ずかしいから迎えとか来んなよ!!」
「Tが道草ばっかりして遅くまで帰ってこないから、家族がみんな心配するんでしょう?嫌だったら早く帰ってきなさい」
何気ない姉弟のやり取りの中、ソレは俺達の周りを取り囲んでぐるぐる、にちゃ、びたびたと歩きまわっていた。
ソレが聞こえているのは当然俺だけで、その音がやってくる度に、俺は急に世界と自分とがズレたような酷い恐怖心に襲われた。俺は姉のようにナニかに対して対処ができるわけではない。
この音が自分に襲いかかってきたら自分はどうなるのかという想像は、吐き気がするほど嫌な感覚だった。胸の奥がずんっと何か黒い暗いもので押しつぶされるような、そんな錯覚すら覚えた。
もしかして姉はいつもこんな恐ろしい世界に一人でいるのかと、ようやく俺は人でないモノの世界のごく片隅に触れ、ともすればあがりそうになる悲鳴を飲み込んんだ。
早く帰ってくれと、その時ばかりはT君を疎ましく思った気がする。
怖くて、恐くて、たまらなかった。
けれどごく普通の状況のはずのT君は、いつも妙に家に帰るのを渋るのだった。
「じゃあまたね、とうま君」
穏やかに微笑まれて、俺は我に返った。何分経ったのだろう。時間の感覚はまるで無かった。
恵さんとT君が家へと帰っていく。
明るい夕日の中、二人について遠ざかる足音が耳について離れなかった。
それでも俺は学校を休むことなく、こりずにT君と仲良く遊んでいた。
いいヤツなのだ。あの音さえなければ、一番の友達と言ってもいい。転校して緊張している俺に、一番に声をかけてくれた。
クラスでも人気者で、明るくて、一緒にいてすごく楽しい。
そんな友達を自分だけに聞こえる気味の悪い足音で疎むのは、酷い裏切りをしているように思えた。
そのうち音は消えるかもしれない。俺の気のせいかもしれない。
姉ちゃんにこれ以上、変なことに関わってほしくない。
何度も耐えて、しかし足音が消えないどころか増え続ける事に、俺はうまれて初めてこれが絶望感というものだろうかと考えていた。
どうしたらいいのか、もうわからなかった。
学校近くの公園でぼんやりと一人で過ごしていると、
「ねぇ、ゆきちゃんの弟くん」
背後から不意に声をかけられ、俺は飛び上がるほど驚いた。
振り返るとそこにいたのは、コノミさんだった。暑さの厳しい日だったのに汗の一つもかかず、セーラー服をまとって一人佇んでいる。
日に焼けない白い肌は気の滅入っている今の俺には、そんなはずはなくともいっそ人でないのモノのように感じられた。
「こんにちは、コノミさん。姉ちゃんは一緒じゃないんですか?」
挨拶をする気分ではなかったが、俺は無理やりにでも笑顔を作った。
長いまつげ、黒く長い髪。黒い瞳が俺をじっと見つめている。表情をなくすとこの人は本当に綺麗な人形みたいだと場違いな事を思っていたが、続いた言葉に俺は体を強張らせた。
「ソレ、ゆきちゃんに相談しないの?」
白い指が、俺の座った場所から少し離れたところを指している。
俺には何も視えない。
コノミさんには何か視えているのか。
「ソレ、放っておいていいものじゃないよ。友達思いもえらいけど、つかまっちゃうよ」
「なに・・・・・・なにか」
いるんですかと聞こうとして、それは俺を呼ぶ声に遮られた。
「おーい、とうま!なんで帰るんだよ、探したぞ!」
駆け寄ってくるT君の姿に、どうして今なのかと神様を恨みたい気分になった。
ずるっ、ぐちゃ、にちゃ、ぎちゅぐじゅ、べたっべたっ。
足音が、今は何人分になったのだろう。
「弟くん、これあげる。はやく相談するんだよ。アレは私じゃ無理だから」
コノミさんが何かを手に握らせた。瞬間、足音が嘘のようにかき消えた。
「じゃあね」
とT君が着くより先に身をひるがえして、コノミさんは何処かへ行ってしまった。
握った手を開くと、白い紙を袋状に折り畳んだ中に何かの粒が入っているらしい、不思議なものがあった。
白い紙袋を慌ててポケットに隠す。何故かそれがT君に見つかってはいけない気がした。
汗をかきながら笑顔で駆け寄ってきたのは、ずいぶん久しぶりに感じられる、ごく『普通』のT君だった。
普通のありがたさに、怖いもののいない世界に、俺は泣きそうになった。
けれど、
「相談があるんだ、内緒の。お前の姉ちゃんて幽霊とかみえるんだろ。なあ、困ってるんだよ。なんとかしてほしいんだ」
「え?」
T君が口にした言葉の内容に、俺は再び恐怖の底へ突き落とされる事になった。
俺が姉の事に関して何を言ったとしても、T君は相談を止める気はなかったに違いない。
T君の顔色にも、恐怖と憔悴の色が見て取れた。
「助けてくれよ。姉ちゃんが、時々婆ちゃん達になるんだ。青黒い鬼の婆ちゃん達に」
ぐらりと足元が揺らいで目眩がした。
『境界なんか、本当は無いんだ』
いつか聞いた姉の言葉が、耳元で響いた気がした。
相談は姉と俺とT君の三人で、図書館の勉強室を借りて行うことになった。
小さい一室ではあるが音漏れも無いし、誰かに話を聞かれる事もないだろうと姉が選んだ場所だった。小学生に中学生が勉強を教えている体で、机の上には適当に教科書が広げられている。
「それで?誰から私の事を知った?教えられた?吹き込まれた?」
威圧するように、姉はT君を睨みつけた。
外向きには優等生の皮をかぶって行動している姉が最初から攻撃的な姿勢を見せるのは珍しい。
萎縮したT君はうつむいて半ズボンの裾を握りしめたまま、黙りこくってしまった。
しばし待っていると、
「町でとうまとお姉さんが歩いているのを見たことがあって、そしたら姉ちゃんが家の外なのに婆ちゃん達になって・・・・・・『アレはヨソの所のだから近づくんじゃないよ?ヨソのは盗っちゃいけないからねえ?あぁ、アレは駄目。おぞましいモノだ。ヨソの視える子は嫌いだよ』って言ったんだ。婆ちゃん達は家の中でしか出てこないと思ってたのに」
「へえ?」
俺はT君の言葉に絶句し、逆に姉は楽しげに笑った。
「『青黒い鬼の婆ちゃん達になる』・・・・・・ねぇ?変なモノが言ってた事を信じて、その言いつけに逆らってまで私のところへ来ていいのか?本当は恵が私の事を嫌いで、ただのでまかせや悪口を言ったとか考えなかったのか?」
「考えなかった。婆ちゃん達はほんとの事しか言わないんだ。婆ちゃん達が言った事は良い事でも悪い事でも絶対に当たるんだ」
「ふーん?その婆ちゃん達に嫌われてる私に相談していいのか?今よりもっとずっと怖いことになるかもしれないぞ?」
ニヤニヤとわざと悪意があるかのように意地が悪い表情で、姉は嗤い続けた。実際に文言としてはT君を脅している。
もっとずっと怖いこと。具体的に何がどうなると言うわけではなく、ただ不安を煽る。
「姉ちゃんが、いつか婆ちゃん達と同じモノになるのが嫌なんだ!ウチでは普通だってお父さんもお母さんも言うけど、あんな化け物になるなんて絶対に普通じゃない!婆ちゃんだって死ぬまではあんなに優しかったのに!化け物になるのが幸せなんておかしいよ!!」
いつしかT君は泣いていた。
『姉ちゃんごめん、何にもできなくてごめん、怖くてごめん』と繰り返し謝りながら。
T君は恵さんが大事で、とてつもなく心配なのだろう。
わけのわからないモノに家族を脅かされる怖さは、俺にも覚えのあることだった。
できることなら助けてあげてほしい。でも危険なことには関わってほしくない。相反する感情が言葉にならずにただ沈黙になる。
部屋が重苦しい空気に潰されそうになった瞬間、ぱんっと姉が手を叩いた。
「化け物になる、か。いいだろう。興味がわいた。手を貸さないでもない」
「助けてくれるの?」
「何をもって助かるというかは、私にはわからないな。できることはするが、手に負えるかはわからない。だが、恵が『青い鬼』にはならないようにしてやる」
それでいいか?とハンカチでT君の涙を拭ってやって、その日姉は初めての優しさらしきものを見せた。
T君はひどく安心した様子で、また泣き出してしまった。
誰にも言えなかったのだろう。
小学生が一人で抱える不安はどれほどのものだっただろう。
「よく頑張ったな」
T君を撫でる手が優しげであるほど、俺は悲しくなった。
どうして姉には助けてくれる人がいないのだろう。
姉もまた、赤い鬼と独りで戦っている事に変わりはないのに。。
そこからはT君の家の詳しい事情を聞くことになった。
拙いながらもT君は一生懸命自分の知っている範囲の事を伝えようと努力していた。
T君の家には庭の片隅に代々神様を祀っている小さな鳥居があるらしい。
鳥居だけで祠はない。社も無い。けれどその古ぼけた鳥居は丁重に敬われて、ずっと大事にされている。
しめ縄は無く、紙垂のみが鳥居の前部分に下げられている。
「前だけ?四方では無く?」
姉は俺達にはわからない不思議な質問をした。
「前だけです。1ヶ月に1回は必ず取り替えて、あとは急に汚れてた時とかに姉ちゃんが交換する。前はお母さんがやってた」
商売繁盛の家守神様と教えられ家族みんなが敬っていたが、T君のお婆さんだけは生前その鳥居を非常に恐れていたそうだ。
鳥居には近づかなかったし、みんなでやるお参りもしなかった。T君のお爺さんは寝たきりになるまでそんなお婆さんを責めたが、よそから嫁いできたお婆さんは頑として譲らなかったそうだ。
どうもお婆さんは視える人だったらしく、T君もお婆さんといる時に一度だけ異様なモノを見たという。
鳥居の奥、草むらの暗がりからお婆さんへと伸びた、青黒い肌色をした異様に長い女の腕。
腕はお婆さんを掴みそこなって、またするすると鳥居の奥へと戻って行った。
キャハァ、アハハという甲高い子供のような声と共に。
鬼ごっこで遊びながら相手を捕まえるのに失敗した時のような、無邪気だが不快に高い声だったそうだ。
それから、T君は家に神様の部屋があると言った。
普段は掃除以外には入ることは無く、閉められている、飾り気の無い六畳間。入る時には膝をついて礼をしてから、出る時も同じように礼をしてから。
神棚もなく、鳥居もなく、紙垂も、しめ縄も無い、ただの部屋に礼節をつくしている。
この部屋がまっとうに使われるのは、家の女性が死ぬ少し前。死後安らかに過ごせるようにと神様の部屋で手厚く介護され、それは亡くなる時まで続く。
無論お婆さんもその部屋で介護されて亡くなったが、最後の最後まで脱走癖が抜けなかったらしい。
お婆さんは病気で体を壊して寝付いた頃に呆けてしまい、わけのわからないことばかりを言って神様の部屋から抜け出しては徘徊し連れ戻されていたが、T君はあの時お婆さんが口にしていたのは本当に視えていたものを嫌がっていたんじゃないかと、今では思っているそうだ。
「怖いよう、怖いよう。ぶよぶよの女が私を囲んで見てる。腕がたくさん伸びて私を触ってるのよ。あぁ、助けて助けて、ここから出して。ここは嫌、いやいやいやいやーっ」
お婆さんはやがて老衰で亡くなった。やつれ細って生前の面影は無く、死んだ肌色はいつか見た鳥居から伸びた腕の青黒い色によく似ていた。
神様の部屋で葬儀は執り行われ、その時だけ何処から出してきたのか仏壇があったことをT君は不思議に思ったそうだ。
火葬場で焼かれ、骨になった祖母は、何故か2つの骨壷に入れられて仏壇の亡くなった神様の部屋の中央に安置された。1週間か2週間か、正確には覚えていないがいくらかの時間が過ぎ、大きな骨壷はお墓へおさめられ、小さな骨壷は何処へ行ったのかT君にはわからないままになった。
「そうして少し経って、家の中で姉ちゃんが婆ちゃん達になるようになったんだ」
ある日恵さんがお婆さんの声で喋った。
『N家はもう駄目。商売は切りなさい』
『S家は社長が死ぬから息子はもう駄目。切りなさい』
『K家はウチの水がいいから言うことをきくでしょう』
「予知・・・・・・託宣か、あるとこにはあるもんだな」
姉は感心したように言った。
声は最初のうちこそお婆さんのものだったが、だんだんといろんな女の声の輪唱のようになったそうだ。子供、若い、女、老婆。様々に。
両親はこれを喜び、恵さんに綺麗な着物を着せ、神様の部屋に祀った。
恵さんはしばらく戻らなくなった。T君は異常事態に夜中こっそりと言いつけを守らずに、礼もせずに神様の部屋に入って、恵さんを引っ張り出した。
恵さんは半分だけ元に戻り正気の時と、青黒い鬼のような姿のお婆さん達が恵さんの体に重なって視えるような、おかしな状態の時が交互になってしまったそうだ。
それから時折、濡れた足音がT君の周囲をぐるぐると責め立てるように歩く音がきこえるようになった。
「その青黒い鬼はどういう風に視えるんだ」
「顔はその時その時で違って角みたいなのがあるんだ。髪の毛とかも長かったり短かったりするけど、なんかずぶ濡れになったみたいな感じ。あと、腕が長い。時々腕の数が多くて、足のほうに近づくと暗くなって影みたいな感じになる。足元は真っ黒」
「首から下、腹とか、腰とかは?」
「全部姉ちゃんに視える」
「へえ?すごいな。本当に化け物じゃないか」
楽しそうにいうところではないと文句を言いかけたが、姉の目がいつになく爛々としていて俺は若干の戦慄を覚え、黙ってしまった。
もとよりこういった現象に俺が何かできるわけではない。ただ物事を聞き、事態がどう収まるかを傍観するしかないのだ。
「まぁ、構造は大体わかったよ。何とかなるだろう」
「今のでわかったの!?」
俺達は驚愕した。姉は頷くと、
「あとは現物を見ないと何とも言えないが、ご両親と恵のいない日に遊びに行かせてもらおうか。ちょうどいい日、わかるか?」
こともなげに言った。
T君は未だ半信半疑といった感じだったが、
「お父さんとお母さんは仕事で大体六時半までは帰ってこないし、土曜日は姉ちゃんピアノの稽古があるから四時ぐらいから六時ぐらいまではいない」
「じゃあ明後日だな」
話疲れたというように、椅子の上でうんと両手を伸ばして、密かに姉が呟いた言葉を聞いてしまったのは不幸な偶然だったのだろうか。
「赤い鬼の前に、青い鬼と対峙するのも悪くない」
暗く、深く、どこか楽しげな、聞く者が不安になるような声で唄うように囁いた。
約束の土曜日はすぐに訪れた。
姉はそれまでに自由になる時間の全てを使い、図書館と郷土資料館で何かを調べていた。
図書館でコピーしてもらった町の地図と、郷土資料館にあった古い地図を見比べて何かしていることだけはかろうじて理解できたが、相変わらずそれが何のためなのか俺にはさっぱりわからなかった。
それよりも、
「今回は危ないしちょっと面倒だから、これが片付くまで一緒にいな」
と珍しくも姉の側にいることを許された事の方が意外だった。
いつもなら『おとなしくしてろ、お前は対処できないんだから』と、蚊帳の外に放り出そうとするのに。それでも俺は結局何だかんだと過ごしているうちに、巻き込まれてナニカを目撃してきたわけだが。
この、『完全に部外者になれない』体質のようなものに関してだけは、姉は俺に対して頭を抱えていた。
霊感の類は無いはずの俺が、今回は姉の側にいなくとも濡れた足音という視えないナニカに一人で行き遭ってしまったから、余計に用心したのかもしれない。
今回の件で手を貸すにあたって、姉はT君に一つだけ注文をつけていた。
「土曜日は自分が持ってるお金を全部を持ってくるんだ。何円でもかまわないけど、絶対に一円もごまかさないこと。それを2つの白い封筒に入れて来ること」
聞く人が聞けばカツアゲである。
今までにこういったヒトでないモノが関わった件で、姉が金銭がからむ発言をした試しがなかったので、俺はぎょっとした。
T君はしばらく迷っていたが、最終的には頷いた。大人に許可をもらわずに持っている金銭を全て使うなど、後で怒られるかもしれない事を考えれば小学生の俺達には十分に怖いことだった。
それでもT君は頷いた。姉を信じるしかなかったからだろうか。
土曜日、姉が集合時間に指定したのは午後一時の事だった。
T君の家に行く前にいくらかやる事があると説明されていた。
図書館での待ち合わせに、T君は俺達より早く到着していた。緊張した面持ちで、俺達を待ち構えていた。
「お金は?」
「ちゃんと2つにして全部持ってきたよ」
「よし、えらいぞ」
持っているバッグにそれがはいっているのだろう。握りしめる手は力が入りすぎて白くなりかけていた。
姉は緊張を和らげるようにぽんぽんとT君の頭を撫でた。
「じゃあ行くか」
姉は大きめのボストンバッグを肩にかけ、俺達を誘った。
姉の案内で、俺達は町内の知らない道をしばらく歩くことになった。裏道、抜け道、そんな言葉が似合う、人通りの少ない場所ばかりを選んで姉は先を進んでゆく。
こんな場所に道があったのかというような藪の中の舗装されてない道を抜けると、小さな川のほとりに出た。
ぐるぐると20分も歩いたような気がした。
川は小さいが水が澄んでいて、ごく近場に小さな社があった。古びてはいるが大事にされている佇まいで、小さいが賽銭箱もあった。
「お賽銭を入れて、手をあわせて祈って。とうま、あんたもだよ」
具体的に何をお祈りしろという指示はなかった。
柏手は打たずに、ただ静かにお参りする。T君はことさら熱心に何かを祈っていた。
姉の無事か、青い鬼からの解放か、怪奇現象の収束か、あるいはその全てか。
T君の内心を知ることはできないが、必死さは見ているだけで伝わってくるものがあった。
「つぎ」
短く告げて、姉はまた歩き出した。
またうねうねとしばらく歩くと、わびしい景色の場所から普通の町中に出て、一軒の家の前でぴたりと足を止めた。
「T君。T君の家の水がいいって鬼が言ってたK家ってここ?」
「そうだけど」
なんでわかったんだと言いたげに、T君は目を見開いた。
「ふーん」
興味なさげに相槌をうつと、姉はK家に少しだけ近づいた。そのまま門扉の前で、地面に踵をつけた状態でたん、たんと右足を二回踏み鳴らす。
すると何かすうっと冷たいものが、背中から体を抜けて前へと抜けていった感覚がした。
嫌な感じはまるでしない。むしろさっきお参りした川の祠のすぐ側の心地よい涼しさに似ていた。妙に重かった体が軽くなったような気がする。
「行くよ」
短く言って、姉はまた歩き出した。
今度はわりとすぐに俺達にも目的地がわかった。町で一番大きな神社だ。
といってもお祭りの時以外は閉じられていて、宮司さんだか神主さんだかもいないはずだった。
何をしに行くんだろう。封筒に入れられたお金はまだ半分残っている。またお参りだろうか。
急勾配の石段を登りきると、そこにはしんと静まり返った神社があった。
やはり人の気配は無いように思えた。
まっすぐにお社へと向かうと、今度は柏手を打った。一度頭を深く下げ、俺達に同じことをさせると、姉はそのまま階段を数段登って、閉ざされた扉の前に膝をつく。
「なにか」
「みなのもうでで ございます」
「なにか」
「御神酒を一升 賜りたく」
ぼうっと社の中に蝋燭が灯ったようだった。
扉が少しだけ空いて、朱塗りの器を持ったがっしりとした男の腕がぬうっと奥から出てきた。腕より後ろは暗がりで見えない。
「財を捧げて」
姉がT君に告げると、金縛りから解けたようにわたわたとした動きでお金の入った白い封筒を赤々と輝く器にのせた。
すぐに腕はぬうっと引っ込んでいき、次に出てきた時にはラベルも何も無い一升瓶を握っていた。
姉はそれを丁重に受け取り、頭を下げる。
「お恵み ありがたく頂戴いたします」
俺達も姉に習って頭を下げると、たん、と僅かな音をたてて扉は閉まり、蝋燭と思しき灯りも消えると、辺りは再び静けさに包まれた。
人の気配は、無い。
扉の奥にも、何処にも。
「それじゃあ遭いに行こうか、青い鬼に」
ざあざあと急に強い風が吹いた。これからの事を暗示するように。
訪れたT君の家は大きく、今は家族が誰もいない静かさに包まれていた。
いつもの習慣なのだろう、でなければ恐さをどこかに追いやりたいのか、ことさら大きな声で「ただいまー!」とT君は声を出した。
しーんという無音だけが残る。
「まずは鳥居から片付けよう。神様の部屋はそのあとだ」
T君の家族が戻るには時間があるとはいえ、万が一早く帰宅するということも可能性としてはあるわけで、俺達は早々に鳥居があるという庭の一角に向かった。
T君の話通り、その鳥居はぽつりと庭の隅に存在していた。
意外なほど小さいその鳥居は、縦に50cmほどあるかないかという程度のサイズだった。古くはあるが丁寧に磨かれている。白い紙垂が風に揺れて、鳥居を除けば特に何の変哲もない、拍子抜けするほど穏やかな昼下がりの庭が目の前に広がっているだけだった。
けれどT君は昔お婆さんと一緒に、この鳥居の奥から伸びる腕を見たんだ。そう思うと、一気に目の前にあるものが気味が悪く見えていった。
姉は俺が薄気味悪い思いをしている間にも、持ち歩いていたボストンバッグを地面に下ろすと、中から何やらごそごそと取り出しながら作業を進めていた。
50cmほどの細い真っ直ぐな竹が4本。
小さいしめ縄が1本。
真新しい紙垂がたくさんついた、長いしめ縄が1本。
しげしげと俺がそれらを眺めていると、鳥居の方から突然、
「うわあっ!!」
というT君の悲鳴が聞こえた。
振り返ると、昼下がりにはまるで似つかわしくない、青黒い肌の長い腕が、手が、T君の頭を鷲掴みにして鳥居の方へ引きずり込もうとしていた。
「T君!」
俺が叫んだ一瞬で姉は鳥居までを大股の2歩で駆け寄り、右手でT君の襟首を掴むと、左の手刀で鳥居に垂らされた紙垂をつなぐ紙紐を両断した。
薄い紙紐は容易く断ち切れ、はらりと地に落ちる。同時に一瞬で腕が溶け崩れ、T君が解放された。T君の額には深い爪痕が残り、わずかに血が滲んでいた。
「さすがにおとなしく傍観していてはくれないか」
嗚咽を漏らすT君をなだめる暇も惜しいのか、姉は作業を進めた。
竹を鳥居の四方にまっすぐ突き立て、竹に長いしめ縄をかける。鳥居を竹としめ縄で四角に囲んだところで、例の足音が聞こえてきた。
ひたひた、にちゃ、ぐちゃぐじゅぐじゅう、べちゃっべちゃっ、にちゃ、ぐちゃ。
数が多い。囲まれている。
鳥居を囲んだのは竹としめ縄の四角い空間。結界というのだろうか、神社でお祓いや祭礼をするという時に見たことがあった。
その前でぱんっと柏手を一回。一礼し、結界をくぐって、もう一度柏手を打つ。
足音は明らかに怯んだようだった。
小さな鳥居に未練がましく張り付いた古い紙垂を乱暴に取り去り、姉は新たに小さなしめ縄をかけた。
「あめつちのもとにおいて こはみちにあらず このいきは かみのいき!」
姉の声と共に、凄まじい女の悲鳴の輪唱が轟いた。絶叫、断末魔。
やがて響いていたおぞましい声が嘘のように静かに消えた。水に濡れた足音もいつのまにか消え去っていた。
「なんだよこれ、なんなんだよ」
T君は半ば恐慌状態だった。
「説明をしている暇は無い」
冷たく言い放ち、姉は御神酒の入った一升瓶を持って、鳥居から続く草むらへと向かった。いくらかかき分けたところで、
「在った」
暗い声で姉が言った。
石をくり抜いて作った、高さ120cmほどの水瓶のようなものがそこにあった。見渡すと庭の奥には水路があり、その一角にこの水瓶らしきものは置かれているようだった。
石の底には穴が開けられていて、そこから水瓶を通してまた水路に水が流れ込んできた。
見ても意味がわからない。
わざわざ草むらの奥にあるなら、隠れている事に意味があるのだろうが何のためのものなのか。虫がわくような状態ではなく、溜められた水自体は綺麗なものだった。
覗き込むと、何か白っぽい欠片や短い棒のようなものが水瓶の中には沈んでいた。
何者かと確かめようとして、
「見るな」
と姉の手で視界を覆われてしまった。
「どうりで手と足が来る」
姉は持ってきていた御神酒を開けると、どうやらそれを全て水瓶の中に注ぎ込んだようだった。
「予想はできていても実際に目にすると胸糞が悪い。何が鬼だ、神様だ。2人とも来い。次だ、さっさと終わりだ。こんなモノ」
嫌悪感もあらわに吐き捨てるように姉が言った。わけもわからないまま、俺達は鳥居から離れることになった。
T君を急かすようにして神様の部屋へと向かう。
姉の態度がまだ何も解決してはいないというを物語っていて俺は恐怖した。
そうこうしているうちに、襖の閉じられた神様の部屋の前にたどり着いてしまう。さっきのアレよりももっと怖いモノがいるのか。
「見るか、見ないかを選ばせてやる。見ても嫌な思いしかしない。怖い思いしかしない。何も残るものは無い。見ても見なくても、青い鬼は必ず消してやる。約束する」
ついにT君は泣き出した。青い鬼はまだいるのだ。さきほどあれだけ怖い思いをしたのに、自分たちが神様の部屋と呼んでいた場所には鬼がいる。
「俺は、俺は、見れない。ごめんなさい、ごめんなさい。怖いんだ、婆ちゃんも姉ちゃんも助けたいのに怖くて怖くて駄目なんだ」
「いいんだ。それでいい。それが普通の反応なんだ。さあ、後ろを向いてもう一つ先の部屋に出て。そう、いい子だ。座って、目をつむって、耳を閉じて。もう怖いことなんかない。眠って、起きたら怖いことは夢になって忘れてしまうから」
優しげにT君を座らせると、一転して、
「眠れ」
低い声で一言命令し、その瞬間ぐりゃりとT君の体から力が抜けていった。へなへなと崩折れたT君は深い眠りについたようだった。
「お前はどうする。とうま」
部屋が薄暗い。姉の表情はこの距離なのに靄がかったようによく見えなかった。
「忘れさせてやろうか、眠らせてやろうか、怖いモノなど、無かったことにしてやろうか」
怒っている。理由はわからないが、姉はとてつもなく怒っていた。
「俺は見る。俺が見なかったら、姉ちゃんが知ってること、見てるもの、誰も知らなくなるから」
怖かったが、俺は姉をまっすぐに見て伝えた。姉の顔はまだ見えない。
ここで俺が姉ちゃんを独りにしたら、姉ちゃんが姉ちゃんでないものになる。
それこそ、青黒い鬼が恵さんに重なって見えたように。
ほとんど直感だったが、たぶん的外れではなかったと思う。
はああ、とため息をつかれ、頭をぐちゃぐちゃに撫でられた。
「お前はそういうところがほんとうに駄目で、危なっかしいんだよ」
盛大に溜息をつきながらも、姉はゆるく笑っていた。顔が見える。
「これでいいんだよ」
姉が鬼にならないためには、きっとこれでいいんだ。
「言ってろ、ここ開けたらすぐに後悔するからな。ばーか、とうま。何にもできないくせに」
「姉ちゃんの役にはたってるよ!」
「知るか。はい、お邪魔しまーす」
乱暴に襖を開けた瞬間、目に入って来た光景に俺は本当に吐きそうになった。
和室で6畳間、ただそれだけのはずの神様の部屋。
その壁の隅には四肢と頭の無い、女のようなナニカがいた。
頭も無く、腕も無く、足も膝から下が無い胴体だけの肉の塊が女だとわかったのは胸が膨らんでいたからだ。乳房があるから、女性だったものと思えたが、そうでなければただの意味のわからないナニカに見えたことだろう。
部屋の隅に立ったソレの首があるはずの場所からまた太ももが生えていてその上に胴体があり、そこから壁と天井に肉がぶよぶよと伸びている。壁を伝い締まりの無い皮膚が広がって、天井についた腹から真横に部屋いっぱいに延びていく。
天井に広がった胸と腹の部分からは、部屋の隅に立った胴体とよく似た形の、けれど年齢がバラバラの胴体が、肉瘤のように垂れ下がっていた。
汚れた紙垂を思い出す。
その垂れ下がった胴体を引きちぎって、部屋の中央で貪り喰う子供のようなサイズの青い鬼が数匹。
キャハハ、アハハと耳障りな甲高い声をあげながら、青い鬼は捧げものを喰っていた。
「骨壷が2つ。手足とそれ以外とに分けて、通う足ともぎ取る腕は使役して、残りはお前達への供物か。胴体は床の下なのか、別に捧げてるのか。頭はどうしてるんだろうなぁ?運が良ければ墓の中、そうでなければ何処へやったやら。そうまでして富がほしいか、業の深さに恐れ入る」
一歩室内に踏み込むと、途端に青い鬼達が憤怒の形相になった。
境界を侵されたせいなのか。
肉を貪るのを止め、姉へと鬼の目線が集まる。じりじりと距離を詰め、青い鬼達が姉に襲いかかる気なのは否が応でも伝わってきた。
「死んでからこれだけの事をされれば化けて出もするだろう。成仏すべき場所に向かう足は奪われて、延々肉を啜られる。土に還るはずの骨を水に沈めて、死んでからまで溺死させるからあんな青黒い色で祟りにくる。祟りに来た魂だか残留思念だかまで使って、作っているのが財を集める程度の能しか無いこの鬼もどきか」
侮辱が伝わったのか、一斉に青い鬼が襲いかかってきた。鋭い爪が、牙が一気に姉に向かい、
「危ない!!」
と叫んだが、その爪や牙が姉に届くことは無かった。
「人工物の鬼もどきが私なんぞに手を出そうとするから、本物が怒ってるじゃないか」
せせら笑うように姉は言った。その眼下では、肉を貪っていた青い鬼が、今度は立場が逆転して赤い鬼に喰い散らかされていた。
腕を千切る、体を割く、眼球をほじる、喰む、啜る、齧りつく。蹂躙と言って差し支えのない惨状だった。
ぎゃっぎゃと嗤いながら青い鬼を弄んで、喰いつくして、部屋に残っていた女の肉塊の一欠片も残さず平らげて、赤い鬼は消えた。
ものの2分もかからなかった気がする。
終わったのかとほっとした瞬間、パチパチと場違いな拍手が響いた。
後ろを振り向くとそこには、恵さんがいつの間にか立っていた。上品なお嬢さんといった感じの服を着て、いつもどおりおっとりと笑んで。
腕時計を見る、17時。帰ってくるには随分と早かった。
「やっぱりゆきちゃんのところの子達はすごいねぇ」
「終わる頃には来るだろうと思ってたよ、恵」
「鳥居は周囲を区切った結界ごと燃えちゃってたし、水瓶は粉々に割れて使い物にならなくなってたし」
「恵、お前はわかっててやってたんだろう」
姉の言葉に、恵さんはよくできましたと言わんばかりににっこりと笑った。
「だってみんなが信じてるから、応えてあげなくちゃ可哀想でしょう?お父さんもお母さんもお爺ちゃんも、ほんとにすごく信心してたんだよ。うちの神様はすごい神様だって。丁寧にすごく敬って、お祀りして。視えないってとっても幸せだね」
「家の伝統を守っただけ、か。家族の幸せのために、伝えられてきた、途中でねじ曲がってしまった因習を」
「お婆ちゃんの事は可哀想だったけど、どうせみんなと混ざって怖いっていう気持ちも無くなっちゃうんだから、いずれ無くなるなら一時耐えればいいだけだと思わない?神様って敬われているものの一部になれたんだよ?少なくともお父さんとお母さんはすごく感謝して、すごくありがたがってた」
「でも実情はあの鬼もどきの材料だ」
「ほとんどの人は自分が信じて大事にしてるものしか見えないの。それが大事で、大切なもの。外から歪に見えても、誰がどう幸せなのかはその人にしかわからない。ゆきちゃんの幸せが、ゆきちゃんにしかわからないように。わかってもらえないように」
初めて姉は言葉をつまらせた。
「私の行動を否定したいけど、私のことは嫌いになれない。だってゆきちゃんと真っ当に、『あっち』と『こっち』の話をできる人は滅多にいないから。ゆきちゃんは世界のほとんどの人に嘘をついて生きていかなきゃいけない。でも、私には本当の話が通じる」
「滅多にいないことと、全くいないことは違うさ」
「それは強がりだよ。寂しいっていっていいんだよ」
「言わないことが私の幸せだ」
「もう、強情だなあ。あ、そろそろお父さん達が帰ってくるから、ゆきちゃん達も帰った方がいいよ?後片付けは私がやっておくし、お父さん達びっくりするだろうけど、ちゃんと私がなだめるから」
「そうして今度はお前がこの家の神様になるのか?予知がどれだけ先まで視えるのかは知らないが、本当に持ってる能力なんだろう」
「・・・・・・・・・・・・」
この問に恵さんは答えず、ただ少し暗く薄く笑うだけだった。
その表情は、姉が時折浮かべるものによく似ていた。
「せめて弟に対しては優しい姉でいてやれよ」
「この子がそれを私に望む限りはね」
「最後に教えろ」
「なあに?」
「鳥居からしめ縄を外して、紙垂だけにしたのは恵だな?神性を排除して、霊性のモノの通り道の縛りを緩めて、何が通るか試してたんだろう。悪いものが出入りすることは視えてたはずだ。その結果お婆さんがどうなるかも。やったのは、いつだった」
「小さい時。お婆ちゃんに化け物って思われた日」
「・・・・・・そうか」
救われない話だった。
T君の家を出る頃には、すっかり日が落ちようとしていた。
恵さんは『これにこりずにTとまた遊んであげてね?まあ、とうま君はそうしてくれるんだけどね』と、常日頃と変わらない態度で、常とは違う言葉を俺にかけて家に戻っていった。
日常と非日常の境目が、常に曖昧な人のように思えた。
雨が降るからと傘を渡されて、5分後ぐらいには本当に雨が降ってきた。
「これも予知?」
「どっちかっていうとペテンだ。今日の夜の降水確率は80%。予知の話なんかしたあとだから、遊ばれたんだよ」
軽口を聞いてはいたが、どうにもすっきりしない終わり方に、なんだか足取りが重くなっていた。
帰れば父がいる。姉に逃げ場らしい逃げ場はほとんどない。
「姉ちゃん」
「なに」
「どっか行かないでね」
本当は別のナニカにならないでねと言いたかった。
T君の家で『忘れさせてやろうか』と凄まれたあの時、姉の顔は近くにあるのに黒く靄がかって見えなかった。
あれが真っ黒になったら、きっと姉は姉じゃないものになってしまう。
不安だった。俺になにができるのだろう。なにかできるのだろうか。
「とうまがそう望んでくれる限りはね」
ポツポツと雨の降る道を、家に向かう。
薄暗がりを2人きり。
今暗がりの中を進む俺と姉は、境界の同じ場所に立っているのだろうか。
濡れた足音はもう俺を取り囲みはしないけど、2人分の雨をパシャパシャと踏む足音のがなんだかとてつも無く心細い気分にさせた。
いっそ足音も聞こえないほどのザアザア降りになればいいのに。
鬼の声も父の声も、姉の耳に届かないように。
靄がかってきた雨の中を進んだ。姉の姿を見失わないように。