【閲覧注意】怪談の森【怖い話】

実話怪談・都市伝説・未解決の闇・古今東西の洒落にならない怖い話。ネットの闇に埋もれた禁忌の話を日々発信中!!

カテゴリ: なつのさんシリーズ




大学時代の冬のある日のことだった。
その日一日の講義が終わってから、僕は友人のSとKと三人で心霊スポット巡りに繰り出していた。
言いだしっぺはK、車を出すのはS、僕はおまけ。いつものメンバー、いつものシチュエーションだった。
目的地は、僕らの住む町から幾分遠い場所にある、今は入居者のいない古い集合住宅。
噂だと、そこには複数の首のない幽霊が出るらしいのだけれど。
結論から言うと、今回はハズレだった。
あたりが暗くなってからようやく目的の廃マンションにたどり着いた僕らを迎えてくれたのは、
色とりどりの落書きと、階段の踊り場で季節外れの花火をするマナーの悪い先客だった。
久々の大ハズレだ。
「ああいう奴らってのは決まって、怖い思いしたり祟りに遭ってから、
 『後悔してる。あんなとこ行くんじゃなかった』 とか言うんだ。
 くっそ、馬鹿じゃねーのか。呪われねーかな、あいつら。それか花火で火傷しろ、ヤケド」
帰りの車の中、いつもなら車酔いでダウンしているはずのKが、後部座席でぶつぶつ愚痴をこぼしている。
花火をしていた若者たちとは接触自体はなかったのだけれど、Kは彼らの行為に相当おかんむりのようだ。
「覚悟がねー奴は後で後悔すんだよ。『やっぱり止めとけば良かった』 とか俺だったら死んでも言わねーし。
 逆に、『やっぱそうだよな』 って言うな、うん」
「知らねーよ……」
運転しているSが若干うんざりした様に呟いた。
Kは廃マンションを離れてからずっとこんな感じだ。
車は郊外、左右を田畑に挟まれた道を走っていた。
暖房が暑くてウインドウを少しだけ下げる。僅かに開いた隙間から入り込んでくる冷たい空気が気持ちいい。
けれど、やりすぎると車内が冷える。僕はすぐにウインドウを閉めた。
確かにKの言うことも分からなくもない。
僕だって心霊スポットと呼ばれる場所に行くときには、『何が起こっても不思議じゃない』 という意識でもって行く。
実際、過去にたくさん怖い目にも遭ったし、死ぬかもしれないと思ったことだって一度や二度ある。
それでも、今日だってKが「首なしマンション行こうぜ」と言うと、ほいほい誘いに乗るのだから、
『何されたって文句は言わない』 くらいの覚悟は、僕自身持っているつもりなのだろう。

「なーなー、俺腹減ったんだけどよ。なんか帰りにラーメンでも食べて帰ろうぜー。俺今日は金ねえけど」
Sが「餓死しろ」と冷たく言い放つ。
僕もKに何か言おうと後ろを振り向いたその時だった。僕らを乗せた車が急ブレーキをかけて止まった。
道がちょうど見晴らしが悪く細い山道へと入るところだったので、死角からトラックでも出て来たのかと思った。
けれども、そういうわけでは無い様だ。
「……事故だ」
僕とKに向かってSが短く言った。事故だと。
それから車を道の脇のスペースになっている部分に寄せる。
車のライトの先、白いガードレールのそばに、確かに倒れたバイクと共に人影らしきものが倒れていた。
ライトはつけたまま、シートベルトを外してSが車を降りる。
僕とKは一度車内で顔を見合わせた後、無言でSに続いて外に出た。
「おい、大丈夫か?」
Sはもうすでに倒れている人のそばにしゃがんで声をかけていた。
仰向けに空を見上げるその人は、フルフェイスのヘルメットをしていた。ガタイが良く男性のようだった。
声をかけても反応がないと知ると、Sは顎とヘルメットの隙間に掌を差し込んだ。
「おい。お前らぼーっとすんな。K、救急車と警察呼べ」
「お、おう」
「○○(←僕の名前)はバイク道のわきに寄せて、車が来ないか見張ってろ」
「分かった」
僕は周りを見回す。耳も済ませてみたけれど、近くに車の気配はない。
停めた車の近くでKが電柱を睨みながら救急車を呼んでいる。
黒いバイクを苦労して起こし、邪魔にならないように路肩に寄せる。
バイクは前輪がゆがみ、フロントライトが粉々になっていた。それが他の部品と共に辺りに砕けて散らばっている。
傍らでSが「ちっ」と舌打ちしたのが聞こえた。見ると、Sが男の被っているヘルメットをゆっくりと脱がそうとしている。
「なあ、大丈夫なん?こういうときって、動かすのって駄目なんじゃ……」
「呼吸も脈もない。このままだとどっちにしろ助からない」
こっちを振り向かないままSはそう言った。
助からない、という言葉にどきりとする。それは死ぬということだろうか。目の前で。人が。
Sが脱がしたヘルメットを横に置いた。
露わになったその鼻と口から、赤黒い血が流れていた。目は閉じている。短髪の男だ。
生気のない死人の顔だった。
僕は目をそむける。腹の下から何か熱をもったものがせり上がってきていた。冷静にならなければ、と自分に言い聞かせる。
そこで初めて、僕は男が倒れていた位置から少し離れた場所、道路についたタイヤの跡に気がついた。
等間隔で二本の黒い線が、不自然に弧を描いている。
二輪ではなく、四輪車が慌てて急ブレーキを踏みハンドルを切った様な跡。
僕はもう一度周りを見回した。車の気配は無い。
ひき逃げ。そんな言葉が頭をよぎった。
びい、と何か布の裂ける様な音。
振り向くと、Sが男の胸の上に両手を置き、心臓マッサージを始めていた。
男の口には中ほどまで裂かれたハンカチが乗ってある。救命措置。Sは呼吸も脈も無いと言っていた。
事故に遭ってから僕らが来るまでに、どれくらいの時間があったのだろう。
何度か心臓マッサージをした後、Sが男の鼻をつまみ、顎を持ち上げ人工呼吸をする。そうして、また心臓マッサージ。
それを繰り返す。
「救急車も警察も、あと十分くらいでこっち来るってよ」
電話を終えたらしいKが戻って来る。Sは振り向かず「そうか」と一言。救命処置を続ける。
僕はKに向かって、「……ひき逃げかな」と道路に着いたタイヤ痕を指差す。
Kは目を凝らしてそれを見てから、「マジかよ」と小さく呟いた。

「おい、どっちでもいい、救命講習受けたことあるか」
しばらくしてSがマッサージを続けながら尋ねる。
確か車の免許を取る時に受けたはずだ。三十回心臓マッサージをした後に人工呼吸だったか。
いや、それよりまず気道確保だ。
「できるぞ」
僕がもたもたと一連の内容を思い出していると、Kが一歩進みでてそう言った。
「じゃあK、代わってくれ。俺も休みたい」
「お、おう。分かった」
Sが立ち上がり、Kと交代する。
「ふう」と溜息に似た息を吐くSの額には僅かに汗が浮かんでいた。風のせいで辺りは震えるほど寒いにも関わらず。
「助からないかもしれないな」
僕の視線に気付いた様で、Sは腕で額をぬぐいながら言った。
「まあ、医者が死亡と下すまでは生きてるわけだが。
 それでも、ああも冷たいとな……、人形を必死に生き返らせようとしている気分になる」
それからSは道路のタイヤ痕に目をやり、「ふん」と小さく鼻を鳴らした。
「……ひき逃げかな」
僕は先程Kにしたのと同じ質問をする。
「さあな。それは警察に任せとけ」というのがSの答えだった。
それからSは地面に腰を下ろすと、ガードレールにもたれかかって目を瞑った。
その手に赤いものが付いているのが見える。血だ。
僕は倒れている男に視線を移した。あの男はまだ死んでいない。医者で無い僕らにその判断は出来ないのだ。
救急車で運ばれて、医者に確認されて、初めて死んだことにされる。
それでもSは冷たいと言った。実際に触れていない僕には分からないが、その言葉は確かな実感を伴っていた。
死んではいないが、生きてもいない状態。だとしたら、男の魂は今何処をさまよっているのだろう。
目の前ではKが屈みこみ人工呼吸をしている。僕はその様子をただぼんやりと眺めていた。
身体を起こしたKが、びくり、と震える。
何だろうと思った。
そのままKは動かない。心臓マッサージを続けないといけないのに。Kはただ自分の両手を眺めていた。
「……K?」
僕が呼んでも反応は無い。
それからKはふらっと立ち上がると、男の身体越しにガードレールを掴み、そこに人指し指を当てた。
何かを書いている様だった。
不安になった僕はKに近寄り、その肩を掴んだ。
その瞬間、何か電気の様なものがKの身体を通じて、僕の足の先から頭のてっぺんまで走り抜けて行った。
驚いて思わずKの肩から手を放す。同時にKが僕の方を振り向く。
「……いちよんななきゅう」
「え?」
唐突にKが言った。
「おい……、『いちよんななきゅう』 って何だ?それに、『みさき、ゆか』 って何だ。人か……?」
いきなり矢継ぎ早に質問され僕は狼狽する。僕にはKが何を言っているのかも分からない。
その思いが顔に出ていたんだろう。Kもはっとした表情になる。
「何してんだ?」と横からSの声がする。
「……いや、何でもねえ。……わりい。俺もまだ何が何だか分かんねえから……」
そうしてKは僕の方を向いて、
「ちょっと代わってくれ。頭がガンガンする……」
目の辺りを押さえ未だフラフラしながらKはその場を離れた。
残された僕は、Kが先程掴んでいたガードレールを見やる。
そこには赤く掠れた血文字で、辛うじて『1479』 と書かれていた。
それから僕はKと交代して救命処置を行った。Sの言った通り男は確かに冷たかった。

救急車と警察がやってきたのは、僕がKと代わってから五分程経った後ことだった。
男が担架に乗せられ運ばれて行くのを横目に、僕らは警察の質問に答えた。答えていたのはもっぱらSだけれど。
三人とも訊かれたのは氏名と住所。
もっと面倒なことになるのかなと思っていたのだけれど、しばらくすると警察に「もう帰ってもいいよ」と言われた。
僕ら三人は顔を見合わせて、黙って車に乗りこんだ。
やるだけやったという思いも無く、僕らはただ疲弊していた。
帰り道、車内にはなんの会話もなかった。

それから二,三日経った日の朝のことだった。突然Kから電話が掛かって来た。
黒いスーツを持ってないかということだった。
どうするのかと訊いたら、『葬式に出る』 と言い、
誰の葬式に出るのかと尋ねたら、あの事故に遭った男性の葬式だとKは答えた。
『言わんといけないことがあるからな』
車はSが出してくれるらしい。
Kがどうするつもりか気になった僕は、スーツを貸す旨と、自分もついて行くとKに伝えた。

葬式の会場は、偶然にも僕らが事件の日に訪れた廃マンションのすぐ近くだった。
すでに多くの人が集まっており、僕とSを車に残してKは一人会場の中へと入って行った。
「どうしたんだろ。K。……Sは何か聞いてる?」
「いや」
行きの車の中、Kは何事か考えている様でずっと無言だった。ただ単に車に酔っていただけかも知れないけれど。

車の中で待っていると、思ったよりも早くKは戻って来た。
ドアを開け、気だるそうな動作で後部座席に座ると、「……あーあ」と呟き、
「……おう、悪かったな、付き合わせて。ほれ、帰ろうぜ」と言った。
Sは何も言わず車を出した。

当然だけれど、帰り道の途中に事故のあった現場を通り過ぎる。思わず注視してしまう。
事故があった痕跡は、もう路面のタイヤ痕だけだった。
「被害者は……、首をやっちまってたらしい」
後部座席からKの声がした。
「頸椎だっけ?が折れるか断裂かしてて、だから痛みも感じず死んだはずだって。言われたわ。奥さんに」
まるで独り言のように、ぽつりぽつりとKは言葉を紡ぐ。
「それに、俺らが見つけたのは、意識も呼吸も脈も無くなってからだった。
 だったら最後の言葉なんて残せるはずもないよな。
 泣きながら言われたよ。『お心遣いは有難いですが、馬鹿にしないでください……』 だとさ。
  ……まあ、当然だけどな。警察にも言ってないことだし」
最後の言葉。僕は思い出す。あの時、数字と共にKが呟いた言葉があった。
『みさき、ゆか』
Kはそれを伝えに来たのだ。
けれど、それは生きている人間が発した言葉ではなかった。普通の人には決して聞くことのできない、死人の言葉。
「理解されないってのは分かってるんだがなあ……。覚悟もしてた。
 でも、こうなんだよなあ。壁があってさ。その向こう側に何があるかなんて、見える奴にしか分からねえんだ」
そうしてKは、「やっぱそうだよなー……」と呟いた。
三人とも口をつぐみ、しんとする車内。
急に亡くなったばかりだし、今は時期が悪かったんだ。Kは悪くない。当然のことをしただけだ。
言うべき言葉は山ほどあったのに、その全てが口の中で空回り、外に出ることなく萎んでいった。
けれども何か言わなければと思い、僕は無理やり口を開く。
「……ラーメン」
意識していたわけでは無かった。ただ、出てきた言葉がそれだった。
どうしてラーメン。自分でも分からなかった。見ると二人が何事かという表情をしていた。
「ラーメンだ……。そうだ、ラーメンを食べに行こう!
 お腹が減ったしさ、時間も丁度いいしさ、前には行けなかったわけだしさ」
ヤケになって喋る。
けれども、今がお昼時なのも事実だし、お腹が減っているのも本当だ。そして何よりラーメンはKの好物だ。
Sが小さく吹きだす様に笑った。
「そうだな……。どっか寄ってくか」
賛同してくれたことに僕はホッとする。
その途端、車の中の温度が少し上がった様な気がした。
「あ、でもさ。実は俺、今日は金ねぇんだけど……」とKが言う。
またかと僕がつっこむ前に、Sが前を向いたまま、ひらひらと片手を振った。
「いい。おごってやるよ」
その親切な言葉にKは驚いて固まっていた。僕も吃驚してSを凝視する。
こいつは本当にSだろうか。そんな疑問まで浮かぶ。
「マジで……?」
「香典で使って金がねえんだろ。だったら、おごってやるよ」
Sの言葉に僕は思い出す。確かに会場に行く前、Kは封筒を手に持っていた。
「……うおおマジかよ!言ったなS。だったら俺メッチャ食うぞ」
「別にいい。でももし車内で吐いてみろ。窓から放り出して轢き殺すぞ」
「上等だ。化けて出てやるよ」
「あ、S、じゃあ僕もおごって」
「うるさいお前ら」

そうして僕らはその後、走りながら見つけた中華料理店に立ち寄りラーメンを食べた。
結局Sは全員分奢ってくれたし、
結局Kは帰りの道中で車に酔って、醤油ラーメン大盛り餃子セットをまるごとリバースしたのだけれど。
それからKはずっと後部座席でダウンしていたのだけれど、
「うー気持ちわりい……殺してくれー……」と垂れ流すKはいつものKだった。
そうして隣では、辛うじて車内では吐かれなかったものの、「せっかく奢ってやったのに」だとかSが小言を言っている。
いつも通りを久しぶりに感じた様な気がした。
やっぱりこういうのがいい。僕はSの小言を聞きながら、安堵と共に欠伸を一つする。

今回のこと。人の死をリアルに垣間見てしまった後でも、結局懲りずに僕らはまたオカルトに首を突っ込むのだろう。
どうしてかと問われても、きっと分かりっこない。
説明なんて出来るはずもない。そういうモノこそが、オカルトなのだから。
ちなみに後日、僕らが遭遇したひき逃げ事件のことと、そのひき逃げ犯が捕まったいう記事が地方紙の片隅に載っていた。
記事によると、被害者の血で書かれたナンバーが現場に残されており、それが決め手となったそうなのだが。
事故後、頸椎を損傷した被害者は文字が書けなかっただろうこと。
そして、そのナンバーが実は被害者の死後に書かれたものだとは、何処にも載ってはいなかった。








僕の友人にオカルトの類に詳しく、にも拘らずオカルトと聞くと鼻で笑い飛ばす、Sという奴が居る。
ある日そのSに、「今まで生きてて一番怖い体験は何か」と訊いてみた。
するとSは読んでいた本から僅かに顔を上げて、いつもの興味無さそうな表情でちらりとこちらを見やり、
「一番って……、いちいち順位なんて決めてねえよ」と言った。取り付く島も無いとはこのことか。
「それじゃあ、最近一押しの怖い話とかは?」
僕は負けじと質問を重ねる。
Sは僕に向かってハエでも追い払うかのように手を振った。
それから何か言おうとしたようだが、ふと開きかけた口を閉じて、考える様なそぶりを見せた。
「……なるほど、怖い話か」とSが呟く。
その口調に何やらとても嫌な予感がした。
「一応訊くが、これは相当ヤバい話だ。最後まで聞く覚悟はあるか?」
そこまで言うか。僕は一瞬迷ったが頷く。
「そうか」
ゆっくりと本を閉じ、Sは話し始めた。
「実際に起こった事件だ。数ヶ月前、近くの街で、一人の女子大生が自殺した。それに関わる話だ」

以下しばらくSから聞いた話になる。
………………
大学二年の夏だった。今はもう辞めているんだが、当時俺は駅前の居酒屋でバイトをしてた。
そこで何時だったか、バイト仲間で飲み会をしようって話になった。
場所は一年上の先輩が住んでるアパート。
その人は俺がドリンカー(※裏方でお酒を作る人)として色々教わった先輩だった。
俺らと同じ大学の先輩だ。お前も見たことぐらいはあるだろうな。
自分で言うのも何だが、無愛想な俺にも普通に接してくれる人だった。八方美人と言えば言い方は悪いが。
おそらくその先輩からの誘いじゃなかったら、俺は飲み会なんか断ってたと思う。

当日。集まったメンバーは六,七人だった。
宅飲みだからとことん安上がりにしようってことで、
各自スナック菓子やらチューハイなんかを買い込んで、先輩の家に持ちよった。
飲み会は確か夕方の六時に始まって、七時を過ぎる頃にはもう周りは全員酔っぱらいと化していた。
その内、きっかけは忘れた。とにかく、先輩が昔付き合ってた女性の話をしだした。
何でもその女は隣町の大学生で、随分前に別れたそうだが、相手が納得せずしつこく付き纏われ、
いわゆるストーカーになってしまったらしい。
その話は前に先輩から聞かされ知っていた。飲み会から数日前の話だ。
「俺は、どうすればいいだろう?」と相談を持ちかけて来る先輩は、真剣に悩んでいる様に見えた。
その時俺は、「誰これ構わず、愛想を振るから……。勘違いする奴が出てきて当然ですよ」と答えた。
我ながら冷たい返答だとは思うが、先輩は納得したようで、「そっか、やっぱりそうだよなあ」なんて言っていた。
後で知った話だと、先輩は他のバイトメンバーにも、同じような相談をしていたようだ。

時間を飲み会当日に戻す。
「最初の方は、まだ許せたんだけどさ。
 だんだんエスカレートしてきて、『あなたを呪う!』みたいな手紙まで出してくるようになってさ……。まいったよ」
そう言って、酔った先輩はふらふらと立ち上がって、
背後の戸棚を探り、その元カノからだと言う手紙を出して俺たちに見せた。
真ん中に先輩の名前があり、あとはA4サイズのルーズリーフにびっしりと『呪う』という文字が書きこまれている。
「きめえ」だの、「ひどい」だの感想が飛んだ。
「……まあ、俺が悪いってのも、分かってんだけどさ。何も、そこまでやることはないだろう……こんなさあ……こんな、」
先輩は自分でも酒に強い方じゃないとは言っていた。その時はろれつも上手く回っていなかった。
でも、だからこそ、つい口を滑らしてしまったんだろう。
「それに、最近さ。なんか俺の部屋、蛆が、出るんだよな……」
先輩がそう呟いた。途端にそれを聞いた全員が、何を喋るでもなく口を開いた。鳩が豆鉄砲食らった様な顔だ。
言った本人も場の空気に気付いて慌てたようだった。
「あ、いや、これ秘密にしてたんだった。しまったな……」
それからは詰問の嵐だ。
最初の方こそ渋っていたが、周りが酒も絡ませながら問い質していくと、ものの数分で先輩は陥落した。
本当は誰かに喋りたかったのかもしれない。
「何かさー。家から帰って来るとさ。シンクの中で何か動いてるんだよ。こう、こう、白くて小さいつぶつぶが数匹。
 何だろなって思って良く見てみると、……蛆だった。ウジ。
 昨日なんか、風呂場にも出たぜ。バスの中の排水溝から、栓を押しのけてゾワゾワ湧いてた」
数名の女性陣が同じ色の悲鳴を上げた。
俺と同期のバイト仲間が「で、その後どうしたんすか」と訊くと、
「ああ。普通に、捨てたよ」と先輩は答えて、それから赤い顔で自嘲気味に笑った。
「俺さ……これ、これって。元カノの呪いじゃないかって思ってるんだけど」
再び女性陣から悲鳴が上がる。
その後で、何人かがシンクや風呂とか、先輩が『出る』 って言った水回りの確認をしていたが、
生憎というか、その日は何も居なかった。

それから一週間程経った後のことだ。
先輩の元カノが死体で見つかったと聞いた。自殺をしていたのだと。
俺がそれを知ったのは人伝だったが、地方のニュースで取り上げられるくらいには大した事件だったそうだ。
発見のきっかけは、アパートの部屋の周りに異常時発生した蠅だった。
郵便受けの蓋と挟まったチラシとの隙間から、異常な数の蠅が出入りしているのを、
訪ねてきた新聞の勧誘員が見つけたんだそうだ。
アパートの管理人がドアを開けた時は、約数十キロもの肉が腐った果ての猛烈な匂いと、
黒い竜巻かと見紛う程の蠅の大群が、同時に中から飛び出してきたらしい。
そして遺体は風呂場で発見された。
部屋の中からは遺書が見つかった。大学ノートに彼女の文字で。
そこには、『人生に悲観して』 という内容だけ書かれていた。
先輩も警察に呼ばれたそうだが、あまり込み入ったことは聞かれなかったそうだ。
警察も最初から自殺として扱っていたんだろう。

発見された時、彼女は死後三週間ほど経っていた。
それはつまり、俺たちが先輩の家で飲み会をしていた時には、
彼女はまだ誰にも見つからず、長風呂を楽しんでいたということだ。
しかし、夏の間に死んだ人間が三週間も放置されたのだから、その様子はすさまじかったと言う。
風呂桶の中で自ら首を掻っ切ったまでは良かったが、
場所がアパートの角部屋で、運悪く隣近所に誰も入居者が居なかった。
そのために匂いに気付く者がおらず発見が遅れ、ただの死体から腐乱死体へと昇格をする羽目になった。
何処からか入りこんだ蠅が死体に卵を生み、孵化して蛆が湧く。蛆は蠅となり、その蠅がまた死体に卵を産む。蛆が湧く。
この連鎖は、放っておかれた死体が朽ちるまで続く。
彼女は服を着たままで、発見当時、風呂桶には水は溜まっていなかった。
水というのは、死後人間から染み出す大量の腐乱液も含めてだ。それが無かった。
つまり、風呂の栓が空いていたということだ。
下水道へと通じるその穴にはきっと、
水分と肉とが混ざった腐乱液と一緒に、彼女の身体から湧き出た蛆が流れ込んだみ違いない。
下水道というものがどこまで繋がってるのかは知らないが、
『先輩の家に出たと言う蛆は、彼女の身体をもって生まれた奴らではないか?』
『先輩は元カノに死後もストーカーされた』
その後しばらくの間、バイト内ではそんな噂話が絶えなかった。
………………

「駄目だ……、グロいのは、駄目だ」
ここはSの家。
Sの話を聞くうちに、僕は段々とグロッキー状態になっていた。
隣町で自殺した大学生がすごい状態で見つかったというニュースは、僕にも聞きおぼえがあった。
けれでも、と僕は思う。
確かにちゃんと『怖い話』 ではあったが、やっぱりグロいのは駄目だ。虫も駄目だ。
いや、虫はいいが、ぞわぞわと湧きでて来るのは駄目だ。
「グロいのは駄目だ……」
Sは繰り返す僕の主張を無視して、代わりに欠伸を一つしていた。
「……お前が話しろっつったんだろうが」
「怖い話とグロい話は違うと思う。この世の中には、ちゃんとスプラッターとホラーって二つのジャンルがあってだね」
「それって、同じもんじゃなかったか?」
「違う違う。ホラーっていうのは、もっとこう、スマートに……」
言いかけたが、僕は口をつぐんだ。これを話していると夜を超えて朝になってしまう。
「しかしまあ……、下水を越えてやって来る大量の蛆虫かあ……、なんか夢に出そう」
僕は素直な感想を言っただけのつもりだった。けれどSはそんな僕を見やり、馬鹿にしたように「くっく」と笑った。
「……なんよ?」
「いや。やっぱり怖いなと思ってさ」
「だから、何が?」
「そうやって、人の話を簡単に信じるだろ。それが、怖い」
僕は首をかしげる。Sは何を言いたいのか。人の話を信じることが怖いこと。それは、つまりだ。
考えた末、思考が一つの可能性に行きあたった。
「え……、作り話なん?」
しかしSは、「それは違う」と首を振った。
「事実だよ。さっきの話は、俺が実際に体験したことで。そこに偽りはない」
「んじゃあ、」
「お前は一つ、勘違いをしてる」
僕の言葉を遮り、Sはそう言った。
「まあ、普通に考えれば分かることだが。あの話の中には、一つ、嘘がある」
それはつまり、登場人物の誰かが嘘をついたということだろうか。と言っても、先のSの話の登場人物はそれほど多くない。
そしてS自身は、先程自分の体験が嘘では無いと言った。ならば残された人物は……。
「……先輩が、嘘をついてた?」
そうだとSが頷く。
「でも、何について?」
ため息が聞こえる。おそらくは、僕の頭の回転の鈍さに嫌気がさしているのだろう。
ああ駄目だ駄目だ。自分で頭を叩く。Sに頼りっきりでどうする。考えろ考えろ僕の頭。
先輩は嘘をついていたのだ。何についてか。元カノについて?手紙について?ストーカー被害について? 
違う。
「……蛆虫だ」
僕はようやくそこに行き着いた。考えてみれば当然のことだった。
最初から『怖い話』 として聞いていたせいで、常識的な考え方がすっかり抜け落ちていた。
Sを見る。僕の答えは正解だったようだ。
「そうだな。不自然なのは蛆の話だ。
 普通に考えて、蛆が下水を通って上って来るなんてありえない。排水溝には虫の侵入を防ぐトラップもあるしな。
 まあ、そこを無視して成立するからホラーなわけだが、現実ではそうもいかない。つまり、嘘だ。
 あれは先輩の作り話だったんだ」
僕は自分の家の排水溝を覗き込んだ時のことを思い出した。確かに虫が上ってこれない構造になっていた。
それに元々、定期的に水を流していれば、虫は侵入できない。
現実。そうだ、ここは現実なのだ。その言葉が、僕の脳内に記憶されているSの体験談を徐々に浸食していく。
「飲み会があった日は、先輩の元カノが死んで十日が経った頃だった。
 しかも、蛆が出ると言った場所は、シンク、風呂、トイレ、全部下水から繋がった場所。
 ……ここまでくれば、自然と一つの推測が成り立つ」
そこまで言うと、Sは少し間をおいた。
「……少なくとも、飲み会のあった日。先輩は、元カノがどういう状態で死んでいるのかを知っていた。
 見つけてたんだ。彼女の遺体を、誰よりも早く」
現実的に考えて、先輩の家に蛆が現れることはない。けれど先輩は、S達に居もしない蛆の話をした。
『彼女の呪いかもしれない』 という言葉まで添えて。
そして、実際彼女は蛆の湧いた状態で見つかった。
「……でもさ、それだけなら、ただの冗談とか、偶然ってこともあるんじゃない? お酒も入ってたわけだし……」
するとSは黙って立ち上がり、戸棚から中から何かを取りだして僕に見せた。
それは、何か文字の書かれた二枚のルーズリーフだった。
「……何これ?」
「彼女の遺書の一部」
「い!?」
Sはそれを僕の目の前に置く。
一枚は普通の文面で何か書かれている。
そしてもう一枚には、誰かの名前を中央に、夥しい数の『呪う』 が書かれていた。
それはSの話に出てきた、彼女の呪いの手紙と酷似している。
何故こんなものがここにあるのか。
何も言えずに僕はSを見やる。Sは肩をすくめた。
「俺だって、蛆の話だけで決め付けたわけじゃない。ただ疑いは持った。
 それで、事件の後しばらくしてから、先輩んちに行ってな。隙を見て探したら、それ出てきた。
 飲み会した時にも、気にはなったんだ。棚には鍵掛かってたんだが。そこはまあ、……アレでな」
アレと言うのはおそらく、ここに書いてはいけない技術のことだ。が、まあそれは良いとしてだ。
僕は再び彼女の遺書に視線を戻す。『呪う』 と書かれた紙とは別の方。
そこには『私』 と称した一人の女性が、付き合っていたとある男に浮気され捨てられそうになる、その現状が書かれていた。
「そこにある男ってのが、先輩だ」とSが言った。
「先輩は彼女の家の合鍵を持っていた。随分前に別れたと言っていたが、実際はまだ『合鍵を持てる程の関係』 だった。
 まだ先輩は別れていなかったんだ。もしかしたら、その話をするために、彼女の家へ行ったのかもな」
遺書の最後には、『今死ねば、私はずっとあなたの彼女でいられる』 と書かれてあった。
この二枚の遺書を先輩は持っていた。
しかし、ふと単純な疑問がよぎる。
「……どうしてすぐに燃やしたりしなかったんだろう?遺書」
「だよな。ま、過ぎたことだ。そこは、本人に訊く以外、何をもってしても想像でしか埋まらん」
Sもそこについてはよく分かってないようだ。何らかの後悔や、それを持つことで贖罪の意識があったのかもしれない。
「とにかく確かなことは、飲み会があった日の前に、先輩は彼女の家に行ったんだ」
Sは続ける。
「そこで、先輩は彼女の遺体と、この遺書を見つける。
 先輩は遺書の内、自分の名前がある頁を破り取って逃げた。幸いにも、ルーズリーフだったから痕跡も残らないし。
 それに、残りの遺書は本物で、かつ、それだけで辻褄が合った」
先輩は通報しなかった。
先輩が逃げた理由は、何となくだが想像ができた。
遺書の内容が事実なら、彼女は先輩の心移りのせいで、自殺にまで追い込まれたことになる。
そこでもしも、先輩が遺体を見つけたその場で通報してしまって、事件が発覚すると、
『移り気によって彼女を自殺させた』 と彼の評判は地に落ちてしまう。それを恐れたのだ。
しかし自ら、『随分別れた元カノに付きまとわれている』 と吹聴し、
彼女が十分にストーカーへと変貌した後で、死体が発見された場合はそうはならない。
実際、先輩に下った評価は『死んだはずの元カノにストーカーされる哀れな男』 だったのだから。
死人に口なし。そんな言葉が思い浮かんだ。
「……周りのバイト仲間に訊いてもそうだった。
 あの飲み会があった日から、一週間程前からだ。先輩が色々な人に、ストーカー相談を持ちかける様になったのは。
 それに当然だが、先輩は死んだ彼女の彼氏だったんだからな。発見が遅れるのも計算済みだったんだろう」
僕は大きな大きな溜息を吐いた。これで、隠れていた話の大部分が見えてきた。
ただ、一番大きな疑問がまだ残っている。僕はそれを訊かねばならないのだろう。
「でさ……。Sはさ。何で今、これを持ってるの?」
そう言って、僕は目の前の二枚の遺書を指す。
「ん?だから言ったろ。先輩の家にお邪魔した時に、失敬したって」
「そうじゃなくて!……僕が訊きたいのは、Sがこれを盗んでどうしようとしたのか、ってこと。
 何で、警察の元に、これがいっていないのかってこと」
すると、Sは肩をすくめて少しだけ笑った。
まさか、と僕は思う。Sは先輩のことを見逃したのだろうか。
先輩だと言った。世話になった人だと言った。だから見て見ぬふりをしたのか。
「……お前、普通に考えて、この事件における先輩の、刑事上の責任がどうなるか分かるか?」
「え?」
唐突な質問に僕は口ごもる。
「死体遺棄にはあたるだろうが。しかし、直接の死に関わった積極的な死体遺棄じゃない。
 更生を誓いさえすれば、ほぼ確実に執行猶予がつくだろうな。
 ストーカーのでっち上げなんてのはもっと酷い。しらばっくれられたらそこで終い。
 それに、そもそも被害者が居ないんだからな」
僕には法律の知識など無いから、ここで何か言えるわけが無かった。
「それは、彼の犯した罪からしてみれば、
 自殺まで追い込まれ、さらに死んだ後にストーカーにされた彼女から見れば、あまりに軽い。
 と、『個人的に』俺は思ったわけだ。……が、俺は同時に、『個人的に』 先輩に対して恩も感じていた」
だから、とSは言った。
「だから、俺はまず、先輩に訊いてみた。ルーズリーフ見せてな。これからどうするつもりですか、ってな。
 自首するならそれでいいと思ってたし。ゴネるなら考えがあった」
そうしてSは、先輩に自分が真相を知ったことを告げた。
「意外と簡単に白状したよ。全部。……遺書を見つけて、怖くなってやっちまったんだと。でも、自主はしたくないと言った。
 あの人の八方美人は、生きている人間限定だったらしい。その後、彼女の悪口を散々聞かされたよ。
 友達の少ない子で、同情心から構ってやってたら離れなくなって、仕方なく付き合ってた、だとかな」
Sが鼻で笑う。けれども、先輩としてはそうなんだろう。自首する気があるなら、最初から遺書を破って逃げたりしない。
「この事件がもし、彼女の自殺と先輩の遺体遺棄だけで済んでいたら、俺は見逃してたと思う。
 でも先輩はその後、死人に罪を着せて保身を図った。これは明らかにアンフェアだ。
 公にしたくないと言う先輩の言い分も分かる。ただし、罰は受けなければならない。
 だから、俺は一つ提案をした」
提案。どうやらSは、先輩をタダで見逃したわけではないようだった。そのことに少しだけホッとする。
しかし、続くSの言葉は、そんな僕の安堵を軽く吹き飛ばすものだった。
「……先輩の家には今でも、定期的に元カノからの手紙が届くそうだぜ?」
「は?」
僕はつい間抜けな返答をしてしまう。
彼女は死んでいるはずだ。本当に届いたとすればそれは、それこそ現実を離れたホラーになってしまう。
「あ!」
思わず声に出していた。
当たり前のことだ。死者は手紙を送れない。手紙を送るのは生きた人間だ。Sが言う罰とはそういうことだったのだ。
「一体誰に教えたんだよ……、真相を」
僕がそう言うと、Sは『よくできました』 とでも言うように小さく拍手をした。
元カノの遺族か、もしくは交遊のあった人物か。
いずれにせよその人物は、先輩に対してメッセージを送り続けているようだ。
それは『まだ許さない』 か、もしくは『絶対に忘れるな』 だろうか。
「……彼女の父親だよ」とSは言った。
真実を知ったのは死んだ彼女の父だった。
「『彼』 は先輩を訴えることも出来た。そうすれば、俺も協力するつもりだった。でも、『彼』 はそうしなかった。
 法に照らすことはせず、代わりに、手紙だ」
僕は思う。それは法による罰では無く、個人的な復讐を選んだということだろうか。
「……反社会的だと思うか?けどな、先輩も含め、全員がそれで納得しているんだ。
 これで良かったと言うつもりはないが、執行猶予を過ぎて全て終わった気になるよりはいいだろ。
 ……噂の通りだよ。彼女は死後も、ちゃんと先輩をストーカーしてる」
ここで僕はようやく今までの話が、何だかとてつもなく大きな何かを含んだ話だったことに気がついた。
僕の知らない間にSはとんでもない経験をしていたのだ。
身体が重い。ただ話を聞いただけで、精神と体力を大きく消耗してしまった様だ。
「……でだ。最後に、もう一つ」
Sが言う。まだ続くのか。僕は露骨にげんなりする。
「もちろん、この話をお前にした意味は、分かってるよな」
「……え。意味?」
そんなことを言われても意味が分からない。この話自体は単純に僕の『怖い話が聞きたい』 から始まったはずだ。
ただ、どうしてか分からないが、はっきりと嫌な予感がした。Sが話し始める前に感じた嫌な予感の正体でもあった。
「今は手紙だけだが……、もしも今後、先輩が誰かに殺されたとする。
 すると、俺は思うわけだ。犯人はきっと『彼』 に違いないと。
 で、それが本当に当たっていたら、向こうの方でも、真相を知りうる俺が邪魔だと思うかもしれない」
僕は思う。Sは何を言っているのだろう。
「その果てにもし、俺の身に何か起こったとする。
 そうなれば、彼女の自殺に始まる、事件の全貌を知りうる人物は、もう犯人とお前だけってことになる。
 今、全部話したんだからな。……まあ、その後どういう行動に出るかは、お前次第だが……」
そしてSは、真顔で僕の右肩に手を置いた。
「公表するか、黙っとくか。どちらもそれなりにきついだろうが。
 たった今俺の話を聞いたお前は、万が一の場合は、そのどちらかを選ばなければならない。
 迷惑な話か?でも、俺は最初に聞いたよな。『この話を聞く覚悟はあるか』 ってよ」
僕は言葉が出なかった。混乱していた。
部屋の外、廊下で回る換気扇の音がいやに大きく聴こえた。
これはどうやら、とんでもないことに巻き込まれたようだぞ。と、脳みその隅の方で誰かが僕に告げていた。
どうしよう。という言葉が、頭の中で暴れまわっている。
まだ肩に手が置かれたままだった。Sが『おい、どうすんだ?』 といった表情で僕を見ている。
怖い。
唾を飲み込む。
その瞬間、頭の中で暴れる『どうしよう』が、『どうしようもない』へと進化した。
僕は無言のままぎこちなく笑い、Sに向かって親指を立てて見せた。
しばしの静寂。
突然、Sが噴き出した。そんなSを見るのは随分久しぶりのことだった。
茫然としていると、Sは僕の肩を二度軽く叩きながら。
「……ジョークだよ」と言った。
「ジョークだ。ジョーク。ワリー。……でも、それなりに怖かったろ?」
その言葉が止めだった。僕の混乱は最高潮に達した。
ジョーク。つまり、冗談。
ジョーク。つまり、悪ふざけを伴った物語。
ジョーク。つまり……。
先輩は?
事件は?
死んだ彼女は?
なんだか前にもこんなことがあった気がするな。
「……あのさ。さっきの話の、どこからどこまでが、ジョーク?」
僕が辛うじてそれだけ尋ねると、再び読みかけの本を開いていたSは、ちらりと僕の方を見やって、
「さあて。どこまでだろうな」と、少し笑いながらそう言った。









僕の友人にオカルティストで霊感もそこそこ強いKという奴が居る。
ある日そのKに、「今まで生きてて一番怖かった体験は何か?」と訊いてみた。
すると、彼は視線を上の方に据えしばらく考えた後、
「んー……そら、ぐるぐるの時だな」と言った。
「ぐるぐる?」
「そー。ぐるぐる」

以下はKから聞いた話になる。
…………
十年くらい前の話だ。
俺が小学五年生の時、当時通ってた小学校内で妙な噂が流れていた。
噂は学校からそう遠くない場所にある南中山という山に関してだった。
『あそこの山には、ぐるぐる様が出るぞ』
話が広まり出したのは夏休みが明けた九月のことで、噂は火災時の煙の様にまたたく間に校内中に広がった。
何でも六年生達が夏休み中に南中山で肝試しを行い、そこで何かしら見たという話が出火元らしい。
多くの噂話や都市伝説がそうであるように、ぐるぐる様に関しても次々にボクも見たアタシも見たと目撃者は増え、
ぐるぐる様を見た者は呪い殺されるだの、日にちが経つごとに話は膨らんでいった。
身長は子供大から数メートルまでばらつきがあったし、男か女かも証言者によって分かれた。
ただ、そんなバラバラな話の中にも共通点があった。
それは、目でも腕でも頭でも、ぐるぐる様は身体のどこかしらが回転しているという点だ。
名前が名前だからそこは外せないんだろう。
あと、ぐるぐる様は黒いらしい。

そんなこんなで盛り上がる周りを他所に、俺は噂とは無縁に至って平凡に過ごしていた。
当時の俺は、オカルトにはあまり関心の無い普通の子供だったのだ。
まあ、まだ十かそこらだ。目覚めるには幾分早い。怖がりだったし。
代わりに四つ歳上の姉貴が目覚めてた。
「あ、Kー。晩御飯終わったら、南中山行くからね。準備しとくんよ」
朝から雲が無くて、朝夕晩通してこれでもかと暑い一日だった。
時刻は午後七時前。夕飯を前に、姉貴は風呂に行こうとしていた俺を捕まえてそう言った。
「南中山?……ぐるぐる様?」
というか、それしかない。
「そう。ぐるぐる。面白そうじゃん。ぐるぐる」
姉貴はトンボを捕まえるときのように、俺の目の前で人差し指を回転させる。
しかし、何がそんなに面白そうなのか、当時の俺にはいまいちピンとこない。
「当然、父さん母さんには内緒にね。決行は夜の十一時。それまでにちゃんとトイレは済ませときなさいよ」
関係ない話だが、俺は小学校低学年の時に観た、『学校の階段』 という子供向けのホラー映画でやらかしたことがある。
先程の姉貴の発言は、完全にそれを馬鹿にしたものだ。
実際のところ行きたくなかった。
しかし、ここで『行きたくない』 と言ってしまえば、更に馬鹿にされた上に、
これ以降俺の呼び名が『根性無し』 になってしまうことは確実だった。
弟に拒否権は無かった。
結局、しぶしぶながら俺は「……おーけー」と答える。
姉貴は「それでこそ私の弟だ」と満足そうに頷いた。

今夜、ぐるぐる様に会いに行く。
おかげで、風呂で頭を洗う時に目を瞑れなかった。
目を瞑ると、イメージされたぐるぐる様の映像が頭の中でぐるぐる回るのだ。
俺は夕食の後、念入りに下腹部内のタンクを空にした。

夜中の十一時。俺と姉貴は子供部屋のある二階の窓から外に抜け出した。
母と、一緒に住んでる祖母はもう寝ているようだったが、父が未だ居間でテレビを見ていた。
身を屈めて動く。玄関近くの車庫から音を立てない様に自転車を取り出す時が、一番緊張した。
自転車は一台。警察等に気をつけながら俺が前でペダルを漕いで、姉貴は後ろの荷台に座っていた。
夜中だが外は暑かった。
俺も姉貴も半袖半パンだったが、後ろで姉貴が鼻歌交じりに風を受けているのに対して、
俺は風は受けているが、同時に二人分の重量を乗せた自転車を漕いでいるのだ。
「重ぇー!あとアッつい。疲れた。しんどい」
「はいはい黙って漕ぐ漕ぐ。あと少しだから」
姉貴の口調は心底楽しそうだった。
南中山の入り口は家から自転車を漕いで二十分程の場所にある。
街の中にある小さな山で、子供の足でも二十分も上れば頂上につける。

「……実はね。お母さんが子供の頃にも一度、学校内で噂になったんだって。南中山にはぐるぐるがでるぞー、ってさ」
もうすぐ山に着く頃、姉貴が後ろからそう言った。
街中を流れる川に沿ったゆるい坂道にそろそろ息が切れていた俺は、返事をしなかった。が、姉貴は構わず続ける。
「それどころか、おばあちゃんも若い時に聞いたことあるって言ってたからね。ぐるぐるはそんだけ長生きな怪談話ってこと」
俺の背後から気味の悪い笑い声がする。それはまるで女の子らしからぬ笑い方だった。
「面白いと思わない?ぐるぐる。
 この街だけに伝わる都市伝説だし、長生きだし、それでいてずっと語り継がれてるわけじゃないし。
 途切れ途切れに、ある時期になるとぽんと顔を出すの。思い出したように。
 ……ねえ、それって一体何でだと思う?」
完全にスイッチが入ってしまっているようだ。こうなるともう、非力な弟ではとめられない。
「え、俺?いや、そんなん分かんねーし知らねーし……」
「ま、そりゃそっか……。あ、心配しなくても、帰りは私が漕ぐからね。あー私すっごい優しいお姉さん!」
そりゃ帰りは楽だからだろ。ゆるくても下りだし。
しかしながら姉貴は、ぐるぐる様に関して俺より多くのことを知っているようだ。

しばらくして、ようやく俺と姉貴は南中山の入り口に辿り着いた。
車が入れる道もあるが坂が急で、ここから自転車は荷物になるだけだ。その辺の電話ボックスの隣に停めておく。
「「こりゃあ、なんちゅうやまじゃあ……!」」
二人で夜の南中山を見上げ、ここに来る人が必ず想像すると言われるお決まりのギャグをハモる。
と言っても、それほど何かが特徴的な山でも無いのだが。唯一、ぐるぐる様が出るという噂を除いては。

車が通る道路の方は使わず、俺たち二人は歩行者用の階段を使って山を上り始めた。
俺らが自転車を降りたのが山の南側で、ぐるぐる様は北側の斜面に出るのだと姉貴が言った。
自転車を漕いで居た時にはずっと聞こえていた車の走行音が、
今は木の葉の擦れ合う音や鈴虫の鳴き声に取って代わっている。
俺はずんずんと前を行く姉貴の後ろに、まるでコバンザメの様にぴたりと張り付いていた。
「今、小学校でも、ぐるぐるの噂って、流行ってんでしょ?」
不意に前を向いたまま姉貴が俺に尋ねる。
俺は「おう」とだけ返した。流行っていると言えば流行っている。今話題のたまご型携帯ゲーム程ではないが。
「それって、どんな噂?」
「どんなって……、なんか、色んな話がごっちゃになってて……、よう分からん」
すると姉貴はぱっと振りかえり、俺の顔面にライトの光を当てて、
「そう、それなんよねー。私のとこでもよく話は聞くんだけど。最近のは、一貫性が無いって言うかねぇ。
 だから、お母さんとか、周りのじいちゃんばあちゃん達にも訊いてみたんだけど」
「姉ちゃん眩しい眩しい」
「出来るだけ多くの話を集めてさ。集計してみたわけ。そしたらある程度特徴が分かったんよ。
 例えば容姿とか居場所とか、あと挙動ね」
「眩しいって」
姉貴は俺の話を聞いてくれない。
「容姿は知れたとおり。真っ黒で、ぐるぐるな身体。片腕は無し。
 とあるおじいちゃんなんかは、黒いのは火傷の跡だって言ってたけど……。
 場所はさっき言った北側の斜面ね。
 挙動は、特に何をするわけでもない。人を呪ったりはしないし、追いかけて来る訳でもない」
「まぶ……」
「ただ、姿が異様なだけ。怖さはあるけど危険では無いから。
 だから、世代間の間でちゃんと伝わって行かないのかもね。その場だけで終わっちゃうって言うか。
 ……おっと?あー、めんごめんご」
姉貴はやっと懐中電灯を俺から逸らしてくれた。
その間俺はずっとサーチライトに照らされた怪盗ルパンみたいな体勢をしていたわけだが。
「あんたはその辺どう思う?」
俺はまた返答に窮してしまう。当時の俺は基本的に姉貴に付いていけてなかった。
「……ってか俺、ぐるぐる様の姿知らないし」
「あれ、そうなん?それじゃあ、見てからのお楽しみってことね」
そう言って、また姉貴はずんずんと階段を上って行った。
階段の途中で俺たちは山をぐるりと回る横道に逸れて、山の北側へと回った。

しばらく歩くと、細い道から少し開けた場所に出た。姉貴がライトの光を左から百八十度、ゆっくりと右へと回す。
「ここだね」と姉貴が呟く。辺りは靴を隠すくらいの高さの雑草と、うっそうと茂るナラの木に囲まれていた。
「……なあ、見える?」
俺は恐る恐る尋ねる。
「いたら見えるでしょ。私も、あんたも」
一寸先も見えないほどではないが、辺りは大分暗かった。
街の明かりも星の光も、頭上まで伸びる木々の枝や葉に遮られ、ここまで届いてるのはごく僅かだ。
虫の鳴き声。木々の囁き。目はラク出来るが、耳は忙しい。
「……今日はお留守かな?」と、辺りを見回しながら姉貴が呟く。
「寝てるんじゃね?」と言いながら、俺は若干ほっとしていた。
その時、ふと姉貴の照らすライトの光が白っぽい何かを浮かび上がらせた。
危うく飛び上がりそうになるが、それは石だった。何枚かの平たい石が縦に積まれ、小さな塔の様になっている。
高さは俺の背の半分程だった。
「……あれ何?」
「たぶん、お墓。名前が彫ってあるわけじゃないだろうけどさ。……供養塔だね」
訊いといて何だが、姉貴からしっかりした返答があったことに俺は驚く。
「誰の墓?」
「ん?いっぱい」
姉貴はこともなげに言ったのだが、俺にはその意味が良く分からなかった。
「だから、個人のお墓じゃなくて。そーねぇ……。
 ここの、南中山にはね。昔、戦争中に死んだ、身元の分からない人たちの遺体が埋められてるから。いっぱい。
 言うたらさ、この山自体がお墓なんよ」
思わず足元を見る。だとしたら俺たちは今、堂々と墓を踏んづけていることになる。
「で。私は、それを確かめに来たわけなんだけど……」
「あえ、何が?」
「んーん。何でもない。なんか、今日は出てこないみたいだし。ぐるぐる。だったら、ここに居ても意味は無いし」
帰ろうか、と姉貴は言う。俺は喜んで賛成した。朝までここに張り込むだなんて言われたらどうしようかと思っていたのだ。
「でも、もと来た道を戻るのはつまらないから、このまままっすぐ、山を一周しようか」
姉貴の提案に、帰れるなら何でも良い俺は素直に首を縦に振る。
そうして、また姉貴が前を行く形で俺たちは歩きだした。
「なぁ、帰りは姉ちゃんが自転車漕ぐんだろ?」
「ぐるぐる見れなかったから、やっぱりあんた漕いで」
「おい何だよそれー。……、……え、マジで?」

それは積み上げられた石の前を通った時だった。
ふと視線の端に何かが居た気がした。
帰れると思ってすっかり気が抜けていた俺は、疑問を抱く前にそちらの方を向いてしまった。
石の横に何かが居た。
最初は猪か何か、獣かと思った。
少量の水で溶いた墨をぶちまけたかのような暗闇の中で、そいつは確かにこちらを見ていた。
身体が固まる。しかし無意識に前に居る姉貴の服を引っ張っていたらしく、姉貴が振り向く。
何か俺に文句を言おうとしていた様だが、それが口から出て来る前に姉貴も俺が見ている何かに気がついた。
ライトの光がそいつを照らす。
ぐるぐる様。
俺の聞いた噂では、身体のどこかが回転しているから、ぐるぐる様だと言っていた。
だが違った。『身体のどこか』 では無かった。全部だ。
例えば、こちらを向いてまっすぐ立った人間を一本の棒と見る。
その棒の腰辺りを正面を向かせたまま、向かって左に曲げる。胸の辺りでもう一度同じ方向に曲げる。首も曲げる。
まるでカタツムリの殻の様に、コーヒーに垂らしたクリームが渦を巻く様に、ぜんまいの様に、
そいつの身体は頭を始点にして渦を巻いていた。
だから、ぐるぐる様なんだ。
頭と思しきモノが膝の横にあった。
渦の外側はあまりに急激な角度で曲げられているため、所々黒い皮膚が裂けて、骨やら肉やら中身が飛び出している。
更に、ぐるぐる様は片方の腕が無かった。残った手は、バランスの悪い身体を支えるため地面についている。
身体のほぼ全身が黒かった。特に左半身が炭の様になっていた。目も開いているのは片目だけ。
異様だった。冗談だろ、ってくらい。
その姿は俺の想像のはるか上までぶっ飛んでいたため、悲鳴も出なかった。
俺は口を半開きにぼんやりと、ただ目の前の存在を見つめるだけだった。
「……ちょっと、ライト持ってて」
姉貴の言葉で、俺の中に放浪していた自我が一部戻ってきた。
姉貴はそんな俺の手にライトを握らせると、ぐるぐる様の方へゆっくりと歩み寄った。
『駄目だ』 とも『行くな』 とも言えず、俺は何をして良いか分からないまま茫然と姉貴とぐるぐる様に光を向けていた。
姉貴はぐるぐる様のすぐ傍で止まった。しゃがむ。何をしているのかは分からない。何もしてない様でもあった。
一度俯いて、それから立ち上がった。
「ライト消して」と、俺の方を向かずに姉貴は言った。
まだ茫然としていた俺は、二度同じことを言われてようやく反射的にライトのスイッチを切った。
暗闇。数十秒か数分。もしかしたら数秒かもしれなかった。
ただ、何も見えない中で、俺は段々と自分を取り戻していった。膝ががくがくと震えだす恐怖も一緒に。
「もういーよ。つけても」
姉貴の声がして、俺は急いでライトをつけた。光の先には姉貴の姿だけがあった。ぐるぐる様は居ない。
「大丈夫、どっか行ったから」
そうして姉貴は、未だ恐怖の余韻に震える俺の方を見て大いに笑った。
「なんか、生まれたての小鹿みたい」
馬鹿にされてもしょうがない。後で思ったことだが、ここに来る前にトイレに行っといてホントに良かった。
俺の震えは、姉貴に頭をたたかれないと歩き出せない程だった。

自転車を置いた場所に戻る前に、姉貴は積んであった石に向かって手を合わせた。
どうしてだか分からなかったが、急いで俺も倣う。『どうか祟らないでください』とお願いした。

それから二人で山を降りた。
「帰りは私が前」と言う姉を強引に後ろに乗せて、俺は若干飛ばしつつ深夜の家路を走った。
身体を動かしていた方が余計なことは考えずに済むだろうって寸法だ。と言っても、それは無駄な抵抗に近かったが。

「……あん時さ、ぐるぐる様と何してたんだよ?」
帰り道の途中、まだ怖かったが、俺は思い切って訊いてみた。
後ろで鼻歌を歌っていた姉貴は、そのまま歌う様に答えた。
「見てただけ」
「……どこ見てたんだよ?」
「うーん……。足の甲にあったVの字とか。あ、ローマ字の、大文字の方ね。おかげで、はっきりした」
「は、Vの字?」
「下駄か何かの、履き物の紐の跡。下駄なら鼻緒って言うんだっけ?そこだけ、うっすらと白かったから」
俺は馬鹿だったから、姉貴が何を言いたいのか分からなかった。
「それが何?」
「火傷を免れた跡ってこと。しかも、あの子の火傷は、左側が特にひどかった。たぶん、爆弾じゃないかな」
やっと呑みこむ。爆発に巻き込まれたから、あんな身体になり、火傷も負った。
しかし爆弾と言われても、現在を生きる俺には現実味が無かった。
「地面に落ちる前に塀か何かに当たって、丁度真横、左側、頭より上で爆発した。
 ……証拠は何も無いけどね。そう的外れでも無いと思う」
「爆弾って……、戦争?」
「そうだよ。だから、おばあちゃんの頃からこの話が伝わってる。
 南中山に埋められているのは、昭和二十年ごろに起きた大空襲の被害者って話だから。
 身元の分からない人もたくさんいた。その内の誰かじゃないかな」
昭和二十年。何年前だろう。とりあえず、俺が生まれていないことだけははっきりしている。
「……姉ちゃん、さっき、『あの子』 って言った?」
すると姉貴は、それを言うのをほんの少しためらった。
「……うん。子供だった。あんたと同い年くらいかな」
俺と同じくらい。
ぐるぐる様は戦争で死んだ子供だった。
それを思うと少しだけ、
ぐるぐる様に対して今まで抱いていたの恐怖の隙間を通って、しんみりとした何かが染み出して来た。
「どうして、今も出てきてるんだろ……」
呟く。
「空襲があったのは、夏らしいからね。忘れられないために、出て来るんじゃないかな。勝手な推測だけどさ」

それから少しの間、俺と姉貴は黙ったままだった。
夜空見上げ、俺はふと思う。
明日学校に行ったら、この噂を広めてやろう。
ぐるぐる様はただの妖怪とか幽霊じゃないんだぞ。戦争で死んだ子供なんだ。忘れられないために、出てきているんだ。
「平和にぃ、感謝だぁーっ!」
突然、後ろの姉貴が大声で叫ぶ。危うくこけそうになった。
振り向くと姉貴は「うははは」と可笑しげに笑っていた。
………………

「……まあ、十歳そこそこの頃に、姉貴に無理やり連れ出されて、いきなりアレだからなあ。ありゃ怖かった」
時間はそれから約十年後。ここは大学近くのKが住む学生寮の一室。
「って言うか。……Kって、姉さん居たんだねぇ」
「お、そういや言ってなかったっけか。何なら、今度紹介するぞ?最近近くに男っ気無くて暇だとか言ってたからよ」
「……いや、遠慮しとくよ。何かスゴイ人の様だし」
さっきの話で、今現在のKがこうもオカルト好きな理由の一端を垣間見た気がした。
類は友を呼ぶ、ならぬ、類は友を造る、か。
「そういえば、そのぐるぐる様ってさ。今も居るんかな?」
「ん。そらまた何で?」
「あ、いや。Kが一番怖いって言うくらいだからさ。僕も一度くらいその姿を拝んでみたいなー、なんて思ったりね」
「あ?あ、いやー違うぞ。そこじゃねぇ。確かに怖かったけどさ。一番って程でもねえよ。
 ……ワリーワリー。重要な部分が抜けてたな」
僕は首をかしげる。一体どういうことだろう。
「今までで一番怖かったのはさ。
 ……あの後、家に帰った後にな、抜け出したことが親にばれたんだよ。
 姉貴が夜に叫ぶもんだから、近所の人に聞かれちまって。
 で、家に帰ってから、猛烈に怒られるわけだ」
「……」
「そん時のオカンが、一番、怖かったな」
そう言ってKは「うははは」と笑った。









小話を一つ。

僕の住む街から車で少し走ると見えてくる山には、オカルトスポットとしてそこそこ有名なトンネルがある。
開通したのは昭和の初めで、山を越えて隣町に行く人が利用していたそうだが、
昭和から平成に移る頃に、別にもっと便利な道とトンネルが出来てしまったため、
滅多に人が通ることも無くなった、とのこと。
旧さがみトンネル。
何でも、トンネル内で行方不明になった女の子が、数ヵ月後にトンネルの出口からひょっこり出て来た、とか。
トンネルに入った時は確かに夏だったのに、出てきたら雪が降っていた、だの。
白い服を着た女の幽霊に壁の中へと連れ込まれる、といったものもあり。眉唾な噂話には事欠かない。

大学生時代、僕は一度だけこの旧さがみトンネルを通ったことがある。
季節は夏、時刻は午後十一時ごろ。
暗闇でも撮れるビデオカメラ一台と懐中電灯を持たされて、僕は一人トンネルの前に立っていた。
一緒に来た友人KとSの二人は、一足先にこのトンネルを越えた向こうで待っている。
といっても、トンネル内は道が悪く車が入れないので、彼らは車で新しい道の方からぐるりと回ることになる。
そうして、ジャンケンで負けた僕一人がトンネルを通るのだ。
ビデオカメラの電源を入れる。入口の横に、トンネルの情報を掘った石碑があったのでついでに撮っておく。
そうしてから、僕は唾を一つ飲み込み、懐中電灯を構えて暗闇の中に足を踏み入れた。

トンネル内はとても寒かった。ネズミ色の壁は無骨で、触るとやすりの様にざらざらとしていた。
地面には剥がれた壁の欠片や、風で運ばれて来たのだろう枯れ枝などが転がっている。
トンネルは入り口から向かって右の方へと緩やかなカーブを描いていた。
自分の足音と、入口から吹きこんでくる風の音が反響する。嫌なBGMだ。
ライトの光は頼りなかったが、手に持ったビデオカメラの赤外線映像は見なかった。

その内に出口が見え、僕はトンネルの外に出た。
いざ歩き終えてみれば別に大したことは無かったな、というのが感想だった。
辺りには人の気配は無かった。K達が待っているはずなのだが、どうやら僕の方が先に着いてしまったらしい。
外で待つこと数分、迎えがやって来た。
車から降りてきたKが「何かあったか?」と聞いて来るので、素直に「何も無かったよ」と答える。
それから三人で、先ほど僕がトンネル内を撮影した映像を確認した。
映像は二分半ほどだったが怪しいものは何も映っておらず、僕らは随分拍子抜けして、その夜は帰路に着いたのだった。
もう数年前の話だ。

ところがつい最近のことだ。
久しぶりにKと会って酒を飲んでいると、Kがあの夜肝試しで行った『さがみトンネル』 の話をしだした。
何でも、PCの整理をしていたら、あの時に撮った映像のデータを発見して、ふと懐かしく思い見てみたのだそうだ。
「当時は気付かなかったけどよ。意外と、とんでもねえもん撮れてんのな」
「何か映ってたん?」
「いや、別に妙なもんは映ってねえよ。……お前、トンネルに入る前に、傍にあった石碑撮ってたろ?」
それでも要領を得ない顔をしていると、Kが教えてくれた。
『さがみトンネル』 の全長は625メートル。あの石碑に小さく彫ってあったのだそうだ。
そのトンネルを、僕は僅か二分足らずで歩き切った。走っていないことは映像が証明している。
唖然とする僕を見て、Kは「うはは」と可笑しそうに笑った。
ちなみにあのトンネル。オカルトマニアの間では、『タイムトンネル』 と呼ばれているのだそうだ。








大学二年の春だった。
その日僕は、朝から友人のKとSと三人でオカルトツアーに出掛けていた。
言いだしっぺは生粋のオカルティストK君で、移動手段はSの車。いつもの三人、いつものシチュエーションだった。
車は今、左右を山と田んぼに挟まれた田舎道を走っている。車を運転しているのはSだ。僕は助手席、Kは後部座席。
目的地は、地元から二時間ほど車を走らせた村にあるという神社だった。
Kの話によると、何でもその神社は、ある奇妙で面白いモノを『神』 として祀っているのだそうだ。
「それってさ、僕らが行って見せてくれる様なモノなん?」
「……うーん? あー、……そこはだな、大丈夫じゃね。……たぶん」
後部座席から具合の悪そうな口調。Kは車に弱いタチなのだ。
「神主にはもう連絡とってあっからよ……。
 俺ら三人……、民俗学的な興味でやって来た、真面目な学生ってことになってっから。
 ……あー駄目だキモヂワリー……」
オカルトツアーは今までに何度も経験したが、僕らはそれが必要な場所は事前にアポを取る様にしている。
話をつけるのはKだ。大抵無下もなく断られるが、今回の様にOKの返事がもらえることもある。
まあ、許可が下りない時だって、『やるだけやった』 ってことにして結局行くのだけれど。
「でさ、その神社には何が祀られてるん?」
後ろを見やると、丁度Kの身体が横向きにバタリと倒れた。そのままの状態でKは言う。
「……袋だ」
「袋?」
僕は訊き返す。その神社は袋を祀っているのだろうか?
「あーうー、……いや、何か袋持ってね?やべ、吐きそう、っぷ」
運転していたSが黙って道の脇に車を停めた。
Kはヨロヨロと外に出て行き、林に少し入ったところで、今朝食べたナニカと感動の再会を果たしたようだった。

それからしばらく走り、村に着く。山間に造られた小さな村で、神社はすぐに見つかった。
入口には石の鳥居。近くの路肩に邪魔にならない様駐車して、僕らは外に出た。
Kもどうやら息を吹き返したようだった。
「間違っても境内では吐くなよ。まがりなりにも神の居るところだ」
SがKに向かって言う。
「……吐かねーよ。もう腹ん中になーんも残ってねえし。ってかお前、そんなん信じる奴だっけか?」
「郷に入れば……って奴だ。それに俺らは今、民俗学専攻らしいしな」
鳥居の向こう側には、自転車で行けるんじゃないかってくらいなだらかな階段が木々の間を伸びていて、
その奥に拝殿らしき建物が見えた。
鳥居をくぐって参道に入る。
頭上には周りの木々の枝と葉が陽の光をいくらか遮っている。木漏れ日。風が吹く度にさわさわと足元の影は形を変える。
吸い込む空気がどこか違うもののように思えた。

参道で一人の腰の曲がった老婆とすれ違った。彼女は僕らを見とめると、しわの刻まれた顔で微笑み会釈した。
僕は軽く頭を下げ、Kが加えて「ちわー」と声を掛ける。参拝客だろうか。
境内はあまり広くない。拝殿と、その後ろに本殿。
参道から向かって右側には、水で手や口を清める場所。水盤舎というのだったか。
その隣には、人の背丈よりは大きい程度の社があった。
社の近くに箒を持って掃除している人が居た。
男性。歳は四十後半だろうか。上は青いジャンバー、下はジャージとラフな服装だった。
「ああ、君らかえ。電話くれたんは」
僕らを見つけると、彼は穏やかな笑顔を浮かべてそう言った。ということは、この人がここの神主さんなのだろう。
想像していたより若い。
互いに自己紹介を済ますと、普段は農家でゆず等を作っているらしい神主さんは、箒の柄の部分で隣の小さな社を指した。
「ほれ、これが電話で言うた『ふくろさん』 よ。まずはどういうもんか、よう見とき」
どうやら目的のものはこの社の中にあるらしい。神主さんに促され僕らは社の中を覗く。
両開きの扉の奥、そこには何やら奇妙な物体が置かれてあった。
『ふくろさん』
名の通り、それは袋だった。
材質は麻だろうか。薄茶色をした人の頭ほどの大きさをした袋。上部を赤い紐で縛っている。
それだけなら、何だか良く分からないモノで済んだのだが、
異様だったのは、その袋の接地面を除いたありとあらゆる箇所に、『針』 が刺さっていることだった。
待ち針も縫い針も長い針も短い針も、様々な針があった。
「さっきは『ふくろさん』 っていうたけんど、名前なんてあって無い様なもんやけぇ。これには。
 うちの親父なんかは、ハリネズミさま、ハリネズミさま言うとったわ」
社の屋根に手を乗せて神主さんが言う。
「こいつに針を刺すと、過去の罪とか過ちが消えるって言い伝え、本当ですか?」
Kの言葉に、僕は針だらけの袋を見やった。なるほど、只の袋では無いと言うことか。
でも、そんな言い伝えがあるような大層なモノには見えないのだけれど。
「そうな。言い伝えがあるんはほんまよ。信じるか信じんかは人次第やけんど。
 村のジジババらあはまだ信じとって、刺しに来るもんもおらあな。
 ……君らも刺すか?何かやましいことでもあるんやったら」
僕らは互いの顔を見合わせる。僕は首を横に振って、Kはへらっと笑い、Sは小さく肩をすくめた。
三人ともやましいことなど何も無いと思っているのだろう。バチ当たりな連中である。
「はっはっは。ほうかほうか。真っ当な人生を送りゆうようで何より何より」
そう言って神主さんは可笑しそうに笑った。
「じゃあ、私はちょっくら向こうの方を掃いてくるきよ。なんか聞きたいことがあったら呼びんさい」

神主さんが本殿の方へ行ってしまい、残された僕ら三人は、改めて社の中の『ふくろさん』 をじろりじろりと観察していた。
「針を刺すと過ちを払う袋、か。初めて聞いたな」とSがぽつりと呟く。
「『ふくろさん』 って名前がどうもなあ。それだと頭に『お』 をつけたらお母さんになっちゃうし」と僕。
「正式な呼び名は無い、って言ってたろ。その『ふくろさん』 も、参拝客の間で広まった名前だろう。
 ……で、結局のところだ。俺らは今日、この袋をただ拝みに来ただけってことか?」
そう言って、SはKの方を見やった。
それは僕も思っていた。
確かにこの幾本も針の刺さった袋は異様ではあるけれど、Kのオカルトアンテナに反応する程の物件では無い気がする。
言ってしまえば、この袋はそこらの寺に置かれている仏像とさほど変わりはない。
Kは「うはは」と笑う。
「んなわけねーじゃん。それと、今日拝みに来たのはこの袋じゃねーよ」
そしてKは僕とSの胸ぐらをつかみ自分の方へと引き寄せると、
「拝みに来たのは、この袋の中身だ」
囁く様な声でそう言った。
袋の中身。
僕は何となく綿でも詰まっているのだろうくらいにしか思っていなかったのだけれど、
Kの口調からすると、まあ綿ではないみたいだ。
「この袋には噂があるんだよ。針を刺した瞬間袋が動いたり、鳴き声を上げたり。
 ……中には動物が入ってんじゃねえかってな。
 火の無いところにゃ煙は立たず。本当に動物か、もしくはそれ以外か……」
その瞬間、辺りに何かの鳴き声が響いた。僕は思わず社の中の袋を見る。
けれども鳴き声は頭上からで、鴉だろうか、黒っぽい鳥が一羽空へと飛び立っていった。
「……どうやって、見せてもらうのさ」
一つ息を吐いてから僕はKに尋ねる。
先程話した印象では神主さんは気さくな人柄だったが、そうやすやすと自分のところの御神体を見せてくれるだろうか。
それに、袋には数え切れない程の針が刺さっている。
袋を開けて中を見るには、これらを一本一本抜かなくてはならないだろう。
「別にこの目で見ないと収まらねーってわけじゃねえよ。
 ま、手っ取り早い方法は神主のおっさんに訊くことだよな。そのために電話したんだし。答えてくれるか知らねーけど」
「訊くだけでいいん?」
「それで納得出来りゃあな」

というわけで、神主さんの元へ話を聞きに行く。彼は本殿の周りの掃除をしていた。
「最近掃除もサボっとったき、えらいことになっちゅうな。はっは」
僕らが近づくと、しゃがんで本殿の下を掃除していた神主さんは笑いながらそう言った。そして腰を叩きながら起き上がる。
「なんぞ聞きたいことでもあるかえ」
「あーはい。あの『ふくろさん』 の中って、何が入っているんですかね?」
何の探りもひねりも入れず、ストレートにKは尋ねた。一呼吸程おいて神主さんがKを見やる。
「聞いてどうするよ。大学のレポートにでも書くかえ?」
「あ。そのつもりっす」
嘘だな、と僕は思う。神主さんは穏やかに笑った。
「メモの用意を忘れとるぞ」
その言葉にKは少しうろたえる。その様子を見て神主さんはまた「はっは」と笑う。
「ええよええよ、わかっとる。前にも、君らの様な若者らあが、興味本位でやって来たことがあったきよ。
 まあ君らは礼儀正しい方やけんどな。ちゃんと、事前に連絡もくれたしな」
どうやら僕らの目的は最初から筒抜けだったようだ。
「中身、見せてくれませんか?」
「すまんけんど。それは出来んわ」
穏やかな口調の中に断固とした意思が感じられた。これはいくら頼んでも無駄だろう。
「あの中身については、教えるわけにはいかんのよ。
 ……ああ、それとも、君らの内、誰か一人がここの跡継ぎになてくれたら、そうなりゃあ教えちゃれるわ。
 おう、そらええ考えやと思わんか?」
本気で言われているのか、からかわれているのか、どっちとも取れず、
「はっはっは」と笑う神主さんを前に、僕らはただ曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
結局、『ふくろさん』 に関して神主さんからは何も情報を引き出せず。
僕らは一旦彼にお礼を言って、神社から出ることにした。

車に戻り、どこか憤慨したようにKが言う。
「くっそ、あのオッサンめ。代々神主しか知らない中身って、余計気になるじゃねーか」
「もしかしたら、俺らのこと監視してたのかもな。神体に妙なことしないかどうか」
Sが運転席に腰かけ、リクライニングを少しばかり後ろに倒しながらそう言った。
「そうなん?」と僕。
「……さっき、あのオッサン言ってたろ。前にも同じようなことがあったって。
 でも俺らとは違い、電話でアポはとってなかった。
 ……それでもそいつらが、『若者たち』 だって知ってるってことは、何かやらかしたんだろうな、そいつら」
「その場に居たんじゃない?神主さん」
「あのオッサン、あんま頻繁にここに詰めてる風でも無かったろ。まあ、居たかもしんね―けど」
「やらかしたって、何をやらかしたん?」
「知らねえよ。俺に訊くな」
その時、Kがぽつりと呟いた。「……呪いだ」と。僕とSは後部座席を振り向く。
「それってよ。そいつら、袋に何かしたせいで呪われちまったんじゃねーの?
 で、どうしようも無くなって、あのおっさんに泣き付いた」
「ねーよ」
即座にSが否定する。
「そーか?俺的にはイイ線いってると思うんだけどな……」
Sに否定されたせいで、Kの名推理はしおしおとしぼんでしまった。
「……で、どうするのさ?」
僕がKに尋ねると、Kはうーんと軽く唸った後、運転席を後ろから蹴りあげて、
「おーいS、車出せよ」
そしてシートにもたれかかって目を閉じる。
「俺たちは、やれるだけやった」とそう言った。
事前に見に行くと連絡を入れ、袋の中身は何なのか聞き、見せてくれないかとも頼んだ。
それでも駄目だと言われれば、それはもう仕方が無い。
結局は無断で見せてもらうしかないわけだ。

その日の夜のこと。
神社から少し離れた場所に車を停めて、僕とKは懐中電灯を片手に、またあの石造りの鳥居をくぐっていた。
Sは来なかった。「俺は眠い」とだけ言って、今は車の中でお眠りしているはずだ。
夜の境内は朝とはまるで違う雰囲気だった。
前に来た時には爽やかさを含んでいた木々のざわめきが、今や得体の知れない何者かの息使いに聞こえる。
「そこだ」とKが言う。水盤舎の隣の小さな社。
見ると、朝は開いていたはずの扉が閉まっている。近づいて良く見ると、鍵もかかっているようだ。
どうするのかと思っていたら、Kが社に近づき、僕に「ライトで扉を照らしてくれ」と言った。
ポケットから何かを取り出す。どうやらそれは、工具用の細いドライバーと針金の様だった。
※以下は空き巣の手口と同様なので、ここに書き示すことは出来ません※
そのうち、ガタリと音を立てて扉が外れる。その扉をゆっくりと地面に置いて、Kは「ふう」と一息ついた。
社の中に手を入れ『ふくろさん』 を取り出す。そして地面に置いた扉の上にそっと乗せた。
「うひゃあ、犯罪だねえ……」と僕が呟く。
「しかも完全犯罪だぜ。明日来たって誰も気づかねーからな」
もちろん、袋の中身を見た後は、全て元通りにして退散するつもりだった。
立つ鳥跡を濁さず。それがオカルトに準ずる者のマナーだと、Kは常々言っている。
僕は手にした懐中電灯の光で、袋を色々な方向から照らして見た。やっぱり針だらけだ。
そこで気がついたが、袋の口を縛る赤い糸、その結び目にも一本の針が通してあった。
「ふくろ、重かった?」
「いや、それほどでもない。一キロかそこらってとこじゃね」
そして僕とKは互いに顔を見合わせる。
「んじゃ、抜いてくぞ」
Kが呟き、最初の針をつまむ。するり、と針は抜けた。
刺さっていた部分と外に出ていた部分で色が違う。先の方は、まだ銀色の光沢を放っていた。
一本、一本と針が抜けて行く。抜いた針は、車から持ってきたティッシュの空き箱の中に入れていた。
Kは全部の針を抜いてから、口を縛っている紐を解くつもりの様だった。
もしかしたら針を抜いている間に何かが起きるかもと、期待したのかもしれない。

袋をライトで照らしながら、僕は針の数を数えていた。半分ほど抜き終わったところで四十一本。
そうしてから、ふとこの針の数は、人の犯した過ちの数なのだと言うことを思い出す。
僕たちは今何かとんでもないことをしているのかもしれない。
それでも針は抜かれてゆく。
針は残り二十程。
その時だった。鳴き声が聞こえた。
僕ははっとして辺りを見回す。鳥?違う、猫の鳴き声に近い。赤ん坊の泣き声にも聞こえる。
赤ん坊、自分で連想した言葉に背筋が凍る。
Kの手が止まった。彼にも聞こえているのだ。まだ鳴いている。
けれど鳴き声の出所が分からない。左の茂みの中からでもある様な、右の拝殿の下からでもある様な、
空からでもある様な、地面の中からでもある様な。
そして、すぐ傍らの袋の中からでもある様な。
袋。
袋が微かに動いた。
「うわ!」と僕は反射的に後ろに飛びのいた。Kは動かなかった。
ザア、と枝の擦れる音、ナニカのなき声。
頭の中でみーみーみーとエラー音が鳴る。経験上、この音が鳴りだすとヤバいことが起きる。
目を見開く。
それでもまだKは袋から針を抜こうとしていた。
「K、もう止めよう!」と声を掛けるが、Kは針を抜くのをやめないどころか、僕の声も聞こえていない様だった。
立ち上がると足が震えた。全身の血流が段々早くなっているのが分かる。
骨振動で伝わる心臓の鼓動が、まるで大太鼓の様だ。
どうすればいいのか、何をすればいいのか。
Kを殴り倒せばいいのか。Sを呼んでくればいいのか。分からない。動けない。
「そいつをはった倒しい!」
声が聞こえた。
その瞬間、僕の身体は動き、両手でKを突き飛ばしていた。
ライトの光が僕の身体を照らし、僕は振り返った。
そこに居たのは、朝と同じ服装の神主さんだった。
「やれやれ。心配になって来てみりゃあ……、案の定かえ」
外された社の扉とその上に乗った袋を見て、神主さんは深く息を吐いた。
「このバカたれが」
「す、すみません!」
突き飛ばしたKは未だ起き上がって来ない。仕方なく僕は一人きりで神主さんに向かって頭を下げた。
「まあ……間にあったき良かったわ。あれを見とったら、そういうわけにもいかんきよ」
そして神主さんは倒れているKの方を見やる。
「その子を起こしんさい。君ら二人、やらんといかんことがあるけえ」
数回肩を揺すぶるとKは目を開いた。
しばらく焦点のあっていない目で神主さんの姿を見ていたが、はっと我に返り、
「すいませんでしたあ!」とその場に土下座する。
「もうええもうええ。そんで、針を抜いたんは、どっちかえ」
「あ……俺です……」
そろそろとKが手を挙げる。
「ほうか。そんなら君の手でまた針を戻しんさい。
 その袋は針を刺すたんびに、ケガレをはろうてくれるき。罪もそう、過ちもそう……。
 すみませんでしたと思いながら、一本一本丁寧にな」
「……何か見えるんですか?」
恐る恐るKが尋ねる。
「見える言うた方が怖がるやろうが……、あいにく見えん。でもな、この袋は昔っから『そういうもん』 やき。
 それにな、前に来た若者らあは、それを見て、戻ってこれんようになった」
ぞくりとした。
Kもそれ以上は何も言わず、黙って針を元通り刺し始めた。
「……まあでもなあ、これだけ言うても、知らなんだらまた来るかもしれんきねぇ」
黙々とKが針を刺していく中、神主さんがぽつりと呟く。
「やりながらでいいき聞きんさい。
 この袋はな、本当は『ふくろさん』 じゃのうて、別に名前があってな、本当の名は『いぬがえし』 っちゅうんよ」
Kと僕は驚いて神主さんを見る。
すると彼は穏やかに笑って、
「好奇心が猫を殺すんなら、今の内にその好奇心を殺しとこうち思うてな。それも、誰にも言わんと、約束できるんならな」
僕らは頷く。
そして神主さんはこの袋のことを話してくれた。
いぬがえし。漢字で書くと『犬返』 となるそうだ。
中に入っているのは動物の死骸。それも血と内臓を抜き取り、ミイラ状態になったモノが入っているという。
「中を空っぽにするんよ。生き物やなく入れ物になるよう。
 ……そうして、その入れ物の中に、針を通して人の持つケガレを移しかえる。
 いぬがえしの目的は、そのケガレを払うということ。
 ああ、誤解せんでほしいんは、それらの動物は、ちゃんと寿命をまっとうしちゅうき」
今は袋の中には猫のミイラが入っている。と神主さんは言う。
「親父は、ネズミ何かもよう使っとったな。まあ、あれは針がようけ刺せんけぇ。あまりようない言うとったけどな。
 猪もあった、ヘビも、犬もあった……」
動物なら何でもええんよ。と神主さんは言う。
「針を通してケガレがいっぱいになったら、そのミイラは本殿の中で祀られる。神さんになるんよ。
 長いこと、人の代わって多くの恨みつらみを担いだけえ」
人々のケガレを代わりに担いでくれるモノ。
「今でこそ農業の神さんを祀っとるが、昔この神社は、そうやって出来たミイラらあをひっくるめて、主神として祀っとった。
 『おおいぬ様』 いうてな」
言わばそれは、大きなケガレの塊、恨みつらみの塊ではないのだろうか。それをこの神社では神として祀っている。
「神道ではな、エライもんが神様になるんじゃのうて、力のあるもんが神になる……」
僕の疑問を読み取ったかのように、神主さんはそう言った。
例えそれが恨みつらみだとしても、力があれば神にもなる。
「……お、終わったか」
話している内に、Kが抜いた分の針を刺し終わっていた様だ。
それを確認し、神主さんは懐から何かを取り出すと、僕とKに手渡した。
それは針だった。
「これが、今日君らが犯した過ちの分やき。これもちゃんとゴメンナサイ言うて刺しい」
悪さしてすみませんでした。でも悪気は無かったんです。本当です。ゴメンナサイ。
そんなことを思いながら僕は袋に針を刺した。
「よし、これで君らは大丈夫」

それから僕とKは袋を元の位置に戻し、外した扉を直してから、神主さんに二人でもう一度謝った。
「ええよええよ。まあ、これに懲りたら。もう、危ないことはしなさんなよ」
そう言って、神主さんは最後に僕らの頭に一発ずつ痛いゲンコツをくれると、
笑って「機会があれば、また来んさい」と言ってくれた。

車に戻ると、仮眠から起きたSが僕らの表情を見て軽く吹きだしていた。どんな表情をしていたのか自分でも分からない。
でも、今回のオカルトツアーで、僕らは多くのことを学んだと思う。
帰り道、窓の向こうを流れる夜の山々を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。
ふと、後部座席のKを見やると、さすがの彼も反省している様だった。
何か思いつめた表情で足元を見ていたが、やがて顔をあげると、僕に向かってぽつりと呟く様に言った。
「……あのオッサンの話聞いてたらさ、本殿には人のミイラとかありそうじゃね……。お前どう思う?」
「……、……あったら、どうすんの?」
「見せてくれってあのオッサンに聞いてみる」
「駄目って言われたら?」
「そん時は、やるだけやったんだから……あ!いや駄目だ!うーんとだな……ええ?
 うおおっ、どうしようS!俺どうしたらいい!?」
「とりあえず黙れ」
訂正。今回のオカルトツアーで、僕らが多くのことを学んだというのは間違いだった。
好奇心猫を殺す。
たぶんそれが僕らの得た唯一の教訓だった。
まあそれだけでも、大きな進歩ではあったのだけども。









大学一年生の春、僕は生まれて初めて自らの意思で心霊スポットに赴くことになった。
大学主催の新入生歓迎会で、オカルティストのKと知り合ったのがきっかけだ。
歓迎会があったその週の土曜日、深夜十時。僕は待ち合わせ場所の大学正門前でKと落ち合った。
Kの話によると目的の廃病院は、街を北西に向かい、その先の山を少しばかり上った場所にあるらしい。
もちろん歩いては行けない。
当時の僕は原付バイクの免許すら持ってなかったし、
そもそもこの歳で自転車すらまともに乗れない程の、『車輪オンチ』 だったのだけど、まあ、それはいいとしてだ。
廃病院までは、Kの友人のSという人が車を出してくれるらしい。
Sは僕と同い年で同じ学科だとKが教えてくれた。
僕はSと面識が無い。先日の歓迎会にも来ていなかった様だし、まともに会うのはその時が初めてだった。
僕はKに、Sはどういう人かと尋ねてみた。するとKは「うーん、まー、そーだなー……」と一つ間を置いてから、
「理屈好きで説教好きで頑固で皮肉屋でリアリスト」
そして可笑しそうに「うはは」と笑った。
僕は何を言えるでも無く、「ふーん……」とだけ述べておいた。
とりあえず僕の中でのSのイメージが、
一昔前の特撮アニメで出てきた白髪で眼鏡のマッドサイエンティストで固まったことだけは確かだった。
「KはS君と、前々から知り合いなん?」
「おう、小坊のころからだから、もう腐れ縁だな」
そう言ってKはまた「うはは」と笑う。
噂をすればなんとやらと言うが、Sがやって来たのはその直後だった。
正門前で待っている僕ら二人の前に、やけに丸っこいボディをした小型車がやって来て停まった。
窓が開いて、運転手が外に顔を出す。
若干細目で、髪ぼさぼさ、セットしていないのか所々寝癖の様にはねていた。この人物がSの様だ。
残念ながら白髪では無かったが、眼鏡はかけていた。
Kが僕のことを紹介しようとすると、Sは面倒くさそうに方手を振り「後でいい。とりあえず入れ。さみぃから」と言った。
Kが僕の方を向いて『だろ?』 と、そんな表情をした。僕は、なるほど、と思った。

新たに僕とK二人を乗せてSの車は走り出した。運転するのはSで、助手席に僕、後部座席にはKが座っている。
正直、今日が初対面であるSの隣よりは、後部座席の方に座りたかったのだけど、
Kが言うには、後ろは彼の特等席だから駄目らしい。
そしてKはと言うと、車が発進するや否や、二人分のシートにバタリと横になって眠ってしまった。
Kが僕とSの間を取り持ってくれると思っていたので、これは予想外の事態だった。
しばらくの沈黙。車内にBGMは無い。
「……Kから何処まで聞いた?俺のこと」
さてどうしようかと悩んでいると、Sがいきなり口を開き僕は慌てる。
「あ、それはえっと、えーとだね。……S君って名前と、あと理屈と説教と頑固と皮肉とリアリストが好きって」
しまった、間違えた。別にリアリストが好きだとは言っていなかったな。
しかし弁解する間もなく、Sは怪訝な顔をしてバックミラーを見やる。
「別に好きなわけじゃない。ってか何吹き込んでんだあの馬鹿は……」
すんませんK。僕は心の中で謝った。
「まあ、名前さえ間違ってなきゃそれでいいんだがな」
「……S君で合ってるよね?」
「ああ。それと、『君』 は要らない。Sでいい」
それから僕とSは互いに自己紹介も兼ねた会話を交わした。
初対面の時は気難しい印象を受けたのだけど、話してみれば意外とそうでも無く、
少なくともKよりはよほど常識を持った人の様に思えた、その時は。

いつの間にか車は市街を抜け、山へと続くなだらかな坂道に差し掛かっていた。
しばらくその道を上って行くと、僅かな外灯の明かりの中に、その薄灰色をした建物は唐突に姿を現した。
Sがその入口の門の近くに車を停める。ここが目的の廃病院らしい。
後部座席で眠っていたKがむくりと身体を起こした。
「んふー……ふわあぁおぉえあ。んーだ?お、着いたみてーだな」
Kがドアを開けて外に出たので、それを追って僕も持参の懐中電灯を握りしめ車外に出る。
外は寒い。
門の向こうには少しばかりの駐車スペースがあるようだったけれど、
『立ち入り禁止』 の看板と共に門が閉められているので車は入れない。
門の向こうに見える建物は、昔は白かったのだろうが、灰色の外壁の表面が所々剥がれ、細い亀裂が幾本も走っている。
二階建てだった。
一階の窓や入口にはトタン板が打ち付けてあり、
山を背にしたその建物は、夜の暗さと相まって何とも言えない暗鬱な雰囲気を漂わせていた。
「……昔はなー、ここからもう少し上った場所には集落があった。
 でも、いつかの地震で大規模の地滑りが起きて、集落は無くなっちまった。
 その集落の人間が主に利用してたのが、この病院だったっつー話」
言いながら身体をほぐす様に色々動かしていたKが、
自分の手にしていたライトを一旦ズボンのポケットに差し込み、両手を自由にする。
「……ここには色々噂があってだな。それこそ今から全部紹介してたら、それだけで朝になっちまうくらい」
そしてKは門に手を掛け足を掛けて、そのままひょいと乗り越えた。向こう側に降り立ち、こちらを振り向く。
「ってなわけで。さっそく、行こうぜ」
門に貼られた 『立ち入り禁止』 の張り紙が空しく感じられる。一瞬躊躇うも僕も行くことにした。せっかくここまで来たのだ。
けれども、そこでふと気がつく。Sのことだ。Sはまだ車から出ていない。
何をしているのかと思ったその時、運転席側の窓がスライドしてSが顔を出した。
「……俺は別に、幽霊やらその類に興味はないんでな」
まるで見透かしたようなタイミングで僕に向かってそれだけを言うと、Sの首はまた車内に引っ込んだ。
ウィーム、と音がして窓が閉まる。
「あいつ、立ち入り禁止って場所には入ろうとしねーんだよな。……別にワリーことしに行くわけじゃねーのにな」
と門の向こうからKが言う。
確かに荒らしてやろうだとか、ヤクの取引場所として利用しようとか、そういう意識は無いけども。
「まあ、入ること自体が不法侵入っていう、れっきとした犯罪ではあるけどね……」
自分の口から出た言葉が、幾分自嘲気味に聞こえる。まあ、ここに来ると決めた時点で、開き直ってはいるのだが。
「ちげえよ。ちげえ。俺はちゃんと事前に役所に電話して、『入っていいか?』 て訊いたんだよ。
 そしたら、『駄目』 っつーもんだから、仕方なくこうやってな?」
「どっちにしろ入るんやったら、訊く意味無くない?」
「礼儀だよ。礼儀、いいじゃん。ほれ、いこうぜ」
Kに促され僕は門を乗り越えた。
敷地に降りた瞬間、何やら身体中を無数の手に撫でられるような感覚があった。鳥肌が立つ。
門という壁一枚隔てただけで、これほど空気が変わるものなのか。
Kもそれを感じていたのか、まるで泥棒の様にそろそろ歩きながら病院まで近づいた。
二階建ての病院は近くで見ると、先ほどより大きく見えた。夜だからだろうか。
二階の窓に一瞬何かが映った様な気がして、僕はとっさに目をそむける。
「んじゃ……、お邪魔しまーす……」とKが言った。
入口はトタン板で打ちつけられているので、その横の割れた窓から入ることにする。
おそらくは以前にここにやって来た僕らの様な人が、力ずくでトタンを剥がしたのだろう。
最初に入った先はどうやら受付をする部屋らしかった。
年月のせいで黄ばんだ書類がカウンターの下に散らばっている。ここに通っていた患者の個人情報だ。
あまりじろじろ見てはいけない、と自分に言い聞かせた後で、そうした心遣いの無意味さに気付いてひとり苦笑する。
次の瞬間、文章が不自然な箇所で途切れている書類を見つけ、苦笑は止んだ。
ロビーに出る。二人分の懐中電灯の光のみが照らす病院内には、月明かりすら入って来ない。
侵入してから、二人とも未だ無言。
院内は外観に比べると比較的綺麗だった。
割れた蛍光灯の破片やパイプいすや医療器具などが散乱しているが、
有名な心霊スポットの様に壁や床への落書きなんかは見当たらない。
ただ、それが逆にこの病院が未だ『生きている』 ように感じられて不気味ではあった。
それともう一つ、音がしていた。微かだが確かに聞こえる。
Kは何も言わなかったけれど、おそらく気付いている。『キィ……キィ……』 という何か金属がこすれるような音。
僕らは二人とも、風のせいだと思いこむか、もしくは聞こえないふりをしていた。
音は二階へと続く階段から聞こえていた。ただ、Kは先に一階を見て回るつもりのようだった。

一階の手術室、レントゲン室、診察室などを順に見て回る。
どの部屋も印象深いが、特に手術室にあった緑色の手術台が目に焼き付いた。まるでまな板の様だと思った。
けれど考えてみるとそうだ。手術台は人を捌くまな板だ。台の縁には血痕の様なシミも残っていた。

一階を一通り見て回る。
他のドアは全て鍵が壊されていたが、何故か一番奥の霊安室だけは、鍵が掛かっていて入れなかった。

ロビーに戻り、そのまま僕らは階段へと向かった。
その際に、Kがぼそりと言った言葉がある。
「本番は、病室のある二階だ」
今までは前座だったのか。

二階に上がる。
……キィ、キィ、キィ……
音がする。一階に居た頃よりもはっきりと。
「……さっきから、何の音だろう?」と僕は呟く。
「……ここには、車イスの霊がでるって噂もある」とK。
何故か二人とも囁く様な小声になっていた。そして二人とも声が少し震えている。
僕はKが例え僅かでも怖がっていることに驚いていた。こういうことは慣れっこだろうと思っていた。
存外頼りないのかもしれない。ああ、そうか、だから僕を誘ったのか。Sは来てくれないから。

Kの評価が段々下降修正される中、それを阻止しようとKはゆっくりと音の出所へと向かい、僕はその後ろをついて行く。
音の出所は『202号室』と書かれた病室の様だった。まだネームプレートもそもまま残っている。
井出……高橋……仲瀬川……一つプレートが空いている。ここは四人部屋らしい。
キィ、キィ、……キィ、キィ
音がする。音がしている。このドアの向こうで。
その時、ドアの前に立つKが何の前触れも無く、「……うははは」とひきつった笑い声をだした。
憑りつかれたのかと身構えるが、ただの緊張からくる笑いの様だった。
「……ノックが要ると思うか?」
「いらないと思う……」
「おーけー」
Kがノブに手を掛け、ドアをそっと押して開く。
懐中電灯二本分の光の筋が病室内を照らした。
部屋の端にそれぞれベッドが四つ。マットもシーツも枕もそのままだった。
ドアを開けた瞬間、僅かな風が頬を撫でる。
見ると、窓が割れていて室内に風が吹きこんでいる。
その風のせいで、半分天井から外れかけた蛍光灯の傘が揺れて、
ベッドの横、天井から床まで伸びる鉄製のパイプと擦れ合って、ひび割れた音を出していた。
音の出どころはこれだったのか。
ふう、と隣でKが息を吐くのが聞こえた。同様にKも僕が息を吐いたのが聞こえただろう。
病室内に入る。窓から外を見ると、門の向こうにSの車が見えた。
窓に近い方のベッドの骨組は錆つき、シーツは黒く変色している。
床や天井も幾箇所か剥げており、他の部屋は見ていないが、
おそらく窓が割れているせいで、廃れるのも早かったのだと見当付ける。
このたった四つのベッドで、一体何人の人間が息を引き取ったのだろうか。
一通り室内を見終わったらしいKが、病室を出ようとしている。
僕も入口のドアに向かおうとして、しかし、ふと立ち止まる。一瞬、懐中電灯の光が何かを照らした様な気がした。
入口から見て右手前のベッド。もう一度照らす。
ベッドの上、壁側、枕の横に何かが見えた。白を基調とした病室の中で、その色はちゃんと自己を主張していた。
僕はベッドに近づいてそれを拾い上げる。
折り紙だった。かなり変色しているが、青と、黒色。
鶴ではない。やっこさんだ。しかも袴、足がついている。二枚の折り紙を組み合わせて作るタイプのものだった。
身体が青。袴が黒。
誰かが患者のために折ったのだろうか。
そして僕は息を呑んだ。
ふと、そのやっこさんをライトで照らした瞬間気付いた。
袴の色は黒では無い。黄色だ。黄色い折り紙に、黒い文字がびっしりと書き込まれている。だから黒く見えたのだ。
『あし』
文字はひらがなでそう書かれていた。
よせばいいのに、やっこさんの袴を広げる。
やっぱりその紙には、裏表両方に隙間なく『あし』 と書かれていた。文字の大きさも、方向もバラバラだった。
良く見ると、ベッドの下に隠れる様に同じやっこさんが幾つも落ちていた。めくったシーツの中にも、枕の下にも。
割れた窓から風が吹きこんでくる。
カツン……ギギ……カツ……
半分取れかけた蛍光灯の傘が揺れて、鉄のパイプと擦れ合う音。
違う。音が違う。
僕が聞いたのはこんな音じゃなかった。
そうだ。それにそもそも、扉が閉まっている室内で僅かな風が音を鳴らしたとして、
それが一階まで聞こえて来るはずが無い。
キィー……、キィ、キィ
背後であの音がした。大きい。何かが僕に近づいてきている。Kじゃない。Kはもう病室を出ている。
心臓が派手に脈打つ。息が出来なくなる。振り返れない。
キ……、……
音が止んだ。
誰かがそっと僕の上着の裾を引っ張った。丁度小さな子供が下から裾を引く様に。
意識の糸は極限まで張りつめ、失神しても何らおかしく無かったと思う。
その時、開いたままのドアから光の筋が射しこんできた。
「うおおっ!?」
誰かが奇声を上げた。悲鳴では無く奇声。Kが戻ってきたのだ。彼は僕の背後に居るナニカを見たに違いない。
ただ、その奇声のおかげで、僕は自身のコントロールを取り戻した。
足が動く。僕はわき目も振らず扉へダッシュし、病室を飛び出た。
その際にKと肩がぶつかったけれど、「ごめっ」と一言、構うこと無く一階ロビーへ続く階段を駆け降りる。
Kも後から走って追いついてきた。
受付の中に飛び込み、入って来た窓から外へと出る。
それでもまだ安心できず、僕とKは走って走って、すごい速さで門をよじ登り飛び越えた。

車のドアを開き、中に滑り込む。そこでようやく僕は病室からずっと止まっていた呼吸を再開した。
Sが突然の僕らの帰還を、驚いた様な呆れた様な目つきで見ていた。
僕は息を整えるので精いっぱい。Kは脂汗を浮かべながら、「あーやべえ、あれはやっべえ」と何度も繰り返していた。
シートに深くもたれかかる。怖かった。でも、助かった。
全身の力が抜ける。
例えば、ホラー映画ではこの瞬間が一番危ない。
コツ……コツ……
身体中の産毛が逆立つような感覚。反射的に飛び起きた。
誰かが車をノックしている。
僕が座る助手席の窓。僕はその方向を見てしまった。
白い手がガラスの下の方を叩いている。
「だあS車!」
Kが叫ぶ。彼にも見えたらしい。
二人がパニック気味になる中、只一人Sだけは怪訝そうな顔をしていたが、何も言わずエンジンを掛けた。
例えばホラー映画ではこう言う場合、得てしてエンジンが掛からないものだが、そんなことは無かった。
車はUターンするために一度バックする。
見えた。
それは車イスだった。それと、車イスを動かす白く細い手。
僕に見えるのはそこまでだった。後は何も見えない。誰が乗っているのかも分からない。
ただそれが何であれ、生きた人間でないことは確かだった。
「くっそが!病院外まで追ってくるとか……、おまっ……、ルール違反だろが!」
Kがその車イスに向かって叫ぶと、それに呼応するかのように、滑る様にイスがこちらに向かってきた。
「だああSもっと飛ばせよ!」
走り始めた車の速度は時速四十キロ。あの車イスはそれについてきている。
僕の頭は恐怖のためか、それとも単に混乱していたのか、
あの車イスにはたぶんターボが内蔵されているのだな、などとそんなことを思っている場合ではもちろん無いのだけれど。
「車イスは車だけど車じゃねえぞオイ!」
Kも同じ気持ちだったらしい。
そして彼が後ろに向けてツッコミを入れた瞬間、急ブレーキと共に僕らの乗った車が停止した。
それがあまりに突然だったので、後ろを向いていたKは慣性の力で後頭部を座席にしこたま打ち付ける。
僕はいつもの癖で無意識にシートベルトをしていたので助かった。
止まった。止まったら、追い付かれる。
「Sく……、だ、S君?」
慌てふためきながらSを見ると、彼はちょっと上を向いて、あーう、と長いため息を吐いた。欠伸だったのかも知れない。
「……俺には見えねえけど。まだついてきてんのか?そいつ」
僕は後ろを向く、居る。十メートルくらい後方。間違いなく。近づいてきている。僕は何度も頷く。
「ふうん。……分かった」とSが言った。
それから後部座席の方を振り返り、
「お前ら、これから三十秒くらい、ずっと前見てろ。フロントガラスだけだ。
 目を逸らすな。逸らしたら死ぬってぐらいに思っとけ」
Kはまだ後頭部強打のダメージから回復していない様だった。虚ろな瞳でSの方を見ている。
僕は訳が分からず、あの車イスが来ていないか確かめようと後ろを向きかけた。
すさまじい摩擦音。
車が急発進し、僕の身体は誰かに体当たりされたかのようにシートに押し付けられた。
僕は驚いて視線を前方に移す。Sが限界までアクセルを踏み込んだのだ。
速度メーター。
この車はミッション車のはずだったが、それでも何の支障も無しに、速度はあっという間に時速百キロを越えた。
前方の景色が流線となって次々に後方へとカッ飛んで行く。
ここは高速じゃない。国道だ。道幅はそれほど広くない。カーブもある。
対向車のドライバーが口をあんぐり開けるさまが現れて消えた。
カーブの度にタイヤが滑る。ドリフト?訳が分からない。
後方に遠ざかるクラクション。直線。120キロ。S字カーブ。あ、死ぬ。
僕は前だけを見ていた。身体が硬直して目を離せなかった。
実際100キロ以上出していた時間はほんの十数秒程度だっただろうが、
あの時の僕にはその十数秒が一分にも三分にも感じた。

そのうち車は減速して、まるで何事も無かったかのように、路肩に停まった。
「……やっぱバイクと車じゃ感覚が違うもんなんだな」
Sの口調は、今日の新聞を読んで感想を言う時のそれだった。
僕は金魚の様に口を閉じたり開いたりしていたと思う。
「後ろを見てみろ」と、後方を指差してSが言う。
僕はその時、自分が車イス幽霊のことをすっかり忘れていたことに気がついた。
後ろを振り向く、車イスは何処にも見えなかった。
そしてついでに、シートベルトを付けていなかったKが、後部座席でもんどりうって失神していた。
「どうだ、居るか?」
その問いにSの方を向き直り、僕はゆっくりと首を横に振る。
「……恐怖って感情は、たまに人に余計なもんを見せることがある。
 まあ、簡単に言ってしまえば、お前らは、夜の病院ってとこから来る恐怖心から幻覚を見たんだよ」
Sは淡々と説明する。
そんな馬鹿な。幻覚。あれが幻覚なのだろうか。服の裾を引っ張られたのも、車を追ってきていたのも。
「ものすごい速さで車を追う幽霊ってのは、良く聞く怪談だけどな。
 幽霊が超人的な身体能力を持っているって説明よりは、
 全てはそいつの脳みそ自身が見ている幻覚だから、って説明の方がしっくりくるだろ。
 鼻先三センチで常に映画を上映されているのと同じだ。だから何処まで逃げたって追って来る」
「……じゃあ、どうして今は」
「ん?どうして追って来ないのか、か?」
僕は頷く。
するとSは「くっく」と少しだけ笑った。
「怖かったろ?さっきの」
Sは先程の国道暴走のことを言っているのだ。僕は真剣に何度も頷いた。
「幽霊とは違う、別の恐怖を上乗せされたからな。幽霊どころじゃなくなったんだよ、脳みそが」
「う、上乗せ?」
「イカレた強盗に銃を突きつけられた時、そいつの背後に幽霊が見えたとして、お前はどう怖がる?
 そんなに幾つも同時に処理できないもんだ。人間の頭はポンコツだからな」
Sはそう言って、後部座席のKをちらと見やり、
「そしてたまに、ショートもする」と静かに言った。
よくよく見たら、Kは口から少量の泡を吹いていた。
「さて、種明かしはここまでだ。帰るぞ」
「Kは起こさんでいいの?」
「寝かしとけよ。その方が静かでいいだろう」
そうして車は走り出す。発信の時心拍数が上がったが、今度は普通に、といっても法定速度よりは速かったけれど。
後で聞いた話だが、Sはこの時、車の免許を取ってまだ二カ月だったそうだ。
Sはそういう人物だ。僕はそれを初めて会った日に知ったのだ。

「……S君は、本当に幽霊とか、信じて無いんだねぇ」
帰り道。僕がそっと呟く。
「Sでいい。そうだな。あるならある、居るなら居るで別に良いんだが……、今のところ敢えて信じる要素はないな」
その言葉に、僕は、あれ、と思う。引っかかるものがあった。
「……じゃあさ。何で今日とかついてきてんの?メリット無くない?」
Sが横目で僕を見た。けれどもすぐに前方に視線を戻すと、片手で口を隠し、何処か投げやりな口調でこう言った。
「Kの奴は車持ってねえし。俺は運転が好きだからな。それだけだ」
「……ふうん」
ふと、Kと大学前でSを待っていた時のことを思い出す。
あの時Kが言った言葉は何だったか。思い出せない。まあいいか。
その時、ふと、カサリ、という小さな音が聞こえた。何かを踏んづけたのだ。
見ると、それは病院で見つけたあのやっこさんだった。
逃げ帰ってくる時もずっと握りしめていたらしく、二枚の折り紙は両方くしゃくしゃになっていた。
取り上げて手に持ってみる。
大量に『あし』 と書かれた袴の部分。そしてやっこさんの身体。何故かもう恐怖心は無かった。
僕は何となく青いやっこさんを広げてみた。
裏の白い部分に何か書かれている。大量にではなく、小さな文字でひとことだけ。
『おねがいします』
その瞬間、僕の中で何かが繋がった。
『あし』……『幾つものやっこさん』……『追ってきた車イス』……『おねがいします』
「そっか。鶴には、足が無いもんね……」
小さく呟いた言葉はSにも聞こえなかったようだ。
僕はその二枚の折り紙をしわを伸ばして四角に折りたたみ、財布の中に入れた。
感覚的な真理としては、さっきしてくれたSの説明が正しいのだと思う。
幽霊は全部人間の脳が創りだした幻覚で、実在などするはずが無い。
しかし僕には、あの時感じた気配、音、掴まれた袖が引っ張られる感覚、
あれらが全て幻覚だとはどうしても思えなかった。
もしくは、足が治るようにとやっこさんを折る、その意思。
分からない。でも、それでいいんじゃないだろうか。

ちなみに、二枚の折り紙は現在も僕の財布の中に入っていて、今では僕のお守りの様な存在になっているが、
いつかは返しに行こうと思う。あの廃病院に。
ただし、もちろん行くのは昼間のうちにだけども。
もうカーチェイスは、こりごりだ。








大学に入学して間もない頃、僕は学科の新入生歓迎会を通じて、とある面白い男と知り合った。
そいつは名をKと言って、人懐っこくて陽気な男だった。
正直なところ僕は小中高と友達が極端に少なく、
だから大学生活が始まって早々、Kと言う友人が出来たことが素直に嬉しかった。

歓迎会は、街の中心にある市民ホールみたいなところのワンフロアを貸し切って行われていた。
まるで身に入らない学長の話が終わった後、当然ながらすでに仲良くなった者同士グループで固まっていて、
僕とKはフロアの隅の方で、しばらくの間二人だけで話をしていた。
しばらく「出身地は何処か」とか、「趣味は何か」など、取り留めも無い話をしていた。
そして、そんな話題もひと段落したころ。
Kがおもむろに「あそーだそーだ。見せたいものがあんだけどよ」と言って、
傍に置いていた自分のバッグから何かを取りだした。
Kが取り出したのは、立方体の形をしたナニカだった。
大きさは一辺が十センチ程度、両親が結婚指輪を入れている箱よりは一回りほど大きいと言ったところだ。
Kはそれを僕の傍ら、料理を並べているテーブルの上に置いた。
「さて、ここで一つ質問。こいつは一体、何だと思う?」
箱を指差してKは僕に尋ねる。
質問の意図がイマイチ良く分からなかったが、僕はとりあえずその塊を一通り眺めてみる。
上部に周囲を一周する切れ目と、一つの面に可愛らしい蝶番が二つついていたこので、これは箱なのだと見当付ける。
材質は木製のようで、木目以外の模様は見えなかった。
「……えーと、箱、だと思う。木の箱」と僕が答えると、Kは満足そうに「おーけーなるほど」と言った。
「正解だ。んじゃ、それ手に取ってみて」
言われた通り僕は箱を手に取る。その時、ことり、と箱の中から僅かに音が漏れた様な気がした。
「開けてみ?」
僕はフタの部分を手で押さえ、箱を開けようとした。
「……あれ?」
開かない。少し力を込めてみる、がやっぱり開かない。
どころかいくら力を入れても、箱とフタの間に僅かな隙間も作れなかった。
「開かないよ?」
するとKは面白そうに「うはは」と笑い、僕はちょっとムッとする。
「まー開かねーだろうな。だってそれカギ掛かってっから」
「鍵?」
言われて僕は、改めて箱を見直してみる。
そんな鍵がついている様には見えなかったけどなあ、なんて思いながら、もう一度四方八方360度見てみたが、
やっぱり鍵穴なんて何処にも見当たらなかった。
「鍵穴も、何も見えないけど……」
するとKはさらに「うははは」と笑い、僕はさらにムッとする。
「ワリー、ゴメンゴメン。でもな、本当、鍵はちゃんと掛かってんだよ。親指くらいのちっちぇ南京錠だけどよ」
「でも、」
「まあ聞けよ。鍵はな、外側からじゃなくて、内側から掛かってるんだ」
「……え?」
一瞬、頭の全細胞が急ブレーキをかけて動くのを止めたかの様に、僕の思考がストップした。
ただしその停滞は気のせいかと思う程短く、一秒かからず回復し、僕の脳細胞は再び自分たちの仕事を再開する。
「それはおかしいよ。箱を閉じた状態で、内側から鍵はかけれない」
「まーそらそうだな。つっても俺からは、『内側からカギが掛かってる』 って、それしか言えないわけだが……。
 なあ、箱、振ってみ」
数秒躊躇してから、僕は箱を軽く振ってみる。コツ、コツ、と中で音がする。何かが入っているようだ。
「音がすんだろ。そいつが箱の鍵だ」
鍵のかかった箱の中にその鍵がある。あくまでもKは、内側からカギをかけたのだと言い張るつもりのようだ。
僕は僅かな時間、箱を見つめてそれからKを見やった。
「でさ。この箱を僕に見せてどうしようって言うん?なんか理由が分からんのだけど……」
Kがまた「うはは」と笑う。どうやらこの笑い方は彼のクセらしい。
ふとKの笑い声が止んだ。そして間を置かず、口元に笑みの跡が残ったまま彼はこう言った。
「○○(←僕の名前)はオカルトを信じるか?」
沈黙。僕の頭はまたもやフリーズしていた。気のせいじゃない。今度ははっきりと、たっぷり十数秒。
「……何?」
「何って、ただの簡単な質問だって。オカルトを信じるか、そうでないか。
 あなたは地動説を信じますか、ってな質問と同じレベルだろ」
僕はすぐには答えられなかった。
質問の意図が分からなかったからと言うのもあるが、それ以上に、
口元は笑っていたが、Kは至って真面目に、真剣に、この質問を僕にぶつけた。それが伝わって来たからだ。
僕の回答を待たず、Kが口を開く。
「『その箱が本当に内側から鍵をかけられているのか』 ってのは、
 まあ○○(←僕の名前)の立場からすれば、考え方、まー可能性だな、は三つあらーな」
Kが両腕を前に出す。右手はピース、左手は人差し指だけ立てて。
「まーず、一つ。俺が嘘をついている。こりゃ簡単。箱は糊づけでもされてて、中には石コロなんかが入っている。
 ま、無難な考えだ」
Kの右手の中指が下がる。両手共に残っているのは人差し指。残り二つ。
「そんで二つ目。確かに内側から鍵は掛かっているのだけど、何らかの現実的な方法・手段を用いて俺がそうした。
 ま、ミステリの密室トリックみたいな感じだなこれ」
僕は何か言おうとした。しかしKがそれを制して言う。
「ただし、だ。前提としてだな、その箱は、箱部分とフタ部分の二パーツだけ。
 んでもって、その二つのパーツは、一つの材木から削りだされてる。見てみな、つなぎ目、無いだろ?」
「じゃあ、蝶番は……」
「おっと、良いとこつくな。でも残念。蝶番はネジ止めされてるんだが、ネジは箱の内がわでナットでとめられてんだ。
 意味分かるよな?」
それはつまり、箱の内がわの『南京錠に鍵を掛けて鍵も中に入れてから、蝶番を取りつけて密室を作りだす』 、
それが出来ないということ。
「二つ目の可能性は、そこを踏まえてなお、俺が細工をした、っていうことだ。ここまで、二つは理解出来たな?
 よし。おーけーおーけー」
Kが立てている指が、いつの間にか左手の人差し指だけになっている。
「じゃ、最後だ。
 最後の可能性は、ここまでの俺の話は全部本当で、鍵を入れて箱を閉めた後、『何かが、箱の中で、鍵を掛けた』」
Kの左手の人差し指が、僕の手の中にある箱をさす。ことり、と箱の中で音がした。
「……だとしたら、その『何か』 は、まだ箱の中に居ることにならないか?なるよな?うん」
片手で持ててしまうくらいに小さな箱の中。
その中に、鍵を掛けてしまえる何かが存在する。常識的に考えれば、あり得ない。
しかし、今の僕の口からは何故か、その『ありえない』 という五文字の言葉が出てこなかった。
「もう一度聞こうか。『○○は、オカルトを信じるか?』」
Kが先程の質問を繰り返す。
「答えがNOなら、その箱、無理やり開けてみな。
 蝶番はネジ止めになってるから、そこのナイフでも使えばいけるだろ。石コロが入ってるかもな。
 ……しかしだ。し、か、し」
ずい、とKがこちらに一歩近づき、僕は思わず一歩下がる。
「その時、もし、箱の中にとめられた南京錠とその鍵が入っていたら……どうなる?」
どうなる。鍵が入っていたら。どうなる。
僕はその状況を想像してみるが上手くいかない。
ナイフで蝶番を壊し、開けた箱の中身、そこには靄が掛かっている。まるで浦島太郎の玉手箱だ。
僕は目を瞑った。暗闇の中でイメージはよりリアルになる。箱の中の靄が徐々に晴れて行く。雑音が消えた。靄が晴れる。
箱の中には、内側に掛けられた小さな南京錠と、小さな鍵が一つずつ。
その瞬間、足元が崩れ、僕の中の世界は壊れた。
刹那の落下の感覚。それが僕を想像の中から現実の世界に引き戻した。
目の前にはKが居て、腰に手を当てニヤニヤ笑いながら僕のことを見ていた。
僕は僅かに高まった動悸が鎮まるのを待って、一つ大きく息を吐いた。
「……箱は開けない。オカルトを信じるも信じないも、僕には分からないよ」
手にしていた箱をテーブルの上に置く。
するとKが噴き出した。笑う。「うはは」と。今までで一番大きな笑い声だった。周りのみんながこちらを見る程に。
呆気にとられた僕は、ぽかんと口を開けてKを見つめていた。
「うはははははっ、……あーいやー、ワリーワリー。はは、ゴメン。いややっぱお前おかしいよ。
 おかしいだろ?ふつー開けるだろ?はっ、うははは。分からないから、開けたくないって、マジかよ、はっは……」
よほどおかしかったのか、Kは腹を抱えて笑っている。
僕がこいつ今日初めて話したんだけど、殴ろうかどうしようか真剣に迷っていると、ようやくKの笑い地獄は収まった。
「あー、久々に笑ったわ。いやマジごめん。悪気は無いんだって。ただ、予想外の答えで面白かったからよ」
Kが箱を手に取る。
「俺よー。なんか自分と気が合いそうな奴みつけたら、この箱見せんだけどよ。さっきみたいに話しながらさ。
 そんで相手に訊くんだ。『オカルトを信じるか否か、箱を開けるか否か』 ってな。
 ……でもみんな結局は、箱を開けるって言うんだよな」
話しながらKは箱を回転させたり、軽く上に放ったり、色々弄んでから、箱の底部分に左手を、フタの部分に右手を添えた。
「そう言う時はネタばらしをすんだけど、『ごめんごめん。全部俺の嘘でした』 っつってさ。
 箱を取り返して、そいつとは縁を切る」
「……、え?」
「だーかーら、実際に箱を開けて見せるのは、お前で二人目だな、うん」
何かを問う暇もなかった。Kが「んよっ、」と妙な掛け声で気合いを入れると、
箱の蓋がまるでルービックキューブの一列だけ動かす時の様にスライドした。
「え、え~……?」
そのままKは、箱の蓋をジャムの瓶からフタを取るがごとくくるくると回す。数回転するとフタは箱から外れた。
途端に箱の中から何かが飛び出した。が、それはバネによって飛び出してきた白い紙人形だった。
紙人形は人魂のような形をしていて、足が無く、両手にプラカードを持っている。そこにはこう書かれていた。
『Welcome to Occult World!!』
「オカルトの世界へようこそ~!」と親切にもKが訳してくれる。
見ると蓋の方に蝶番が二つともくっついていた。あれは最初から箱の方には固定されてなかったのだ。
やられた、僕は騙されたのだ。
「……ハナから嘘だと思ってるよーな奴に、ホンモンは見えねーんだよ。
 ……あ、ちなみに箱の中で音出してたのは石コロな」
そう言ってKは「うはは」と笑う。けれど、そこには嫌味だとかそういった感情は何一つ見えなかった。
再び蓋を閉じ、箱を元に戻したKが右手を僕の方に差し出す。
「握手」
僕はたっぷり躊躇って、恐る恐るその手を握った。上下左右に振り回される。痛い痛い。
「……お前、あの最初の挨拶で、学長のナナメ後ろに居た奴、……見えたろ。一人だけ全然違う方向見てたからよ」
手を握ったままKがぽつりと呟いた。
その言葉に、ああそうかと納得する。だからKは僕なんかに話しかけたのだ。
僕が、話をする学長の後ろ、ここのホールに居る『気配』 に気付いていたから。
「見えては無いよ。……なんか居るなー、くらい」
「上等上等。うはは、ま、そんなわけでさ。これからよろしくな。なんかお前とは長い付き合いになりそうだし」
何時の間にか『○○君』 から『お前』 になっているのはまあ良いとして、それにしてもと僕は思う。
小中高と友達が居なかった一番の『原因』 が、大学生になってすぐ友達が出来るきっかけになるとは。
世の中と言うものは分からないものだ。
「ところでよ、週末、街の北西にあるって言う廃病院行くんだけど、来るよな」
「え?……いや、僕、まだ足が無いから……」
「大丈夫だって。今日は『面倒臭え』 つって来てないけど、Sっていう俺のマブダチが車持ってっからよ。な、行こうぜ」
後にこのSとも僕は強烈な出会いをすることになるのだが、それはまた別の話。
気がつくと僕は廃病院行きを了承していた。

この日うっかりKの友人になってしまったことがきっかけで、僕は大学生活の中で様々な体験をすることになる。
まあその時はそんなこと知る由も無いのだがけども。
ただ、何だか面白いことになりそうだな、という漠然とした予感があったことだけは、はっきり覚えている。
それは、僕にとって今までに感じたことのない光。
やはりKは嘘つきだった。鍵はちゃんとあの箱の中に入っていたのだ。
『Welcome to Occult World!!』









「「……で?こいつは一体どうしたんだ」
言いながらSが作業台の横に来ても、まだKはSのことに気が付いていない様だった。
僕は今は会話できないKの代わりに、Sに現在の状況を一から説明する。
それに対してのSの感想は「ふうん……」と実に簡素なものだった。
それからKの方に近づいて、「俺には聞こえんな。雨音」と言う。
「――おいコラKっ!」
Kの耳元でSが叫ぶ。僕は驚く。しかしKは反応しなかった。
それを確認して「ふうん」ともう一度Sは言う。しかし、Sその言い方から何か納得はした様だった。
Sがノートを持って何かを書く。そしてKの肩をポンポンと叩いた。
Kが顔を上げた。その目が少しだけ驚いた色の光を放った。
しかし他の感情が見えたのはそこだけだった。Kは歯を食いしばって、暴音という痛みに耐えていた。
僕にはその実際の痛みの程は分からないが、表情だけで十分痛さが想像できる。
Sがノートを指差した。読めと言うことなのだろう。首を伸ばして覗くと、ノートにはこう書かれていた。
『前の雨乞いの時に使ったっていうてるてる坊主はどうした?』
もう喋ることも辛いのだろう、Kは黙ったまま押し入れを指差した。
Sが開けると、透明なビニール袋の中に入ったあの人形達が出てきた。ビニール袋は五つもある。
Sはそれを確認すると、またKの元に戻った。
『これからこの人形を全部捨てて来る。あと、今作ってる奴も一緒にだ』
それを見て僕は驚いた。前に使ったものは良いとしても、何故、今作っている人形まで捨てるというのだろうか。
しかし、Kはその文字をゆっくりと視線を這わすようにして読んだ。そしてSに視線を戻す。
それからきつく目を瞑り、天井を仰いで、Kは掠れた、しかしいつものKの声で言った。
「おーけー、わかった」
理由も聞かずにKはそう言ったのだ。
Sは一つ頷いて立ち上がり、机の上にあった作りかけの人形を集めて、新しくゴミ袋の中に入れた。
そして僕に向かって「半分持てよ」と言った。
混乱していた僕は、はっとして、急いで六つの内の半分を持った。量が多いだけで全く重くはない。

「あーそうだ」
部屋を出る際にSは何か思い出した様に呟き、ゴミ袋を床に置くと、Kの方へ戻って行った。
ノートを手に取って何かを書き、Kに見せる。Kが頷く。
するとSがKの背後に回る。それは一瞬の出来事だった。
Sの腕がKの首に絡みつく。五秒もかからずKは落ちた。
唖然とする僕に、Sは平然と「行くぞ」と言ってまたゴミ袋を手に取った。
「な、なな、なんで?」と訊く僕に、
Sは何でもない口調で「『それじゃ眠れねーだろ』って訊いたら、肯定したからだ」と言った。
「……チョークスリーパー?」
「いや、裸締め」
そう言えば、Sは中学高校と柔道部だったとKから聞いたことがある。
何でも、ものすごく強かったせいで喧嘩を売る輩が絶えず、しかしその全てに勝ったためSはその町の……、
いや、これ以上は言うまい。

近所のゴミ捨て場にでも捨てるのかと思ったら、
Sは自分の車を使って、人形達をどこか遠くへと捨てに行くつもりらしかった。
後部座席に五つゴミ袋を詰め込み、僕は袋を一つ抱いたまま助手席に座る。
車は未だ何処へゆくかも分からないまま発進した。
「なあ、これから、何処行くん?」
「河だ。近所の、汗見川」
Sはそう答える。それは意外な答えだった。
「か、川?」
「そうだ。……ああ、その前に、少しばかり酒屋に寄るぞ」
「さ、酒屋!?」
「酒が要る」
僕にはSの考えがまるでさっぱり分からなかった。
もちろん、夜の河原で酒盛りしようぜ、などと言っているわけではないことは分かる。
しかしなら何故、酒屋に寄って目的地が川なのか、僕の頭では合理的説明を出すことは出来なかった。
どうしてか。何故か。分からない。

「……そもそもがおかしいだろ。その千人坊主ってのは」
「え?」
小さな交差点の赤信号で停まった際にSは話し始めた。どうやら僕の混乱を見てとったらしい。
「お前らは、おかしいとか思わなかったのか?」
「いや、思ったけど……。夜なべで千体もつくらなきゃいけないってとことか……」
「そうじゃなくてだな。
 結果からみても明らかだが、あれは天候を変えるまじないなんかじゃない……。人が人を呪う類のものだ」
信号が赤から青に変わって車は走り出し、僕は腹から胸に掛けて、ぐう、と慣性の力を感じる。
「まずやり方からしておかしいだろう。
 人形に自分の血か唾液を染み込ませるなんて方法は、どう考えても占いや呪術の方面だ。
 明日の天気を変えてほしいと願う対象を、自分の形代にしてどうする。自分で自分に願うのか」
「……かたしろ、って?」
「本物の模倣品ってことだ。呪いのわら人形とかもそうだろ。あれも相手の髪の毛や、身体の一部を用いるそうだから」
僕は自分の抱える数百体の人形を見る。この一体一体全てに、Kの身体の一部だったものが付着している。確かにそうだ。
「二つ目に、千体目が出来た時に歌う歌だ。
 ……実はKの家に行く前に、ちょっとネットで調べてみた。お前が電話で言ってた、千人坊主とやらをな。
 検索掛けたらすぐ出てきた。あるオカルト系の掲示板に、一からやり方全部載ってた。全く賑わってはなかったがな。
 最後に歌ううたは、晴れを願う場合は、有名な童謡の『てるてる坊主』 だ。聞いたことぐらいあるだろ」
そう言って、Sはそのうたの歌詞を口ずさんだ。

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに
晴れたら 金の鈴あげよ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
私の願いを 聞いたなら
あまいお酒を たんと飲ましょ

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇って 泣いてたら
そなたの首を チョン切るぞ

「……これが、晴れを願う場合の歌なんだそうだ。一方で、雨を願う場合は少し違った歌詞になる」
そうしてSはまた口ずさむ。

ずうぼるてるて ずうぼるて
あした雨よ ふっとくれ
いつかの朝の 地のように
降らせば 赤い飴あげよ

ずうぼるてるて ずうぼるて
あした雨よ ふっとくれ
私の願いを 知ったなら
からいお酒を たんと飲ましょ

ずうぼるてるて ずうぼるて
あした雨よ ふっとくれ
それでも笑って 晴れたなら
そなたの足を チョイと?(※も)ぐぞ

「これが、雨を願う場合の歌詞。どちらも、大した変りは無い。
 三番目の最後の部分が、どちらも願いが叶えられなかったら危害を与える、という内容だ。
 実際にある童謡でも、ちょん切るとか言ってるしな」
「それが、耳の中に降る雨と、どう関わるん?」
「『そうされないために人形達は一生懸命天気を変えようとするのです』」
「え?」
「ネットの掲示板にあった言葉だ。やり方を説明した部分のな。
……もしも人形につばや血を付ける行為が、人形を限りなく『生きたモノ』 に近づけるためだとする。
そうして吊るされた千体の人形に、もしもほんの少しの意思を持ったとして、その意思は何のために使われる?」
「何のため……」
「天候を変えるためだ。しかし、現実はそんなに貧相なものじゃない。天気は気象にのっとって動く。変わらない。
 だとしたら、首を切られないために、足を?がれないために、千体の人形に変えることが出来るのは、どこだ?」
Sはゆっくりと続けた。
「それは頭だ。人間の脳味噌の中の、僅かな部分」
僕は黙ってSの話を聞いている。腕の中の人形達が何だかざわついている気がする。
「勘違いすんなよ。俺は別に、人形に命や意思が宿るなんて思っちゃいない」
そこでSは少しだけ笑った。何が可笑しかったのかは僕にはわからない。
「……つまりは、『そういう筋道』が、意識下か無意識かは人次第だろうが、
 この千人坊主を行うプロセスの中で、『出来上がって』しまう。
 ……千個も作った後なら、時間もかかって集中力も使ってるだろうしな、暗示に掛かりやすい状態ってわけだ。
 『部屋から出てはいけない』っていう注意文句もここに掛かって来る。
 時間を置いて作らせない、一気に集中的にやらせる」
Sの言葉によって、頭の中に一つの話の道筋が浮かんでくる。けれども、それは決して気持ちのいいものじゃない。
「あそこにアレを書きこんだ奴の気が知れないな。愉快犯って奴か。
 そう言う意味じゃあ、解決策と思しきものを暗に示してる、って点でもタチが悪い。
 雨が降り続ければ、人は晴れ間を望む。ああいう形でセット出だされれば、誰だってもう一方が解決策だと思う」
どくん、と心臓がはずむ。Sの言わんとしていることが理解出来たからだ。
雨を願って、Kの頭の中に雨が降る様になった。だとしたら、晴れを願えば……。
「これは憶測だが……目に関することじゃないかと、俺は思う」
光。光のイメージ。目の前で輝く何か、時を追うごとにそれはどんどん激しく眩しくなっていって、ついには……。
「俺は、幽霊とか超能力とか、基本的に信じていないが、『呪い』はあると思ってる。いや、あってもいい、と思ってる」
車は目的地である汗見川の川沿いに建つ、一軒の個人経営らしい店の前で停まった。
看板には『酒・タバコ』 とあるが、もうシャッターは閉まっている。
「あるプロセスを通して、生きた人間から生きた人間へ。
 その間に意思と脳みそがある以上、ある程度の何かが起こっても不思議じゃない」
そう言って、Sは一人車から降りていった。
そしてシャッターの横の勝手口の前に立ち、ノックした。
しばらく間があってから僅かに扉が開く。
そこでSが二言三言何かを言うと、ドアの隙間が大きくなって、Sは店の中に入って行った。
次にSが出て来た時、その手には一升瓶が抱えられていた。
「これ持ってろ。じゃ、行くぞ」
「……S。ここの人と、知り合いなん?」
「そんなとこだ。一番からいのを選んでもらった」

そして車は近くの河原へと降りる道を進んで行く。
タイヤが河原の意思を踏む音がした時、Sは車を停めた。
河原自体はそれほど広くない。停めた車のすぐ近くに川の流れがあった。
「さてと。ここらで良いだろ」とSが言う。ただ、僕には何が良いのかは分からない。
Sが車のライトをつけたまま車を降りる。そして後部座席の戸を開いて、人形入りのゴミ袋を取りだす。
「これからやることだけどな。作業には変わりないぜ。ま、人形作って吊るすよりは楽だろうがな」
そう言って、SはさっきKの部屋でノートに書くために使ったペンを僕に渡した。持ってきていたらしい。
「ざっと説明するぞ。人形に顔を書く。記号的な顔でいい、凝る必要は無いからな。
 そんで、一袋分たまったら、酒をかけて、川に流す。分かったか?」
分かったけど、分かんなかった。実際に何をするかは分かったけど、何でそんなことをするのかは全く分からなかった。
僕は曖昧に頷く。
「……まあいい、ただ顔を書けばいいんだ。時間もアレだしな、さっさと済ますぞ」

夜の河原でティッシュペーパー人形に顔を描いてゆく。
ちょんちょんちょん、すうー。で目と鼻と口の出来上がり。簡単だ。一体十秒もかからない。
それでも千二百体は少なくともあるので、僕らはただ黙々と作業を続けた。
一つのゴミ袋に一杯になったら、その中に直接酒を入れる。
そして川に膝まで入って、中身を水の流れに沿って一気にぶちまける。
夜の川にさらさらと流れてゆく人形達は、どこか幻想的で、でもこれはゴミの不法投棄なわけで。

「……役目の終わったてるてる坊主は、こうして川に流すものなんだそうだ」とSが作業中、何処かの折にぽろりとこぼした。
そうなのか、と思った。確かに首や足を取られるよりかは、こっちの方が随分マシな様な気がする。

全ての作業が終わった時、もう東の空から太陽が上り始めていた。最後の一体を見送って、僕とSは同時に伸びをした。
「Kの奴は大丈夫かねぇ……」
「まあ、大丈夫だろ。呪いには呪いをってやつだ」
「何それ」
「知らん。適当に言ってみただけだ。いずれにせよ戻れば分かる、出すぞ」
Sが車に乗り込む、僕も慌てて助手席のドアを開けた。

日が出たと言っても、大学までの道に人影はほとんど無い。戻って来た学生寮の周辺もそうだった。
ここに戻って来た時、僕はどうしてか、
幼少時、母に怒られて家を飛び出したあと、そろそろと足音を立てないで家の窓から侵入した時のことを思い出していた。
なんだか妙に後ろめたいという感覚。
ただ、Sはそんな思いは微塵も感じていない様で、車を降りてずかずかと寮の中に入って行った。
Sは二階のKの部屋まで一直線に、僕はそろりそろりとその後ろをついて行く。
一階の集合ポストに新聞が挟んであったので、ついでにKの分を抜き取る。

部屋の中でKは、僕らが出ていった時と同じ体勢で作業台の横に倒れていた。
Sがその背中を軽く蹴る。起きない。蹴る。起きない。
それからSはKの上半身を背後から抱き起こすと、両脇の下から腕を入れて両手をKの首の後ろで固定する。
その状態でSが「んっ」と力を入れると、Kの半開きの口から「ほひゅっ」と変な音が漏れた。
「……う、うおう!?」
Kが起きた。
するとSはすかさずKの目の前に自分の手をかざし、人差し指と中指と薬指を立て、極々小さな声で言った。
「……何本だ?」
Kは未だに状況が上手く掴めていないらしく、数回高速で瞬きした。
「何本だ?」
Sがもう一度、囁くように訊く。
「う、あ?……あ。えー、三本、だ?」
「よし。耳は聞こえてるな。目も意識も問題ないようだ」
そこでKはようやく自分の変化に気がついたようだった。
「お、おー!ホントだ。雨が、やんでら……」
それを聞いた瞬間、僕の中で張りつめていたものが煙の様な音を立てて抜けていった。
安心すると、油断をしたのか腹の底から大きな大きな欠伸が出た。そのせいでちょっと涙が混じった。
欠伸がてらに、上手く呑み込めていないKに状況の説明をしてやった。
こっちは真剣に話しているのに、相槌がいちいち「へーえ」とか「ほーお」とかばかりだったのが気になったが、
まあ、それは良いとしておこう。
「……呪いかよ。こえーなあ、しかも無差別なんだろ?」
「インターネットの様な環境は、そういうものをばらまくのに最適だからな。
 まあ、そんなもんに迂闊に手を出す奴も悪いんだが」
「あー、いや。マジ反省してる。……今回はキツかった。いやマジまいった。次からはさ、こういうことの無い様にすっから」
「次があったら見殺すぞ。あとバイト代よこせよコラ」
「はっはっは。またまた冗談を」
そんな今日も冴えている漫才コンビの後ろで、僕は先程ポストから持ってきた今日の朝刊の週間天気の欄を見ていた。
六日間晴れマークの続いた後に、ぽつんと傘のマークがついている。
ふと思い出す。
もしも今回のことが呪いのせいならば、
僕がKの耳元で聞いたあの本物の雨の音も、やっぱり呪いの類だったのだろうか、と。
分からない。呪いは伝染するのかもしれない。良い意味でも悪い意味でも。
その証拠に、SがKを絞め落とす際に見せたノートに書いた言葉、机の上に開きっぱなしになっているそれには、
『耳鳴りで眠れないか?』 の下に走り書きで、『目が覚めたら、全部終わってる』 と書かれていた。
もしかしたら、これがSの言っていた呪いには呪いというヤツだろうか。

ちなみに、四コマ漫画『わたる君』 の今日のネタは、
『どうしても遠足に行きたいわたる君が、てるてる坊主を百個作ってベランダに吊るして、
 作り過ぎだとお天道様に呆れられる』
というものだった。
Kに見せると、「ギャグ漫画にリアルで勝つとかオカルトだろ……」などとわけの分からないことを口走っていた。









その年の夏は、猛暑に加えて全国的に中々雨が降らず、そこらかしこで水不足に悩まされていた。
ダムの水が干上がって底に沈んでいた村役場が姿を見せたとか、地球温暖化に関するコラムだとか、
『このままではカタツムリが絶滅してしまう』と真剣に危惧する小学生の作文とか、
四コマ漫画の『わたる君』の今日のネタは、『アイスクリームとソフトクリームはどちらが溶けるのが早いか』で、
わたる君が目を離した隙に妹のチカちゃんが両方平らげてしまうという、そんなオチとか。
床に広げた今朝の新聞。天気予報の欄に目を移すと、今後いつ雨が降るのかはまだ予想できないと書かれていた。
窓の外に目を向ける。確かに雨の予感は微塵も感じず、今日もうんざりするくらい晴れている。
「……なあなあ、ちょっとさ、休憩せん?」
「でーきーた。ほれよ、八百体目」
友人のKは僕の提案が聞こえなかった様で、数十体のティッシュペーパー人形が僕の目の前にどんと置かれる。
僕の仕事は、この人形たちの腰から下げてる糸の先にセロテープをつけて、一体ずつ天上から吊るすことなのだ。
すでに天上には七百体以上の人形が吊るされていて、まるで……と言っても形容できるようなシロモノではない。
この状況は、昨日の夜から今日の朝にかけて、僕とKが二人がかりで創り上げたのだ。
常識ある人が見ればギョッとするような光景だが、すでに僕の常識はマヒしているのだろう。
「Sも手伝ってくれりゃあ良いのになあ。途中で帰りやがって。冷てーやつだ、全くよぉ」
Sと言うのは僕ら二人の共通の友人だ。彼には常識があるし、間違っても徹夜で紙人形を作る様な人間では無い。
「まあバイトって言っても、この内容聞いたら普通は断るよ」
「おめーはやってんじゃん」
「内容訊かずに『うん』って言っちゃったからね」
もう分かっているかとは思うが、僕が言う人形とは、てるてる坊主のことだ。
しかもこの天上に吊るされている彼らは、皆一様にスカートを上に、頭を地面に向けている。
つまり逆さ。『ふれふれ坊主』だの、地方によっては『るてるて坊主』と呼んだりもするそうで、
Kは『ずうぼるてるて』 と呼んでいる。
普通のてるてる坊主が晴れを願って吊るされるものなら、『ずうぼるてるて』 はその逆、雨を願うものだ。
「さっき新聞で見たけど。今日からの週間天気予報じゃさ、雨が降る気配なんてこれっぽっちも無さそうなんだけど……」
「だから面白れーんじゃねーか。通常じゃありえねーことが起こるから、オカルトなんだよ。ったりめーだろ」
言いながらKは、二百枚入りのティッシュ箱を新たに開けて、一番上のティッシュ抜き出す。
ティッシュは薄い紙が二枚重なっているので、上手く剥がして一枚を二枚に分け、
ちょいと人差し指を舐めてから、その薄い一枚をミートボールくらいに丸める。
その上にもう一枚を被せ、首の部分をねじってタコ糸を添えてセロテープで固定する。
その流れる様な一連の手捌きは、もはや素人の域では無い。
「でもさ。これでもし明日普通に晴れても、バイト代返せなんて言わんでよ」
「言わねーよたぶん」
「いやたぶんじゃなくて」

言い忘れていたが、現在僕が居るここはKの部屋だ。
僕がKに呼ばれて、この学生寮の二階の一番奥の部屋にやって来たのは、
今現在から十五時間ほど遡った、昨日の午後四時が若干過ぎた頃だった。
大学でその日一日の講義が終わった後、
「このあと暇ならよー、ウチで簡単なバイトしねーか?」というKの誘いに乗ってしまい、
オカルティックな趣味を持つKの実験に付き合わされることになった。
千体坊主。
全部Kから聞いたことになるけども、千羽鶴にも似たこのまじないは、
千体のティッシュペーパー人形(別に紙なら何でも良い)を吊るすことで、明日の天候を人為的に変えてしまうというものだ。
人形の頭を上にすると晴れ。下にすると雨。
但し、条件が三つあるらしい。
まず一つは、人形を作る時に中に詰める方の紙を、自分の唾液(ホントは血液の方がいいらしいが)でほんの少し湿らせる。
二つ目に、作っている人は千体坊主完成まで絶対に家の外に出ないこと。
この場合はKが作っている人になる。(僕は別に出ても良いらしい)
途中で出たらなんか悪いことが起きる、とのこと。
三つ目は、人形を千体吊り終えたら、とある『うた』 を歌うこと。
千体坊主が完成し、無事うたを歌い終えれば、次の日の天候はその人の望んだものになる、らしい。
K自身も知ったのはネット上のとある掲示板だという話なので、あまり期待はしてないそうだけども。
僕もオカルトが嫌いではないので、興味はある。
給料も出るということなので、だからやってみようと思ったのだが、予想に反して時間が掛かる掛かる。
はっきり言って最後の方はかなり後悔していた。
ちなみに、最後に歌うといううたの内容は、三番まであって、晴れ用と雨用の二種類あると言う。
それ以上は教えてもらってない。
てるてる坊主の歌というと、僕が知るのは童謡くらいだけども、関係あるのだろうか。

そうこうしているうちに、八百体目の人形を天上に吊るし終えた。
もうKは九百体に王手をかけ、カウントダウンが始まるのもそう先のことではないだろう。
但し、ここまで来るのに相当長かった。正確に言えば、食事と休憩も入れて十六時間くらい。
「うーん……、眠たーい寝たーい夢見たーいー」
「さっきからうっせーな。ダイジョーブだって。人間三日くらい寝ずに働いたって、死にゃしねえんだからよ」
「一体三円って、絶対割に合わない気がしてきた……、自給にしたら二百円以下じゃん」
「今頃おせえよ」
しかし、Kだって昨日から寝てないはずなのに、明らかに僕より元気なのが不思議だ。

そうこうしている内に、天井に吊るされた『ずうぼるてるて』の総数が九百五十を越えた。残り五十。
頭上を埋め尽くす逆さに吊るされた白い人形。
下から見上げれば、まるで僕らの方が天井にへばりついているかのような錯覚を覚える。
錯覚してる間に残り十体だ。Kも一緒に天井に貼り付けながら、カウントダウンが始まる。
……997……998……999……、1000。
「おおー……!」
その瞬間、僕は思わず感動の声を上げていた。
消費ティッシュペーパー千と六枚(※途中鼻かんだから。最後で『六枚足りねえ』 ってなった)。タコ糸約三百メートル。
セロテープ丸々一個と半分。天上の消費面積、六畳間まんべんなく。総消費時間約十六時間と四十分。
千体坊主。完成。
「うわきめえー」
感動の千体坊主完成を経て、Kがまず発した言葉はそれだった。
僕はかなり本気で、バイト代要らないからぶん殴ってやろうかなこいつ、と思った。
「ま、何にせよ。後はうたを歌うだけってか。
 あー後は一人でやんよ。疲れただろ、ワリーなこんな時間までよ。……ほれ、バイト代」
そういってKはポケットから財布を取り出すと、ちょいと人差し指を舐めて、中から千円札を三枚取り出した。
もはや癖になっているようだが、やめれ。
「ってことで。今日は帰って、良く寝るこった」
「……今日一限目からあってだね。テストも近いから寝れん」
僕の言葉にKは「うはは」と笑う。
「マジかよー。でもまー、人間三日寝ずに働いたって死にゃしねえからさ。だから頑張れ若人よ……
 つーわけで俺は昼まで寝るわ。明日の天気を楽しみにしとけ。そんじゃ、おやすみ」
そう言ってKは部屋の隅に立ててあった折りたたみベットを広げると、その上に、バフン、と身を投げた。
ポーズじゃなくて本当に眠る気だったらしく、Kは十秒で死体の様に静かになった。
僕は最後に何か言ってやろうと思ったけど、結局、溜息だけをついて部屋を出る。
その際に、一度だけ振り返って再度部屋の様子を確認してみた。
千体の『ずうぼるてるて』 の下で気持ちよさげに眠るこの部屋の住人。
不思議と異様だとかは思わなかった。やっぱり、夜なべのせいで常識がどこかに転げ落ちたのだろうか。
僕は一限目の講義を受ける前に、せめてコーヒーを一杯飲んどこうと思った。瞼が重い。
学生寮から外に出ると、刺さる様な陽射しが出迎えてくれた。

この調子で本当に明日雨なんて降るのだろうか。講義中もふとそんなことを考える。
案の定その日の講義は、眠気と相まってさっぱり頭に入って来なかった。
昼からの講義で僕の隣に座ったSが、
「眠たげだな。まさかとは思うが……、一体何してたんだお前」
はい。てるてる坊主作ってました。ゴメンナサイ。

何とかノートを取ることだけに専念し、ようやく全部の講義が終了。
わき目も振らずに家に帰ると、ご飯も食べずシャワーも浴びずに即効でベッドに倒れこんだ。
完全に眠るまでに、三十秒もかかってないと思う。
その時見た夢は、今朝の新聞で見た四コマの『わたる君』 とまるで同じ場面だった。
妹のチカちゃんがアイスに手を伸ばそうとしている。
いけない。それは君のお兄さんが持つ知的好奇心から生まれた、素晴らしい実験装置なんだ。
何とか止めようとしたのだけれど、チカちゃん背に手を伸ばした瞬間に僕は目を覚ました。

携帯が鳴っている。
かなり身体がだるい。僕は壁に掛けてある時計に目を向ける。午前零時過ぎ。真夜中だ。
電話なんて無視しようかとも思ったけど、一応相手を確認する。
Kからだ。僕は無視することにした。
……止まない。
観念して電話に出る。文句を言ってやろうと思ったけど、それより相手の声の方が早かった。
『おい、雨が降ってるぞ!』
中途半端に起こされたので、まだ片足が夢の中だった。だから僕は中々Kの言葉の意味を掴むことが出来なかった。
そりゃ雨だって降るだろう、降らなきゃ困る。今年だってそれで困っている人がたくさんいるのだから。
そんなことをたっぷり数秒考えて、僕はやっとその意味に至った。
「え、ホント!?」
僕は慌ててカーテンの隙間から窓の向こうを見やる。
外は晴れていた。僕は目をこすってもう一度星空の下を注意深く見る。比較的明るい夜だ。紛れもなく空は晴れている。
「……晴れてんだけど」
こんなつまらない冗談のために起こされたのかと憤慨しかけるが、
次いで聞こえたKの声は普段と違って割と真剣なものだった。
『すまん、聞こえねえ。もうちょいデカイ声で喋ってくれ』
「晴れてんだけど!」
『ああ、んなこた分かってる。それでも、雨が降ってんだ』
本格的に意味が分からない。晴れてるのに雨が降ってる。どんな状況だそれ。
「それって、キツネ雨ってこと?Kの寮の周りだけ?」
『は、キツネ雨?……違う。雨は降ってない』
少しイラっとくる。僕は眠たいのに。
「あんさあ、ちょっと意味が――」
『音だけなんだよ』
Kははっきりとそう言った。
『雨音だけが聞こえる。今外雨降ってないよな?だろ?なのに聞こえるんだぜ。耳ふさいでもまるで止まんねえし。
 最初は小雨程度だったけど、何かドンドン強くなってる気がするし。たぶんな、ちいとやべえよ、これ』
これは決して僕をからかっているのではない。これまでの付き合いから僕にはそれが分かった。Kは嘘をついていない。
本当に雨が降っているのだ。Kの中で。
『でさー。コレ非常に言いにくいんだけど、まー、頼みがあんだよ』
「……何?」
Kは本当に言い辛いのか、電話の向こうで数秒間を置いた。
『今からさ、バイトしねーか?材料はもう揃えたからよ』
その言葉で僕は全てを承知した。
「分かった……、行くよ」
電話を切り、そのまま家を出る。
そうして愛車のマウンテンバイクに跨る前に、僕は友人のSに電話をした。真夜中だがきっと起きてる。
予想通り電話に出たSに、僕は少し迷った挙句、正直にことの次第を話した。
「Kがバイト代も出すってさ」と言ったのが唯一の嘘だ。
しかしSは興味もなさげに一言、
『てるてる坊主のせいで幻聴が聞こえるとか、俺はそういった類は信じていない。
 あと今はテスト期間中だぞお前。二日も無駄にすんなよ』
僕は「そっか……。うん、分かった」と電話を切った。
僕はSとも付き合いが長いから分かる。そう言ってくるだろうとは思っていたんだ。

Kの寮に行く前に、コンビニ寄って食品とコーヒーを買う。
自転車を漕ぐ。大学までの坂道がしんどい。
それでもかなり飛ばして、いつもの通学より大分早い、コンビニから二十分程でKの住む学生寮に到着した。
Kの部屋は二階の一番奥。鍵は掛かっていなかった。僕は二回ノックして、部屋に入る。
入って最初に思ったのは、天井のアレが綺麗に無くなっていて、さっぱりしたなということだった。
部屋の中ではもう、新しいてるてる坊主が山の様に積まれていた。二百はあるだろうか。
Kは僕が部屋に入って来たことに気付いていない様だった。黙々とてるてる坊主を作っている。
Kの顔は酷く青ざめている様に見える。
作業台の前に来ると、Kはやっと僕に気がついた様だった。「よお」と言うKの声が酷く掠れたように聴こえた。
そうしてKは、部屋の棚から一冊のノートとペンを僕に差し出すと、自分の左の耳を二度指で叩いた。
「……さっきから土砂降りでよ。なんか台風見てーだわ。……ワリーけど、何か言う時はそのノートに書いてくれ」
僕は軽く驚きながらも、『了解』 とノートに書いて見せる。

つい最近千体もの数を作った時と同じ様に、Kがてるてる坊主を作り、僕が天井に張り付けていく。
しかし、今回のKの手の動きは鈍かった。
しきりに頭を横に振っている。その額には玉の様な汗が浮かんでいる。
『作るの代わろうか?』 と書いて訊いてみるが、Kは首を横に振る。
どうやらこの千人坊主は、人形自体は自分の手で作らなければならないらしい。しかしまだ人形は二百と少し。
僕は少し焦っていた。もう病院に行った方が良いのでは、という考えが一瞬よぎるが、
この千人坊主のルールで、部屋を出てはいけないとあったのを思い出す。
悪いことが起こる。くそう、悪いことって具体的に何だよ。
その時、僕はふと雨音を聞いた気がした。
そんな馬鹿な。さっきまでは晴れてたのに。咄嗟に窓の外を見る。雨など降っていない。外は晴れている。
気のせいだろうか。いや、今もかすかだけど聞こえる。僕は一瞬、背筋が寒くなるのを感じた。
まさか僕も……?
しかし注意深く音の出ている方を探ると、それは僕の中ではなく、外から聞こえてくるものだと分かった。
Kだった。雨音はKの両耳の奥から洩れてきているのだ。
まるで他人のヘッドホンから音が漏れる様に、外に音が漏れるほどの激しい雨なのだ。
本人にとっては耳鳴りなどという生易しいものではないのかもしれない。
そこに至ったとき、僕は途端にどうすればいいのか分からなくなった。
見ると、Kは額だけでなく腕にも汗をかいている。部屋はクーラーが効いているのに。
僕はノートに『大丈夫?』 と書いて見せた。
Kはしばらくの間、ぼーっとその文字を見てから、「はは」と力なく笑い、「……やっべえ」と一言だけ呟いた。
初めて見るKのそうした姿だった。
僕は何も言うことが出来なくて、まあ例え口に出しても届かないのだけど、
目を瞑って「とりあえず落ち着いて考えろ」と口に出し自身に言い聞かせる。
しかし考えは浮かばず、どうして良いのか分からない。
今、Kの手は動いていない。顔をしかめてじっと俯いている。
どうしよう。どうしたらいい。考えろ考えろ。
自分一人に、何ができる?
部屋のドアが開いた。
「あー、本当にやってんのな」
そこに立っていたのは友人のSだった。
とりあえず僕は長い息を吐いてから、「おっせえ」と言ってやった。
これまでの付き合いから、ぶつぶつ言いながらも来るというのは分かっていたんだけれど。
「仕方ないだろ。そんなことより、バイト代はほんとに出るんだろうな」
金に困ってない癖に、Sはそんなことを言った。

【なつのさんシリーズ⑬】千体坊主2 晴  』に続く






時刻は夜十時を幾分か過ぎた、とある冬の日のこと。
僕を含めて三人が乗った車は、真夜中の国道を平均時速80キロくらいで、潮の香りを辿りつつ海へと向かっていた。
僕が住む街から車で二時間ほど走ると、太平洋を臨む道に出る。
その道をしばらく西に進むと、海岸線沿いに申し訳程度の松林が見えて来る。
僕らが今目指しているのは、その松林だった。
おいぼ岩。松林の奥にそう呼ばれる岩があるそうだ。詳しいことは知らないが、何か黒い曰く付きの岩らしい。
おいぼ岩を見ること。それが今日の肝試し兼オカルトツアーの目的だった。
発案者は後部座席で就寝中の友人Kだ。運転席にはS、助手席に僕、いつものメンバーだ。
車内では噂を仕入れてきたKが、何も語らないまま車酔いでダウンしてしまっているため、
これからオカルトに挑むというのに、緊張感も期待感も何も無い。
情報は現地に着いてから。行き当たりばったり。僕らの肝試しは大体いつもこんな感じだ。

「なあなあ、Sは知ってるん?おいぼ岩」
やがて後ろで倒れたKの寝息が聞こえてきた頃、僕は運転席のSに訊いてみた。
Sはさほど興味も無い口調で、
「いや、知らん。……まあ、Kの奴が飛び付く様な話だからな。ロクなもんじゃないだろ」
「おいぼ岩の、おいぼ、ってどんな意味なんだろ?」
「おぶるってことじゃなかったか?確かな記憶じゃないが、昔ばあちゃんに言われた気がするな……」
「『おいぼしちゃおか?』 とかかな。あー、何か分かる気がする。
 ってことは、二つの岩が縦に重なってるんかな。雪だるまみたいにさ」
「知らん。ま、行けば分かるだろ」

車は順調に走り、目的の松林に着いたのは丁度夜中の十一時になった頃だった。
僕は後部座席のKを起こして車を降りた。
松林を挟んで海岸と、反対側には小高い岩山が構えている。
道路側から見る岩肌は、人の足で上るのには苦労しそうな急勾配をしている。別に上るつもりは無いけども。
足元には針の様な松の葉が散らばっていて、夜の木枯らしに撫でられてザラザラ音を立てていた。
と言っても松は常緑樹なので、枝には青い葉が残っている。
寒い、とりあえず寒い。
車のライトビーム懐中電灯を片手に、僕は光を松林の中に向けた。
Sは車から降りて来ず、ウィンドウを開いて右肩を外に出し退屈そうに欠伸をしている。
隣を見ると、起きたばかりのKも欠伸をしていた。
目の前の松林には、僕らの乗って来た車と同じくらい大きな岩が其処ら中にごろごろ転がっていた。
数え切れないほどではないが、おそらく両手の指では足りないだろう。
そのほとんどが、川で見かける様な角の取れた白っぽい岩ではなく、ごつごつした形のいびつな黒い岩だった。
「なあなあKー。そのおいぼ岩って、どれなん?」
僕はひとしきり欠伸を終えたKに訊いてみる。
「全部」
「え、何?」
「だからゼーンブ。この辺りにある岩は、全部そう呼ばれてんだよ」
予想外の答えに、僕はもう一度周りを見回した。
おいぼ岩とは、予想に反して岩の種類とかそんな話なのだろうか。
Kがガードレールを乗り越えたので、僕も続いてガードレールを跨いで松林に入る。
Kは停めた車から一番近くにあった岩の傍で立ち止まった。
その岩は他の岩に比べると角が少なく、球に近い形をしていた。大きさは縦に二メートル、横に一メートル半くらい。
その岩を見て僕は、昔博物館で見た恐竜の卵の化石をふと思い出した。
「……噂じゃあ、どっかに手形とか人型がついてるはずなんだけどなー。
 人型なら魚拓みてえにさ。この岩じゃあないみてーだな、見当たんねえわ」
岩の周囲をぐるりと一周してKはそう言った。
しかしながら当然、まだ何も聞かされていないのだから、手形と言われても僕には何のことだか分からない。
「なあなあ。そのおいぼ岩って結局なんなのさ。血なまぐさい言い伝えがあるって話だけど……」
Kは僕の方をちらりと見て「くふっ」と一つ笑った。
それから、唐突に手に持っていた懐中電灯を自分の顎の下にあてると、
鼻っ柱や頬を光らせながら、何処となく稲川淳二風に語りだした。
「……おいぼ岩の『おいぼ』 って言うのは、実はおんぶするって意味なんですよね……。
 でもほらー、この岩は何も背負ってないでしょ?おっかしいなあ、とか思いません?」
「いや。そういうのいいから」
おいぼの意味はSが言っていた様に、おぶる、背負う、で正しかったようだ。
僕の言葉を無視してKはそのまま話を続ける。
「実はですねー、この辺りには昔、一風変わった罪人の処刑方法があった様でしてね。
 ……ほら、向こうに山があるでしょ?ごつごつした岩山。
 ……処刑方法ってのはね?あそこで切りだした岩に罪人を括りつけて、転がすんですよ。山の上から」
「……転がす?」
「私もそれ聞いたときねー、思ったんですよ。『あ、これ来たな』 って。
 ロープで両手両足、それと首、一つずつ縛るんですよ。一つ千切れても岩から離れないようにってね……」
稲川淳二じゃないが、僕もそれを聞いた瞬間、ゾッと来た。
「罪人が背負う岩、だからおいぼ岩って言うんです。
 噂じゃあそれぞれの岩に一人ずつ、そうやって処刑された罪人の念が染み込んでいるって話……。
 いやあーしかし、人間ってのは怖い生き物ですねぇ……そう思いませんか……?」
そうしてKは、懐中電灯の光を、パチ、と消してライブを締めくくった。
話が終わった後も、僕の心臓は普段よりも早いスピードで脈打っていた。
そんな馬鹿な。
いくらなんでも、岩に縛って転がすとか、そんな幼稚で残虐な処刑方法が、日本で行われていただなんて信じられない。
「……結局は、噂話なんでしょ?」
僕が言うと、別の岩に行こうとしていたKが振り返る。その顔には、また顎の下から光が当てられていた。
「さあ……、わたしには何とも分かりませんが……、
 それでも、多くの文献やら古い資料やらにも載っている、『噂話』 ではある様ですけどねぇ……?」
そう言い残して、Kは一人松林の奥に行ってしまった。
僕はKについて行かず、この卵の様な、自分より少し背の高い岩の横でじっと固まっていた。
そんなことが本当にあったのか。僕には分からない。
ただ昔、この辺りは今よりもずっと交通の便が悪く、周囲から孤立した地域だったとは聞いたことがある。
だとしたら。
僕は想像する。もしかしたらあったのかもしれない。罪人を岩に縛り付けて、山の上から転がす処刑方法が。

幾度目か僕は辺りを見回した。月明かり。見える範囲いたるところに黒い岩の影。
人を轢き殺した、圧し殺した、擦り殺したかもしれない無数の岩に、今僕は囲まれている。
ぞくり、と何かが僕の首筋を撫でた。
一瞬眩暈がして、僕は傍らの岩に両手をついて身体を支えた。いかんいかん、僕は想像力が豊かすぎる。
目を瞑って、グラグラ揺れる感覚を平常に戻そうと意識を集中させる。
その時だ。僕はふと、背中に人の気配を感じた。
Sかな、と思った途端、違和感を感じる。気配は一人のものではない。
Kが戻って来た?いや、Kはさっき車と反対方向に行ったはずだ。
それ以前に、この気配は二人や三人といったものではなかった。大勢の人間だ。
音。押し殺した息づかい。布どうしが擦れ合う。砂利を踏む。
眩暈はまだ続いている。それでも僕は、ゆっくりと目を開き後ろを振り返った。
目の前に人がいた。十人……二十人……、いやそれ以上かもしれない。
眩暈のせいで視界がぼやけているが、皆着物を着ていて、顔はミイラの様に白い布を巻いていて分からない。
隙間から目だけが覗いている。松明を持つ者、丸太を持つ者、縄を持つ者。
僕は声を出そうとした。でも出なかった。口に違和感がある。どうやら僕はさるぐつわを噛まされているらしい。
何時の間に、と考える余裕は無かった。
さるぐつわだけじゃない。両手両足も動かない。僕の身体は岩に括りつけられていた。
一番ぞっとしたのは、首に巻かれた縄を意識した時だ。
何だこれ何だこれ何だこれ。
でたらめにもがく。硬く結ばれた縄はびくともしない。
周りの景色さえ変わっている。ここは山の上だ。さっきまでの松林の中じゃない。
人の動く気配。そこでようやく僕は、目の前に居る人間が僕をどうしようとしているのかが分かった。
僕は今、罪人なのだ。
白い布で顔を隠した幾人もの人たちの前で、代表の様な者が一人進み出て僕に何か言っている。男だと思う。
声は聞こえなかったが、辛うじて布の口の辺りが動いているのが分かる。
男が僕に一礼した。
それを合図に、その場に居た者たちが僕の傍に寄って来る。
太い丸太を持った者が、それを岩の下に差し込んだ。何本もの腕が岩に触れる。
やめてくれ。声が出ない。僕はもがく。もがいて、もがいた。
ごん、と何かが外れる感覚。岩を伝って来る振動。
徐々に、徐々に。まるでスローモーションのように僕は空を見上げていく。仰向け。
星。月。……そう言えば、今日の月も満月だったな。などと場違いなことを考える。
空気を裂く様な大きな音がした。同時に後頭部に衝撃。死んだと思った。

気がつくと僕は松林の中で、地面に仰向けで、大の字の状態で倒れていた。
そのまま充分な時間放心してから、僕は自分の状況を確かめる。
息が荒い。心臓ぼ鼓動がすごい。頭が痛い。怪我はない、たぶん。
……いきてる。良かった、生きている。
ゆっくりと上体を起こしながら、僕は先程の大きな音は車のクラクションだと気付いた。
Sが鳴らしたのだろうか。そんなことを思いながら僕は立ち上がった。
懐中電灯が地面に落ちていて拾おうと手を伸ばす。そこで、僕は自分の掌に何か付着していることに気がついた。
それは紅黒く粘り気のある液体だった。両の掌についている。
はっとして、拾った懐中電灯で目の前の岩を照らす。よく見るとそこには、同じく紅黒い液体がこびりついていた。
二か所。丁度僕が、眩暈を押さえるため両手をついたところに。
掌を確認する。僕は怪我をしていない。
「おーい……。大丈夫か」
振り向くと、車から降りてきたSがガードレールを跨いでこっちにやって来ていた。
「車ん中で見てたんだが。突然倒れるわ、その後起き上がってじっと岩を見てるわ。……何かあったのか?」
僕は無言でSに掌を見せ、次いで岩の手形を指差した。
Sも無言で見やって、それから岩に付着したそれを指でなぞり、匂いを嗅ぐ。
「血だな。怪我したのか?」
僕は首を振る。
Sは何か考える様な仕草をし、「後頭部」と呟いた。次いで、「触ってみろ」と言う。
僕は言われた通り後頭部を撫でる。
激痛。
吃驚して撫でた手を見ると、粘り気の無い真新しい血が付着している。
どうやら後ろに向けて倒れた時に、頭に傷を負ったらしい。幸い大した怪我では無い様だが。
「そういうことだ。じゃないと、岩から血が染み出たってことになっちまうからな」
どうやらSは、この血は全部僕のものだと言いたいらしい。けれども僕は後頭部を触っていない。
釈然としなかった僕は「でも……」と言おうとしたが、それより先にSが口を開いた。
「Kはどこだ?」
そこで僕はやっとKの存在を思い出した。
確か、松林の奥に行ったはずだったが、近くには居ない様だ。
「おーいー、Kー」と大声で呼ぶが、返事は無い。
僕とSは顔を見合わせた。

二人で探しに行くと、松林の奥、岩の影でうつ伏せに倒れているKを発見した。
死んでいると思った。肝が冷えると言うのは、まさにこのことを言うのだろう。
慌てて近寄り、身体をひっくり返して呼吸を確かめる。
呼吸は……、ある。死んでない。どうやら気絶しているだけの様だった。
ほっと息を吐いた途端、全身の余分な力が抜けるのがわかった。
「おい。起きろボケ」とSがKの頬をバシバシ叩くが、Kは起きなかった。
Kの身に何が起きたか。僕には大体の見当がついていた。
おそらく、Kと僕はほぼ同じ体験をしたのだ。罪人となり、岩に縛られて、転がされる。
僕はSが鳴らしたクラクションでこちらに引き戻された。
Kは何処まで『見た』のだろうか。
不意に得体の知れない恐怖がじわりと染み出てくる。僕はそれをやたら首を振ってごまかした。
揺すったり蹴ったりしたが、Kは何時まで経っても起きない。
仕方が無いので、このまま車まで運ぶことになった。
ジャンケンして負けた僕がKを背負う。脱力した人間というはすごく重いのだな。
「……そういや、これ、おいぼだな」と、車に向かう間にSがぼそりと呟いた。
確かにそうだと僕も思った。だからどうしたとも思った。

結局Kが起きたのは、走行中の車の中だった。
その時僕とSは、明日になってKが起きない様なら病院に連れて行こう、と相談していたところだったので、
突然Kが飛び起きた時はびっくりした。若干車も左右に揺れた。
「お……だっ、は。って、ここは……車の、中か?」
Kは明らかに混乱していたが、ここがSの運転する車の中だと僕が説明すると、とりあえず落ち着いた様だった。
そうしてKは僕の方を見やり、
「……お前、あれ、見たか?」
僕は頷く。僕が見たもの。Kが見たもの。『あれ』 が何を指しているかは分かり切っていた。
「何処まで見た?」
「転がり落ちる寸前まで」
「……あー。そうか。そら良かったっつーか。……俺は全部、最後までだ。……ヤバかった」
言葉が出なかった。Kは、『あれ』 を全部体験したと言うのだろうか。
僕たち二人の様子に、運転席のSは何か言いたそうな顔をしていたが、
結局何も言わず、ハンドル操作に専念することにした様だ。
「『あれ』 は一体何なんだろう……」
僕はひとり言のように呟いた。
「……岩の記憶か、罪人の記憶か。たぶん、岩の数だけあるんだろうぜ……」
Kはシートの上に胡坐をかき、下方向へと大きく息を吐く。
「途中までしか見てないんだろ?続きを教えてやるよ」
唾を飲み込む音が僕自身のものだと気づく。
「……ころんころん転がって転がってよ、途中で右の手と左の足がトんだな。
 正直、漏らしてた。ここでじゃねーぞ、『あの中』 での話だ」
例え漏らしたって馬鹿にはしない。僕も怖かった。死ぬと思った。
実際、あのまま転がっていたら、少なくとも『あの中』 で僕だった罪人は死んだだろう。
しかし、Kが次に言った言葉は僕の予想とは違っていた。
「ぜってー死ぬだろこれ思った。でもな……。俺の岩の奴は、死ななかったんだ」
「……え?」
「転がり終えても、生きてた。
 だから良かったっつーか、岩の形か転がり方が良かったっつーか、運が良かったっつーか……。
 死んでたら、ヤバかったな。たぶん、俺、ここに居ねーだろ」
そしてKはぶるぶると身体を震わせて、その震えを口から絞り出すように再度大きく長く息を吐いた。
死んでいたら、ヤバかった。
おかしな言葉だが、言いたいことは分かる。『あれ』はそれだけリアルな体験だった。
もしも夢と現実の間に何かあるとしたなら、『あれ』 はその類のものだと思う。
長い息を吐き終えた後、Kはすっと顔を上げた。
「大して期待もしてなかったおいぼ岩が、まっさかあんなにやべーもんだとはな……」
僕は深く頷く。Kも頷く。
「……全く、いい経験をしたもんだぜい」
車内から一瞬、一切の音が消えた様な気がした。
僕は脳内で先程のKの言葉を復唱する。でも意味が分からない。
もう一度。それでも意味が分からない。もう一度。
「当たりもアタリ、大当たりじゃん?噂広めれば、すっげースポットになるぜあそこ。
 あんな風に死にかけるなんて、中々出来ることじゃねーしな!」
車内にぱっと光が灯る。見ると、Kが顎の下で懐中電灯を構えていた。
「いやあー、不思議なことって、本当にあるもんですねぇ」
そう言ってKは嬉しそうに「うははは」と笑った。
Sが「……このまま病院行くか?」と小声で僕に囁いた。僕は力なく首を振る。
「深夜の病院なんて、絶対喜ばせるだけだって……」

その後。僕は窓の外を見やりふと考える。
もしKが縛られた岩が『死ぬ岩』 で、罪人と一緒にKまで死んでいたらどうなっていただろう。
もしあのままKが眠ったまま起きなかったとしたら。
散々悩んで想像して、僕なりに辿り着いた結論は……。
『それでも馬鹿は治らなかっただろう』だった。
たぶん、僕はまたKをおいぼするハメになるのだろう。
僕が吐いたため息は、車の窓に僅かの白い跡を残したきり、すぐに消えていった。





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