地元に戻ってきて、あの道を通るたびに、胸の奥がぎゅうと締めつけられる。
通勤路に面した林の縁に、いまだに花が供えられているんだ。色あせたリボンが風に揺れているのを見ると、まるで彼女がまだそこに立っているような気さえする。
あいつ……彼女のこと、俺は直接よく知っていたわけじゃない。ただ、彼女の親友と俺が昔からの付き合いで、飲みの席なんかで何度か話を聞いたくらいだ。でも、その声が、やけに鮮明に頭に残っている。いや、たぶん、俺が忘れたくなかったんだろう。
彼女は地元の小さな会社に勤めていた。事務職で、真面目で、大人しくて、でも、困ってる人がいれば自分を後回しにしてでも助けようとする、そんな子だったらしい。俺が聞いた限りでも、そういう逸話はいくつもあった。自分の残業を押しつけられても嫌な顔ひとつしなかったとか、誰もやりたがらない掃除を率先してやっていたとか。
事件の発端は、その会社に新しく入ってきた男だった。年は四十半ばを過ぎていて、彼女の父親と同じくらい。独身で、無口で、少し不気味な雰囲気のあるやつだったそうだ。よりにもよって、そいつの教育係にされたのが彼女だった。
最初の一週間で、男は彼女にプロポーズしてきた。
正気の沙汰じゃない。そう思うだろ? でもそれが現実だった。もちろん彼女は断ったけれど、そこから男の狂気は加速した。何度も何度も、職場でもプライベートでも、食い下がってきた。彼女はそのたびに拒絶したけど、男は「冗談で言ってるんだよ」とか「恥ずかしがってるだけだろ」とか言って聞く耳を持たなかった。
そのころ、彼女には付き合ってる男がいた。職場の先輩で、付き合ってるのは秘密だったらしい。でもそいつもまた、どうしようもなかった。彼女が泣きながら相談しても、「モテる女は大変だな」と笑って済ませたっていう。彼女のこと、守ろうともしなかった。
上司に相談しても無駄だった。セクハラの訴えは笑って受け流され、逆に面白おかしくパートや他の社員に吹き込まれた。「あの二人、できてるんだってさ」「年の差アベックだってよ」……酒の席では「照れてるだけだって!もっと押してけよ!」なんて馬鹿騒ぎまで始まった。誰も、誰一人、彼女を助けようとはしなかった。
それでも彼女は頑張って会社に通ってた。でも、ある日から会社を休むようになった。鬱だったらしい。パニック障害も出ていたって聞いた。恋人とはその頃には自然消滅。連絡もとらなくなったらしい。
男は、会社では「彼女とは正式に付き合ってる」と言いふらしてた。彼女が休んでいるのは、自分が励ましてあげてるから大丈夫だ、とまで言ってたってさ。それを真に受けた上司は、「じゃあ、皆の分もよろしくな」なんて言って、彼女に伝言を頼んでたらしい。
親友がなんとか彼女を説得して、警察に行こうとしたんだ。でも彼女は尻込みして、「まずは会社に言いたい」と言った。今まで相談しても無視されたこと、付き合ってもいない相手に付きまとわれていること、それを正式に報告する、と。
やっと会社が動いた。上司は降格、男には上層部から厳重な注意。しかしその後も、男は彼女の家に押しかけたり、実家に花束を持ってきたり、騒ぎは収まらなかった。
それでも彼女は訴えを取り下げ、会社を辞めた。ゆっくりと心を癒して、少しずつ元気になっていった。別れた彼氏とも、時々会うようになったらしい。けれど、彼は相変わらずだった。彼女をバカにするような言動を繰り返し、モラハラのような関係になっていたらしい。
一度、地元の駅前で二人を見かけたことがある。俺が声をかけると、彼女は嬉しそうに話してくれたけれど、彼氏は終始不機嫌そうで、彼女に「うるさい」「バカじゃねえの」なんて平気で言っていたのを覚えてる。
それでも彼女は笑っていた。少しずつ、働けるまでに回復していった。新しい職場で親友と同じ部署になって、楽しそうにしていた。ある日、友人たちと飲みに行ったとき、彼女も参加して、ストーカー男の話を「いやー、あれは怖かった」と笑い話にしていたって聞いた。
でも、そのわずか数ヶ月後のことだ。
彼女は朝の通勤途中、例の男に待ち伏せされて襲われた。数日後、国道沿いの林で、変わり果てた姿で見つかった。ニュースにもなった。でも、報道されたのは「ストーカー殺人」っていう短い見出しだけだった。
告別式には、多くの人が来ていた。皆、泣いていた。俺もその一人だった。あのときの彼氏が顔を出したとき、彼女の親友が「今さら来るな」と怒鳴って殴りかかって、何人かで止めに入ったのを覚えてる。
それから数年が経ったけど、あの場所には今でも花が絶えない。風に吹かれてリボンが揺れるたび、彼女の声が聞こえる気がする。
どうして、誰も止めなかったんだろうな。あんなに明確なサインがあったのに、どうして見て見ぬふりをしたんだろう。
いま、もし近くで誰かが「困ってる」と声をあげたら、絶対に笑い飛ばさないでくれ。冗談だって済ませないでくれ。それだけで、防げることがあるんだ。
――俺は、そう信じてる。
(了)