【閲覧注意】怪談の森【怖い話】

実話怪談・都市伝説・未解決の闇・古今東西の洒落にならない怖い話。ネットの闇に埋もれた禁忌の話を日々発信中!!

カテゴリ: なつのさんシリーズ




季節は秋で、当時僕は大学一回生だった。
長い長い夏休みが終わって数週間が過ぎ、ようやく休みボケも回復してきたとある日のこと。
時刻は昼過ぎ一時前。友人のKから『面白いもん手に入れたから来いよ』 と電話があり、
大学は休みの日でヒマだった僕は、深く考えずに一つ返事で、
のこのこKの住んでいる大学近くの学生寮まで足を運んだのだった。
「よーよー、ま、入れや。Sも呼んであるからよ」
寮の玄関先で待っていたKに促され、中に入る。Kの部屋は二階の一番奥だ。
それにしても、階段を上りながら口笛など吹いて随分と機嫌が良いようだ。
「なあなあ、面白いもんって何なん?」
「まーそう急かすなって。ちゃんと見せてやるからよ」
そんなKの様子を見て僕はピンと来るものがあった。
Kの言う『面白いもの』とは、新作のDVDやゲームの類を想像していたのだけど、どうやらそうじゃないらしい。
Kは生粋のオカルトマニアだ。何か曰く付きのナニカを手に入れたのだな、と僕は当りを付けてみる。
部屋の前まで来ると、Kは僕に向かって「ちょっとここで待ってろ」と言って、自分だけ中に入って戸を閉めた。
僕は素直に指示に従う。

十数秒も待っていると、勢いよく戸が開いた。
すると目の前には一枚の紙。
「じゃんじゃかホイ!」と、僕の顔の前に紙をかざしたKが言う。
紙はB4程のサイズで、パッと見、五十音順にかな文字と、一から十までの数字の羅列。
よくよく見ればその他に、紙の上の方にはそれだけ赤色で描かれた神社の鳥居の様なマークがあり、
鳥居の左には『はい』、 右に『いいえ』 と書かれている。
紙は若干黄ばんでいて、所々に茶色いシミも見えた。
「……何ぞこれ?」
僕の疑問に、Kは掲げた紙の横に、にゅっと顔を出して答える。
「ヴィジャ盤」
「ヴ……ヴィ、何?」
「ヴィー。ジャー。バーン。こっくりさん用のな。もっと言えば、こっくりさんをやる時に必要な下敷きってわけだ。
 そん中でもこれは特別だけどな」
そう言ってKは「うはは」と笑う。
とりあえず僕は部屋の中に入れてもらった。
Kにアダムスキー型の飛行物体を縦につぶした様な座布団を借り、足の短い丸テーブルの前に座って話の続きを聞く。
「こっくりさんって、アレでしょ?十円玉の上に数人が指を置いて、こっくりさんに色々教えてもらう遊び。
 で、これがその下敷きなんね」
丸テーブルの上には、そのヴィジャ盤とやらが広げられている。
あと、テーブルの端にビデオカメラ。どうやら何かしら撮影する気でいるらしい。
「まー、ざっくり言えばそんなとこだな」
「これKが書いたん?」
「ちげえ。とある筋から手に入れた。まー詳しくは言いたかねえけどさ。
 どうせやるなら、とびっきりのオプション付きでやりてえじゃねえか」
僕はそのKの言葉の意味が良く分からなかった。
やりたいって一体何をやるんだろう?オプションって何だ?
僕の頭上には幾つも?マークが浮かんでいたのだろう。
Kはヴィジャ盤を人差し指でトントンと叩き、
「このヴィジャ盤は、昔、ある中学校で女子学生が、こっくりさんをやった時に使ったものだ。有名な事件でよ。
 そのこっくりさんに加わった女生徒、全員がおかしくなって、
 後日、まるごと駅のホームから飛び降りて、集団自殺を図ったんだとよ。
 ほとんどが死んで、生き残った奴も、まともな精神は残って無かった。
 で、これが駅のホームに残されてた」
トントントン、と紙の上からテーブルを叩く音。
話の途中からすでに『みーみーみーみー』と、耳の奥の方で危険を告げるエラー音が鳴っていた。これはマズイ流れだ。
僕は以前にも、この手の曰く付き物件にKと一緒に手を出して、非常に怖い思いをしたことがある。
それも一度や二度じゃなく。
「やろうぜ。こっくりさん」
それでも、気がつくと僕は頷いていた。
Kほどじゃないけども、僕もこういった類は好きな方だ。
十中八九怖い思いをすることが分かっていても。6・4で怖いけど見てみたい。分かるだろうかこの心理。
「でもこれ、元々女の子の遊びでしょうに。男二人でこっくりさんって言うのも、ぞっとしないねぇ」
「ゴチャゴチャ言うない。ほれ、十円だせよ」
「僕が出すのかよ」と愚痴りつつ、十円をヴィジャ盤の上に置く。
すると、Kがそれを紙の上部に描かれている鳥居の下にスライドさせた。どうやらそこがスタート地点らしい。
「あーそうだ。注意事項だ。最中は指離すなよ。失敗したら死ぬかもしれんしな」
Kが恐ろしいことをさらっと言ってくれる。
それでも幼児並みに好奇心旺盛な僕は、十円玉の端に人差し指をそっと乗せた。Kも同じように指を乗せる。
「……で、何質問する?」
「あー、それ考えて無かったな。まあ手始めに、Sがここにいつ頃来るか訊いてみるか」
Kは適当に思いついたことを言ったのだろうが、それは中々良い質問だなと僕は思う。二人ともに知りえない情報。
こっくりさんは果たしてどう答えるだろうか。
「でーはー、始めますか」
Kはそう言ってビデオカメラのスイッチを入れた。
「んじゃあ……はいっ。こっくりさん、こっくりさーん。Sはあと何分でここに来ますかねー?」
Kの間の抜けた質問の仕方が気になったけども、僕は邪念を振り払い十円玉に触れる指先に意識を集中させる。
と言っても肩の力は抜いて、極力力を込めないように。
十円玉はピクリとも動かない。
ふと、座布団に座る僕の腰に何かが触れた様な気がした。
視線を逸らすと、半開きの窓にかかるカーテンが僅かに揺れている。風だろうか。
「……おい」
Kの声。その真剣な口調に、僕ははっとして視線を戻す。けれども十円玉は赤い鳥居の下から動いていない。
Kを見ると、じっと自分の指先を凝視していた。
「……どうしたん?」
僕はゆっくりと尋ねる。
「なあ、この十円……ギザ十じゃね?」
「あ、ホントだ」
「こっくりさんに使った十円って、処分しなくちゃいけないんだぜ?もったいねー」
ふっ、と安堵の息が漏れる。十円玉は動かない。

それから少しギザ十の話になった。
コインショップに行けば三十円くらいで売れるとか、
昭和33年のものにはプレミアが付いているとか。でも使えば十円だとか。
そんなくだらない話をしている時だった。
部屋の戸が叩かれ、「おーい、来てやったぞ」と声がする。Sの声だ。
そうしてSは、返事も待たずに戸を開けて部屋の中に入って来た。
「よー……って何やってんだ、お前ら?」
僕とKは顔を見合わせる。
「何って、見たら分かるだろうがよ」
「面白いもんがあると聞いてやって来てみれば、だ。お前ら、しょうもないことやってんなよ」
「おいこらSー。こっくりさんのドコがしょうもねえっつーんだよ」
「見る限りの全てだ」
そう言いきると、SはKの部屋にある本棚を一通り物色して一冊抜き出すと、
「相も変わらず、お前んちロクな本がねえな」と言って、一人部屋の隅で読書を始めた。
僕とKはまた顔を見合わせる。Kは肩をすくめて、僕は少し笑う。
そうして僕はふと気付く。
十円玉の位置。さっきまでは、紙の上部の鳥居の下にあった。
数秒間、瞬きすら忘れていたと思う。
五十音順のかな文字の上に並んだ、一から十までの横の数列。その一番左。0の上に十円玉があった。
少しの間言葉が出なかった。Kも状況を察したようだ。
決して僕が故意に手を動かしたのではない。それどころか、何時そこまで動いたのか、僕は全く気付かなかった。
人差し指は変わらず十円玉の上に乗っていると言うのに。
僕はKを見やった。Kはあわてて首を横に振る。今度はKが何か言いたげな顔をしたので、僕も首を横に振った。
このままでは何もはっきりはしない。
僕はもう一度質問をしてみようと口を開いた。
「えーと……こっくりさん、こっくりさん。今十円玉を動かしたのは、あなたですか?」
その瞬間、十円玉が滑った。『はい』 の上。こんなに滑らかに動くものとは思いもしなかった。
「……あなたは、本当にこっくりさんですか?」
すると十円玉は、『はい』の上をぐるぐると円を描く様に動く。
「うおおおおお!SSSー、ちょっと来てみろよおい」
興奮したKが大声で呼んで、本から顔を上げたSが面倒くさそうにこっちに寄って来る。
「何だようるせーな」
「動いた動いた。動いてんだよ今!」
興奮して「動いた」しか言わないKの代わりに、僕が一通り今起きた流れを説明する。
Sは大して驚きもせず、「ふうん」と鼻から声を出した。
「あ、それとさ。このヴィジャ盤って言うの?この紙にもさ、言われがあるそうで。
 何か昔、コレでこっくりさんした中学生が集団自殺したとか」
それを聞いたSは、ふと何かを思い出すような仕草をして。
「ん……?こっくりさんの文字盤は、確か、一度使った後は、燃やすか破るかしないといけないんじゃなかったか?」
「え?」
そんな情報僕は知らない。Kを見やる。しかしKが答える前に、十円玉が『はい』の回りをまた何度も周回する。
それを見てKが「うっはっは」とヤケ気味に笑った。
「その通りらしい。二度同じものを使うとヤバいらしい。
 具体的に言うと、こっくりさんが帰ってくれなくなることがあるらしい」
「えっ、え、……はあ!?」
まさか、先程オプションと言ったのはそれのことか。
こっくりさんが帰ってくれないとどうなるのか。僕は怖々考えてみる。
そのまま取り憑かれるのか?その後は、まさか、話の中で自殺した中学生の様に……。
その思考の間も、十円玉は絶えず『はい』の回りをぐりぐり回っていた。しかも、徐々に動くスピードが速くなる。
それでも僕の人差し指は、十円玉に吸いつけられたように離れない。何なのだこれは。
その内、十円玉は『はい』を離れて、不規則に動き出した。そこら辺を素早く這いまわる害虫の様に。
いや、よく見るとその動きは不規則では無かった。何度も何度も繰り返し。それは言葉だった。
『ど、う、し、て、な、に、も、き、か、な、い、の』
Kの額に脂汗が滲んでいる。たぶん僕の額にも。どうしよう。どうしよう。
その時だった。Sが長い長い溜息を一つ吐いた。
「こっくりさんこっくりさん。365×785は、いくつだ?」
その言葉は、まるで砂漠に咲く一輪の花のように、不自然でかつ井然としていて。
ぴたり、と十円玉の動きが止まった。
「……時間切れだ。正解は286525。ちゃんと答えてくれないと困るな。まあ、いい。じゃあ、次の質問だ」
僕とKは両方ぽかんと口をあけてSを見ていた。
「ああ、その前に、お前ら二人。目え閉じろ。開けるなよ。薄目も駄目だ」
Sは一体何をする気なのか。分からないが、とりあえず僕は言われた通り目を瞑る。
「こっくりさんは、不覚筋動って言葉を知ってるか?」
暗闇の中で腕が動く感覚。
「そうか、じゃあ、その言葉を文字でなぞってみてくれ」
十円玉は動いている。それは分かる。でも、つい先程に比べると、非常にゆっくりとしたペースだった。
「分かった。ああ、お前らも目開けていいぞ」
僕は目を開く。十円玉は、か行の『く』の場所で停まっていた。もう動かない。
見ると、いつの間にかSがテーブルの端に置いてあったビデオカメラを手に持っている。
「見てみろ」
撮影モードを一端止め、Kは今しがたまで撮っていた映像を僕らに見せる。
最初の部分は早送りで、場面はあれよあれよという間に、Sが僕らに目を瞑る様に指示したところまで進んだ。
『そうか、じゃあ、その言葉を文字でなぞってくれ』
ビデオ中のSの指示通り十円玉は動き出す。
けれどもその移動はめちゃくちゃで、『ふかくきんどう』 の中のどの文字の上も通過することは無かった。
「これで分かっただろ」
ビデオカメラを止めてSが言う。
「こっくりさんなんてものは、人の無意識下における筋肉の運動かつ、無意識化のイメージがそうさせるんだ。
 さっきも言ったが、不覚筋動。もしくはオートマティスム、自動筆記とも言うな。
 つまりは、意識してないだけで、結局自分で動かしてんだ」
「俺は動かしてねーぞ」
「……ひ、と、の、は、な、し、を、聞けボケが。無意識下つったろうが。
 その証拠に、参加者の知りえない、もしくは想像しえない問題に関して、こっくりさんは何も答えられないんだよ。
 ビデオ見ただろ」
今、十円玉は動かない。
けれど、それでも僕とKの二人は指を離せないでいた。
こっくりさんでは指を離すと失敗となり。失敗すればどうなる、万が一……。そんな不安が胸の奥で根をはっているのだ。
そんな二人を見てSは心底呆れたように、もしくは馬鹿にしたように、「あーあーあー」と嘆いた。
「じゃあ訊くが、俺の記憶が正しければ、こっくりさんは漢字では狐に狗に狸と書く。
 その名の通り、こっくりさんで呼びだすのは、キツネやタヌキといった低級霊って話だが……。
 ここで問題だ。どうしてそんな畜生に、人間の文字が読める?
 文字を扱えるのは、死んでからも、人間以上のものでないと無理だと思うがな」
それは予想外の問いだった。と言うより、僕はこっくりさんで呼びだすのがキツネだとすら知らなかった。
「それは……、死んだ化けキツネだからじゃ。ほら、百年生きたキツネは妖怪になるって言うし……」
「お前は百年生きたら、キツネの言葉が完璧に理解できるようになるのか?」
「……無理です」
「それと、だ。こっくりさんの元になったものは、外国のテーブルターニングって言う降霊術らしい。
 が、そいつは完全に人間の勘違いだと、すでに証明されている」
そう言うと、Sは無造作にヴィジャ盤の上の十円玉に指を当てた。
そして、僕とKが『あ』っと言うより先にこう呟いた。
「こっくりさんこっくりさん。
 こっくりさんという現象は全部、馬鹿な人間の思い込み、勘違い、または根も葉もない噂話に過ぎない。
 はい、か、いいえ、か」
すると三人が指差した十円玉が、すっと動き、『はい』の上でピタリと止まった。
Sが僕とKを見やる。その顔は少しだけ笑っている様にも見えた。
「俺は何もしてないぜ?意識上はな」
そして十円玉から指を離し、彼はまた部屋の隅で一人、読書タイムに没頭し始めた。
僕とKは互いに顔を見合わせ、半笑いのままどちらからとも無く指を離した。

その日はこっくりさんに関してはそれでお開きとなり、
三人で夕食を食べた後、僕はK宅からの帰りに自動販売機に立ち寄り、
今日使用した十円玉を使って缶ジュースを一本買った。
それ以降、身体に異変が起きただの、無性に駅のホームに飛び込みたくなっただの、そういった害は今のところ無い。

ちなみに、Sがあれほどオカルトに詳しいのは、
Kの部屋の家主も把握しきれてない程の蔵書を、「つまらん」と言いながらもほとんど読みつくしているからだ。

あと最後に一つ。あの日撮影したビデオカメラには映っていたのだ。
Sが計算問題を出すまでの間、僕とKの他に、もう二本の手が十円玉に触れていたことだけは付け加えておきたい。
Sが問題を出したとたん、朧げな手は、ひゅっと引っ込んだ。
それを見て僕は、やはりオカルトに対抗するのは学問なのだなあ、と思った。


関連:





その日、僕は友人Sの運転する車に乗って、県境の山奥にあるという廃村に向かっていた。
メンバーは三人で、いつも通り。運転手がSで助手席に僕。もう一人、後部座席を占領しているのがKだ。
僕らが街を出たのは午前十時頃で、途中で昼食休憩をはさみ今は二時過ぎ。
目的の廃村までは、あと一時間といったところだった。
車は現在、川沿いのなだらかな上り坂を、ゆったりとしたペースで上っている。
僕は開いていた地図に再び目を落とす。
これから行く廃村はもはや地図に載っておらず、赤ペンでぐりぐりと印がつけられている場所が僕らの目的地だ。
等高線の感覚がかなり狭い。それだけ辺鄙な場所にあるということだ。

ふと、後部座席の方から軽いいびきが聞こえる。
「……毎度毎度思うんだが、どうしてこいつは人を足代わりに使っときながら、後ろで一人悠々と寝てられんだ?」
一度バックミラーを覗き込み、不快と言うよりはもはや呆れた口調でSが言う。
今日のこの日帰り廃村ツアーを企画立案したのはKである。
『この廃村にはな、不思議な井戸があるらしいんだとよ』
昨日大学の学食にて、目を少年の様に輝かせ僕とSに語るKは、生粋のオカルトマニアである。
僕とSはこれまでにもう何度も、Kの導きによってそういうスポットに足を踏み入れてきた。
もちろんハズレも多かったが、たまにアタリもあった。
「Kは車酔いしやすいからね。車ん中で吐かれるよりはマシじゃない?」
「……おいおいKの奴ヨダレ垂れてんぞ」
Kの話によると、その廃村には普段は枯れているが、新月の夜にだけ水を満たす井戸があるらしい。
何でも、その井戸の底には河童の死骸が眠っているとされ、
井戸の水を飲むことが出来れば、その人の寿命が五十年は伸びるそうだ。
「河童が眠る井戸かあ……」
僕がぽつりと呟くと、Sがそれに被せる様に欠伸を一つした。
「そう言えば。河童の肉って、食べたら不死になれるんだっけ?」
「……ん?ああ。人魚の肉と混同してるのかは知らんが、そういう言い伝えもあるにはある。
 河童にはまだ色々と言われはあるんだがな。広く分布した物の怪だから、その分話のバリエーションも豊富だ」
「ふーん」
Sの話の後半部分は聞き流して、
その井戸の水には河童のダシが染み込んでいるのかしらん、等と、僕は窓の外に目を向けながら考える。
今回はアタリかハズレか。何にしても、せっかく行くのだから面白そうな土産話くらい持って帰りたいものだ。
ちなみに、今日の夜は月が見えない。

「Sさー。もしその井戸に水があったとして、飲む?」
「飲まん。寿命の件は置いといてだ。
 そもそも管理の行き届いてない井戸水なんぞ、中に何が溶け込んでいるか分かったもんじゃないからな」
「だよねー」
僕もSもその気は無い。但し一人だけ、今後ろで寝ているKだけは、飲む気満々らしかった。
何せ、お気に入りのコーヒーカップとスティックシュガーとインスタントコーヒーまで持参して来ているのだからこの男は。
「ってヨダレがシートに落ちてんぞ。おいこらK!」
Sがバックミラーを見て怒鳴る。それでも当の本人は、シートにもたれて気持ちよさげに眠るばかり。
きっとオカルティストが喜ぶ夢でも見ているのだろう。

車を停めたSがKを叩き起こし、それから一時間と半。
道は進むにつれ細く荒れてゆき、心配症の僕は少々不安になり、
手持ちのこの地図は本当にあっているのかと疑い始めた頃、
何だか地蔵が沢山並ぶ小さなお堂を通り越して、僕らはようやく目的の廃村に到着した。
「おー、ここだよ。ここ!」
車から降りたKが大声を上げる。
廃村と言っても、その村はまだ村としての形を残していた。
山の斜面にへばりつく様にして、いくつかの廃屋が左右にも上下にも立ち並んでいる。
と言っても木造の家自体は朽ちかけて、蹴り倒せるかと思う程ボロボロなものばかりだ。
辺りには膝より高い草がぼうぼうに生えていて、何処が道だったのかもよくよく見ないと分からない。
村の下方には小さな川が流れていて、その向こうはまた山。生い茂った緑の壁と言った方がしっくりくるかな。
「おーい。お前らこっち、こっちだっつーの!」とKの声がする。
停めた車の傍で辺りをぼんやりと見回していた僕は、ふっと我に帰り、Kの方へと向かった。
一番最後に車から出たSも僕の後からついて来る。
村の端、もうほとんど森の中と言った少しのスペースにKは立っていた。
「河童井戸だ」
Kが指差して言う。Kが井戸というそれは、石造りで、一辺が七十センチほどの正方形の形をしていた。
上に石の蓋がしてある。屋根もつるべもない。
井戸と聞いて、もう少し堂々としたものを想像していた僕は、正直がっかりしていた。
けれども、昔の村の井戸などと言うのは、大概こんなものなのかもしれない。
「おい、ちょっとお前ら、手を貸せ。この蓋あけっからよ」
僕とSは嫌々だったが、力を合わせて三人で蓋を開ける。すんごい重い。
蓋をずらした瞬間、冷蔵庫を開けた時の様な冷たい空気が頬を撫でた。
暗くて深い穴がその口をぽっかりと開ける。地面に垂直に掘られたうろ。覗きこむと、首筋辺りに毛虫が這う感覚を覚えた。
「わっ!」
穴に向かって突然叫んだのはKだ。その声は井戸の内壁に反射して、幾重にも重なって戻って来る。
次にKは地面に落ちてあった石を投げいれた。
……かつっ、
僅かな音。それは、この井戸に水が無いことを示していた。
「枯れてるな」とSが言った。
僕ら三人は、それから無言のまま視線を交わし合う。
Kが背に背負っていたリュックから懐中電灯を取りだした。井戸の中を照らす。
ライトの光は井戸の底を照らしはしなかった。光が弱いのか。しかし相当深くは掘ってあるらしい。
もちろんここに眠るとされる河童の姿など影も形も見えない。
「なーんも見えねー」
「少なく見ても、三十メートルはありそうだな。浅井戸かと思ってたが、そうじゃないのかもな」
そう言って、Sはまた石を投げ込もうと思ったのか地面の石を拾った。
それから、ふと何かに気が付いた様に手にした石を見やり、結局投げ入れずにKの方を向いた。
「で?これからどうすんだ」
Kは「おう」と元気よく返事をしてから、
「決まってんじゃん。話によるとだな、この井戸に水が湧くのは新月の夜、月が出てからだからー。それまで待とうぜ」
ようするに、待機。
Kの言葉は予想出来ていたものではあったが、僕は「うーん」と唸って辺りを見回した。
廃村。ここで暗くなるのを待つと言うのは、中々ホラーチックで楽しそうではある。
もし一人きりなら、断固として遠慮したいところだ。

それからとりあえず、僕らはいったん車の方に戻ることにする。確認すると時刻は四時半だった。
Kが首尾よくトランプなど持ってきていたので、
極力草の生えていない処を選んで、フロントガラスにひっつけるカーサンシェードを敷き物代わりにして、ポーカーをやった。
結果はKがダントツでトップ。
次にインディアンポーカーをやってみた。結果はSがダントツでトップ。結局ポーカーでは僕は一つも勝てなかった。

「ところで、あの井戸についてなんだが……」
それは、ポーカーは止めて三人で大富豪をしていた時のことだ。Sが口を開いた。
それは何気ない、まるで独り言の様な口調だった。
「河童云々の部分は……、一体どういう話なんだ?」
自分の番でカードを捨ててから、Kが「あ?俺に聞いてんの?」と問い返す。「お前しか知らないだろ」とS。
「あー。そだな」とKは語りだす。
「昔、この村に住んでた一組の夫婦が、そこの川で河童を見つけたそうだ。
 そんで、夫の方が後ろから棒でぶん殴って、ふんじばって村まで持って帰った」
「河童を?何で?」
僕の疑問に、Kは「うはは」と笑った。
「喰うためだとよ」
「マジでか」
「河童の肉には、不老不死の力があると信じられてたからな。
 ま、それとも単に、腹が減ってたからなのかは知らねえけどよ。
 そんで、いざ食おうとした時に、河童が気がついて逃げ出したんだ。
 当然追いかける。河童は逃げる。で、逃げこんだ先が井戸だった、と」
「あれま残念」
「それから、村人は井戸に蓋をするんだけどよ、河童は三日三晩井戸の中で叫び続けたそうだ。
 で、四日目の新月の夜。叫び声は止んだ。河童はお陀仏しちまったってわけだ」
井戸は地下水脈に直接繋がっているわけではない。
いくら泳ぎが達者な河童でも、出口が無ければどうしようも無かっただろう。
「井戸が枯れたのは、その後のことだそうだぜ。水が無くなっちまったんだ。
 でも不思議なことに、新月の時だけは水が湧くんだとよ。河童水だな。
 ……これ、隣の村に住む爺さん情報らしいぜ。又聞きだけどな――ほい、革命!」
「革命返し」
「ぎゃー」
そんなこんなで、僕らはトランプをしたり、雑談したり、寄って来る虫を追い払ったりして、時間を潰していった。

そうして、気がつくと辺りは薄暗くなり始めていた。
こうなると後は早い。数分後にはもうトランプの絵もはっきりとは分からないほど、周囲に夜が浸透していた。
夜の山は暗い。何も見えない。虫、鳥の鳴き声。ガサガサと木の葉がすれている。
空に月は無い。
ぽっと灯がともる。Kがバッグからキャンプ用のガスランタンを取り出して、明かりをつけたのだ。
「行こうぜ」
僕もSも自分用の懐中電灯を持って、村の井戸に向かう。
三人とも無言だった。何となく、陽が射している時とは雰囲気が違う。
暗い。とにかく暗い。こんなに変わるものなのかと、僕は恐怖に近い違和感を覚える。

ライトの光が照らす。井戸。蓋は開いている。
僕は辺りを見回す。まるで井戸の中の暗闇が、そのまま吹きだして辺りを包んだ様に暗い。
「……さてさて!果たして水はあるのでしょうか!?」
場の雰囲気を盛り上げようとしてか、井戸の傍でKがわざと大きな声を出す。
僕は少し笑う。ちょっとだけ和んだ。
「ではではー。ここに石コロがひとつございまして、今から投げ入れて確かめてみま、しょう、や!」
最後の『や!』でKは井戸の中に石を投げ入れた。
――とぷん――
「……え?」
反射的に声をあげてしまっていた。
音がした。
とぷん。
それは井戸の底にあるものからの返事だった。
今、井戸の中には水がある。昼間は確かに無かった。
水があるのだ。
「……うわ、マジかよ。すげえ!」
僕は固まっていた。石を投げ込んだ本人のKすら驚いてる。
僕ら三人の中で一番冷静なはずのSでは、この結果を受け俯き、何やらぶつぶつと呟き始めた。Sが怖い。
「潮汐は……、関係無いな。いくら新月つっても、地下水面押し上げるほどの影響は無いし、この辺りには海も湖も無い。
 地球の自転が加速したか?……はっ、そんな馬鹿な。しかしだ、となれば……、」
僕はSを見やった。Sが顔を上げる。
「最初から、水は、あった」
ぶつ切りにそういうと、Sは地面に落ちていた石を方手で二つ拾い、その手を井戸の上にかざした。
何をする気か疑問がわくよりも早く、ひとつ石を落す。
――ちゃぽん――
水に落ちる音。Sはすぐに手の位置をずらし、二つ目を落とした。
――かつん――
これは違う。違う音だ。 
何だろう。これはどういうことだ。Sは何をした。
「……おそらく石か何か、硬いものが積りに積もって、水面から顔を出してんだろ」
唖然としている僕に向かってSが言う。
「昼間Kが石を投げた時は、たまたまその硬いものの上に落ちたってことだ。深すぎて中は見えなかったしな。
 先に、もう枯れてるって情報があったもんだから、一度で確認を止めた」
僕はもう何が何だか分からなくて、
頭に浮かぶのは、Sはこんな状況でも馬鹿みたいに冷静なのだなあ、と言う感想くらいだった。
「はあー……、何と言うか。よくまあそこまで考え抜けれるもんだねえ」
それは本当に感心したからこその言葉だった。Kも同じ気持ちだったに違いない。でもSは浮かない顔をしていた。
「当たって欲しくなかった」
「は、え?何が?」
「おい、K」
僕の質問には答えず、SはKを呼ぶ。
「お前、そのバッグの中に色々入ってんだろ?ロープとバケツ、無いか?」
「ん、あ、あー、あるぜ。つるべは無いって、前もって聞いてたからよ。え?出すのか?」
「ああ」
Kはバッグの中から、小さなプラスチック製のバケツと、細いロープを取りだす。
Sはそれらを受け取り、バケツの取っ手に無言でロープを巻き付け、
ロープの端をしっかり握ると、そのままバケツを井戸の中へと放りこんだ。
バケツが水の上に落ちる音がする。
「おいS何だよ。さっきの『当たって欲しくなかった』っつーのは」
僕の代わりにKがもう一度Sに尋ねる。
しかしSは答えてくれず、手に持つロープを小刻みに操っている。バケツの中に水をすくっているのだ。
そしたら急にSはロープをぐいと大きく引っ張った。その瞬間、井戸の中から何かが音がした。
まるで積み木で作ったお城が崩れるような音。積み重なった何かが下から崩れていく時の音だった。
Sがゆっくりとロープを手繰り寄せる。
「……Kがさっきした河童の話。あれが本当だとしたらな」
「え、え?」
唐突で身構えても無かったので、僕は変な声を出していた。そんなことはお構いなしにSは話を続ける。
「あれは、河童が入ったせいで井戸の水が枯れてしまった、ってな話だ。
 井戸が枯れたのを河童のせいにする。それなら納得できる」
僕はまだSが何を言おうとしているのか分からない。
「でも、実際に井戸はまだ使える。水があって、こうして汲むことが出来るんだからな。
 飲み水に使用できなくても、畑にまく、洗濯、洗い物の水、用途はいくらでもある。
 この村の人間は、わざわざ河童の話を創ってまで、使えるはずの井戸を『枯れている』 ってことにしたかったんだ」
Sがロープを手繰る。僕はその動きだけを目で追う。
「水があっても、使えない。この水は使えないんだ」
バケツが井戸の縁まで上がってきた。Sがそれを掴み上げる。
黄色いバケツの中には透き通った水。それともう一つ。何だろう、細長い石?
「……まさか、こんなものが釣れるとはな」
Sの言葉には苦笑が混じっていた。
「お前ら、これが何だか分かるか?」
分からない。僕もKも首を横に振る。
Sがバケツの中からそれを取りだす。やはり石だ。
人の形をしている様にも見える。但し、頭、顔が無い。まるでボーリングのピンだ。
Sは次いで自分のポケットに手を入れ、何かを出した。
それも石だった。丸い石。
Sは細長い石の上に、丸い石をゆっくりと乗せた。ライトで照らすと、丸い石には表情がある。つまりは顔。
「……河童というものが、昔、貧困ゆえに間引きされた子供の暗喩だ、という話は聞いたことがあるか?」
Sは一体何を言っているのだろうか。
「そうして間引かれた子供のことを、水子と言う」
ぞくり、と生ぬるい風邪で体中を撫でまわされる様な感覚。
視線が井戸の中へと向かう。今にもあの中から何かが這いあがって来ているのではないか。そんな錯覚に陥る。
「お前らには分からないかもしれんが、ここに子供が縋りついている」
Sが手にした地蔵の足の部分。確かに小さく盛り上がってはいるが、あれが子どもなのだろうか。
「こいつは水子地蔵だ。水子を供養するための地蔵なんだよ。それが井戸の中にあったんだ。……分かるか?」
井戸から這いあがって来る。何かが、何が?
水子、間引かれた子どもたち。
たち?どうしてそう思うんだろう僕は。
「こいつは井戸じゃない。墓だ。たぶん、一人じゃないだろう。共同墓地か。
 河童の話でもあったな、食うためにってさ。直接じゃなくて、自分たちが食っていくために、って意味だろうな」
そして、Sはバケツを持ってKに差し出す。
「飲むか?ある意味長寿の水かもしれんぞ。何てたって水子だ。
 あと何十年も生きるはずだった子らのダシが、たっぷり出てるんだからな」
Kは半笑いで、力なく首を振った。
「飲むわけねーだろ」
「……ま、だよな。お前は?飲むか?」
そう言ってSは僕にもバケツを差し出してくる。
「無理無理無理無理無理ムリむり」
「だよな」
そうしてSはくっくと笑うと、バケツの中の水を井戸の中に戻した。
それは試合終了の合図でもあった。
蓋を閉め、首の取れた水子地蔵をその上に置き、僕ら三人は手を合わせた。

そしてSの車で村を出る時、僕は初めて気づいた。村の入り口近くにある御堂、そこに並んでいた沢山のお地蔵さん。
通り過ぎる際にSがぽつりと言った。
「あれも、全部、水子地蔵だぜ」
その瞬間、粟立った。
怖い。ああ、怖い。
ユウレイよりも妖怪よりも、暗闇よりも、何よりも。
ヒトは、怖いのだ。
しんと静まり返った車内。響くのはSの欠伸の声だけ。Kまでもが何も喋らない。
「ワリー。……ジョークだ」
欠伸の後、Sがぽつりと言った。
「……」
聞こえていたけど、僕は反応しなかった。
「ジョークだよ」
さっきより強めに言われて、僕はようやく反応する。
「……、……は?」
「全部、ジョーク。冗談。ジョーダン。口から出まかせ」
意味が分からない。僕はSを見る。Sは僕にちらと視線をよこし、「くっく」とさも可笑しげに笑っている。
「すまん。あんな簡単に信じるとは思ってなかったんだ。
 井戸からバケツ引っ張り上げた時に、丁度いい形の石が出てきたもんで、つい調子にのってな。
 そしたら引き際が分かんなくなって、ワリー」
「え……、え、でっ、だ」
そんな馬鹿な。
「じょ、ジョークって。……河童とか、水子の話は!?」
「河童が、間引きされた子どもの暗喩だってのはある話だ。でもな、考えてみろ。
 村人が本当にそんなことをしたのなら何故、自分たちの罪、いや恥だな。恥をわざわざを暗喩して人に伝えようとする?」
「だ、誰でも分かるわけじゃあ無いし、後悔の気持ちがあったとか……」
「俺には分かったし、あの河童の話で、私たちは後悔してますと言われてもな……。
 まあ、そんな暗喩があることを当時の村人が知らず、本当に偶然語り継がれた話ってことも考えられるが。
 そうだとしても、だ。あの井戸に、子どもは埋まっていない」
「な、何で分かるのさ!」
「簡単だ。生活に困るからだ」
「は……?」
「山奥の農村で、井戸に頼るというところは少ない。他に色々水源はあるからな。
 それでも、あんなに深い井戸を掘らなくちゃいけなかったってことは、本当にあの井戸が必要だったからだ。
 そんな井戸に、ガキを放りこむ馬鹿は居ない。捨てる場所なら他に沢山ある」
「で、で、でも、あの水子地蔵は……」
「ありゃ嘘だ。あれはただの石。形も全然違うしな。村の入り口にあったのも、ありゃ只の地蔵だ」
「……井戸の水が」
「一度枯れてまた湧き出るなんてことは、ある」
「……」
僕はKに助けを求めようと、後部座席を見る。
Kは寝ていた。どうも静かすぎると思ったんだ。くそう、使えねえ奴め。
「Kには黙っとけ。もう少し静かにさせとこう」とSが言う。
僕は今一度放心状態に陥る。
騙された。騙されたのだ。これ以上ないくらい綺麗に、見事に。
けれども、僕は何だか地の底から救われた気分だった。
もちろん、この野郎と言う気持ちはある。むくむく沸いてきている。
でもそれ以上に心の底から思う。
冗談で良かった。
Sが冗談と言うのだから、きっとそうなのだ。
僕はそう思うことにした。
だから僕は、井戸の蓋が、どうして重い石造りだったのかも気にしないことにした。
だから僕は、Sの表情が、普段よりも優しげなことについて気にしないことにした。
だから僕は、ふと思い出した、あのバケツを差し出された時に見た、水と一緒に入っていた小さな歯のようなものについて、
Sに訊くのは止めておくことにした。
全部、ジョークだから。








ことの始まりは、ある夏の夜。深夜十一時を過ぎた頃に突然来た、友人Kからの一通のメールだった。
――これから電話来ると思うけど。それ、俺だから――
僕はその時、自宅のベッドの上で大学の図書館から借りてきた本を読んでいた。
Kがこんな時間に電話してくること自体は、まあそれほど珍しいことではないのだけど、
いちいちメールで事前告知をしてくるのが気になった。一体、何の話だろう?
そんなことをぼんやり考えていたら、ぶうーん、と蜂の飛行音の様な音を立てて携帯が振動した。Kからだな。
しかし携帯の画面には、Kの名前の代わりに『公衆電話』と書かれていた。
はて、と思った。これがKからの電話だとして、どうしてKはわざわざ公衆電話から僕に電話を掛けてきているのだろうか。
先程メールが来たのだから、携帯は持っているはずなのに。
しかしまあ、考えても分からないので、僕は読みかけの本を置いて電話に出た。
「……もしもし?」
『おせえ。早く出ろよおめーよ』
確かにそれはKの声だった。
「こんな夜中にどうしたのさ。それに、そこって電話ボックスの中?」
『ゴメーイトゥ』
「何でそんなとこから掛けてきてんのさ?」と訊いてみるは良いが、実は僕にはその答えが半ば予想できていた。
Kがこういうことをする時は、必ずオカルトがらみのあれこれなのだ。
『実はよー、この電話ボックスがよ。有名な心霊スポットだって噂を聞いてだな。
 昔ここで事故があったようでよ。
 なんか、こうやって電話掛けてると、いつの間にか男が、外からこっちをジーっと、見つめてるんだとよ』
「あーはいはい。そんなことだろうと思ったよ」

…そして、その男の霊はまだ生きていた頃、仕事帰りにいつもそこの公衆電話を使用していた。
携帯のまだ普及してなかった時代。家族に『もうすぐ帰るよ』 と連絡していたのだ。
が、しかし。ある日、仕事が終わって電話を掛ける前に、よそ見運転の車に轢かれて死んでしまった……。

Kの話を聞いた瞬間。そんな悲しいストーリーが、僕の頭の中では展開されていた。
先程まで読んでいた小説の影響だろうか。
けれども、僕は不思議に思う。オカルト好きにして怖がりなKが、よくそんなスポットに一人で行けたものだ。
「で、そこに男の人は居るの?」
『あ、違う違う。男の霊が出るのはこっちじゃなくて。電話かけられた方だとよ』
「……は?」
『窓の方に出るらしいからよ。出たら、実況してくれ』
僕は窓の方を見た。反射的な行動だった。
カーテンがふわりと揺れていた。窓は閉めていたから、今日の暑さに我慢できずにつけたエアコンのせいだろう。
ここはアパートの二階、窓に映るのは闇夜の景色だけのはず。
しかし。
僕の喉から、ひゅっ、と息が漏れた。
そいつは身体全体をガラスに押し付ける様に、ぴったりと窓にはりついていた。
腕も足も九十度近く曲げ、その目は何処を向いているのか分からない。
服は着ておらず全裸。その身体はぞっとする程白かった。
ヤモリだった。
「……いた」
『マジでっ!?』
「ヤモリが」
『あ?……男の霊は?』
「いない。というか待て。待て。ちょっと遅いけど言わせておくれよ」
『おう』
「ナンダソレ」
『何が?あ、ヤモリ?』
「……違う。僕を餌に使うなよ、ってこと。そういうのは自分で体験して何ぼでしょうが」
しかしだ。なるほど合点がいった。だからKは今回一人でも大丈夫だったのだ。何せ怖い思いをするのは僕一人だから。
『まあ、いいじゃん。お前だって見たいだろ?ユーレイ。ってか、もう一度窓見てみ?今度は居るかもよ』
「さっきから窓見てるけど、誰も居ないよ」
代わりに、僕の視線に気づいてか、ヤモリが素早い動きで視界から消え去った。
『何だよ面白くねーなー。この電話から掛けると、必ず相手の絶叫が聞こえるって話だったのによー』
僕の絶叫が聞きたかったのかコイツ。
「……そんなに絶叫が聞きたいなら、Sにも電話掛けてあげれば?数打てば当たるかも知れないよ」
『そうだな。あ、でもよ、あいつ寝てる途中で起こされると、メッチャ不機嫌じゃん。ユーレイよりこええし』
「はは。まあ、確かにね。でもユーレイより怖いってのは、」
ガチャン。
「ちょっと……あれ?Kー?もしもしー?」
……ツー、ツー、ツー……、
どうやら電話が切れてしまったようだ。Kは二十円くらいしか入れてなかったのだろうか。
どうしよう。Kの携帯に直接掛け直そうか。
そんなことを考えているうちに、僕の手の中で携帯が振動する。
Kからに違いない。僕はそのことに、微塵も疑問を抱いていなかった。
けれども、ふと手が止まる。
携帯の画面。表示されているのは『公衆電話』か、Kの携帯番号だと思っていた。
読めなかった。表示が文字化けしていたのだ。こんなことは初めてだ。
ぶうーん、と携帯は僕の手の中で振動している。
僕は僅かに揺れるカーテンの向こうの窓を見た。何もない。見えない。ヤモリも。もちろん男など居ない。
そのまま窓を凝視しながら、僕は通話ボタンを押した。耳に当てる。
「もしもし?」
何か聞こえる。小さいけれども誰かが話している。
「もしもし?K?」
『……遅く……ごめ……』
Kじゃない?
微かに聞きとれるその声は、TVの砂嵐に似たノイズが混じり、断片しか聞こえなかった。
何だ?誰の声だ?
『……言うな……そ……』
男の声だと言うのは分かった。しかし、一体だれなのか。何を話しているのか。僕に向けられた声では無い。
『……今から帰るよ……』
次の瞬間、耳が壊れるかと思う程の何かがぶつかる様な音。
何かを引っ掻く様な音。何かが壊れる様な音。何かが割れる様な音。
そして何かが、柔らかい何かが潰れる様な音。
思わず僕は携帯を耳から離した。
音が無くなる。
再び携帯を耳に当てる。
『……ツー、ツー、ツー……』
電話は、切れていた。
何だったのだろうか、今のは。間違い電話だろうか。
……今から、帰るよ……。
最後の言葉だけはやけにはっきりと聞こえた。家に帰るつもりだったのだろうか。
その男はいつも仕事帰りにその公衆電話を使用し、ある日、仕事が終わって電話を掛ける前に……。
そこまで考えて僕は首を振る。妄想だ。そんなものは。
その瞬間、また携帯が震えて、僕は身構える。
しかし、今度はちゃんと画面に表示されている。Kの携帯からだった。
「もしもし……?」
『おっせーよ。とっとと出やがれこの野郎が』
Kの声を聞いて僕はほっとする。
そうしてからすぐに、何で僕が怒られなきゃいかんのかという疑問点に気付き、
無性にKのすねを思いっきり蹴ってやりたくなった。
『男は出たか?』
「出てねー。……あ、でも、変な電話が掛かってきた」
『あ、ナニソレ?』
「今から帰るよ、って」
『男から?』
「たぶん。それから、すごい音がした」
『ふーん。今、窓には?』
僕は窓を見る。もちろん、何も無い。誰も居ない。
「異常なし」
『……じゃ、間違い電話じゃね?そんな噂聞いてねえし』
「うん……。何だか僕もそんな気がしてきた……」
それからKは『ああ、そうだそうだ』と、何か面白いことを思いついた時の声で言った。
『俺、これから、ある実験をしてみようと思ってんだけど。お前、携帯耳から離すなよ』
「……何すんの?」
『ま、それは聞いてからのお楽しみだ』
Kは何をたくらんでいるのだろうか。気になった僕は、じっと耳を澄ます。
その時だった。視界の隅で何かが動いた気がした。顔を上げる。窓。カーテンが僅かに揺れている。
ヤモリだろうか。いや、今のはそんな小さな動きじゃなかった。何だろう。
「……K?おーい、Kー?」
少し不安になった僕はKを呼んでみる。でも返答は無い。
「おーいー。誰かいますかー……」
まただ。窓の向こうで何かが動いた。
僕はベットから立ち上がり、窓の方へと近づいた。
心臓の鼓動が段々と早くなってくるのを感じた。
見間違いじゃない。僕の部屋の外に、何かがいる。
恐る恐る窓に近づく。そして僕は携帯を耳に当てたまま、カーテンを掴んで一気に開いた。
僕はその場に立ちつくす。携帯電話の向こうからKの声が洩れてきた。けれどそれは僕の意識まで上って来なかった。
外には何も無かった。誰も居なかった。窓の向こうには相変わらず黒く塗りつぶされた街の景色が広がっているだけ。
暗闇を背にしたガラスは、鏡の様に僕の部屋の中を映していた。
外じゃない。そいつは部屋の中に居たのだ。
僕の背後。窓とは反対側の玄関へと続くドアの傍に何かがいた。
振り向くことが出来なかった。心臓の鼓動がより早くなる。
服装で男だと分かったが、それ以上は無理だった。そいつにはちゃんとした顔がついていなかった。
まるで、出来の悪いスプラッター映画を見ている様な気分。
鼻から上が無い。そいつは顔の半分が欠如していた。無いのだ。文字通り無。目も無い、耳も無い。
でこも無い。ならば脳も無いのだろう。
そいつの口が動いた。ゆっくりと上下に開く。
『ただいま』
声はそいつの口から聞こえてきたのではなかった。僕の耳に当てた携帯から。もちろんKの声じゃない。
『ただいま』
ガラスに写るそいつの口の動きに合わせて、携帯電話の奥から声がする。
『今、帰ったよ』
ふつふつと脂汗が額に浮き出ているのが分かった。
もし今振り返ったらどうなるのだろう。部屋の中には何もいないのか。それとも……。
悲鳴が、叫び声が、喉の奥までせり上がって来ている。
『ただいま。……今、帰ったよ』
僕が悲鳴を上げようとしたその時だった、
『うるせえな今何時だと思ってんだこのボケが!!』
聞き覚えのある怒声が、僕の携帯を当てていた左の耳から右の耳へと貫通した。
「うわあっ!」
僕は飛び上がって悲鳴を上げた。
けれどそれは恐怖の悲鳴では無かった。
それからKの『うはははは』と言う笑い声が、電話の向こうから聞こえて来る。
気付けば僕は窓の傍に尻もちをついてひっくり返っていた
電話から聞こえてきた怒声はSの声だった。
「うあ、うあ、うわわわ……」
恐怖と驚きと混乱で、声にならない声が僕の口から洩れる。
尻もちはついたけれど、携帯はしっかり手に持って放り投げてはいなかった。
『……――あん?お前、○○(僕の名前)か?Kと一緒に居るのか?』
何が何だか分からない。どうしてSの声が電話口から聞こえてくるのか。どうして僕が怒鳴られなきゃいけないのか。
そして、ひっくり返った拍子に後ろを見てしまったわけだが、僕の部屋の中には今、僕意外に誰も居ない。
窓に写っていた顔半分の無い男も居なかった。
『おい、Kに代わってくれ。説教するから』
Kは未だ電話の向こうで『あひゃひゃひゃ』と心底可笑しそうに笑っている。
僕は何度も何度も細かい息を吐いて、ようやく理解した。
つまり今、Kは公衆電話の中で、自分の携帯と公衆電話の受話器を合わせているのだ。
Kを介して僕とSは互いの声が聞こえている。
『うっはっは。あーおもしれー。ってか、こんな風につなげても会話って出来んだなー』
『黙れボケが。何が可笑しいのか知らんが、明日会ったらお前、』
『あーワリーS、十円しか入れてないからよ。もう切れるわあっはっは!』
『テメ俺の安眠を、』
ガッチャン。どうやらKが受話器を戻したらしい。
『あー面白かった。ってかおめーも驚き過ぎだろ。マジで悲鳴あげてたし』
「……うん」
僕は恐る恐る窓ガラスを見てみる。見馴れた僕の部屋。僕一人。他は誰も居ない。
深い安堵の溜息を吐く。怖かったしグロかった。ああいうのは駄目だ。
幽霊というのは、もっとこうスマートで無くてはならないと切に思う。
『んー? どうしたお前、何かあったのか?』
そう言えば、Kがさっきの公衆電話からSに電話を掛けたのだとすれば、
さっきの頭なし男はSの部屋にも行ったのだろうか。
「……いや、ないない」
僕は何故か確信できた。それは無い。僕はSに怒鳴られた言葉を思い出していた。
やっと帰りついて、あんな言葉を言われたら誰だって消えたくなる。
『あ、そ?何もなかった?』
「うん。何も無かったよ。……それよりKさ、今からウチに来ない?目が冴えちゃってさ。何かして遊ぼうよ」
『あー行く行く!んじゃ、二十分くらいでそっち着くわ』
「うん。じゃあまたあとでね」
Kとの電話を切った後、僕はすぐにSに電話を掛けた。Sはもろ不機嫌だった。
『……ああ?』
「あ、S?ねえ、さっきのKの電話で目冴えちゃったんじゃない?」
『……ああ』
「じゃあさ。今からさ、ウチ来ない?」
『ああ?何で』
「Kも来るよ」
『行く。待ってろ』
これでよし。
僕は電話を切ると、ベットの上に倒れこんだ。
まずKが先に来るだろう。後でSがやって来るとも知らずに。僕はそっとほくそ笑む。
でも、それは二人を呼んだ理由の一つにすぎない。
僕は携帯を開けて、着信が来ない様に電源を切った。それから、はっと気づいてカーテンを全部閉める。
その瞬間、ヤモリが一匹窓を横切った。
「うひっ!」
悲鳴を上げて飛び退く。
……ああ怖い怖い。
読みかけていた本もホラーものだったけれど、今日はもう読めない。
これが理由の二つ目。
僕一人じゃ、今夜はどうにも眠れそうになかったから。









深夜十一時。僕とSとKの三人はその夜、地元では有名なとある自殺スポットに来ていた。
僕らの住む町から二時間ほど車を走らせると太平洋に出る。
そこから海岸沿いの道を少し走ると、
ちょうどカーブのところでガードレールが途切れていて、崖が海に向かってぐんとせり出している場所がある。
崖から海面までの高さは、素人目で目測して五十メートルくらい。
ここが問題のスポットだ。
もしもあそこから海に飛び込めば、下にある岩礁にかなりの確立で体を打ち付けて、
すぐに天国に向けてUターンできるだろう。
そしてここは、実際にたびたびUターンラッシュが起きる場所でもあるらしい。
『道連れ岬』
それがこの崖につけられた名前だった。

僕らは近くのトイレと駐車場のある休憩箇所に車を停め、歩いてその場所に向かった。
「そういやさ。何でここ『道連れ岬』って言うんかな?」
僕は崖までのちょっとした上り坂を歩きながら、今日ここに僕とSを連れて来た張本人であるKに訊いてみた。
「シラネ」
Kはそう言ってうははと笑う。Sはその隣であくびをかみ殺していた。
「まあ、でもな。噂だけどよ。ここに来ると、なんか無性に死にたくなるらしいぜ?」
「どういうこと?」
「んー、俺が聞いた話の一つにはさ。
 前に、俺たちみたいに三人で、ここに見物しに来た奴らがいたらしい。
 で、そいつらの中で、一人が突然変になって、崖から飛ぼうとしたんだとよ。
 で、それを止めようとしたもう一人も、巻き添え食らって落ちちまった」
「ふーん」
「……巻き込まれたやつはいい迷惑だな」
Sがかみ殺し損ねたあくびと一緒に小さくつぶやく。眠いのだろう。
ちなみに、ここまで運転してきたのはSだ。
そういうスポットに行くときはいつも、オカルトマニアのKが提案し、僕が賛同し、Sが足に使われるのだった。
「いや、実際いい迷惑どころじゃねーんだよな。実際死んだの、その止めに入ったやつ一人らしいし」
「はい?」と言ったのは僕だ。
だってそれは理不尽と感じるしかない。飛ぼうとした人じゃなくて、止めに入った人だけ死ぬなんて。
「詳しいことはそんなしらねえけどさ。多いらしいぜ、同じような事件」
「ふーん」と僕。
「……その同じような事件ってのは、どこまで同じような事件なんだ?」
興味がわいたのか、Sが訊く。
「うはは、シラネ。あんま詳しく訊かなかったからなあ……お、そこだよ」
話しているうちに、僕らはカーブのガードレールが途切れている箇所まで来ていた。
そこから先は、僕らの乗ってきた軽自動車が横に二台ギリギリ停まれる程のスペースしかない。
近くに外灯があったけれど、電球が切れかけているのか、中途半端な光量が逆に不気味さを演出していた。
ざん、と下のほうで波が岩を打つ音が聞こえる。
「誰もいねーな」
Sは心底つまらなそうだ。
「ま、他の噂だと、崖の下に何人も人が見えるだとか、手が伸びてくるだとか……」
と言いながら、Kがガードレールをまたぐ。
ガードレールの向こう側は安全ロープなども一切張っておらず、確かに『どうぞお飛びください』といった場所ではある。
「ちょ、おい。K、危ないって。いきなり飛びたくなったらどうするんだよ」
僕の忠告を無視し、Kは崖のふちに立って下を覗き込む。
「おー、すげーすげー」
この野郎め、そのまま落ちてしまえばいいのに。
「死にたくなったら一人で飛べよ」
Sはそう言って、崖に背を向ける形でガードレールに腰掛け、車から持ってきたジュースの入ったペットボトルに口をつけた。
僕はというと、どうしようかと迷った挙句、一応ガードレールを乗り越えて、何かあったときにすぐ動けるよう待機しておく。

しばらくして、じろじろと海を覗き込んでいたKが立ち上がった。
「うーん、何もねーなー。なあ、ところでお前らさ、今、死にたくなったりしてるか?」
どんな質問だよと思いながらも、僕は「別に」と首を横に振る。
SはKに背を向けたままで、「死ぬほど帰りてえ」と言った。
Kが自分の右手にしている腕時計で時間を確認する。
「えーでもよー。ここまで来て何も起こらないまま帰るってのもなー。……なあ、もうちょっと粘ってみようぜ」
「一人で粘っとけよ」
「冷たいこと言うなよSー。俺とお前の仲じゃんかー、ほら、暇なら星でも見てろよ」
「死にたくなれ」
漫才コンビは今日も冴えている。
と言うわけで。僕らは二十分という条件付で、もう少しだけここで起きるかもしれない『何か』を待つことになった。

それから僕ら三人は並んでガードレールに腰掛け、崖側に足を伸ばして座っていた。
僕はボケーっと空を見上げ、Sは腕を組んで目を瞑り、Kはせわしなく周りを見回している。

「やべ……、俺ちょっくらトイレ行ってくるわ」
十分くらいたったとき、Kがそう言って立ち上がり、車を停めた休憩所に向かって歩いていった。
隣を見ると、Sは先ほどから目を閉じたままピクリとも動かない。
僕はまた空を見上げた。先ほどKが言っていた、この崖にまつわる話をふと思い出す。
この崖に来ると無性に死にたくなると言うのは本当だろうか。今のところ自分の精神に変わりはない。
「『道連れ岬』って言うんだろ……ここ」
突然隣から声がしたので、Sの声だとはわかっていても僕は驚いて実際腰が浮いた。
「何?いきなりどうしたん?」
「いや、ちょっとな」
近くにある外灯の光が、Sの表情をわずかに照らす。Sはいまだ目を開いてなかった。
「さっきKが言ってたろ。一人が飛ぼうとして、二人が落ちて、一人が死んで……、なんかしっくりこなくてな。考えてた」
「で、分かった?」
「さあ、分からん。
 ただの尾ひれのついた噂話か……。そもそも、全部が超常現象の仕業っつーなら、俺が考えなくとも良いんだがな」
「うん」
Sが何に引っかかっているのか分からなかったので、適当に返事をする。
Sはそれ以降何も言わなくなった。本当に眠ってしまったのかも知れない。

しばらくたって、誰かの足音に僕は振り返った。Kだ。Kが坂の下からこちらに歩いてきていた。
大分長いトイレだったような気がする。僕はKが来たら『もうそろそろ帰ろう?』 と提案する気でいた。
しかし、歩いてくるKの様子に、僕は、おや、と思う。
Kはふらふらとおぼつかない足取りだった。どことなく様子がおかしい。僕は立ち上がった。
「おーい、K、どうした?」
僕の声にもKは反応しない。俯いて、左右に揺れながら歩いてくる。
「お、おい……」
Kは僕らのそばまで来ると、黙ってガードレールを跨ぎ、僕とSの横を通り過ぎた。
表情はうつろで、その目は前しか見ていない。
三角定規の形をした崖の先端。そこから先は何もない。
Kは振り向かない。悪ふざけをしているのか。Kの背中。崖の先に続く暗闇。海。
何かがおかしい。その瞬間、体中から脂汗が吹き出た。
「おいKっ!」
僕はKを引き戻そうと手を伸ばした。けれど、Kに近寄ろうとした僕の肩を誰かが強くつかんだ。
振り返る。Sだった。
「やめろ」
Sの声は冷静だった。
「でもKが!」
「あれはKじゃない」
「……え?」
Sの言葉に、僕は崖の先端に立ちこちらに背を向けている人物を見つめた。
今は後姿だが、あれはどう見たってKだ。先まで一緒にいたKだ。
「今は何時だ?」
Sが僕に向かって言う。その額にも脂汗が浮かんでいた。
「答えろ。今は何時だ?」
Sは真剣な表情だった。僕はわけが分からなかったが、自分の腕時計を見て「……十一時、四十分」と言った。
「だろう。だったら、あれはKじゃない」
僕はSが何を言っているのか分からず、かといって僕の肩をつかむSの腕を振りほどくこともできず、
ただ、目の前のKらしき人間を凝視する。
あれはKじゃない? 
じゃあ、誰だというのだ?
時間がどうした?
あいつがKだと思ったから伸ばした僕の腕。開いていた掌。
迷いと混乱と疑心によって、僕はいったん腕を下ろした。
その時、目の前のそいつが振り向いた。首だけで、180度ぐるりと。
そいつは笑っていた。顔の中で頬だけが歪んだ気持ち悪い笑み。Kの顔で。
その笑みで僕も分かった。あれはKじゃない。
そいつは僕とSに気持ち悪い笑みを見せると、そのまま首だけ振り向いたままの姿勢で……飛んだ。
「あ、」
僕は思わず口に出していた。
頬だけで笑いながら、そいつはあっという間に僕らの視界から消えた。
何かが水面に落ちる音はしなかった。
「……飛んだ」
僕はしばらく唖然としていた。口も開きっぱなしだったと思う。
突っ立ったままの僕の横を抜けて、Sが数十メートル下の海を覗き込んだ。
「何もいねえな。浮かんでもこない」
僕は何も返せない。Sはそんな僕の横をまた通り過ぎて。
「おい、いくぞ。……Kは大丈夫だ」
そう言ってガードレールを跨ぎ、車を停めた休憩所への下り坂を早足で降り始めた。
僕もそこでようやく我に帰り、崖の下を覗くかSについていくか迷った挙句、急いでSの後を追った。
「S、S!警察は?」
「まだいい」
Sは休憩箇所まで降りると、車を通り過ぎ、迷うことなく男子トイレに入った。僕も続く。
トイレに入った瞬間、僕ははっとする。
洗面所の鏡の前で、Kがうつ伏せで倒れていた。
急いで駆け寄る。Kはぐうぐう眠っていた。気絶していたと言ってあげた方がKは喜ぶだろうが。
僕はKがそこにいることがまだ信じられないでいた。
例えKじゃなくても、ついさっきKの形をしたものが確かに崖から飛んだのだ。
「おいこらK」
Sが屈み込み、寝ているKの右側頭部を軽くノックする。三度目でKは目覚めた。
「いて、何。ん……、ってか、うおっ!?ここどこだ!」
Kだ。まぎれもなく、これはKだ。僕は確信する。
急に、どっと安堵の気持ちが押し寄せてきて、僕は上半身だけ起こしたKの背中を一発蹴った。
「いってっ!え、何?俺か?俺が何かした?」
何かしたも何も、僕はKに何と説明したら良いものか考えて、結局そのまま言うことにした。
「Kが、……いや。Kにそっくりなやつが、僕らの目の前で崖から飛んだんだ」
Kは目をパチパチさせ。
「はあ?……うそっ!?マジかよ俺死んだの!?やっべ、すっげー見たかったのにその場面!」
Kだ。こいつはまぎれもなくK過ぎるほどKだ。あきれて笑いが出るほどだった。
「おい、お前ら。帰るぞ」
Sが言った。
「ええ?そんな面白いことあったんだったらまだ居ようぜ。俺だけ見てないの損じゃん!」
「うるせー。二十分は経った。俺は帰る。俺の車で帰るか、ここに残るかはお前ら次第だ」
そう言ってSはトイレから出て行こうとした。
けれど何か思い出したように立ち止まり、「ああ、そうだ。忘れてた」と独り言のように呟くと、
つかつかと洗面台の前に戻ってきた。
「ビシッ」
深夜のトイレ内に異様な音が響いた。
Sが手にしていたペットボトル。Sはその底を持ち、一番硬い蓋の部分を、まっすぐ洗面所の鏡に叩きつけたのだ。
蜘蛛の巣状に白い亀裂の入った鏡は、もう誰の顔も正常に写すことはない。
僕とKは石のように固まっていた。
Sは平然とした顔で鏡からペットボトルを離すと、僕ら二人に向かってもう一度「ほら、帰るぞ」と言った。
僕とKは黙って顔を見合わせ、Sの命令に従って、急いでトイレを出て車に乗り込んだ。

結局警察は呼ばなかった。誰も死んでない。俺らは何も見てない。Sがそう言ったからだ。

帰り道。後部座席で色々と騒いでいたKが、いつの間にか寝ているのに気づいた後、僕はそっとSに訊いてみた。
「なあ。Sは、どうしてあれがKじゃないって分かったん?」
「あれってどれだ」
「僕らの目の前で飛んだ、Kそっくりな奴」
「ああ」
「……顔も、服装も、体格も、絶対あれはKだったと思う。どこで見分けたんかなあ、って思ってさ」
するとSはハンドルを握っている自分の左手首を指差し、
「あいつの時計がな、左手にしてあったんだ」と言った。
「いつもKは右手に時計をつける。今日もそうだった」
「はあ」
「だから、おかしいと思って注意して見てみた。そしたら、文字盤が逆さだった。一時二十分。そんだけだ」
十一時四十分。一時二十分。鏡合わせ。
「そうか。だから鏡を割ったんだ」
「……ん?ああ、いや。ありゃただの鬱憤晴らしだ。やなモン見たしな」
「はああー……」
Sは鬱憤晴らしなどする様な奴ではないが、まあそれはいいとしよう。

しかしまあSよ。お前は一体どんな観察力してんだ、と僕は思う。
普通だったら気づかない。そんなところには目もいかない。絶対に。
その証拠に、僕はあいつがKじゃないと分からなかった。
「でも、本当に警察呼ばなくて良かったんかな?」と僕が言うと、Sは首を横に振った。
「俺らは何も見なかった。Kは死んでない。それでいいだろ」
確かに、それでいいのかもしれない。Sに言われると、そんな気がしてくるから不思議だ。
それに、きっと死体は出ない気がする。あくまで僕のカンだけれど。
「しかしなあ。もしかすると、あのまま手を伸ばしていたら、お前。逆に引っ張り込まれてたかもな」
何気ない口調でSは恐ろしいことを言う。僕は一気に背筋が凍りついた。
「道連れ岬とはよく言ったもんだ」
そう言ってSは大きなあくびをした。
後ろでKが何か意味不明な寝言を言った。僕はぶるっと一回体を震わした。
生きててよかった。
「……そういや、俺今めっちゃ眠いんだけどよ。これ事故って道連れになったらごめんな」とSが言った。
たぶん冗談だろうが、僕はうまく笑えなかった。
Sの運転する車は僕らの住む町を目指して、深夜、人気のない道を少しばかり蛇行しながら走るのだった。









深夜十一時。僕と友人のKは、今はもう使われていないとある山奥の小学校にいた。
校庭。グランドには雑草が生え、赤錆びた鉄棒やジャングルジム、シーソー。
現在は危険というレッテルを貼られた回転塔もあった。
僕とKはこの小学校に肝試しに来たのだった。
本当はもう一人、Sという友人も来る予定だったのだが、あいにく急な用事が入ってしまった様で、二人で行くことになった。
野郎二人で肝試しとは別の意味でぞっとするが、
このKと言う奴は、幽霊を見るためなら他の条件が何だろうとお構いなしなのだ。ただ一つの条件を除いて。
「……だってよー。一人じゃ『見た』っつっても誰も信じてくれねえじゃん?」
もっともらしい理由だが、僕は知っている。こいつは実は怖がりなのだ。
それでもって熱狂的なオカルトマニアで、心霊スポット巡りが趣味なのだ。
しかしそんなKのおかげで、僕は普通なら見ることの出来ないものもいくつか見てきた。
「Sのヤロウ正解だったなー、ここハズレだわ」
「うーん……、確かにね。物音ひとつしなかったしなあ」
ハズレならハズレでそれは有難いのだが、僕だって怖いものは怖い。でも興味はすごくある。
6・4で見たいけど見たくない。分かるだろうかこの心理。

というわけで、僕らはさっきまで学校内をウロウロしていたのだが、
あいにくここで自殺したと言う生徒の幽霊は見ることが出来なかった。
懐中電灯を消したり、わざと別々に行動したり、音楽室も理科室も怖々覗いたのだけれど、結局、何も出なかった。
時間が悪かったのか、それともKが「くおらー、幽霊でてこいやーっ!」などと怒鳴りながら探索してたせいだろうか。
そうして、僕らは幾分がっかりしながら、小学校のグランドに出たのだった。

「で、どうすんの?帰る?」と僕はKに訊いた。
Kは明らかに不満そうな顔をして、いつの間にか拾ったらしい木の枝で、地面にガリガリ線をひいていた。
黙ってその様子を眺めていると、Kは地面に二メートル四方ぐらいの正方形を描いた。
次いで、その図の中に十字線がひかれる。田んぼの『田』だ。
Kが顔を上げて僕の方を見た。その顔から不満そうな表情は消えて、ににん、と笑う。
「なあなあ、お前、『あんたがたどこさ』って知ってっか?」
いきなり尋ねられ、僕は少しあたふたしながら、脳内の箪笥からその単語の情報を引っ張り出した。
「知ってる。手まり唄だろ。毬つきながら、ええと……あんたがったどこさ、ひごさ、ひごどこさ、くまもとさ」
「分かった分かった。……じゃあよ、『あんどこ』って知ってるか?」
「あんどこ?」
『それは知らない』と僕が首を振ると、Kは手にした木の棒で、今しがた地面に描いた図形、田んぼの田を指した。
「『あんどこ』ってのは、この四つの四角の枠の中でな、リズムに合わせて飛ぶんだよ。
 右、左と基本は左右交互に飛んで、あんたがったどっこさっ、の『さ』の部分だけ一瞬前に飛んで、戻る。
 いいか?よく見てろよ」
どうやら手本を見せてくれるらしい。
せーの。
「あんたがったどっこさあっ!ひっごさ。ひっごどっこさ!?くまもっとさ!くまもっとどっこさ?せんっばさあっ!!」
大声を張り上げながら、Kは自分で作った図の中を前後左右にぴょんぴょん飛び跳ねた。
「……とまあ、大体こんな感じだな。分かったろ?」
と言われても、僕としては首を傾げるしかない。こいつは一体何がしたいんだろうか。
分かったのは、やはりKはとてつもなく音痴ということだけだ。
「今のが『あんどこ』 ……まっ、遊びだ。遊び」
「へえ……で?」
もしかして、それを僕にもやれと言うのだろうか。しかしKの顔にはまさにそう書いてある。
「で、じゃねえよ。お前もやんだよ。二人で『あんどこ』」
「やだよ。なんで僕がそんなこと」
「何でってお前……しらねえの?
 ま、噂だけどよ。これ二人で目えつぶってやったら、なんか『別の世界』に行けるんだとよ」
およ、と思った。せっかく小学校に来たのだから、ただ単に昔を懐かしんで子供の遊びをやろう、と言うわけでもないらしい。
それなら面白そうだということで、僕はその『あんどこ』をやることにした。

Kの説明によると、田んぼの田の形に区切られた四つのスペースの内、
まず二人がそれぞれ左ナナメに相手が居る様にして立つ。
それから目を瞑り、暗闇の中で『あんたがたどこさ』を唄いながら飛ぶ。スタートは左に。
全てを唄い終わり、『ちょいとかーくーす』の『す』で前に飛んで終了、そこで目を開ける。
何が起こるかはお楽しみ。
注意事項として、歌を間違える、飛び方を誤る、相手にぶつかる、目を開けた時に田んぼの田からはみ出したら失敗。

「んじゃ。行くぞ」
「ちょっと待って」
「何だよ?」
「いや、ちょっと気になったんだけど。
 『あんどこ』が成功してさ。その、Kが言う妙な世界にもし行けたら、……帰ってこれんの?」
するとKは「うはは」と笑い、「シラネ」と言った。
「おいおい……」
「まあいいじゃねーか。さ、はじめっか……。目を瞑れーっ!」
まあいいのか?と思いつつも、僕は目を瞑った。
せーの。
あんたがったどっこさ……。
「イテっ!」「あたっ」
いきなり間違えた。慣れないと意外に難しいのかもしれない。
「おいおいお前、ちゃんとやれって!」
「あははのは。ごめんごめん。次は、さ?」
「ったくよー」

頭の中でシュミレーションする。交互に交互に……さ、で飛ぶ。

いっせーの。
「……いてっ」
正面衝突。一瞬間違えたのかと思って謝りかけたが、よく考えてみると、僕は間違っていない。
目を開けて見ると、Kが手刀をかざして「わりーわりー」。
「次は本気で行くからよ」
僕は何だか急に馬鹿らしくなってきたが、あと一回くらいはやってみようかと思う。

いっせーのっせ。
あんたがったどっこさ、ひーごさ、ひーごどっこさ、くーまもっとさ、くーまもっとどっこさ、せんばさ……、
せんーばやーまには、たーぬきーがおってさ、それーをりょーしがてっぽでうってさ、にーてさ、やいてさ、くってさ……、
……それーをこーのはでちょいとかーくー
「――せっ――」
前へとんで、僕は目を開いた。
四角の中に居た。成功だ。
ちょっと誇らしい気持ちになって、僕はKはどうかなと思い振り返った。
そこにKの姿は無かった。
「……え?」
右を見て、左を見て、もう一度右を見て。
僕は、ははあ、と思う。全てはこのためだったのだ。
『目を瞑ったままのあんどこ』などという凝ったことをさせておいて、Kは唄の途中でこっそり抜け出し、
僕がおろおろするのを隠れて見て楽しむつもりなのだ。
Kの奴め。
僕は何とかしてKを見つけてやろうと思い、そこら中を注意深く見渡した。

グランドに身を隠せるような場所は少ない。しかし、Kは見つからなかった。うまく隠れたものだ。
そうして僕は、持っていた懐中電灯で地面を照らした。グランドにKの足跡が残っているかも、と思ったのだ。
しかし、足跡は無かった。
おかしい。
その時だ、違和感を覚えた。
僕らはさっき前後左右に飛び跳ねてたはずだ。
足跡はともかく、その飛んで着地した痕跡までない。地面に見えるのは、Kが描いた図形だけ。
僕は二歩三歩と歩いてみた。足跡はつく。これはおかしくないだろうか。
辺りをもう一度見回す。誰も居ない。
風の音もしない。さっきまでは吹いてたはずだ。そう言えば、虫の声も聞こえなくなった。
「おーい……」
おーい……、おーい、おーい……
僕はその場に飛び上がった。
Kを呼ぼうと叫んだ瞬間だった。まるでトンネルの中に居るかのように、僕の声が周囲にこだましたのだ。
やまびこでは無い。ここは広いグラウンド。後ろに学校はあるが、何度も音が反響するなんて絶対におかしい。
僕は途端に怖くなった。
「なあっ、おーいっ!」
二度目。返事は無い。僕の声だけが辺りにしつこくこだまする。
ふと思い至って、ポケットの中の携帯電話を取りだした。
圏外。確かにさっきまでは使えたのだ。学校の中でSからのメールも受信した。
『別の世界』
Kが言った言葉がふと頭をよぎる。
ここは、もしかして、そうなのか。
あんたがたどこさ。
ここは、どこだ。
小学校の入口に目を向けた僕は、『それ』に気がついてぎょっとする。
発作的に走りだしていた。学校の外には車が停めてあったが、鍵は持っていない。
それよりも、この小学校は山を少し上った位置にある。
ここに来る時、小学校に入るすぐ前の道からは、下の街の夜景が一望できたのだが。
そこは街を見下ろせる場所。
絶句する。
街が無かった。
いや、正確に言えば、遠目ではあったがそこに街はあった。
ただしその街には、明かりがただの一粒も灯っていなかった。街が黒い。いくら深夜でもあり得ない光景だ。
僕はその場にへたり込んでしまった。
ようやく確信する。僕は異世界への扉を開けてしまったのだ。
帰る手段は知らない。
ぞわぞわと、ゆっくり、足元から恐怖が這いあがって来る。
どうしよう。
僕は立ちあがって学校へと戻った。
とりあえず何か考えがあったわけではない。あのままじっとしていて正気が保てるかどうか怪しかったのだ。

学校の校庭。赤錆びた鉄棒、シーソー、回転塔。
グランドの中央あたりに、Kが描いた図形。僕はその中に入って、再びへたり込んだ。
何をしていいか分からない。Kを探そうか。でも無駄な気がする。
「わっ!」
意味も無く叫ぶ。こだまする。一体何なんだこの反響音は。
僕はもっともっと、遮二無二叫びたい衝動を懸命に押し殺した。
駄目だ。冷静になれ。
人は考えに考えた末、壁をよけて通ることを覚える。これはたしか友人のSが気に入っていた言葉だ。
考えなければ、アイデアは生まれない。考えろ、僕。
そこで一つ思い至る。僕が今座りこんでいるこの地面の図形。
僕はこの図形からここに来たのだ。『あんたがたどこさ』によって。
では、同じことを繰り返せば、元の世界に戻れるのではないか。

俄然元気になった僕は、図形の中に立つ。眼を瞑る。
せーの。
飛ぶ。唄う。間違えない様に、慎重に。
「かーくー、……っせ!」
どうだ。目を開く。
風景に変わりは無い。しかし、静かだ。どうだ、僕は戻れたのか?
「……わっ」
……わっ、わ、わ……
こだました。僕は戻れなかったようだ。
それから何度かパターンを変えて試してみた。
スタートの位置を変えてみたり、飛び方を変えてみたり、Kの様に音痴に唄ってみたり。
けれども、いずれも効果は無かった。
もしかして、二人でなくては駄目なのか。一人では駄目なのか。
一人。無音。暗闇。怖い。
いかんいかん、冷静になれ。後頭部を叩く。考えろ考えろ僕の頭。
もしもだ、僕が『あんたがたどこさ』によってここに来たとする。
そうだとしたら、その歌詞に何かヒントが隠されていないだろうか。
僕は『あんたがたどこさ』の歌詞を頭の中でなぞってみた。
肥後……熊本……せんば山。そこで僕はふと思い至る。
あの歌詞の中で隠されたのはタヌキだ。鉄砲で撃たれて、煮られて、焼かれて、木の葉で隠される。
もしかして僕はタヌキ?だったらKは猟師だろうか。
しかし、そんなことに気付いてもどうにもならないのだった。
足元からじわじわ上って来る恐怖が膝を越えた。足が小刻みに震えだす。
まずい、正気の僕に残された時間は割と少ないらしい。
勘弁してくれ。僕だって怖がりなのだ。
一人は怖い。いつもはどんな心霊スポットに行ってもそれほど怖くは無い。何故なら僕の隣にはSとKが居るからだ。
そう言えば今日は三人じゃなかった。それがいけなかったのかもしれない。
Sが今日来れなかった。急にバイトが入ったと言った。
けれど先程、僕とKが学校の探索をしている時にメールが来ていた。
その時の僕は廃校探索に夢中で、Sからだと知っただけでメール自体は見てなかった。
それを思い出した僕は、ポケットから相変わらず圏外で役に立たない携帯を取りだした。
操作してメール受信画面を開く。
『今何処にいる?』
それがSからのメールだった。それが分かれば苦労しない、と僕は思う。
そうして僕は、足の震えと共に少しだけ笑った。
このメール内容。あんたがたどこさ、じゃないか。
「あんたがったどこさ。ひごさ、ひごどこさ……」
僕は無意識の内に唄い出していた。そろそろ正気がやばい。立っていられなくなりそうだった。
唄いながら、この足では毬を跨ぐことも出来ないな、と思った。
「……くま……え?」
足の震えが止まった。
僕は気がついたのだ。その瞬間、堰を切った様に走り出していた。
そうだ。
あんたがたどこさ。
そうだった。
僕は走る。誰も居ない学校に向かって。走りながら呟く。
「あんたがたどこさ。ひごさ、ひごどこさ……」
そうだよ。あの唄は、元々……。
「……手毬唄じゃないか!」
可能性は見当もつかなかった。客観的に見て、まるで高く無いとは思う。何をどうすればいいかも分からなかった。
けれど、何故か確信できた。これが元の世界に戻るやり方だと。

僕は小学校の校舎脇を走り抜け、裏手に回った。目当ての建物は校舎じゃない。
あった。
体育館。
入口に鍵はかかっていたけれど、床近くにある通風孔が一部壊れていたので、そこに身体を滑り込ませて中に入った。
暗い。懐中電灯を付ける。しかし幽霊でもいいから出てほしい気分だった。
体育館倉庫には幸運にも鍵は掛かっていなかった。錆ついて重たい扉をスライドさせる。
中にはここが小学校として機能していたころの名残がそのまま置いてあった。
目当てはバスケットボール。
ほぼ全部のボールが空気が抜けて萎んでいたが、空気入れを見つけ、それを使ってボールに命を吹き込む。
空気の入ったバスケットボールを持って、僕は体育館の中央に立った。
床にボールを落とす。ダム、と音がして勢いよく跳ねる。再び両手にボールを抱え、僕は目を瞑った。
深呼吸。
いっせーのーせいっ!
「……あんたがったどっこさ、ひーごさ、ひーごどっこさ……」
唄い出すと同時にバスケットボールをつく。目を瞑ったまま。『さ』の部分で片足を上げボールの上を通過させる。
ちなみに、僕は元バスケット部だ。
「くーまもっとさ、くーまもっとどっこさ、せんばさ……」
心臓が鳴っていた。また足が震えだした。
唄いながら自分自身を鼓舞する。もう少しだ、頑張れ僕。
「ちょいとかーくー、すっ!」
最後に思いっきり力を込めてボールをついた。
ボールは今までの最高速度で地面にぶつかり、僕の頭より高く上がったはずだ。
そして僕は目を瞑ったまま、その場で足を軸に一回転した。意味は無い。自分でハードルを上げただけ。
両腕を前に出す。この中にボールが落ちて来るのか。

時間にすれば二秒は無かったと思う。でも長かった。
腕の中にボールが落ちる感触はない。
しかしいつまで経っても、ボールが床に落ちる音もない。
しばらくそのまま目をつぶっていた。開けるのが怖かった。でも、足の震えはいつの間にか止まっている。
深呼吸、一回、二回。
僕は目を開けた。
バスケットボールが消えていた。
「……うわー」
……うわー……うわー、うわー……
僕の声がこだまする。
でもそれは体育館だったから当たり前だったのだ。そのことに僕が気がつくまでに相当の時間を要したけれど。
耳を澄ませば、外で鳴く虫の声がかすかに聞こえた。
僕は携帯を取り出す。アンテナが一本立っていた。
信じられないだろうが、携帯のアンテナが一本立っていたことに、僕は本当に飛び上がって喜んだのだ。
その瞬間、僕の手の中の携帯が鳴った。
Sからだった。急いででた。
『……よお。ところでお前さ。いま、小学校にいるのか?』
Sの声。不覚にも泣きそうになりながらも、僕は「うん、うん。そうだよお!」と大声で返事し、若干ひかれた。
がんっ。
体育館にすさまじい音が響く。
何事かと思って音の方を見ると、丁度体育館の裏口が蹴破られて、息を切らしたKが中に入ってきた。
そうしてKは懐中電灯をこちらに向けた。
「お。……おおう。こんなとこに居やがった。……マジでありえねーし。
 目え開けたらいきなり居ねえんだもん……マージーありえねえよまったくよお……」
そう言ってKは「あーうー、だあーもう疲れた……」と、体育館の床にだらんと寝そべった。
電話の向こうでSが何か言っている。
僕は黙っていた。
戻ったら絶対一発ぶん殴ってやろうと思っていたのだけれど、
体育館の床の上で「うーんうーん疲れたよーい」と唸りながら転がるKを見ていると、何だかその気も失せた。
僕は受話器を耳にあて直し、Sに向かって言う。
「とりあえず、帰るよ」
『ん?……おう、そうか』
それから、帰りにSの家に寄る約束をして電話を切った。
そうして、まだ床でごろごろしているKを軽く一発蹴ると、
実はぼろぼろ泣いていた奴を引っ張り起こして、二人で車まで戻った。
運転席に座ったKが鼻をすすりながらエンジンをかける。

小学校から少し降りると、街の夜景が見えた。
助手席の窓から見たそれは、僕にとって今まで見たどんな夜景よりも綺麗で。
それは決して、僕の目が涙で滲んでいたからでは、ない。
しかしながら、自分で言うのもなんだが、
不思議なことに、これだけの経験をしても、もうこりごりだとは思っていない。
あんたがたどこさ。
どこでもいいよ。けれど、次は三人で行きたいなあ、と思う。









それは蛙とコオロギの鳴き声が響く、夏もおわりかけたある夜の出来事だった。
「……この家だってよ。出るって有名な家」
僕とKはその二階建ての一軒家を、周りをぐるりと囲む塀の外から眺めていた。
風は存外に冷たく、そういう季節はもう過ぎたのだと感じる。
なのに、僕らはまた肝試しに来てしまっていた。僕とKとS、いつものメンバーだ。
発案者はKだ。奴のオカルト熱は季節に関係なく、いつでも夏真っ盛りらしい。
「二階あたりに女の霊が出るって噂。今はー……見えねえけどな。窓に映るらしいぜ」
Kの言葉に、僕は二階の窓を懐中電灯で照らした。
Sはというと、道の脇に停めた車から出てこず、運転席側の窓から右肩と頭だけを出して、つまらなそうに家を眺めていた。
「おいS、出てこいよ。なに一人だけ車乗ってんだよおめーはよ」とKが言う。
Sは大きなあくびで返す。
「……さみーんだよ。それに、誰がここまでずっと運転してきたと思ってんだ。……俺は寝るぞ」
Sはそう言って、車の中に引っ込み窓を閉めてしまった。
「Tシャツ一枚で来た奴がわりーんだよ」と Kが、かかか、と笑う。
でも確かに今日の夜は存外冷える。
おそらく朝から曇っていたことが原因だと思うが……。お天気おねいさんは何と言っていただろうか。
そんなことを考えながら、僕はもう一度窓を見上げた。
ちなみに、僕とKがいる位置とSが乗る車の間には、この家の門がある。門は内側に開いていた。
でも、今日は不法侵入はしない。外から眺めるだけだ。理由は、ここがそういうスポットだから。
「噂じゃ女……っていうかここの家の娘な、事故で下半身が動かなくなったんだってよ。
 それから女はショックで段々頭がおかしくなって、そのせいで両親はその女を、自宅にずっと閉じ込めてたんだと。
 ビョーキ家族だな」
と隣でKが言う。
いつもならここらでSの鋭いツッコミが入るのだが、上がTシャツ一枚の人間にとっては、この寒さは多少分が悪い。
「で、事件は起きるわけだ。その女が夜、寝ている両親の首をナイフで掻っ切って、自分も自殺したんだな」
「……自殺?」
と問い返しながら、僕は何だか周りがさっきよりも寒くなった気がした。背筋がぞわぞわする。
「首吊りだってよ。首つり自殺。こう、ロープにぶら下がって、ぶらんぶらん揺れてたんだと」
Kが舌をべろんと出し、身体を揺らす。
しかし、僕はその時Kの話に違和感を覚えた。女は両親を殺して首吊り自殺をした。けれど、その女は確か……。
「……でもさ、それって、おかしくないか?」
「あ、何が?」
「足も動かないのに、どうやって首吊るんだよ」
「どうやってって。そりゃお前……」とKが何か言おうとしていたその口が止まる。
ぞわり、と冷たいものが僕の首筋を撫でた。
それはまるで、大きなつららを直接背中に当てられた様な感覚だった。足から頭まで、全身に鳥肌が立つのが分かった。
僕とKはほぼ同時に二階の窓を見上げた。
二階の一室の窓が徐々に開いていた。ゆっくり、音も無く。
隙間に女の顔が見えた。
髪がぼさぼさ。大きく見開いた目が、僕ら二人を見据えていた。
窓は開く。隙間が広がり、その首にロープが見えたその時、女は一気に窓の僅かな隙間から外へと身を乗り出した。
女が頭から落ちる。途中で、その首に巻いてあったロープが落下を食い止めた。
がくんと女の身体が上下に反転し、二階の窓を支点に振り子運動を始める。
ぶらん、ぶらん。
枯木のように細い足。その手にはナイフらしきものが握られている。一つ、二つ、三つ。
その身体が痙攣した。ナイフが手から落ちる。その手が宙を掻く。音は何も無い。
その内、女の両手がだらりと下に垂れさがった。口が開き、真っ赤な舌がその中に覗いていた。
死んだのか、死んでいるのか。しかし女の目だけは、未だこちらをぎょろりと見据えていた。
僕の口から何か悲鳴のようなものが出ようとしていた。
と、僕の首筋に冷たいものが当たった。
「ふひゃっ」
僕はついに悲鳴を上げて、実際飛び上がった。
雨だった。
しかし、雨のおかげで一瞬だけだが気がそれた。
それから、はっとしてまた二階を見上げたが、そこにはもう何も無かった。首を吊った女の姿も、窓も、閉まったままだった。
「……ああやって、首を吊ったんだとよ」
隣を見るとKは笑っていたが、無理をしている笑いだと一目で分かる。でもその時は僕も同じ笑いを返していたに違いない。
なるほど、確かにあの方法なら足が不自由でも首が吊れる。
すごいものを見たな。と僕がKに言おうとした時、
――どさり――
僕とKはまた、ほぼ同時に反応した。
何かが落ちた。塀の向こう側。それから、ズル、ズルと布が擦れる音。
先程見た首吊りには音は無かった。しかし、今度は音だけがある。
僕とK、それとSが乗る車の間にある門。門は開いていたのだが、そこから手が出てきた。
さっきの女の手だ。ナイフを握っている。もう片方の腕も出てきた。
次いで頭。首にはロープ。白い服。見開いた眼。垂れた舌は地面を舐める。
僕はSに助けを求めようとした。しかし声が出ない。身体が動かない。金縛り。Kも同じらしかった。
どうしよう。こっちにゆっくり這い寄って来る。足は動いてない。手だけで地面をずるずると。
怖い。それに近い。怖い近いこわい近っ。
這い寄る女と僕らの距離はもう二メートルも離れてなかった。あ、もう駄目かも。本気でそう思う。
突然、光に目が眩んだ。
エンジン音とブレーキ音。
気がつくと、僕らが乗ってきた車が目の前にあった。金縛りが解け、身体が動く。
身体は動いたが、僕はしばらくその場を動けなかった。
ウィームと運転席側の窓が開き、Sの眠たそうな声が聞こえる。
「……おいお前ら、もういいだろ。雨が降ってきたから帰ろうぜ」
僕とKは顔を見合わせた。
おそるおそる車の下を覗くが、そこには何もいない。
「こいつ……」
Kが呟く。
「……轢きやがった」
「あん?ああ、そういや妙な手ごたえがあったな。でかいカエルでもつぶしたか?」
僕は何も言えないでいた。KもSをまじまじ見つめるだけだった。
そんな僕らにSは怪訝そうな顔を見せ、
「どうしたお前ら。なんかあったか?……ま、何を見ても聞いてもだ。そりゃ幻覚に幻聴だ。ほら、乗れ。もう帰るぞ」
僕とKはもう一度顔を見合わせ、お互い何も言わずに車に乗り込んだ。
それは蛙とコオロギの鳴き声が響く、夏も終わりかけたある夜の出来事だった。








ことの始まりは、ある夏の夜。深夜十一時を過ぎた頃に突然来た、友人Kからの一通のメールだった。
――これから電話来ると思うけど。それ、俺だから――
僕はその時、自宅のベッドの上で大学の図書館から借りてきた本を読んでいた。
Kがこんな時間に電話してくること自体は、まあそれほど珍しいことではないのだけど、
いちいちメールで事前告知をしてくるのが気になった。一体、何の話だろう?
そんなことをぼんやり考えていたら、ぶうーん、と蜂の飛行音の様な音を立てて携帯が振動した。Kからだな。
しかし携帯の画面には、Kの名前の代わりに『公衆電話』と書かれていた。
はて、と思った。これがKからの電話だとして、どうしてKはわざわざ公衆電話から僕に電話を掛けてきているのだろうか。
先程メールが来たのだから、携帯は持っているはずなのに。
しかしまあ、考えても分からないので、僕は読みかけの本を置いて電話に出た。
「……もしもし?」
『おせえ。早く出ろよおめーよ』
確かにそれはKの声だった。
「こんな夜中にどうしたのさ。それに、そこって電話ボックスの中?」
『ゴメーイトゥ』
「何でそんなとこから掛けてきてんのさ?」と訊いてみるは良いが、実は僕にはその答えが半ば予想できていた。
Kがこういうことをする時は、必ずオカルトがらみのあれこれなのだ。
『実はよー、この電話ボックスがよ。有名な心霊スポットだって噂を聞いてだな。
 昔ここで事故があったようでよ。
 なんか、こうやって電話掛けてると、いつの間にか男が、外からこっちをジーっと、見つめてるんだとよ』
「あーはいはい。そんなことだろうと思ったよ」

…そして、その男の霊はまだ生きていた頃、仕事帰りにいつもそこの公衆電話を使用していた。
携帯のまだ普及してなかった時代。家族に『もうすぐ帰るよ』 と連絡していたのだ。
が、しかし。ある日、仕事が終わって電話を掛ける前に、よそ見運転の車に轢かれて死んでしまった……。

Kの話を聞いた瞬間。そんな悲しいストーリーが、僕の頭の中では展開されていた。
先程まで読んでいた小説の影響だろうか。
けれども、僕は不思議に思う。オカルト好きにして怖がりなKが、よくそんなスポットに一人で行けたものだ。
「で、そこに男の人は居るの?」
『あ、違う違う。男の霊が出るのはこっちじゃなくて。電話かけられた方だとよ』
「……は?」
『窓の方に出るらしいからよ。出たら、実況してくれ』
僕は窓の方を見た。反射的な行動だった。
カーテンがふわりと揺れていた。窓は閉めていたから、今日の暑さに我慢できずにつけたエアコンのせいだろう。
ここはアパートの二階、窓に映るのは闇夜の景色だけのはず。
しかし。
僕の喉から、ひゅっ、と息が漏れた。
そいつは身体全体をガラスに押し付ける様に、ぴったりと窓にはりついていた。
腕も足も九十度近く曲げ、その目は何処を向いているのか分からない。
服は着ておらず全裸。その身体はぞっとする程白かった。
ヤモリだった。
「……いた」
『マジでっ!?』
「ヤモリが」
『あ?……男の霊は?』
「いない。というか待て。待て。ちょっと遅いけど言わせておくれよ」
『おう』
「ナンダソレ」
『何が?あ、ヤモリ?』
「……違う。僕を餌に使うなよ、ってこと。そういうのは自分で体験して何ぼでしょうが」
しかしだ。なるほど合点がいった。だからKは今回一人でも大丈夫だったのだ。何せ怖い思いをするのは僕一人だから。
『まあ、いいじゃん。お前だって見たいだろ?ユーレイ。ってか、もう一度窓見てみ?今度は居るかもよ』
「さっきから窓見てるけど、誰も居ないよ」
代わりに、僕の視線に気づいてか、ヤモリが素早い動きで視界から消え去った。
『何だよ面白くねーなー。この電話から掛けると、必ず相手の絶叫が聞こえるって話だったのによー』
僕の絶叫が聞きたかったのかコイツ。
「……そんなに絶叫が聞きたいなら、Sにも電話掛けてあげれば?数打てば当たるかも知れないよ」
『そうだな。あ、でもよ、あいつ寝てる途中で起こされると、メッチャ不機嫌じゃん。ユーレイよりこええし』
「はは。まあ、確かにね。でもユーレイより怖いってのは、」
ガチャン。
「ちょっと……あれ?Kー?もしもしー?」
……ツー、ツー、ツー……、
どうやら電話が切れてしまったようだ。Kは二十円くらいしか入れてなかったのだろうか。
どうしよう。Kの携帯に直接掛け直そうか。
そんなことを考えているうちに、僕の手の中で携帯が振動する。
Kからに違いない。僕はそのことに、微塵も疑問を抱いていなかった。
けれども、ふと手が止まる。
携帯の画面。表示されているのは『公衆電話』か、Kの携帯番号だと思っていた。
読めなかった。表示が文字化けしていたのだ。こんなことは初めてだ。
ぶうーん、と携帯は僕の手の中で振動している。
僕は僅かに揺れるカーテンの向こうの窓を見た。何もない。見えない。ヤモリも。もちろん男など居ない。
そのまま窓を凝視しながら、僕は通話ボタンを押した。耳に当てる。
「もしもし?」
何か聞こえる。小さいけれども誰かが話している。
「もしもし?K?」
『……遅く……ごめ……』
Kじゃない?
微かに聞きとれるその声は、TVの砂嵐に似たノイズが混じり、断片しか聞こえなかった。
何だ?誰の声だ?
『……言うな……そ……』
男の声だと言うのは分かった。しかし、一体だれなのか。何を話しているのか。僕に向けられた声では無い。
『……今から帰るよ……』
次の瞬間、耳が壊れるかと思う程の何かがぶつかる様な音。
何かを引っ掻く様な音。何かが壊れる様な音。何かが割れる様な音。
そして何かが、柔らかい何かが潰れる様な音。
思わず僕は携帯を耳から離した。
音が無くなる。
再び携帯を耳に当てる。
『……ツー、ツー、ツー……』
電話は、切れていた。
何だったのだろうか、今のは。間違い電話だろうか。
……今から、帰るよ……。
最後の言葉だけはやけにはっきりと聞こえた。家に帰るつもりだったのだろうか。
その男はいつも仕事帰りにその公衆電話を使用し、ある日、仕事が終わって電話を掛ける前に……。
そこまで考えて僕は首を振る。妄想だ。そんなものは。
その瞬間、また携帯が震えて、僕は身構える。
しかし、今度はちゃんと画面に表示されている。Kの携帯からだった。
「もしもし……?」
『おっせーよ。とっとと出やがれこの野郎が』
Kの声を聞いて僕はほっとする。
そうしてからすぐに、何で僕が怒られなきゃいかんのかという疑問点に気付き、
無性にKのすねを思いっきり蹴ってやりたくなった。
『男は出たか?』
「出てねー。……あ、でも、変な電話が掛かってきた」
『あ、ナニソレ?』
「今から帰るよ、って」
『男から?』
「たぶん。それから、すごい音がした」
『ふーん。今、窓には?』
僕は窓を見る。もちろん、何も無い。誰も居ない。
「異常なし」
『……じゃ、間違い電話じゃね?そんな噂聞いてねえし』
「うん……。何だか僕もそんな気がしてきた……」
それからKは『ああ、そうだそうだ』と、何か面白いことを思いついた時の声で言った。
『俺、これから、ある実験をしてみようと思ってんだけど。お前、携帯耳から離すなよ』
「……何すんの?」
『ま、それは聞いてからのお楽しみだ』
Kは何をたくらんでいるのだろうか。気になった僕は、じっと耳を澄ます。
その時だった。視界の隅で何かが動いた気がした。顔を上げる。窓。カーテンが僅かに揺れている。
ヤモリだろうか。いや、今のはそんな小さな動きじゃなかった。何だろう。
「……K?おーい、Kー?」
少し不安になった僕はKを呼んでみる。でも返答は無い。
「おーいー。誰かいますかー……」
まただ。窓の向こうで何かが動いた。
僕はベットから立ち上がり、窓の方へと近づいた。
心臓の鼓動が段々と早くなってくるのを感じた。
見間違いじゃない。僕の部屋の外に、何かがいる。
恐る恐る窓に近づく。そして僕は携帯を耳に当てたまま、カーテンを掴んで一気に開いた。
僕はその場に立ちつくす。携帯電話の向こうからKの声が洩れてきた。けれどそれは僕の意識まで上って来なかった。
外には何も無かった。誰も居なかった。窓の向こうには相変わらず黒く塗りつぶされた街の景色が広がっているだけ。
暗闇を背にしたガラスは、鏡の様に僕の部屋の中を映していた。
外じゃない。そいつは部屋の中に居たのだ。
僕の背後。窓とは反対側の玄関へと続くドアの傍に何かがいた。
振り向くことが出来なかった。心臓の鼓動がより早くなる。
服装で男だと分かったが、それ以上は無理だった。そいつにはちゃんとした顔がついていなかった。
まるで、出来の悪いスプラッター映画を見ている様な気分。
鼻から上が無い。そいつは顔の半分が欠如していた。無いのだ。文字通り無。目も無い、耳も無い。
でこも無い。ならば脳も無いのだろう。
そいつの口が動いた。ゆっくりと上下に開く。
『ただいま』
声はそいつの口から聞こえてきたのではなかった。僕の耳に当てた携帯から。もちろんKの声じゃない。
『ただいま』
ガラスに写るそいつの口の動きに合わせて、携帯電話の奥から声がする。
『今、帰ったよ』
ふつふつと脂汗が額に浮き出ているのが分かった。
もし今振り返ったらどうなるのだろう。部屋の中には何もいないのか。それとも……。
悲鳴が、叫び声が、喉の奥までせり上がって来ている。
『ただいま。……今、帰ったよ』
僕が悲鳴を上げようとしたその時だった、
『うるせえな今何時だと思ってんだこのボケが!!』
聞き覚えのある怒声が、僕の携帯を当てていた左の耳から右の耳へと貫通した。
「うわあっ!」
僕は飛び上がって悲鳴を上げた。
けれどそれは恐怖の悲鳴では無かった。
それからKの『うはははは』と言う笑い声が、電話の向こうから聞こえて来る。
気付けば僕は窓の傍に尻もちをついてひっくり返っていた
電話から聞こえてきた怒声はSの声だった。
「うあ、うあ、うわわわ……」
恐怖と驚きと混乱で、声にならない声が僕の口から洩れる。
尻もちはついたけれど、携帯はしっかり手に持って放り投げてはいなかった。
『……――あん?お前、○○(僕の名前)か?Kと一緒に居るのか?』
何が何だか分からない。どうしてSの声が電話口から聞こえてくるのか。どうして僕が怒鳴られなきゃいけないのか。
そして、ひっくり返った拍子に後ろを見てしまったわけだが、僕の部屋の中には今、僕意外に誰も居ない。
窓に写っていた顔半分の無い男も居なかった。
『おい、Kに代わってくれ。説教するから』
Kは未だ電話の向こうで『あひゃひゃひゃ』と心底可笑しそうに笑っている。
僕は何度も何度も細かい息を吐いて、ようやく理解した。
つまり今、Kは公衆電話の中で、自分の携帯と公衆電話の受話器を合わせているのだ。
Kを介して僕とSは互いの声が聞こえている。
『うっはっは。あーおもしれー。ってか、こんな風につなげても会話って出来んだなー』
『黙れボケが。何が可笑しいのか知らんが、明日会ったらお前、』
『あーワリーS、十円しか入れてないからよ。もう切れるわあっはっは!』
『テメ俺の安眠を、』
ガッチャン。どうやらKが受話器を戻したらしい。
『あー面白かった。ってかおめーも驚き過ぎだろ。マジで悲鳴あげてたし』
「……うん」
僕は恐る恐る窓ガラスを見てみる。見馴れた僕の部屋。僕一人。他は誰も居ない。
深い安堵の溜息を吐く。怖かったしグロかった。ああいうのは駄目だ。
幽霊というのは、もっとこうスマートで無くてはならないと切に思う。
『んー? どうしたお前、何かあったのか?』
そう言えば、Kがさっきの公衆電話からSに電話を掛けたのだとすれば、
さっきの頭なし男はSの部屋にも行ったのだろうか。
「……いや、ないない」
僕は何故か確信できた。それは無い。僕はSに怒鳴られた言葉を思い出していた。
やっと帰りついて、あんな言葉を言われたら誰だって消えたくなる。
『あ、そ?何もなかった?』
「うん。何も無かったよ。……それよりKさ、今からウチに来ない?目が冴えちゃってさ。何かして遊ぼうよ」
『あー行く行く!んじゃ、二十分くらいでそっち着くわ』
「うん。じゃあまたあとでね」
Kとの電話を切った後、僕はすぐにSに電話を掛けた。Sはもろ不機嫌だった。
『……ああ?』
「あ、S?ねえ、さっきのKの電話で目冴えちゃったんじゃない?」
『……ああ』
「じゃあさ。今からさ、ウチ来ない?」
『ああ?何で』
「Kも来るよ」
『行く。待ってろ』
これでよし。
僕は電話を切ると、ベットの上に倒れこんだ。
まずKが先に来るだろう。後でSがやって来るとも知らずに。僕はそっとほくそ笑む。
でも、それは二人を呼んだ理由の一つにすぎない。
僕は携帯を開けて、着信が来ない様に電源を切った。それから、はっと気づいてカーテンを全部閉める。
その瞬間、ヤモリが一匹窓を横切った。
「うひっ!」
悲鳴を上げて飛び退く。
……ああ怖い怖い。
読みかけていた本もホラーものだったけれど、今日はもう読めない。
これが理由の二つ目。
僕一人じゃ、今夜はどうにも眠れそうになかったから。








僕が小学校低学年の頃の話だ。

学校も終わり、僕は一人帰り道を歩いていた。
そして、ふとした何気ない思い付きから、今日は別のルートで家まで帰ろうと決めた。
いつもは使わない、人通りの少ない山沿いの道。
家までは大分遠回りだけど、僕は随分楽しげに歩いていた記憶がある。
昔はそういう無意味なことに楽しさを見い出す子供だったのだ。

さて、そんないつもと違う帰り道。僕はふと、ある不思議なものを見つけた。
車一台分の幅しかない道、進行方向に対して左は林で、右は小さな池だったのだけど、
その右の池から、何やら白く細いものが空に向かって伸びていた。
その時の僕が『空に向かって伸びている』と思ったのは、単純な話、空に何にもなかったからだ。
木々の枝が伸びているわけじゃない。飛行機が、鳥が飛んでいるわけでもない。
最初、僕は煙かなと思った。でも水のある池から煙というのもおかしい。
別に水面に浮かぶ水草が燃えているわけでもないようだった。
ガードレールに腕を乗せ、僕はその白い細い物体をじっと見つめた。
それはどうやら、糸の様だった。白い糸だ。
僕は白い糸を辿って空を見上げた。
白い糸は上空に行けばいくほど、空に点在していた雲と同化して見えなくなる。
天へと伸びる糸。
当然、不思議だなあと思った。
けれど、その時の僕には、でもそこにあって見えるんだから仕方ないだろう、という確固たる諦めがあった。
見上げていると、上空で、チカ、と何か光った気がした。
時間がたつにつれ、光ははっきり見えるようになった。
糸を辿って空から光が降りてきていた。太陽の光を鏡で反射させた時の様な、目に刺さる光だった。
光は点滅していて、目の上に手をかざしてよくよく見ると、その上に糸は無かった。
僕は身を乗り出し、その光を良く見ようとした。
ランドセルが重かったのが原因だと思う。僕はその瞬間バランスを崩して、頭から池に落ちた。
でもそこで不思議なことが起こった。
僕は頭から池に落ちた。でも、水面に顔が触れた瞬間、僕は『水の中から顔を出していた』。
タイムラグは無い。記憶違いでもないと思う。
惰性で僕はいったんお腹のあたりまで水面から飛び出すと、また重力で頭まで沈んだ。今度は普通に水の中だった。
ここは当然、パニックに陥り溺れかけるべきなのだろうけれど、僕は割と冷静だった。
池は背伸びすれば足がそこに届くくらいの深さだった。
ランドセルが背になかったので、目をぬぐいながら手探りで見つけて、また背負った。
不思議な体験だったなあ。と思いながら、僕は池から道路に上がった。
最後にもう一度池を振り返ったけれど。糸はもう伸びてはいなかった。

そしてその帰り道、僕は何故か帰り道を間違え、家に帰るのがだいぶん遅くなった。

家に帰ると、母はびしょ濡れで帰ってきた息子に驚いた様子で、「あらまあ……、なんぞね、そら」と訊いてきた。
僕は「つられた」とだけ答えた。
その日からだった。僕が文字の読み書きが出来なくなったのは。
先生も困り顔だったが、僕はあの時池に落ちたせいで頭が悪くなったのだと、勝手に思うことにした。
文字の問題は、その後普通にできるようになった。

その後、僕が池に落ちてから一週間くらい経ったある日のこと、あの池から子供の水死体が見つかった。
不思議だったのは、その一週間の間、街の近辺で行方不明となった子供がいなかったこと。だから発見も遅れた。
持ち物は持っておらず、何処の、誰の子供かも分からず。
その身元不明の死体は、一時期話のタネになった。

そして僕はと言うと、今でも健康診断の際は、聴診器を持った先生に「?」という顔をさせている。
心臓の位置が少しだけおかしいのだそうだ。









「なあ、お前ら『首あり地蔵』って知ってるか?」
数年前の話になる。僕らは当時大学三年生だった。季節は夏。大学の食堂で三人、昼飯を食べていた時だ。
怪談好きなKが、雑談のふとした合間に話しだしたのが、そもそもの始まりだった。
「首あり地蔵ってお前、そりゃ普通のお地蔵様だろ」
僕の隣に座って味噌汁を飲んでいたSが、馬鹿にしたように言う。
KとSと僕。Kはカレーの大盛りで、Sはシャケ定食で、僕は醤油ラーメン。いつものメニュー、いつものメンバーだった。
でも確かに『首なし地蔵』だったならば、はっきりとは思い出せないが、何かの怪談話で聞いたことがあるかもしれない。
話のネタにもなるだろう。
しかし、Kは『首あり地蔵』と言ったのだ。
Sの言う通り、それは首のある普通のお地蔵様だ。
「ちげぇんだよ。あのな、その地蔵の周りには、もう五体地蔵があってな。
 『首あり地蔵』の一体以外は、全部頭がねえんだってよ」
なるほど。だから『首あり地蔵』か。
僕はその様子を想像してみた。六体の地蔵の内、一体だけにしか首が無い。
「ねえ、何でそうなってんの?」
「それがな、その一体だけ首のある地蔵が、他の地蔵の首をチョンパしたっつう話なんだよ。これが」
そう言ってKは舌を出し、スプーンで自分の首を掻っ切る仕草をした。
「でも、そんなことして、地蔵に何の得があるんだよ」
「さあ?知らねえよ。お供えモン独り占めしたかったとかじゃね?」
Kがそう答えると、Sが、ごほっごほっ、と咳をした。
それからポケットティッシュを取り出し口元を拭うと、
「……馬鹿野郎。喉につかえたじゃねーか」
「何だよ、俺のせいかよ」
不満げなKに「お前のせいだよ」とSが言う。
僕はというと、その地蔵に少し興味を抱き始めていた。
「で、Kさあ。その首あり地蔵については、他になんかないの?」
「ああ、あるぞ。なんてったって、『首あり地蔵』は人を襲う」
その瞬間、再びSが咳き込んだ。
「夜な夜な動き出してさ、人の首を刈り取って来るらしいぜ?
 『要らん首無いか……要らん首無いか』ってぶつぶつ言いながら。寺の回りを徘徊してんだとよ」
「……もうやめてくれ、今の俺は呼吸困難だ」
Sは咳き込んだせいか涙目になっていた。
「何だよS。ロマンがねーな。俺の話が信じられねーのかよ」
「何がロマンだボケ。K、お前、すぐにでもその地蔵に謝ってこい」
「それだって!」とKが大声を出したので、
僕は驚いた拍子にむせたら、ラーメンの切れ端が鼻から出てきた。久しぶりだこんなこと。
「今日の夜、行こうぜ?確かめるんだよ、俺たちで。噂が嘘なら、何ぼでも謝ってやるからよ」とKが言う。
Sは呆れたように天井を見上げた。また始まった、と思ってるんだろう。
Kはそういうスポットに行くことを好む、所謂肝試し好きなのだ。
今までだって、Kが発案し、僕が賛成し、Sが引っ張られる形で、そういういわく付きの場所に足を運んだことが何度もある。
「んじゃあ、今日の夜は、首あり地蔵で肝試しってことで、決まりな」
Kが強引に話を進める。
Sが救いを求めるように僕の方を見た。僕はラーメンをすすりながら、Sに向けてニンマリ笑って見せる。
Sは半笑いのまま力なく項垂れ、黙って首を横に振った。
「……というか、その地蔵近くにあるのかよ」
「おう。○○寺ってとこ」
その名前を聞いた時、うなだれていたSの首が少し上がり、眉毛がピクリと動いた。
そうしてから、隣に居た僕くらいにしか聞こえない程の声で、
「そうか。○○寺か……」と呟いた。
僕は一体何だろうと思ったのだが、
あいにくその時は口の中一杯にラーメンが詰まっていたので、それを聞くことは出来なかった。
その後は聞くタイミングを掴めぬまま、あれよあれよと言う間に具体的な集合場所と時間が決定した。
こういうときのKの手際の良さはすさまじいものがある。但し、普段はまるで発揮されないのが痛いところだ。

こうして僕らはその日、○○寺の首あり地蔵の元へと足を運ぶことになったのだ。

夜中、僕らはそれぞれ個別に、○○寺がある山のふもとで集合ということになっていた。
○○寺は僕ら住む街を一望できる小高い山のてっぺんに、展望台と隣接する形で建っている。
寺までは数百段の石段が続いており、僕は知らなかったのだが、目的の地蔵はその道中にあるそうだ。

集合時間は十一時。時間を守って来たのは僕だけだった。
十五分待って、バイトで遅れたと言うKと、寝坊したと言うSがほぼ同時にやって来た。
熱帯夜だと言う蒸し暑い夏の夜、僕らは三人は懐中電灯を片手に汗だくになりながら、地蔵があるという場所に向かった。
特に僕は日ごろの運動不足がたたってか、
前を行く二人を追いかける形で、ひーこらひーこら言いながら石段を上っていた。

山の中腹を少し過ぎた頃だっただろうか、
「おーい、早く来いよ。あったぞー」というKの声が、大分上から響いてきた。
僕が二人に追いつくと、そこは石段の脇が休憩のためのちょっとした広場になっており、
地蔵はその広場の端に六体、横一列に並んでいた。
僕は乱れた息を整えてから、地蔵をライトで照らす。
確かに、僕の腰よりちょっと背の低い地蔵たちは、右から二番目の一体を除いて、残りは全部首が無い。
「これで、一つはっきりしたな。少なくとも、この地蔵は夜な夜な徘徊はしていない」
SがKに向けて、からかい半分の口調で言う。
「ごめーんちゃい!」
「くたばれ」
漫才コンビは今日も冴えている。
「っていうか何だ何だー。つまんねーな。夜は地蔵さん、鎌でも持ってんのかと思って期待してたのによー」
そりゃどこの死神だ、と思わず僕も突っ込みそうになった。
「でもよ、ホントに他の地蔵は首がねーんだな」
「何、K。お前ここ来たこと無かったの?」
今日の話しぶりからして、僕はKがここに何度も来たことがあるものだと思っていた。
「いんや。噂で聞いてただけ、面白そーだからさ。見に来てーなーとは思ってたけどよ。ちょっと拍子抜けだなー」
「……この地蔵はな、正式には『撫で地蔵』っつうんだよ」
ふと、Sが呟くように言った。
「なんだよ。お前この地蔵に詳しいの?」
「ん、ちょっとな。見ろ、この地蔵、頭テカってるだろ」
Sが懐中電灯の光で地蔵の頭を照らす。
そう言われれば、この地蔵の古ぼけた身体に対して、頭だけは比較的小奇麗だった。
「触ってみりゃもっと良く分かるんだけどな。
 元々願掛けしながら撫でると、その願いが叶うって言われの地蔵だから、撫でられすぎてそうなったんだ」
そうなのかと思った僕は、そっと首あり地蔵のつるつる頭を撫でてみた。
何だかボーリングの玉を撫でている感じだ。撫で心地は中々いい。
「今でも、知ってる人は知ってるんだけどな。昔はもっと有名だったらしいな。○○寺の撫で地蔵って言えばな。
 けど、そのせいなんだよ」
Kも僕もSの話を黙って聞いていた。
何だか昔話を語る様な話しぶりは、普段のSとは少しだけ違っている様な気がしたのだ。
「三十年くらい前の話らしい。六体全部の首だけが盗まれるって事件があった。綺麗に首だけ取られてたんだってよ。
 犯人は分かってない。ただの愉快犯か、それとも、撫で地蔵のご利益を独占したい輩でもいたんだろうな」
「……おいおいおい、ちょっと待てよ。じゃあ、この首は何なんだ」
Kが言う。それは僕も思った。当然の疑問だ。
「職人に頼んで、地蔵の首だけすげ替えたんだとよ」
僕は改めて地蔵を見てみた。言われてみれば、首の辺りに多少のヒビがある様にも見える。
頭だけ小奇麗なのも、人々に撫でられるだけが理由じゃないということか。
「でも、修復したっていっても、首の部分はやっぱり弱くなってたんだろうな。
 それ以降も、皆に撫でられ続けた地蔵の首は、一体ずつ取れていったんだ。二度目は寺の方も直す気が起きなかった。
 ……それにしても、まさに身を呈して民衆を救うか、地蔵の本懐だな」
そこまで聞いて、僕は少し不思議に思った。Sのこの地蔵に関する知識に対してだ。
予め予習してきたにしても、知り過ぎてはいないだろうか。隣の鈍いKだって、そう思ってたに違いない。
そんな僕らの疑問を察したらしく。Sは若干バツが悪そうに頭を掻いた。
「俺が小さい頃はな、まだ二体は残ってたんだよ。首」とSは言った。
「実はな。五体目の首もいだのって、俺なんだ」
意外な展開と言えばそうだったかもしれない。
でもSの語り口からは、そんなに罪の告白だとか、そう言った重々しいものは感じられず、
ただ単に昔の失敗談を語っている様な、そんな口調だった。
「昔、家族とこの寺に来た時にな、地蔵の頭撫でたんだよ。
 願いながら撫でると、その願いが叶うっていう地蔵だろ?俺はひねくれたガキだったから、撫でながら言ったんだ」
「何て言ったんだ?」
Kが訊くと、Sは肩を竦めて、
「もげろ」
「……は?」
「『もげろ!』って叫んだんだ。撫でながら。そしたら、もげた。本当に」
Sの話によると、ごり、と音がして、手前のSの方に地蔵の首が落ちてきたのだそうだ。
その時はまるで地蔵が頷いた様に見えたとSは言った。
「まあ、たまたま俺が撫でた時と、限界が重なっただけだろうけど。
 それでもあの時は本気で驚いた。これがご利益か、とか思ったよ。
 そのあと、上の寺から坊さんが来てさ。すげえ怒られたな」
と言いながらSは地蔵の前にしゃがみこみ、その頭に手を置いた。
そうしてゆっくりと地蔵の頭を撫でながら、叫ぶでもなく、呟くでもなく、全く自然にその言葉を口にした。
「こう……、『もげろ』ってな」
ぼり。
鈍い音がした。
次の瞬間には、地蔵の頭はあるべき場所に収まっていなかった。どさり、と地面に重量のある物体が落ちる音。
「うわ」とは僕の声。
Sは手を前に差し出したままの状態で地蔵を見つめていた。
「おおう!マジでもげやがった」
Kが感嘆の声を上げる。
「とまあ……、こんなこともある」
Sはあくまで冷静を保っていた。
Kが落ちた首に近寄って「どーなってんだ?」とつついている。
僕はこの目の前で起きた現象をどうとらえればいいのか、イマイチ判断がつかずにいた。
今日という日の夜、S撫でられ限界を突破してしまったのか。それとも、地蔵がSの願いを聞き入れたのか。

「……帰るか」
ゆっくりとその場に立ち上がりながら、Sが唐突に呟いた。
「え、地蔵は、どうすんのさ?」
「どうにもならん」
「え、ええー……?」
Sは本当にこのまま帰るつもりだった。
かといって僕にもどうすることもできない。
弁償の件が頭をよぎるが、
「触れただけでああだ。風が吹いただけでもげてたよ」と、Sがこちらの心理を見透かしたような発言をする。
しかし、となれば、このまますごすごと帰る以外の選択肢が僕にはない。
帰るか。

こうして首あり地蔵は、首なし地蔵になったのだった。めでたし、めでたし。
とは、いかなかった。
僕とSが戻ろうとしたとき、Kだけはまだ地蔵の首のところに居た。僕らはそれに気付かず、先に帰ろうとしていたのだが。
「……要らん首、無いか?」
声が聞こえた。
振り向くと、Kが先ほど落ちた地蔵の首を両手に抱えて、無表情で立っていた。
「え、何?」
僕が聞き返すと、Kはまた言った。
「要らん首、無いかえ?」
その時のKの様子をどう表現すればいいのか。
そんなハイレベルな冗談を言えるKではないし、それにいつものKで無いことだけは分かった。
「あったら、もらうぞ?」
「え、いや、ってか……」
「おんしの首でも、ええぞ?」
「無い」
答えたのはSだった。
「少なくとも、俺らは要らん首は持ってない」
「……ほうか」
Kが地蔵の首を地面に落した。どずん、と音がした。
その瞬間、Kの体が電気が走ったかのように、びくん、と震えた。
「……あれ……、何?んっ?え?俺、寝てた!?」
Kは先ほどの自分の言動を覚えてないのか。
「知るか。帰るぞ」
Sはそう言って、さっさと広場を抜け、階段を降りようとする。
「え、ちょっ、待てって!何?説明しろよ!」
Sの後を、慌ててKが付いていく。
僕はしばらくその場にとどまって、ぼんやりと地面に落ちた地蔵の首を見つめていた。
不思議と怖いという感情はこれっぽっちも沸いてはこなかった。
地蔵はまだ働くつもりだったのだろうか。人々の願いを叶えるために。
そう言えばさっき地蔵を撫でた時に、僕は何も願いを思い描いてなかった。
僕はふと思いいたって、地蔵の首を持ち上げた。重い。すげー重い。
切断面を確認し、僕は地蔵の首を元通りの位置に置いた。そして撫でた。
「く、くっつけよ~、くっつけよ~」
そっと手を離す。首はまた落ちたりはしなかった。
そろそろと後ずさり、僕は二人を追いかけてその場を後にした。

その後しばらく経って、
「○○寺の地蔵が、首のない地蔵が取り壊されたらしいぞ」とKから聞かされた。
それって何体?とは聞かないことにしておいた。










その峠は『夜泣き峠』と呼ばれていた。
僕の住んでいる地域では有名な心霊スポットで、
この峠の正式な名称は知らなくても、『夜泣き峠』と言えば地元の人間なら誰でも知っているようだ。

その日の夜、十一時ごろ。僕は友人のKとSと三人で、その問題の峠に向かって車を走らせていた。
「県道って言うから覚悟してのにさー、中々いい道じゃねーか」
そう言ったのはKだ。
確かに、元々は地元民でない僕はこの道を使ったことが無かったのだが、
アスファルトも比較的新しく、ずっと二車線の道路は、心霊スポットに続く山道としては拍子抜けするものだった。
「ユウレイ出るって聞いたから、どんだけ寂れた道なのか!ってドキドキワクワクしちゃってたのにさコッチはよ~。
 あー残念だ。ザンネン。ザ・ン・ネ・ンだあ!」
「うわっ、馬鹿。やめろ」
横を見れば、Kが後部座席から運転席のシートを掴んで揺らしている。
運転しているのはSだった。助手席には僕が座っている。
Sの父親の車だという軽自動車が、フラフラ対向車線にはみ出す。対向車は無い。あったら死んでたかもしれない。
「ここで事故ったら、僕らも幽霊になって化けて出ような。そしたらここ、全国的な心霊スポットになるかもしれんし」
と僕が言うと、「そらいいな」とKが笑う。
騒ぐ僕らの横でSは大きく溜息をついていた。
ちなみにその時のKは酔っていた。僕も酔っていた。
そもそも、宅飲みで酔っぱらった僕とKが、酒の勢いで『何処か怖いとこ行こうぜ!』となり、
運転役として急遽呼ばれたのがSだったのだ。
「……っていうか、道路整備は当たり前だ。そんだけ需要があるんだよ、この道には。
 うちの街から○○(街の地名)に行くのにも、この道使えば早いしな」
この車内で一人だけ酔ってないSは冷静だ。というかぶすっとしてる。
その表情からは、早くこの馬鹿二人から解放されたいと言う気持ちがにじみ出ていた。ごめんなS。
それでも、嫌々ながらも付き合ってくれるのが、こいつの良いところなのだが。
「おれの携帯さ、録音できっから。これで赤ん坊の声取れねーかな?」
「携帯の音質じゃ無理だって。よほど近くで泣いてもらわんと。ってかそんな声録音して何に使うんだよ」
僕がそう言うと、Kはニヤリと笑い、
「んなもん……」
「うん?」
「んなもん、女の子驚かすために使うに決まってんじゃねえかお前ぇ!」
Kのシャウトが車内に響く。
「……お前が子供泣かしたと思われて終いだボケ」
隣でSがぽつりと呟いた。Kはガハハと笑って聞いてなかった。

ところで、Kが言う『赤ん坊の声』とは、僕らがこれから行く予定の廃車峠にまつわる話だ。
『深夜、夜泣き峠を通ると、赤ん坊の泣き声が聞こえる』とは結構有名な話。
周りにも聞いたという人間はちらほらいる。嘘かまことか、聞き違いか幻聴かは置いといて。

峠まではすぐそこだった。僕らの会話は自然と、昔峠で起こったとされる事件が話題の焦点になっていた。
僕が聞いた話によると、ある日、家族が乗った一台の車がこの峠を越えようとした。
そして峠に差し掛かった時、エンジンの故障かなにかで車が炎上した。
男と女は車から逃げたのだが、一人だけ赤ん坊が車内に残された。
その事故以降この峠を通ると、赤ん坊の声を聞こえるようになったという。
しかも、その声が聞こえた者は、絶対に車関連の事故に遭うという。

「おいおいおい!だってよS、帰りは気をつけろよ」
Kの言葉にSが大きなあくびで返した。
そう言えば、電話でSを呼び出した時、彼の声は幾分寝ボケていたのだが、眠たいのだろうか。
「怪談ってのは……、尾ひれしか残ってないもんだ」
あくびの後でSが言う。Sの方を見て「何だソレ?」とKと僕。
「ここで事故が起きれば、ユウレイのせい。あれもユウレイのせい。これもユウレイのせい」
そこで切って、Sはもう一度あくびをする。
「尾ひれだけ……。つまり、身のない話ってことだ。覚えとけ。てかさっきからうるさいよお前ら」
僕とKは顔を見合わせた。二人とも酔いの残った頭ではイマイチ理解できなかったようだ。

「ほら、着いたぞ」
そうこうしているうちに、僕らの車は目的の峠に着いた。
道路脇に車を停めて、三人で外に出る。
外灯が遠く、思いのほか暗い。Sが一度車内に戻って、懐中電灯を持って出てきた。
豆電球の白い光が『夜泣き峠』の周囲を照らす。
何と言うか、心霊スポットと言うだけあって、独特の雰囲気は感じ取れた。
道の両脇はどちらも木が茂っていて、ザワザワと風に揺れる音がする。
いつの間にか、おしゃべりのKも静かになっていた。
「どうする?」とSが言った。
その口はおそらく『早く帰ろうぜ、てか帰らせろ』と言いたいのだ。
僕としても、夜風とこの峠の雰囲気に当たった瞬間、酔いが醒めてしまった様で、実際怖くて帰りたくなっていた。
「うーん。そうだな。何もなさそうだし」
帰るか、とチキンな僕が言おうとした時、
「やべ……」
Kが言った。
「俺、聞こえた」
何が?と言いかけた僕の耳にも、それは入って来た。
掠れた猫の様な、でも猫じゃない。猫は『おぎゃあ、おぎゃあ』とは鳴かない。
これは人間の声だ。赤ん坊の泣き声だ。
「おいおい、嘘だろ」
Kがうろたえていた。僕はもっとうろたえていた。
Sにも聞こえたようだった。
「ん……、あっちからだな」
Sはそう言って、懐中電灯の光をその方向に向けた。
僕らが車を停めた道路脇の反対側に、車一台が通れるくらいの横道があった。
Sが照らしているのは、その細い道だった。
「よし、行くか」と一言。
Sがその横道に向かって行くので、僕とKは顔を見合わせた。Sは果たして正気なのかと思った。
しかし、車のキーも懐中電灯もSが持っているので、僕らは慌ててSの後を追った。

横道の先には、小さな広場があった。
Sが持つ懐中電灯の光が、広場をくるりと照らした。
草がぼうぼうに生えていて、広場を囲むように廃車が数台あった。
古びて赤錆びにまみれたトラックもあれば、比較的新しい車もある。
赤ん坊の泣き声が大きくなっていた。
Sの後ろで僕も泣きそうだった。Kは「やっべー、やっべーよ」をさっきから繰り返している。
Sが一台の車を照らした。その車は黒ずんでいた。外も、中も。ガラスは残っていない。
Sが懐中電灯の光を、車から僅かに下に向ける。
チャイルドシート。
その車の横には、地面に直接チャイルドシートが置いてあった。
隣の車とは不吊り合いな程綺麗で、新品同様と言っても良かった。
泣き声はそのチャイルドシートから聞こえてきた。誰も座っていないはずなのに。
Sがそのチャイルドシートに一歩近づいた。
「おいSやべー。やべーって!」
Kが止めるのも聞かず、Sはチャイルドシートの前まで行くと、その後ろの草むらに向かって手を伸ばした。
僕はその時、泣き声の主にSが喰われるんじゃないかと本気で思った。
「……あった」
僕らの方に向き直ったSが手にしていたのは、一台の機械だった。
ただ立ち尽くす僕らの前で、Sは手にした機械の上にあるスイッチを押した。
その瞬間、赤ん坊の泣き声はピタリとやんだ。
「CDラジカセだ」
Sが言った。
「最初は俺も驚いたけど、泣き声に規則性があったからな。こんなことだろうと思った。
 まあ、イタズラだな。電池が切れるまでは、赤ん坊の声がリピートするようにな」
僕は茫然としていた。Kはぽかんとしていた。
Sよ。お前は何処まで冷静なのだ……。
「……うおおマジかよバカらしー!」
Kが両手で自分の頭を抱え、身体全体でぐねぐねと意味不明な動きをした。彼なりに恥ずかしがっているのだ。
「俺バカじゃん。やべーやべーとか俺バカじゃん!」
それからKはチャイルドーシートに近づくと、一発蹴りを入れた。
そうしてから何を思ったか、倒れたチャイルドシートをまた元通りに立たせると、
「お前ら、写メれ!」
その上にどかりと腰を下ろした。
チャイルドシートに大の男が座っている。真夜中のこんな場所で。
その滑稽な光景に、先程までの恐怖の感情も消えうせ、僕は声に出して笑った。
「アホらし」と言いながらも、Sが自分の携帯を取りだして、カメラで撮った。
フラッシュ。Kはふんぞり返っていた。僕も笑いながら、その姿を携帯で撮った。
「……おぎゃあ、おぎゃあ!」とKが叫びだした。さらに座った状態で手足をバタつかせる。
僕はまた笑った。Sも笑っていたと思う。
「おぎゃあ、んぎゃああ、んぎゃああ」
僕が、おや、と思い始めたのはそのあたりからだった。
「んぎゃあ、ん、んぎゃああ、おぎゃああああ!」
「おーい、K、もういいよ。十分撮ったから」
しかし僕がそう言っても、Kは泣きやまない。それどころか、Kの泣き声はいっそう激しくなった。
「……お、おぎゃあ、おぎゃあ……ぐ、おぎゃああ、おぎゃああああ!んぎゃああ」
「おいK?」
「ぎゃああああ、おおぎゃあああ!んっく、っく、ぎゅっ……、おぎゃああああああ!んっく、ん」
いつの間にかKの泣き声は尋常ではなくなっていた。Kは本当に涙を流して泣いていたのだ。
顔が歪んでいた。手足をバタつかせ大声で泣く。
その声も、Kの声から、まるで本物の赤ん坊の声に変わっていた。
「おぎゃああおぎゃああおぎゃああおぎゃああああおぎぎゃああああああ」
「お、おい、……け、K」
僕がKに向かって手を伸ばそうとしたその瞬間、
Sが横からチャイルドシートごとKの身体を蹴飛ばした。
「……おい!Kを持て。逃げるぞ!」
Sが叫ぶ。地面に倒れたKは気を失っていた。
僕はSと一緒にKを担ぎあげると、車に向かって一直線に走った。
「S、S!どういうこと?」
「俺に聞くな!」
後部座席にKを押し込んで、Sが車のキーを差し込む。
「お、おい、S。ちょっと待て!」
車のエンジンが掛かる。しかし僕は思いだしていた。夜泣き峠に関する話。
赤ん坊の声を聞いたものは必ず……。
Sもそこに気がついた様だった。サイドブレーキを下ろそうとしていた手が止まる。しかし、躊躇は一瞬だけだった。
「……そりゃ、尾ひれだ」
Sは車を発進させた。
Sの額に浮かぶ大粒の汗とは裏腹に、車は非常にゆっくりとした安全運転で山を降りた。

Kは山を降りる際に意識を取り戻した。
また泣き声をあげられたらどうしようと心配だったのだが、幸い起きたKはちゃんとKだった。
「え……?何コレ。ってか、わき腹ちょーいてえんだけど……」
それはSが蹴り飛ばしたからだ。でもその事実は無かったことになり、全ては赤ん坊の霊の仕業ということで落ち着いた。
Kのわき腹にユウレイが噛みついていたのだと。

そうして、少なくともその日は、僕らは事故に遭うこともなく、山を降りることが出来た。

後日三人で集まり、知り合いの知り合いの知り合いという風に、
か細いつてを頼って、遠くの街の神社でお祓いをしてもらった。
その際、神主らしき人に「一応三人とも大丈夫だが、もうあの峠には行かない方が良い」と言われた。

お祓いが効いたのか、そもそも何も憑いてなかったのか。
あの夜の体験から数年たったが、今のところ三人とも何の事故もなく過ごしている。

『夜泣き峠』を通ってて、赤ん坊を見た、声を聞いたという話は、今でもたまに聞くことがある。
この前も、職場の後輩が彼女と行って、泣き声を聞いたそうだ。
後輩はその時の話を詳しく語ってくれた。
「事故とかは大丈夫だったんすけどね?……やっぱり、ほら。わき腹、噛まれたんすよ、ほら」
確かに、真剣に語る彼のわき腹には、噛まれた様な跡があった。
そりゃ、尾ひれだ。
笑って流していいものかどうか、少し迷った。






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