【閲覧注意】怪談の森【怖い話】

当サイト「怪談の森」は古今東西の洒落にならない怖い話~ほっこりする神様系の話まで集めています。 随時更新中!!

カテゴリ: 英霊





156 :本当にあった怖い名無し:2008/08/16(土) 01:11:31 ID:vqJExp2m0

98 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/23(月) 21:49:09.85 ID:b2Dotx9UO
四国のなんとか狸は、人に化けて日露戦争に参加したらしい。
赤い軍服を着た決して倒れない兵士は、ロシアの兵隊をかなりビビらせたとか。




303 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。:2007/07/24(火) 00:45:46.91 ID:f7oQ0iQq0
>>98あたりで既に既出だけど再掲
軍隊狸
ttp://home4.highway.ne.jp/deadsoul/ka/guntaitanuki.html(※リンク切れ)
【軍隊狸】
○戦場に赴き、日本軍を影で支えた狸たちのこと。
○当時の日本軍、道理で強いわけです。なんというか、メンタル面で。



事例1 愛媛県周桑郡壬生川町 松谷みよ子氏の話
伊予の喜左衛門狸は日露戦争に出征した。
小豆に化けて大陸を渡り、上陸するとすぐ豆をまくようにパラパラと全軍に散り、赤い服を着て戦った。

敵将クロパトキンの手記には、
『日本軍の中にはときどき赤い服を着た兵隊が現れて、この兵隊はいくら射撃してもいっこう平気で進んでくる。この兵隊を撃つと目がくらむという。赤い服には、○に喜の字のしるしがついていた』
と書かれている。



事例2 香川県高松市 室津源太郎氏の話
日露戦争の時、高松のじょうがん寺の狸の総指揮の元、狸たちが出征した。
兵隊に化けて山を作り、ロシア兵が登るなり山をひっくり返したりした。
凱旋の時には狸までが提灯行列をしたという。



事例3 中国上海中支派遣軍八一〇一部隊 松谷みよ子氏の話
昭和十五年冬。
柳橋という場所で、友軍の一個小隊が敵軍に包囲されて全滅に瀕しているという報告が入り、
K氏所属の一個小隊は待機を命じられた。
その後、Kさんと戦友三名が偵察の命を受けた。

小高い丘で動き回っている敵軍を発見し、報告に引き返そうとした途端に銃撃を受け、
気がついた時には、大陸の広野の果てしない暗闇の中に震えていた。
その時、一人の戦友が「あっ提灯」と叫んだ。
Kさんが振り向くと、目の前には懐かしい大三島神社の定紋入りの提灯の明かりがあった。
「五六だぬきや、五六さんが氏神さんの提灯持って迎えにきてくれたか」
そういって提灯の後をついて走り、無事に帰りつくことができた。

○いずれも『現代民話考(松谷みよ子 立風書房)』より








811 :可愛い奥様:2008/08/04(月) 17:50:41 ID:4C9T3S8c0
私の父も陸軍でフィリピン、マニラへ出征。
空軍も海軍も肺活量が足りなくて落ちたと嘆いていた。
しかし志願兵だったので割りと待遇は良かった様子。
「爆弾が落ちる所には人柱が立つから解る、それを避ければ大丈夫」
という謎のアドバイスを今でもしてくれる。

ただ、亡くなった仲間を親指だけでも連れて帰ろうと、切り取って名前を書いて袋に入れて持ち歩いていたそうだが、
ある時その袋を預けた仲間が死んでしまい、どこを探しても見つからなかったらしく、
「連れて帰ってきてあげたかった・・・それだけが心残りだ」と酔っ払うと必ず言っている。

伯父は成績優秀だったけど、「どうせ死ぬなら派手に」と特攻隊を志願。
同級生はみな「やめておけ、お国の為に死ぬ事はない」と説得したけど、聞く耳を持たなかったらしい。
しかし私の親族はみんな小柄なので、やっぱり伯父も肺活量が足りず、結局特攻隊員にはなれなかった。
泣く泣く空軍の内部の仕事をしていたらしい。
そして戦争が終わり実家に帰ると、自分の志願を止めた同級生は全員戦死していたそう。








412:遺骨1/2:2009/08/18(火) 07:24:05 ID:/8ZyVw820
じいちゃんが戦争で南方にいってた時の話。実話です。
日本軍は兵站を軽視していたから、餓死とか病死ばっかで、本当に悲惨だったらしい。

友軍が死ぬと、遺族のために遺骨を作らなくてはならないから、指を切って持ってくのね。
ある日、敵の奇襲を受けて仲間が一人撃たれた。
ああ、死んだと思ったじいさんと上官は危険だったが駆け寄って、指を切ろうとした。
すると、死んでると思った仲間がうーうー唸りだした。

じいさん「ま、まだ生きてます。」
上官「なに!」

けれども、銃弾が飛び交う中、迷ってる訳にはいかない。
死ぬのをまってたら、こっちが撃たれる。
ほったらかして逃げたら、ご遺族に遺骨が届かない。
やはりご遺族に遺骨を届けるのが優先だ。と、言う事になった。

それで、生きたまま指一本切ってったんだが、さすがに切られる方は滅茶苦茶痛そうだったそうだ。



413: 遺骨2/2:2009/08/18(火) 07:26:02 ID:/8ZyVw820
終戦後、昭和30年位の事、用事があって東京に来てたじいさんは、東京駅で、あの仲間が歩いてるのを見かけた。
あっ、幽霊だ。と思ったが、リアルすぎる。他人の空似にしては似すぎている。
話しかけたらやっぱりあの仲間だった。

仲間「おおっ、生きてたのか。いやーこんな処であえるとは、うれしいな。」
じいさん「それは、俺のセリフだ! お前腹撃たれてたじゃないか!」

話を聞くと、弾は本当に偶然、内臓を押し分けて背中に貫通してたらしい。
それで、イギリス軍の捕虜になって助かったと。

その仲間は手をひゅっと挙げて、指の一本ない手を見せ、
仲間「いやー、あの時は痛かったぜ、はっはっはっはっは。」

仲間は恨んでる風もなかったが、じいさんは顔を引きつらせながら笑ったそうな。



414: 本当にあった怖い名無し:2009/08/18(火) 08:16:04 ID:sgX+daSf0
じいさん的には洒落にならんわな。









19 :本当にあった怖い名無し:2013/09/17(火) 19:03:54.13 ID:WhAunLOS0
今から十数年前に友達から聞いた話。

友人が祖父母の家に泊まりに行った時、
その日は両親と一緒に行ったにもかかわらず、1人だけ別の部屋に宿泊することに。
その部屋は庭に面した部屋で、蚊帳を吊るして眠るといい風が入りそうだなと思ったんだそう。

眠くなり、そろそろ就寝しようと蚊帳の中に布団を引いて横になってしばらくたつと、
どこからか人の声というより、大勢の人の喋り声が。
両親、祖父母の部屋とは離れているし、何より聞いたことの無い人物の声だと思ったので不思議に思い、
なんとなく障子を開けっ放しにしていた。
庭の方を見たら、教科書で載っているような戦時中の日本兵の格好をした団体が。
一人の兵士(上官)に対し大勢の兵士が並んでいて、
「○○兵士(たぶん自分の階級?)行ってまいります」
上官にそういって敬礼をし、去っていく日本兵。
友人はそれを見てなぜか『もしかして特攻前の挨拶をしているのかな』と思ったんだそうな。
ちなみにその友人かなり視力が悪く、蚊帳を下ろしていれば服装や性別なんぞ区別がつかないほどなのに、日本兵ははっきり見えたのだそう。

その光景が延々と続いて、怖いよりうるさくて眠れないのにイライラし、
布団から出て蚊帳を上げたら、日本兵が消えた。
安心して蚊帳を下ろし『これで眠れる』と布団に戻ろうろしたら、蚊帳越しにまた日本兵が見えるし声も聞こえる。
『えー、どういうことなの』
蚊帳を上げる→日本兵消える→蚊帳を下げる→日本兵が見える
蚊帳を上げれば見えないが虫に刺されるし、下げればうるさくて眠れない。
悩みに悩んで友人は、そのまま蚊帳を下ろしそのまま就寝。声は無視。
翌日起床まで何もなかったそうです。

なんで下げるのを選んだのか私が友人に尋ねたら、
「虫刺されは翌日に残るが、幽霊は朝になれば消えるから」だそうだ。
実に男らしい女友達の話です。









 636 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :2001/07/30(月) 13:41
10数年前の『人事院月報』という国のお堅い雑誌の読者欄みたいのに何故かあった。
ちょっとこわかったので今でも覚えてます。だいたいこんな話。

夏休み、一家でサイパンを訪れた。
深夜、ホテルで皆寝ていたらいきなり電話がかかってきた。寝ぼけ眼で取る。
すると男性の声で『○さんですか?』と尋ねてきた。(ちょっと実際の名前覚えていないので、○でご勘弁下さい)
「いーえ、違います…」とこたえると電話は切れたが、少したってまたかかってきた。
同じ人がまた『○さんはいませんか?』。「違いますっ!」と切った。 
まったくこんな夜中に一体…と不愉快。
でも旦那も子供も不思議と気づかず、すやすや寝ている。
ふとベッドサイドに気配を感じ振り向いた。


639 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :2001/07/30(月) 14:52
するとそこには男性が立っている。兵隊姿の。
それを見て動転し、声も出ない。
日本兵はじっと見つめ、テレパシーのように声ではなく心に語りかけてきた。
『自分は……というものだ。○さんを探している。どこにいるか知らないか?』
『いえ、知りません…』と念ずるように伝えると、驚いたことにまた心に返してくる。
『○さんが自分を日本に帰してくれると約束してくれた。どうしても探したい』
ふるえながら『自分はその人を知らないし、申し訳ないが何もわからない』。
すると『どうしても日本に帰りたい。自分だけじゃなく、皆そうだ』と、窓の外を見ると無数の日本兵の姿が。
ここでぎゃぁーと悲鳴をあげたら、それらはさーっと消えた。
その叫び声で家族が目を覚ました。
やはり家族は電話のことなど何も知らなかった。

翌朝、ホテルに文句を言ったが、「そんなのよくある話だ」ととりあってくれない。
帰国後、何かの手がかりがあればと、日本兵の名前を調べてみたがよくわからなかった。
それにしてもなぜ、霊体験もなかった自分のところに出てきたか不明。

以上です。
みなさん、特にこれからの季節、南の島々で浮かれ遊ぶのはつつしみましょう。








925 :退職済みですが:2009/07/14(火) 15:49:48 ID:x0QB/pll0
「八方園神社 1/5」

海曹士普通科○○課程学生として江田島の第1術科学校に着任した翌日。
学校内の関連施設を巡る「校内旅行」が行われた。
学生隊隊舎に正対してグラウンドに整列する我々の左手には戦前に砲術教材として設置された戦艦「陸奥」の主砲塔が聳え、その先の海には護衛艦が停泊している。



我々の前にやってきた教官が告げる。
「諸君らは当然、本校敷地には我々が属する第1術科学校と、幹部候補生学校の二つの異なるの部隊がある事は承知していると思う。
当然、構内の施設はどちらかの学校に付属している。
本日は主として、幹候校の施設で1術校の学生が使用を許可されている場所と、諸君らがこれから頻繁に利用する場所を巡る。
他隊の施設を含むので一層の節度ある態度で臨むよう心がけよ。では、出発。」

「第xx分隊、出発します!右向け前へぇー、進め!」当直学生の号令で我々は行進を始める。
海軍兵学校の時代と異なり、行進は駆け足ではなく早足行進である。
左手に赤レンガの幹候校自習室、白亜の幹候校講堂を見ながら東門方向へ向かう。
(実は戦艦「陸奥」の主砲塔の側に「中央桟橋」があり、それが正門。道路に面した門は裏門になります。NAVYだなぁ。。。)
幹候校自習室、幹候校大講堂は専用施設であり、幹候校側の許可がない限り立ち入りができない旨の説明を歩きながら受ける。
「左向けぇ、止まれ!」
幹候校大講堂を過ぎたあたりで教官の号令が飛ぶ。
我々の隊列は幹候校大講堂を正面左斜め前に見る形で停止した。真正面には緑が繁った丘がある。
「まず、第1の目的地である「八方園神社」はちょうど諸君らの正面の丘にある。先に言っておくが、「八方園神社」は一般に言うところの神社ではない。」
我々「???・・・」
「祀られる神がある訳でもなく、当然、拝殿のような建築物もない。」
「え?それで『神社』って呼び方は変。。。」声には出さず、私は思った。



926 :八方園神社:2009/07/14(火) 15:51:51 ID:x0QB/pll0
「八方園神社 2/5」

その丘はちょうど背もたれ付のダイニングチェアを横から見たような地形をしており、腰をのせる部分の平地が「八方園神社と呼ばれているとの事だった。
先ほど歩いてきたメインロードからは、背もたれ部分が邪魔をして直接平地部分を見る事はできない。
我々は丘の裏手へ廻り、平地の辺に平行に刻まれた25段ほどの階段を登る。そして、登りながら視線を左方向へ廻らせる。
確かに、「神社」らしきものはなにも無い。目に入ったのは1辺25m程の平地のほぼ中央に1mほどの円筒計の石積み構造物があるだけ。。。
階段を登りきり平地部に足を踏み入れようとしたとき、私は不思議な感覚にとらわれた。
別に気分が悪い訳ではない。恐怖感もない。むしろ清清とした空気。それが見えない壁となって進入を妨げているような。。。
一歩が踏み出せない。「何故だ?」私は焦っていた。
こんな状態でまごまごしていると、後で洒落にならない怖い罰直が待っている事確実である。
下から「何をしている?早く進まんか!」という声が飛ぶ。学生長の声だ。
「罰直確定?!orz...」と思いながら、なんとか一歩を踏み出す。
しばらくして、全員が平地部に整列した。見えない壁に押し戻されそうな感覚は消えていない。
「気分が悪くなったりしている者は居るか?」教官が我々に問う。
誰も手を挙げない。当然である。ここで申し出てしまったら、「根性ナシ」のレッテルを張られるのが確実だから。
「宜しい。ここは初めて来た時に、拒絶されている、とか、押し戻されるような感覚を感じる者が居るらしい。別に恥ずかしいことではないぞ。」と教官は続ける。
我々の中から、安堵の溜息のような気配が複数。。。私自身も安堵する。「私だけではなかったのだ」、と。
「中央の石積みの周りに集まれ。」教官の指示が飛ぶ。
我々はわらわらと円筒計の石積み構造物を囲むように集まった。まだ違和感は消えず、一歩が重い。



927 :八方園神社:2009/07/14(火) 15:52:53 ID:x0QB/pll0
「八方園神社 3/5」

石積みの最上部には「東京」やら「大阪」、「札幌」等の地名と、中心からその地名を繋ぐ直線が刻まれた石製の円盤が埋め込まれている。
「これは『方位盤』と呼ばれている。ここ、江田島を中心として日本全国の主要都市の方向を示している。
ここが海軍兵学校だった頃、4号生徒(1年生)が故郷を想い、3号生徒(2年生)以上は肉親・親類縁者の訃報に接した時に故郷に祈った。
当時は親族からみれば、兵学校生徒は『国に捧げたもので、自分の望みなど言えない』存在だから、親が亡くなっても「亡くなった」と知らせるだけだったんだな。
先ほど、教官は『祀られる神がある訳でもなく』と言ったが、強いて言えば、この『方位盤にこめられた想い』が祀神なのかも知れぬ。」
諸君も各自の故郷に向けて黙礼してみよ。」
教官の説明と指示に従い、各自黙礼する。
私の場合、そのものズバリの地名が載っているので楽だったが、「ここがこっちだから。。。」と戸惑う者、多数。
黙礼を終えると、先ほどまで感じていた違和感が薄らぎ、一歩の重さも多少軽くなったような気がした。

その後、我々は売店などがある「厚生館」、給与を受け取ったり各種申請を行う「庁舎」、これから術科教育を受ける「○○科講堂」、「教育参考館」などを巡り、解散した。
居住区に戻ると、同期のAが話しかけてきた。
「おい、今日の八方園神社、どうだった?」
彼によると、「半透明な白と黒のマーブル模様の壁のようなもの」が見えていたそうだ。白黒7:3位の比率で、模様が渦を巻くように動いていたらしい。
続けてA曰く。
「教育参考館でも似たようなモノが見えたんだけど。。。黒が強かったんだけど。。特に2階の立ち入り禁止の部屋のあたり。」
2階の立ち入り禁止の部屋、と言えば「海軍兵学校卒業者戦没者芳名室」。ドアに窓は付いているものの、カーテンで目隠しされていて内部を覗けなかった部屋である。
(実際に「海軍兵学校卒業者戦没者芳名室」は親類縁者が訪れた場合に、立ち入りが許可され献花等が行われる以外、特定職員以外立ち入り禁止です。)



928 :八方園神社:2009/07/14(火) 15:53:48 ID:x0QB/pll0
「八方園神社 4/5」

その後、教官から聞かされた「七不思議」の由来を調べているうちに、奇妙なことに気が付きました。
兵学校開校?終戦までの記述に「八方園『神社』」という記述が殆ど見当たらないのです。みんな「八方園」。
これって。。。もしかして。。。終戦後、アメリカから返還されて海自が使用するようになってから、何かが変質した?
少し背筋が寒くなりました。
「祀神は『方位盤にこめられた想い』などではなく『東郷平八郎元帥と海軍兵学校卒業の戦没者』、拝殿は『教育参考館』そのもの。。。」
つまり、靖国神社の極限定的な分院のようなものなのではないか、と。
そうだとすると、祀神が共感するような人間は此処には一人もいない事になる。。。

閑話休題
・・・ラストに備えて、用語の説明をば・・・
「海軍『兵』学校」と言う名称から、「兵隊を育てる学校」と認識されることが多いのですが、「海軍『兵』学校」の「兵」は、職域としての「兵科」将校の育成機関でした。
で、この場合の「兵科」とは何か、と言うと、砲術・水雷等の直接戦闘に関わる職種や航海・通信等艦の運行に携わる職種、それに航空機搭乗員を指します。
機関を扱う将校を養成する「海軍機関学校」は神奈川県横須賀、主計(庶務・経理)を行う将校を養成する「海軍経理学校」は東京の築地にありました。
それで、機関将校や主計将校は指揮権の委譲ラインには入っていませんでした。
例えば、兵科将校が少尉一人しか残っていない場合、中佐の機関長が生存していても指揮権は少尉のほうへ移る事になります。

海上自衛隊の幹部(将校(=士官)ですね)になるためには、大きく3つの方法があります。
一つ目は、防衛大学校を卒業するか、一般の4大を出て「一般幹部候補生」となり幹部候補生学校へ入校する。これを部内では「A幹」と言います。
二つ目は、下士官(海曹)経験4年以上で選抜試験に合格し、「部内幹部候補生」となり幹部候補生学校へ入校する。これを部内では「B幹」と言います。
三つ目は、下士官を上り詰めて「部内幹部候補生」となり幹部候補生学校へ入校する。これを部内では「C幹」と言います。
旧海軍から見ると、A幹(防大卒)は海兵・海機・海主の何れかの卒業者、A幹(一般大卒)は予備士官、B幹・C幹は特務士官という扱いになります。



929 :八方園神社:2009/07/14(火) 15:54:34 ID:x0QB/pll0
「八方園神社 5/5」

1術校での教育課程を修了し、某護衛艦に乗り組みを命ぜられた私は、しばらく普通に勤務していました。(当然の事ですねw)
新しいフネにも慣れたある日、行われた宴会で私は「八方園神社」の事をA幹(防大卒)の分隊士(3尉)に訊ねてみました。
「そもそも、あそこは一体何だったのか」、と。
分隊士曰く。
「う?ん。。。答え難い質問だけどねぇ。。。あそこが「海軍兵学校」だった頃は、○×海曹(私のこと)が教官から聞いたとおりの場所だったんだと思う。
俺も初めて行った時は、なんだか『寄るな』みたいな圧力を感じたんだよ。単なる思い込みかな、とも思ったんだけど結構いるんだ、そう感じた人。」
分隊士は続ける。
「あ、そういえば。聞いた話なんだけど、何年かに一度くらい、幹候校修了後の遠洋航海で航海中行方不明って事故が起こるよね。
その殆どが「一般大卒のA幹」らしいんだ。確かに、「臨時雇いの俄か士官が」って先達が怒ったのかもしれないよね。
そういう俺も、この先機関とか補給(=主計)に行く可能性はある訳だし。昔と今じゃカリキュラムが違うからさ。
○×海曹は大丈夫だろ?曹士(=下士官兵)が居なければ、戦闘はおろかフネを動かす事だってできない訳だし。
そもそも1術校の特技持ちなんだから、B幹で幹候校へ行ったとしても、昔で言う「兵科の特務士官」確定だろ?
ところで、あそこって椅子みたいな地形になってるよね?あそこの背もたれみたいになってる処に小さな石碑と祠があるの、知らないだろ。
「帝國海軍兵科士官在処故郷」、海軍兵科士官の故郷は此処に在りって彫られているんだよ。
海兵卒の先達からみれば、俺たち海自幹部は後継者として認められない、ってことなのかも知れないね。」

酒の席で、話を合わせてくれただけかも知れませんが。。。。さらっと怖いことを言ってくれました。
そんな分隊士も現在は護衛隊を率いる隊司令。(しばらく前に官報でお名前を拝見しました。ご壮健で何よりです。)

おしまい。 ?長文、失礼しました。文才の無さ、痛感です。?






19 :本当にあった怖い名無し:2013/09/17(火) 19:03:54.13 ID:WhAunLOS0
今から十数年前に友達から聞いた話。

友人が祖父母の家に泊まりに行った時、
その日は両親と一緒に行ったにもかかわらず、1人だけ別の部屋に宿泊することに。
その部屋は庭に面した部屋で、蚊帳を吊るして眠るといい風が入りそうだなと思ったんだそう。

眠くなり、そろそろ就寝しようと蚊帳の中に布団を引いて横になってしばらくたつと、
どこからか人の声というより、大勢の人の喋り声が。
両親、祖父母の部屋とは離れているし、何より聞いたことの無い人物の声だと思ったので不思議に思い、なんとなく障子を開けっ放しにしていた。

庭の方を見たら、教科書で載っているような戦時中の日本兵の格好をした団体が。
一人の兵士(上官)に対し大勢の兵士が並んでいて、
「○○兵士(たぶん自分の階級?)行ってまいります」
上官にそういって敬礼をし、去っていく日本兵。
友人はそれを見てなぜか『もしかして特攻前の挨拶をしているのかな』と思ったんだそうな。
ちなみにその友人かなり視力が悪く、蚊帳を下ろしていれば服装や性別なんぞ区別がつかないほどなのに、日本兵ははっきり見えたのだそう。

その光景が延々と続いて、怖いよりうるさくて眠れないのにイライラし、
布団から出て蚊帳を上げたら、日本兵が消えた。
安心して蚊帳を下ろし『これで眠れる』と布団に戻ろうろしたら、蚊帳越しにまた日本兵が見えるし声も聞こえる。
『えー、どういうことなの』
蚊帳を上げる→日本兵消える→蚊帳を下げる→日本兵が見える
蚊帳を上げれば見えないが虫に刺されるし、下げればうるさくて眠れない。
悩みに悩んで友人は、そのまま蚊帳を下ろしそのまま就寝。声は無視。
翌日起床まで何もなかったそうです。

なんで下げるのを選んだのか私が友人に尋ねたら、
「虫刺されは翌日に残るが、幽霊は朝になれば消えるから」だそうだ。
実に男らしい女友達の話です。








771: 本当にあった怖い名無し 2010/09/20(月) 07:10:59 ID:PBeNwyBx0
高校時代に連れと5人で沖縄に遊びに行った。
予約してた民宿は最初5人・1部屋で泊まってたが、一番奥の部屋が空き部屋だと
わかり、5人では狭く感じてたので、その部屋を貸してくれと頼んだ。
すると民宿の人は、別に使ってもいいけど後で苦情を言わないでね。
と言われた。しかも料金は要らないという。

みんな何かワケでもあると思ってたが、別に気にすることなくその部屋に2人泊まった。
すると夜中にその二人が元々いた部屋にやってきて、何か嫌な感じがするので
こっちで寝かせて欲しいと頼んできた。暫くしてみんなでその部屋の様子を
見に行った。確かに異様な雰囲気がする。その部屋にいてから1時間ぐらい
たっただろうか。部屋が小刻みに揺れだし、多数のうめき声が聞こえてきた。
時折、窓を叩く音がするし、真夏なのにエアコンもつけてないのにヒンヤリしてきた。
すると突然部屋の電気が消え、みんな一斉に金縛りになった。

水をくれ!水をくれ!と、多くの人がどこからか叫んでいるのが聞こえてくる。
ふと窓の方を見ると、大勢の兵隊さんの格好をした人がこっちを見ている。
もうみんな恐怖で声が出ない。体が動かない。
やっとの思いで、一人がドアを開けた瞬間、今までの恐ろしい現象はピタッと消えた。
もうみんな汗ビッショリで顔が引きつっていた。みんな元々いる部屋に戻った。
翌朝、民宿の人にそのことを言ったら、あの部屋には戦時中に亡くなっていった兵隊さんの
霊魂がやってくるという話だった。








117 :本当にあった怖い名無し:2009/06/14(日) 13:16:24 ID:sI4kiMrk0
祖父の妹さんが戦時中、将校と婚約してたそうだ。
玉音放送があって、戦争負けたけど終わったから、これで結婚できると思っていたら……。
直後、戦闘機?が何機か飛び立って、そのうちの一機が家の上を何度も旋回したのち、飛んでった。
それきり婚約者は行方不明。
軍からは、死んだとだけ言われたそうだ。

敗戦を信じず戦いに出たとか、軍事機密を処分するために飛び立ったとか、憶測はいろいろ流れたらしいが。
祖父の妹さんは、婚約者の帰りを待って待って、独身のまま25歳の若さで亡くなった。


121 :本当にあった怖い名無し:2009/06/14(日) 21:09:06 ID:mobUbx5v0
>>117
海軍飛行兵だった父から聞いた話だが、
8/15より後に生き残るのを潔しとせず、飛行機で山に体当たりした飛行将校は結構居たそうだ。
直援機乗りの人達などに多かったらしい。
その心情は簡単に言い表すことは出来まい。
父も「一言では語れぬ」と、生涯解説してくれなかった。
今、なんとなくその心情が理解できる気はするが、人に説明は出来ない。
また、婚約者殿がその例にあたるかもわからない。
ただ、かような話があったことだけお伝えする。

大叔母君とその婚約者殿のご冥福を祈る。


122 :本当にあった怖い名無し:2009/06/15(月) 00:25:38 ID:e2xUAlwC0
戦争は負けて終わったんだから未来を考えよう、みたいなのは、現代人の考え方だからかもしれないね。
終戦後、アジア各地で、その国の独立のために居残って戦った日本兵がかなりいたけど、
その事実を知ったときは自分は、
日本の戦争はもう終わったんだから帰ってくればよかったのに・・・と思ったけど、
その国に派兵された人には、自分なんかが窺い知れない思いがあったんだろうと思う。







18: 本当にあった怖い名無し 2009/11/17(火) 21:51:10 ID:jqeYKqLe0
おいらだよ。
今回は昔ばあちゃんから聞いた話を。

1945年8月。中立条約をを破ってR国が攻めてきたとき、じいちゃんは
技師として中国で発電所を建造中だった。召集はなかったらしい。
当の発電所は、ほぼ出来上がっていたという。

「R助の鬼が来る」
当時はその噂で持ち切りで、日本人集落は震え上がっていた。
日本軍は守ってくれるのか?ここの住人はどうなる?
しかし関東軍は、その時にはいつの間にか引き揚げてしまっていた。
いつもは偉そうな軍人さんなんて、誰も残っていなかった。
ようやく、混乱の窮みになっているだろう開拓団総本部から指示が来た。
発電所の工事は無期限に中止。
開拓団は急ぎ、内地への引き揚げの準備をせよ。
建造途中の発電所施設ハ、軍機ユエニ敵ノ手ニ堕チルコト能ハズ。

破壊セヨ。と。

この集落に居る皆は、日本人で在るが故に、ここで作り上げた全てを捨てて、
ここを引き払わなければならない。今すぐに。
ここで頑張っても、犯されて、略奪されて、殺されるだけだ。
ここまでだ。
同僚数十人と発電所に向かう折、じいちゃんは泣き叫ぶ、まだ子供だった伯母さんと
お袋を抱えたばあちゃんに、一振りの刀を渡して、言った。

「R助の鬼が来て、酷いことをされそうになったら、これでみんな死ね」

じいちゃん達は急ぎ発電所に向かう。まだ敵の姿は見えない。
その朝は夏なのに霧が濃く、不気味なくらい静かだったそうだ。

19: 本当にあった怖い名無し 2009/11/17(火) 21:52:29 ID:jqeYKqLe0
じいちゃん達は泣きながら、運びきれなくなった、自分で引いた設計図を全て、
燃やしたという。
そして殆ど出来上がっていた施設を、殆どぶっ壊した。

埃だらけで帰ってきた時、幸運なことに、まだ「鬼」は来ていなかった。
泣き疲れた娘達を、上がり口の板敷にそのままの格好で寝かし、ばあちゃんは一人、
暗がりの中で目を爛々とさせ、刀を携え、息を潜めて正座して待っていたという。
そしてそのあと家族は文字通り、鞄一つで逃げた。

夏が終わって秋が来て、瞬く間に10月にも関わらず地面が凍り始めた。
道端に生えている、痩せて凍ったニンジンは、リンゴの味がしたという。

延々と続く冷たい泥に足を取られながらも、ようやくごった返した港に出た。
中国人の人買いが寄ってくる。ここまで来たのに、ここで力尽き、とうとう
手放された子供達を狙ってる。
切符を買うために鞄の中身は殆ど無くなった。
命からがらようやく乗り込めた舞鶴行きの船は、最後から二番目だったそうだ。
じいちゃんの口から聞けたことは余りに少ない。それ程じいちゃんは語るのを
拒んでいた。

おいらは思う。
どんな恐怖の中で、どれだけの悲しみと怒りと絶望を置いてきたのだろう?

遥か、満州に。

20: 本当にあった怖い名無し 2009/11/17(火) 22:01:57 ID:YvJgszr90
>>19
言えないことをやったって事だね。
ま、仕方がないけどね。

21: 本当にあった怖い名無し 2009/11/17(火) 22:10:38 ID:T4jYbUDEO
>>19
貴重なお話だ。こんなところで書くより軍事板の戦争体験スレで書いた方がよいと思う。

22: 本当にあった怖い名無し 2009/11/17(火) 23:16:13 ID:xxwMdf1p0
暮らしの手帳だったかにもあったけど、逃げる途中で
子供が歩けなくなったので皆で穴を掘って中に子供を坐らせて
殺して埋めてかえって来たという悲惨な話も読んだことがある。
ウチは満州でも海岸近くだったので、オヤジや爺さんは
帰ってこれたわけだが。あっちの連中は野獣同然だからなぁ。

23: 本当にあった怖い名無し 2009/11/17(火) 23:45:31 ID:YvJgszr90
>>22
自分の命に代えてでも子供を守るのが親ってもんだけどね。

25: 本当にあった怖い名無し 2009/11/18(水) 00:36:52 ID:qQ+b/mH00
>>23
けど、自分が死んだら残された子供もどうなるかわからない状況では、そんな風に考える事も出来なかったのかも知れないね

24: 本当にあった怖い名無し 2009/11/17(火) 23:52:11 ID:ixpRru500
あんまり現地の人を悪し様に言うのも・・・
どうしても一緒に逃げれず現地の人に子供を預けたケースも多くありますし






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