私は数千年前の人々の境地にやっと追いついたのか、もしくは数百年以上、人々の先に進んでいるのであろう。



多くの宗教では、人と超越的な(現代科学で説明のつかない世界の)信仰対象の間に、人工の何かが割り込んでいる。例えば、人と神の間には、ほぼ必ずと言っていいほど聖職者がいる。もちろん、一般人が神に直接祈ることはあっても、やはり聖職者がいるのは当然であり、聖職者の説法を聞き、導いてもらうのが当然との考えの人が大半である。



聖職者の間でさらに階層ができることもあり(最もわかりやすいのはカトリックの聖職者の位階であろう)、人と神の距離が遠くなることもある。また、教義の解釈や人間関係のもつれで宗派の分裂が起きるケースが多発するなど、時とともに発生した信仰の形が変わっていくこともある。



現代神道の考えでは、人と神の間に天皇がある。祝詞で「天皇の大御代」を称え、その万歳安寧を願うのはなぜか?ある神道系の大学の教授曰く、古代の呪術的世界観によると、人間の世界と、それをを超えた神々の世界とを結ぶ位置に、帝王君主の存在がある。よって、神々の世界は天皇の玉体に影響し、天皇はくにの人々を代表して超越の世界に祈りを向ける立場である。天皇がいない神道は、現代日本では考えられない。


では、天皇がいなかった時代の日本はどうだったのだろう?現代で受け入れられている歴史では、天皇がいない縄文時代では君主が存在せず、自然を信仰するアニミズムだったという。上下関係のない世界だとしたら、人と信仰対象の間には仲介者はいなかったのであろう。いたらその人は宗教上の君主になる。


果たして、縄文時代の信仰は現代の信仰に「劣る」ものであったのだろうか?「優れる」ものであろうか?私見では、両方の信仰は等しく尊重されるべきものである。


それでは、古代の信仰を現代日本に蘇らせるとどうなるであろうか?既存の信仰を否定するのではなく、新たな信仰を世の中に追加するのである。おそらく、超越的な存在である神々、および実際にこの世界に働きかける眷属への直接の信仰となる。


人と神々の仲立ちをする者や、いろいろと経験を語る信仰の先達は尊敬に値するのであろうが、そのような人達に支配、搾取される必要はないのである。いわゆる「中抜き」が存在しない信仰である。


人と眷属の縁を仲介する存在や、人と眷属の間で直接、自由に意思疎通をする技術が開発されるとこの世界は大きく変化するであろう。眷属との脳内会話、念話の技術である。とはいえ、既存の考えに縛られる人、縛りたがる人、「中抜き」の利益が得られなくなる者の強い妨害が予想されることから、「中抜き」のない信仰を大々的に流行らせることは限りなく不可能であろう。

このような話に本気で興味がある人は、どれくらいいるのであろう。




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