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カテゴリ: 4つ上の姉にまつわる話だ




【4つ上の姉にまつわる話だ】① 入ってこようとしたもの 
【4つ上の姉にまつわる話だ】➁ 学校の怪談1 プールの第3コース
【4つ上の姉にまつわる話だ】③ 秋祭りと肝試し
【4つ上の姉にまつわる話だ】④ 秘密の友達が教えてくれたこと
【4つ上の姉にまつわる話だ】⑤ 赤い鬼
【4つ上の姉にまつわる話だ】⑥ 曾祖父の葬儀
【4つ上の姉にまつわる話だ】⑦ うぶすな
【4つ上の姉にまつわる話だ】⑧ 学校の怪談2 七不思議 『一三階段の呪い』
【4つ上の姉にまつわる話だ】⑨ かわき石
【4つ上の姉にまつわる話だ】⑩ つかまる 
【4つ上の姉にまつわる話だ】⑪ 電話
【4つ上の姉にまつわる話だ】⑫ 青い鬼
【4つ上の姉にまつわる話だ】⑬ 箱








「とうま◆xnLOzMnQ」 2022/07/20

またいくらかの時間が経ってしまった。
 姉について色々と書き記してきた結果、俺には一つの変化が起きていた。徐々に夢を見るようになったのだ。
 昔の夢を。
 本当は最初からソコにあったモノ。
 ただ、俺が頭のどこかにしまい込んでしまっていたもの。
 過ぎてしまった日々を夢に見ながら、続きを記すべきかを悩んでいる。
 開けてはいけないかもしれないモノに触れるべきか、このまま深く閉じておくべきなのか。

 今年もまた春が来て、過ぎ去ってしまった。
 これもまた、閉じておくべき記憶なのかもしれない。
 忘れてしまいたいのか、覚えておきたいのか。俺は決める事ができずにいる。

 今日は『箱』の話をしようと思う。
 春が終わって初夏も過ぎようとしていた、『青い鬼』とまみえてさほど経たない、ある日の話である。


 まだ夏になりきる前の蒸し暑い初夏の日。
 『青い鬼』の一件からはすでに二週間ほど経とうとしていた。
 あれ以来、夢だったんじゃないかと思うぐらい平穏な日が続いていた。姉もいたって普通に、学校と家と図書館とを行き来している。
 父も最近は仕事が忙しい様子で、『普通の家族』のような日常を過ごしていた。
 俺はというと、学校近くの公園でコノミさんを待っていた。
 握った手の中には、『青い鬼』にまつわる怪現象に悩まされていた時にもらった、小さな白い紙の袋があった。
 これをコノミさんに返すのが、今日の目的だった。



ずるっ、ぐちゃ、にちゃ、ぎちゅぐじゅ、べたっべたっ。

 未だに俺を取り囲んでいたあの足音は忘れられない。
 『青い鬼』が姉と関わった事で消え去り、もうアレにー死者たちの足音におびやかされる事が無いとわかっていても、恐怖の記憶とその音は俺の記憶にしっかりと刻み込まれていた。
 それでも終わったとわかっているなら、二週間近く過ぎてしまったけれど、このお守りと呼べる白い袋はコノミさんに返すべきだろう。
 T君と共に訪れていたあの異常な足音が、コノミさんにこれをもらった途端ぱたりと止んだのだから、悪いモノを寄せ付けない力があるのは俺にだってわかる。もしかしたら貴重なもので、本来ならコノミさんが自分の身を守るものなのかもしれない。
 あげると言われていたけれど、ヒトでない恐ろしいモノを退ける力があるお守りをただもらったままでいるのは悪い気がして、俺は姉にコノミさんへ『返したいものがあるから公園で会いたい』と伝言を頼んでいた。
 公園に着いてから10分ほど。時計は3時半になろうとしている。
 ぼんやりと時計を眺めていると、
「弟くん、こんにちは」
「うわっ」
 いつのまにか背後までコノミさんが近づいていた。気配も足音もまるで感じなかったため、俺は飛び上がるほど驚いた。実際体はびくっと跳ねて、大げさに振り向く羽目になった。
「こ、こんにちは」
「驚いた?」
「すごく驚きました」
 コノミさんは穏やかに笑んでいる。
 あの日とは違って笑顔なのに、あの日と同じようにコノミさんは綺麗な人形めいた不思議な存在感をしていた。
 もうほとんど夏の日差しだというのに相変わらず日に焼けた様子もなく、真っ白な肌をしている。さらさらとした黒く長い髪が、時折吹く風に少しだけ揺れていた。
「お守りを返そうと思って」
「お守り?」
「これ、あの時くれたじゃないですか」
 俺は手の中にあった白い袋を返そうと、コノミさんに見せる。あぁ、と、今思い出したと言った様子でコノミさんは小さく曖昧に頷いた。
「これがあったから、俺すごく助かりました。ありがとうございました」
 差し出したが、コノミさんが受け取る気配は無い。
 少し考えるように首を傾げてから、
「弟くんは律義だね。・・・・・・いいよ、返さなくて。それ、お守りじゃないから」
不思議な事を言った。
「え」
「お守りって、大事に思ってくれてありがとう。弟くんがそう思ってくれるなら、ソレはお守りだから。持っててあげて」
「でも、貴重なものなんじゃ」
「弟くんのところでなら貴重なモノでいられるね。だからお願い。持っててもらえるかな」
「・・・・・・はぁ」
 なんだか要領を得ない、よくわからない会話になっていた。
 お守りではないらしい。
 持っててほしいと言われれば、それ以上断る理由も無い。
「じゃあ、もらいます。大事にします」
「うん、よろしくね」
 はいと頷いて、俺はポケットに白い袋をしまい込む。何かの粒を包んだ、白い紙の袋。お守りじゃないなら、これはなんなんだろう。
 ざあっと急に強い風が吹いて、雲が陰った。
 コノミさんは笑っている。人形のように真っ黒な瞳が俺を見ている。
「弟くんはいい子だね」
 にわかに雨が振りそうな気配になってきた。
 真っ黒な雲がすごい速さで空を流れていく。
 ぱらぱらと雨粒が落ちてきた。雨宿りをしないとまずい様子に、俺達は公園の東屋へ向かう。 
「世の中には悪い子の方が多いのに」
 それは小さな声だった。聞き間違いだったかもしれない。
 けれど。
「おい!待てよ嘘つき女!!」
 呟かれた言葉を聞き返すより早く、やや低い少年の怒鳴り声が響き渡った。振り返ると、怒りに満ちた表情の男子中学生が立っていた。
 どこからか走ってきたのか、少し息が上がっている。
「お前のせいだ!お前のせいだろう!!責任取れよ!!」
 怒りも露わに、その男子中学生はこちらに向かって何かを投げつけた。カツン、カラカラっと音を立てて俺達の足元に転がったのは5cmくらいの木の箱に見えた。
 煤のような何かで表面が薄汚れている。
 一方的に吐き捨て、わめきたてる姿に、コノミさんはすっと表情を消した。

「悪い子」

 温度も何も無い無感動な声音は、まるで知らない人のようだった。
 ざわざわと鳥肌が立つ。
 何か良くない気配がする。
 何かが集まって来そうな気配。『青い鬼』の時に感じたのとはまた異質な、でも明らかに不味いモノがいて、それが近づいてきて囲まれるような感覚。
 男子中学生は何も感じていない様子で、口汚くわめき続けている。
 ゴロゴロと雷が鳴りだした。

「悪い子はどうなると思う?」

 誰に問いかけたという感じでもなかった。強いて言えば、宙に向かって話しかけていた。
 コノミさんは少し歩いて、投げつけられ転がったままの箱の所へ行くと、それを軽く踏みつけた。
 少しずつ、少しずつ、細い足が踏んだ木箱に力をかける。キシ、キシッと箱が軋む音がする。
 一息につぶせそうなものを、ゆっくりと、ゆっくりと。
「どうなると思う?」
「やめろ、コノミ」
 箱が一際ギシッと音を立てたその時、意外な声が割って入った。
「・・・・・・ゆきちゃん」
「ひとまず、ソレから足をどけろ。とうまの前だぞ、壊してどうする」
 降り始めた雨の中、傘をさした姉が近づいてくる。
 つかつかと近づいて来た姉は「持ってろ」と俺に畳んだ傘を渡すと、コノミさんに向かってわめき続ける男子中学生に、
「やかましい」
その顔の前でまるで猫だましの様に一発パンッと柏手を打った。
 俺達の周りを取り巻いてナニカの気配が、一瞬で離れていく。
「あ・・・・・・俺?あれ・・・・・・」
 尋常でなかった様子の男子中学生が、正気に戻ったように目を瞬かせた。
 実際正気に戻ったのだろう、自分が今何をしていたのか思い出したのか、みるみる青褪めていく。
 雨は本降りになり、雷は激しさを増す。
 俺達は否応なしに東屋に退避し、
「やっと捕まえたぞ、K。何をやらかしたか、ようやくじっくり訊けるようで嬉しいよ」
笑顔で激怒した姉と相対することとなったのだった。 


「・・・・・・最初は鳥の声が聞こえたんだよ」
 東屋の椅子に腰かけて何事かの始まりを待っていると、心底憂鬱そうな声でうめくようにKさんは語り始めた。
「一週間ぐらい前の夜、家の外のどっか遠くから『ホォー、ホォー』って梟?みたいな鳥の声がしたんだよ。俺の家、住宅街にあるのに珍しいなって思って、窓開けて外見たんだ。でもまあ、梟だったとしてそんな簡単に見つかるわけないよな。やっぱり鳥の姿なんかなくてさ、どっかから聞こえてくる鳴き声のことなんか、あっという間に忘れたんだ。その日は」
 Kさんの口調は重い。
 さっきコノミさんが踏んでいた木箱は、今は東屋のテーブル中央に置かれていた。
 土埃が付いたままの箱を姉が拾って、そこに置いた。 
「なんか気がつくと聞こえるんだ、その『ホォー』って声。しかもだんだん近づいて来てる。二日くらいはそんな事もあるかって思ってたけど、昼間に学校の中でも聞こえたんだよ。さすがにおかしいだろ?山のそばでもないのに」
 鳥の声が聞こえる。それがだんだん近づいてきた。それは確かに変わったことかもしれないけれど、そんなにピリピリするようなことだろうか。
 男子中学生があんな風に取り乱すようなことではない気がするが、姉もコノミさんも特に口を挟まずに話を聞いていた。
「どこからそんなもんが聞こえて来てるんだって気になって、声の方にいったらさ、廊下の端に女子が立ってたんだ。ソイツの口から出てきてるんだよ、その『ホォー』って音」

 誰もいない廊下に、その女子は立っていたという。
 周囲を見回しても誰一人いない。放課後の部活動の時間だったから、たくさんの生徒がいるはずなのに。
 夕暮れの校舎、薄暗がりの中。
 ぽつんと立つ女生徒と二人きり。
 感情の読めない、鳥のような目でじっとKさんを見てくる。

「『ホォーウ、ホー、ホー、ホォーウ』」

 すぐ耳元でその鳴き声がして、Kさんは逃げ出したそうだ。
 恐怖で思わず振り返った時、女子はまだ遠くに立ったままだった。
 
「逃げてる間、ずっと俺を見てるってなんでかわかるんだ。夜に家の外からずっと聞こえてた鳥の声が、ソイツの口から出てたんだよ。なんなんだよ、意味わかんねえ」
「人が鳥の声を真似してるんじゃなくて、鳥の声が人の口から出てるのよね。人の喉から出てるのに、人の声じゃないの」
 指摘したコノミさんを、Kさんが睨みつけた。
「その女子は知った相手だったのか?」
「・・・・・・」
 姉の問いにKさんはうつむいた。知っているということなのだろう。
「相手は誰だ」
「Eっていう女子だよ。同級生の別のクラスのヤツ。一か月ぐらい前に、家まで押しかけてきたすげえ迷惑な女だよ。入学してわりとすぐに告られて断って、でもしつこく何回か告ってきて。断ってもなんべんも続いたから、さすがに迷惑だって言ったら、しばらく姿見なくなったから諦めたと思ってたんだ。そしたらある日いきなり家の前に立ってるんだぜ、勘弁しろって。結局帰ってくれって言っても聞かなくて、母親に見つかって、母親は母親で俺に付きまとってるのかって、めちゃくちゃキレるし、散々だった。最悪」
 ストーカーというヤツなんだろうかと、俺はちょっとゾッとした。
 よく知らない相手に付きまとわれるのはさすがに怖い。
 しかもその女子が、今度はナニカ別の生き物のように鳥の声を発して夜な夜な家の外にいたかもしれないとなると、普通の人間のできることでもなくなってくる。
「アイツなんなんだよ・・・・・・頭おかしいだろ」
 人間の形をしていても、人間とは思えないようなナニカ。
「箱はどうやって手に入れた」
「手に入れたっていうより、知らない内にカバンの中に入ってたんだよ。最初はそんなに汚れてなかった。意味わかんねえからゴミ箱に捨てようとしてたら、ソイツが『お守りを捨てるのは良くない』とか言い出すから。霊感女が言うから一応持ってたんだけど」
 ソイツとコノミさんを睨む。怒っているような、恨んでいるような、怯えているようななんとも言い難い表情だ。
 しかし、嘘つき女呼ばわりの次は霊感女ときた。
 中学校でコノミさんはそんな風に呼ばれているんだろうか。
「だって守ろうとしてるんだから、『お守り』でしょう。だから捨てても『戻ってきた』でしょう?」
「お前なんでソレ知ってんだよ!」
 Kさんは激高した。立ち上がり、コノミさんに掴みかかろうとしたKさんがガクンとバランスを崩す。
「痛ってえ!なんだ!?」
 椅子に戻り、左足の脛辺りを抑えている。
 Kさんがズボンをめくって確認すると、そこには脛を挟むようにして赤い点が楕円状に並んでいた。気のせいでなければ、何か所かうっすらと血が滲んでいるように見えた。
 コノミさんは無感動な目でそれを眺めている。
 まるで当たり前の事が起きただけ、といった感じで。
「箱を捨てた?」
「捨てたよ!捨てたけど、またいつの間にかカバンに入ってた。気持ち悪い、こんなもんお守りなもんか!あの女は相変わらずいつの間にか遠くから俺を見てるし、鳥の声は止まないし!アイツ、俺の鞄を盗んだんだぞ!?それで何しようとしたと思う!?校舎の隅で俺の鞄に火をつけようとしたんだぞ!!どこが守ってるっていうんだよ!?お前が俺に変な事言うからだろう!お前のせいでおかしくなってるんだろう!!」
 追い詰められているのだろうけど、Kさんがコノミさんにぶつけたのは言いがかりとしか思えない理不尽な怒りだった。
 俺に何ができるわけではないけれど、こういう一方的な八つ当たりは見ていて腹が立った。ましてコノミさんのお守りに助けられた身としては、余計にKさんの言い分が不快だった。
「コノミさんはお守りは大事にした方がいいって教えてくれただけでしょう。捨てたりしたからバチが当たったんじゃないんですか」
「なんだよ、お前。かばってんじゃねーよ。ソイツはなあ、有名なんだよ。霊感があるとか、嘘ばっかいうとか、呪われてるとか。皆に言われてるヤツなんだよ」
「コノミさんは嘘なんかつかないです」
 あからさまに不愉快と言った顔で、Kさんが俺を睨む。さぞや俺の事が生意気な小学生に見えたのだろう。
「私の弟にかまうな。それよりK、今は自分の問題だろう。箱はどうやって、どこに捨てたんだ」
「触るのも気持ち悪いから学校のゴミ箱に捨ててやったよ!無くなれば変な事も終わると思ったのに、なんでどんどんおかしくなってくんだ・・・・・・」
 苦し気に顔を歪めたKさんは、どんどんと語尾を弱めていった。
「捨てたのは2回、ソレは3箱目だろう。学校にそんなものを捨てるとは、余計な真似ををしてくれる」
 姉が東屋の机の上に、2つの木箱を投げた。カツンと音をたてて転がったソレは、すでにあった箱とほとんど同じモノに見えた。
 Kさんは恐怖の表情を浮かべ姉と箱との間で、視線をいったりきたりさせていた。
「悪い子」
 コノミさんが囁くように呟く。
「同感だ。おかげで余計な被害が学校で出た。お前のせいだぞK」
「箱捨てたぐらいで何だってんだよ」
「反省もしない、悪い子」
「バカにかまうな、コノミ。だが、このままじゃ私達が迷惑だ」
「放っておけばいいのに。少しすれば元通り静かになるでしょう?」
「いつになればおさまるか、はっきりしない」
「いつなのかは、ゆきちゃんわかってるくせに」
「・・・・・・・・・・・・」
 コノミさんは立ち上がった。
 自分の荷物をまとめると、
「私は悪い子は嫌い。無駄な事も嫌い。だからその子の事は知らない。手を貸そうとするゆきちゃんはもの好きだと思う」
「私もそう思うよ」
 姉は肩をすくめた。
「悪意には悪意が還る。恨みには報い。私はアナタの事、どうでもいいけど。助かりたいたいなら、助かる努力は必要。たぶんわからないアナタには無駄だけど」
 Kさんに言い残し、コノミさんはそのまま東屋を出て行った。
 いつの間にか雨脚は弱まっていて、今は明るい午後の光の中、わずかに雨粒が落ちるだけだった。
 離れていく姿を目で追っていると、妙なものが見えた。
 コノミさんが歩く道の脇、地面に溜まった水たまりがぴちゃぴちゃと不思議に水しぶきを上げる。
 雨粒が水たまりに落ちているにしては、不自然な水の跳ね方をしていた。コノミさんの周囲だけをつかず離れず、取り巻くように移動して見える。
 コノミさんが遠ざかり、やがてソレも見えなくなった。
 なんだったんだろう、目の錯覚だろうかと俺は首をひねった。
 残されたのは俺達三人と、東屋の机に転がった箱が三つ。
「さて、K。助かるには努力が必要だそうだ。お前の努力は、助かるに足りると思うか?」
 再び雨足が強くなってきた。
 激しい雷が、音もなく空を割る。
 あまりに強い稲光が目を焼いて、わずかのあいだ景色が見えなくなった。
「祟られなかった幸運を、まずは感謝するんだな」
 再び見えるようになった視界に、信じられないものが映った。
 東屋の机に転がった箱が、3つとも真っ黒に焼け焦げていた。煙こそ上がっていないものの、完全に炭化している。
 普通の世界は遠く、ここはもう境界の向こう側。
 カラ、と黒く焦げた箱の中、ナニカが音をたてた。


 ここはどこだろう。
 暗い夜の道を俺は歩いていた。
 電灯がぽつり、ぽつりと点灯しているがそれでも足元を照らすにも足りないほどのわずかな光でしかない。
 やがて俺は一軒の家に辿りついた。
 家の中も明かりは点いていないようだ。その辺によく建っている、外観の同じ家々。その中の一軒を選んで、玄関の扉に手をかける。
 やけに冷たいドアノブを回して、俺は家の中に入った。
 やはり中は暗い。だけど妙に室内ははっきり見えた。
 靴を脱がずに廊下を進むと、突き当りでキッチンらしい部屋に出た。
 暗いキッチンに女の人が立っている。肩甲骨の辺りまで、癖のある髪が伸びている。
 知らない背中。見たことの無い人。
 時々、包丁を使って何かを切る、ぶちぶち、タンッ、という音がする。
 女の人がこちらをゆっくり振り返る。うつむいていて顔は見えないが、エプロンが汚れていた。
 手に握った包丁も液体で汚れている。
 嗅いだことの無い嫌な臭いがした。
「『どうして』」
 女の人が呟く。
 ゆっくりと顔を上げる。もう少しで顔が見える。
 女の人の背後にあるまな板の脇に何かある。綺麗な四角形。見たい、アレの中身が見たい。
「『どうしていうことをきかないの!』」
 女の人は怒鳴っている。口の両端がつり上がって、怒鳴りながら笑っている。
 女の人が顔を上げきった。でも目が合わない。目が無い。目があるはずの場所はからっぽで、まっくらな穴が開いていた。涙みたいに黒い液体が穴から溢れる。
「『悪い子はとりかえっこしましょうね』」
 女の人の手が伸ばされる。
「『ホォーウ、ホー、ホー、ホォーウ』」
 目の前の女の人の、口から。鳥の声が溢れ出た。


 バチっと目が覚めた。
 心臓がバクバクしていてとても苦しい。
 夢・・・・・・夢だったのか。あんな夢を見たのは初めてだった。深く息を吸おうとするが、苦しいだけでうまく呼吸ができない。
 手足がしびれている。
 頭が痛かった。体がうまく動かないので首だけを回して周囲を見る。時計は朝の7時を指している。ちゃんと朝だった事にほっとしたが、すぐに違和感を感じてもう一度辺りを見渡した。
「!?」
 部屋のドアが開いていて、父が無言で立っていた。
 無表情に立ったまま、俺をじっと見ている。
「お、おはよう」
 なんとか声をしぼり出して、場違いな挨拶をする。喉がカラカラで俺の声はがさがさだった。
 父は何も言わない。ただじっとこちらを見ていた。
 背を向けると、無言で離れていった。足音からして、1階へ降りて行ったようだった。
 止めていた呼吸をふーっと長く吐き出す。ようやく体が動いた。
「なんなんだよ」
 起きたばかりなのに、ものすごく疲れていた。
「とうま、入るよ」
 姉が声をかけて部屋に入ってきた。日曜日だというのに姉は中学校の制服に着替えていた。見慣れたその姿を見て俺はようやく現実感を取り戻せた。
「すぐに来れなくてごめんね」
 ベッドの端に腰かけて、姉が俺の額に手を当てる。
「熱は出てないみたいだね、良かった。隣の部屋に聞こえるぐらいうなされてたんだよ。あの人がいるから、すぐに来れなかった。ごめんね」
「姉ちゃん、俺変な夢見た」
「わかってる。『出して、出して』って、すごい声だった」
「お母さんは?」
「ご飯作ってるよ。お母さんを責めないでね。お母さんにはこういう事は聞こえないんだ。お母さんは『境界』の『あっち側』だから。とうまだって普段はちゃんとあっち側にいるんだよ」
 境界線のあっちとこっち。
 俺が今いるのは、普段とは違う場所なのか。
 俺を見下ろす父を思い出す。普段からにこやかな人ではないけど、あんな風に物でも見るような目で見られた事も無かった。
「あんまり時間がないのかもしれない。とうま、辛いかもしれないけど、起きられる?」
「うん」
 姉が手を当てている額から、じわじわと違和感は抜けて体は楽になっていっていた。
 恐怖感も頭痛も消えたので、体を起こす。今は普段と変わらずに動けそうだった。
「じゃあ、朝ご飯を食べたらKの家に行くよ」
 連れて行ってもらえるのか。意外な姉の言葉に、俺はびっくりして姉をまじまじと見た。
 いつもなら『おとなしくしてろ』と俺が奇妙な事に関わることを嫌がるのに。
「Kはたぶん忠告を聞かなかった。助かろうと自分で何も努力しなかったか、もっと悪い事をしたか」
 姉は俺の額から手を離すと、ぎゅっと膝の上でこぶしを握りしめた。
「『助かりたいたいなら、助かる努力は必要。わからないヤツには無駄』か。コノミの言う通りになるのか・・・・・・」
 握りしめたこぶしに視線を落としたまま、姉は言った。
「二人とも、朝ご飯食べなさーい」
 階段下から俺達を呼ぶ、母の声がする。日常のやり取りのはずなのに、どこか遠くから聞こえているような気がした。
「行こうか」
「・・・・・・うん」
 なんだか妙に心細い。
 悪意には悪意。恨みには報い。コノミさんが言った言葉が、頭にこびりついたようだった。 


 Kさんの家がある住宅街は歩いて10分ほどのわりと近くにあった。
 いつもは通らない細い道を姉の案内で進む。進むうちに、俺は嫌な汗をかいていた。
 今朝夢で見た光景。夢で見た、知らないはずの家がそこには建っていた。
 唯一違っているのはこれから工事でもするのか、家の囲うように足場が組まれていた事だった。
 姉が躊躇もなくピンポーンと呼び鈴を鳴らす。しばらくして、不機嫌な様子のKさんがガチャリと玄関を開けた。
「おはよう」
「・・・・・・おう。親いねーから、あがれよ」
 Kさんの機嫌は良いようには見えなかった。一瞬俺達を睨むようにして、それから家の中へと迎え入れた。
 俺は恐る恐る中へ入ったが、そこは夢で見た家の中とはまるで違っていた。建ててまだ新しい事がうかがえる綺麗なフローリング。清潔そうな壁紙。
「俺の部屋2階だから」
 夢の中の家は床は古そうな木材で、壁もなんだか薄汚れていた。Kさんの部屋は玄関から入ってすぐ左手側の階段を昇った2階にあり、夢の家には階段は見当たらなかった。
 意味がわからないが、やはり夢はただの夢ということなのかと何だか拍子抜けしていると、姉は玄関から入って突き当りをじっと見ていた。
 突き当りは白い壁が広がっていて何もおかしな所は無い。
 けれど姉の視線はそこを見つめている。
 強張った顔でそこを見つめていたが、Kさんに促されて俺たちは二階へと上がった。
 Kさんの部屋はあまり片付いているとは言えなかった。いつも見ている姉の部屋が整然と片付いているので、余計にそんな気がした。
 散らばった教科書や漫画本、雑に脱いで椅子に掛けてあるままの制服。物を適当に部屋の隅によけたといった感じで、中央には一応座卓と座布団があった。
「神社には行ってないんだろう」
 座布団に座りながら姉が切り出すと、Kさんは「うるせーな」と返した。
「こんな小さい町で変な事がありましたって神社に行けるかよ。あっと言う間に噂になって、後ろ指指されるっつーの。大体祭りの時にしかいない神主に、何頼めって?お祓いか?鳥女に付きまとわれてるって?」
 Kさんの言い分に姉は溜め息をついた。
「私は神主さんに会えとも、お祓いを頼めとも言っていない。神社にお参りをしろと言ったんだ」
「同じだろ」
「違う」
 あの雨の日、別れる前に姉はKさんに四つの指示を出していた。

 神社にお参りして自分が今までに考えなしに言っていた暴言について懺悔し、今後の行いを改めると誓ってくること。それを守ること。
 その証拠として、今Kさんを悩ませているEさんという女子の家に行って、酷い振り方をしたと心から謝罪すること。
 謝罪ができたら神社に戻って、三つの箱を鎮めてくれるよう深くお願いすること。
 親のアルバム、特に母親のアルバムを探しておくこと。

「箱はどうした」
「壊そうとした。金づちでぶっ叩いてもダメだったけど。見たくも無いから鞄に放り込んである。持って帰ってくれよ」
「お前は・・・・・・本当に救いようが無いな。もういい。アルバムは?」
「あったよ。そんなもんがなんだってんだ」

 Kさんは床の隅から2冊の分厚いアルバムを引き寄せて、座卓に乱暴に放り投げた。  Kさんの横柄な態度に、俺はだんだんと腹がたってきた。T君は姉である恵さんを助けようと、自分なりに必死に努力をしていた。
 それに比べてKさんはどうだ。文句を言うだけ、自分では何もしない。 
 なのに、厄介だとわかっている『箱』は無責任に姉に押し付けようとしている。
 姉は特に気にした様子も無く、目の前に放られたアルバムをめくり始めた。
 親の世代のアルバムだから厚い台紙に写真を張り付ける型式の古い物だった。カラー写真だけどあまり綺麗ではない。写真の大きさも小さかった。
 Kさんの母親だという人が子供の頃の写真がいくつも映っている。おじいちゃんおばあちゃんと野菜をとる写真。公園で遊ぶ写真。お母さんお父さんと遊園地に遊びに行ったのだろう写真。
 その中に、キッチンというよりは台所でお母さんの料理の手伝いをする一枚があった。
 俺は思わず息を飲んだ。夢に出てきた、女の人が立っていたあのキッチンにそれはよく似ていた。
 次のページをめくった姉の手が止まる。
 七五三か何かだろうか。着物を着てめかしこんだ少女が、綺麗な組木細工の箱を手にもって小首を傾げ、ポーズをとった可愛らしい写真が貼られていた。
 組み合わされた木で綺麗な模様が色々と描かれたその箱は、とても高価そうに見えた。
 他には毬や扇を手に持ち、すまし顔や笑顔で映った少女が続いている。
「へぇ」
 興味深そうに姉はそのページをしばらく眺めていた。
 気が済んだのか、1冊目の3分の2ほどを確認した後2冊目へと移る。2冊は手早くめくっていく。今度は大人になった姿の女の人が写真に記録されている。
 何気ない日常の写真から結婚写真に続き、赤ちゃんを抱えた写真が出てきた時、姉の手が再び止まった。
 そこには幸せそうな女の人と、小さな赤ちゃんと『命名 R』と筆文字で記された紙が病室に貼られたものが映っていた。
「これは誰?」
 Kさんとは違う名前の赤ちゃん。Kさんもその写真に驚いたのか身を乗り出して覗き込んできた。
「知らねー」
 写真の隣に手書きで添えられた紙に、『●●年XX月 R誕生』と記されている。
 Kさんは一人っ子だという。
「ただいまー」
 一階から女の人の声が聞こえた。げぇとKさんが顔を歪める。
「ばばあ、もう帰って来やがった」
「お母さんか」
「そうだよ」
 母親に対する言葉に俺はびっくりした。自分の親に『ばばあ』などと呼ぶなんて、俺の家では考えられないことだ。それとも、他の家ではそんなものなのだろうか。
「お客さんが来てるなら麦茶ぐらい出したんでしょうねー?」
「うっせー!ほっとけよ!!」
 何度も思ったがKさんは口が悪すぎる。それに態度も横柄で乱暴だ。こんな人に姉が力を貸すのかと思うとうんざりした。
 誰かを嫌いだと思う事は少ない俺にしては珍しいことだった。
 すぐに階段を昇る音が聞こえてきて、ドアががちゃりと開けられた。お盆に三つの麦茶を乗せて、Kさんの母親が入ってきた。

「やっぱり女の子が来てたのね」

 え?
 聞き間違いかと思うような小さく早い呟きだった。
「はじめまして。お邪魔しています」
「はじめまして」
 姉が床に手をついて頭を下げるのに続いて、俺も頭を下げる。祖母の教えで、俺達はよそのお宅に遊びに行った時はこんな風に挨拶をする。祖父母の家から出て離れてはしまったが、教えてもらった事はこうやって俺達の姉弟の中にしっかり残っている。
 もう3ヶ月以上会っていない。父が嫌な顔をするからだ。
「あらあら、ずいぶん丁寧な子達ね。はじめまして、Kの母親です」
 頭をあげて、俺は目を見開いた。
 癖のある長い髪。夢でみた、女の人によく似ている気がする。夢では顔は見えなかったけれど。
 それ以上に俺が驚いたのは、Kさんの母親が俺の母よりは10歳、下手をすると15歳以上は上だろうと一目でわかったからだ。何歳ぐらいなのだろう。失礼だろうけど、しわの多い、くたびれたように見える顔は俺の母に比べてずいぶんと老けて見えた。
 その辺りもあって、Kさんは『ばばあ』なんて呼ぶのだろうか。
 どうぞ、と麦茶を出したKさんの母親が広げられたアルバムに目を止める。
「いやだ、何てもの見てるの。恥ずかしいじゃない」
 手早く座卓の上のアルバムを片づけて、麦茶が出される。
「どうぞ、ゆくっりしていって」
「いえ、もうお暇しますので」
「あらそう?お昼が近いものね。おうちの方が心配するかしら」
「はい」
 そう、と言ってKさんの母親はアルバムを持って部屋を出て行った。せっかく出してくれた麦茶に全く口をつけないのも失礼かなと思って手を伸ばすと、
「飲むな」
と姉に短く制止された。姉は厳しい顔をしている。
「箱」
「あ?」
「箱を寄こせ」
「あ、あぁ」
 持ってきた布のバッグに手早く三つの箱を入れると、姉は立ち上がった。
「なんだよ。お前、何にもしてねーじゃねーか」
「K」
 引き留めたKさんに姉は、
「お前は間違いなく母親に愛されている」
「は?なんだよいきなり」
「神社に行って、Eさんにかけた言葉を謝罪しろ。お前にできることは、もうそれだけだ」
 それだけを行って姉は部屋を出ていく。
「おい!!」
 Kさんの怒りに満ちた声にも振り返らない。俺も姉に続いて部屋を後にした。Kさんは追いかけては来なかった。
 そのままKさんの家を出る。家の人への帰りの挨拶は珍しいことにしなかった。
 外に出ると眩しい日差しが照って、部屋の中との明るさの違いにくらくらとめまいがした。
「いしをつめ」
 姉が何事がを呟いた。
「いしをつめいしをつめいしをつめ」
 低く小さな呟きだった。
「行くぞ」
 Kさんの家への訪問はそんな風に終わった。
 帰り際に振り返ると、2階の窓からKさんが俺達を睨み見下ろしていた。
 姉は振り返らなかった。


 それからちょうど1週間後。月曜日の早朝、姉は親が起きるより早く一度外に出て、すぐに部屋に戻ってきた。時計をみるとまだ五時半だ。
 ドアが開く音で目を覚ました俺は、何事かと部屋から姉の様子をうかがった。
 階段を昇って来た姉の手には、何か数枚の紙が握られていた。
「どうしたの?」
「お手紙。見るか?」
 封筒にも入っていない紙をひらひらとさせて、姉はあの暗い笑みを浮かべた。
 目が笑っていない。何かを嘲るような、諦めるような、怒っているような、それらが混ざった表現しがたい表情で姉は言った。
「見る」
 俺達は姉の部屋でソレを見る事にした。
 姉は部屋に鍵をかけて、床にソレを広げた。わら半紙だろうか。乱雑に書き殴られた、大きさのまとまらない字が目に入ってきた。


せっかく遠いばしょにきたのに、あの子はしにました。だれも私のいえをしらないのに。私の腕にはあの子の重さと、まだ温かい体が冷たくなっていく感触がのこりました。わすれられない。わすれられない。わすれられないんです。あの子をどうするつもりですか。どうするつもりだ!!わたさないからお前たちよけいな女は近づかないでください。大事なあの子はここにいます。あの子はわたしのそばにいます。しんでしまったけど、ずっといっしょ。わたしの大事なあの子はずうっといっしょ。はなれたりしないの。だからわたしたちはしあわせ。じゃまをするな!!はなれることはないの。だれもわたしたちをひきはなすことはできないの。わたし達ははこのなか。しあわせしあわせしあわせしあわせしあわせでたまらない。

きえろ


 クレヨンを使ったのだろうか。何枚かの紙にそろわない大きさの字でめちゃくちゃに書かれたソレは、見ているだけで目が回りそうなものだった。
 最後の1枚だけ、ボールペンの綺麗な字で『きえろ』と一言書かれて終わっている。
 意味がわからなかった。怪文書としか言いようがない。これが家のポストに入っていたのだろうか。気持ち悪くて全身に鳥肌が立つ。
 姉は部屋に置いていた布バッグを引き寄せて中を確認した。黒く焦げた3つの箱はいまだにそこにあった。
「どうするの?」
「どうにかするのはKであって、本当は私じゃない。それでも・・・・・・」
 それでも、の続きは語られなかった。
 姉は紙をひとまとめにすると、ぐしゃぐしゃと一つに丸めてゴミ箱へ放り投げた。
 一階から朝ご飯を告げる母の声が聞こえる。そんなに時間が経っていたのかと驚いて時計を見ると、いつの間にか七時になっているた。完全に時間の感覚がおかしくなっている。
「食事をしたらコノミのところに行く。解決は、たぶんしないんだろうが。Eさんのことだけでも何とかしないと」
 着替えをするからと姉の部屋を追い出された。
 Kさんに付きまとっているという、鳥の声を出す女生徒。Eさんには会ったことも無い。どうにかできるのだろうか。
 早く降りてきなさーいという日常でしかない母の声が、今は異物のようだった。


 コノミさんはいつも会う公園に佇んでいた。
「ね、無駄だったでしょう?」
 開口一番、コノミさんは姉に向かってそんな風に語りかけた。
「手を貸そうとしても、私達の手を跳ねのける人がほとんど。わからない、見えない、聞きたくない。だから自分では何もしない。ゆきちゃんの親切は、差し伸べなくても良い手を伸ばして、振り払われに行ってるようなものだよ」
「いなほをたらすかた しろきじゅうしんのあるじに おねがいもうしあげる」
「・・・・・・・・・・・・」
「みゃくみゃくとちにつがれるはこを こにたまわりたく はこのこえにふれたものにおじひをたまわりたく ささげものにこの」
「やめて」
 コノミさんが遮った。
「そんなことをしなくても、ゆきちゃんのお願いならきいてあげる。友達だから。ゆきちゃんは、私の友達だから」
「助かる。ありがとう」
「Eさんは可哀想だから、少しだけ手を貸してあげる。好きになった人が、危ない目に合いそうだから助けようとしただけなのにね。近づいたから、拒絶されて障りまで与えられて。それでも、助けようと伝えようとしてたのに。だから忘れさせてあげる。最初からEさんはあの子を知らなかった。だから血の障りも、箱の声も届かない。Eさんには何も起こらなかった。私が手を貸すのはそこまで。悪い子のことは知らない。だってもう遅いもの」
「遅いか」
「無自覚に振りまいた悪意が、悪い子の道を決めただけ。あの子が産まれてから、今までの報いを受けるだけ。大事なものを大事にできなかった、身勝手で悪い子。悪い子は取り換えられても仕方ないよね」
 コノミさんは夢の事を何も知らないはずだ。なのにあの女の人が言った、『悪い子はとりかえっこしましょうね』という言葉を知っているかのようだった。
 コノミさんが俺を見る。
「神様は夢を渡るんだよ」
 心の中を見られている、そんな気がした。
 ざわざわと風が吹いた。
 コノミさんが空中を撫でるように手を動かす。
「行って」
 一際強く風が吹いて、砂埃が入りそうで目をつぶった。風が止み、目を開いた時には姉の手の中に綺麗な箱があった。Kさんの家で見た写真に映っていた、女の子が持っていた組木細工の箱だった。
「すごいな」
「すごくないよ。私の家もあの女の人と似たようなモノだもの。近しいモノなら簡単。少しあっちが弱かった、それだけ」
 姉のコノミさんのやり取りはわからない事だらけだった。
「貴重なモノが手に入った。礼をいう」
 姉は鞄から白い布を取り出すと、組木細工の箱を丁寧に包んで、また鞄へとしまった。
「そんなものでもゆきちゃんの役に立つなら何よりだよ。私ちょっと疲れたから家に帰る。お礼に送ってくれる?」
「そんなことで良ければ、いくらでも」
「遅刻するかもよ」
「まだ早いからコノミを送っても遅刻しない。それに1回遅刻したせいで目くじらを立てられるような生活を、私もとうまもしてないから問題ない」
「ゆきちゃん達真面目だから」
 コノミさんが笑った。
 人形のようなコノミさんが、初めて人間に見えた。
 そこにいるのは、ただの姉の友達の一人だった。友人同士が笑いあう、普通の光景が広がっていた。 


 神社に向かうような、ちょっと木立の中の小道の先にコノミさんの家はあった。
 木々の薄暗がりを抜けた先にぽかりと、急な明るさにめまいがする。
「じゃあね、弟くん」
 何事もなかった様にあっさりと、コノミさんは自宅へと帰っていく。ごく近場に並んだ、えらく古めかしいが大きな家と近代的な二階建てのこじんまりとした住宅。
 その新しい方の家へ入っていく後姿を見送って、俺も帰ろうかと踵を返しかけた時、何か変なモノが視界に入った気がして俺は足を止めた。
 何が意識に引っかかったのかわからず、しばらくきょろきょろと辺りを見渡す。
 家が二軒とその周囲に小さめの畑。50mくらい離れているだろうか、しばらく先に他の住宅が数軒並んで建っている。
 あっち側にも道があるのにわざわざコノミさんは木立の細い道を通ってきたのかと不思議に思ったが、数軒並んだ家の前に敷かれた舗装された道は、ここまで届く事無く途中で不自然にふつりと切れていた。
 切れた道から先は、こちらに向かってかろうじて細い砂利道が通っていたが、その両脇は雑草が茂っていて、手入れがされている感じではなかった。
 道があるのに、途切れている。
 なんだか不思議な場所だった。
 だが、俺の視界をよぎった変なモノはたぶんあの道じゃない。
 再びゆっくりと辺りを見渡した時だった。背中にじっとりとした視線のようなものを感じ、背筋に鳥肌がたつ。
 ゆっくりと振り返ると、古めかしい家の戸口が、人1人分ぐらいの隙間を開けていた。
 戸口の先は暗い。時代に取り残されたような藁ぶき屋根と色の煤けた木でできた、今にも崩れそうな、かつては立派であった気配を感じさせる家。
 真っ暗に見えた戸口に、何か動くモノがあった。
 顔が、覗いていた。
 K君のお母さんの顔。ただし夢で見たのと同じように、目玉が入るべき場所には真っ黒な穴が開き、そこから黒い液体を流していた。唇をつりあげて笑う異様な顔が、首から先だけ薄ぼんやりと浮かんでいる。
 おぞましい。
 見ている。
 見られている。

「見るな」

 姉の声がして、手の平で目元を覆われた瞬間、

「『ぎゃんっ!!!』」

と激しい悲鳴のような音がした。
 姉の手がどけられたその先、古い家の戸口は先ほど見たのが夢か幻だったかのように何事も無く閉じていた。
 俺は何を見たのだろう。
 何を聞いたのだろう。
 覆われた視界のその先で、姉はあの暗がりにナニを見たのだろう。
 ぽつりと他から切り離されたような二軒の家に、言いようの不安がこみ上げた。
「姉ちゃん、ここってなに?」
 漠然とした問いかけだったと思う。
 けれどそれには、きっぱりとした答えがあった。

「両方とも、コノミの家だよ」

 眼窩の真っ暗な女の笑う顔を思い出す。
 ここが両方ともコノミさんの家だと言うなら、アレはなんだっだのだろう。
「神様をお祀りしているのに人から妬まれて、違うモノとして伝えられてしまった、悲しい場所だよ」
 さて、と
「最後はKの家か」
 Kさんは姉の忠告を聞いたのだろうか。たぶん、姉とコノミさんの口ぶりから考えるに聞かなかったのだろう。
 だとしたら、今どうなっているのか。
 すっかり夏空に変わってきた空の下を歩く。姉にはすでに結果がわかっているようだった。
 やがてKさんの家に辿り着く。
 工事は終わったのか、あの日見た足場は全て片づけられ無くなっていた。
 かわりに異様なものが目に入った。
 全ての窓に、防犯を意識した格子というにはあまりにも仰々しい、鉄格子と言えるようなものが取り付けられていた。
 1階の窓にも、2階の窓にも。
 空気を通すためか窓は開いていたが、開放感はまるで感じず、ひたすらに威圧するような圧迫感があった。
 2階の窓に、ちらりと人影が映る。
 Kさんだった。ぼんやりとこちらを見て、指を吸っている。まるで幼い赤子のような表情で。
 その後ろからKさんの母親が近づいてきて、ゆっくりと背後からKさんを抱きしめた。
 大事なものを守るように、慈しむように。
「R君ご飯食べようか」
 風に乗って小さく声が聞こえる。
 Kさんはこくりと頷くと窓の奥へと引っ込んで行き、ついには誰も見えなくなった。
「家もまた、1つの箱か」
 姉はKさんが消えた窓を眺めていた。
 それっきり、Kさんの姿を見かけることは無くなった。
 ただの一度も。

 その日の夕方のことだ。
 昼の陽気とは打って変わって、雨の振り出しそうな重たい雲の下、俺と姉は帰路に着いていた。
 空を何度も稲光が走る。
 ゴロゴロという音のしない、不思議な稲妻。
 自宅が見えて、その傍に誰かが立っているのが遠くから伺い知れた。
 近づくに連れ、父親であることがわかった。ただ立っている。何をしているのだろう。少なくとも、

俺達の帰宅中の天気を心配して出てきたわけではないだろう。
いよいよ家の前に差し掛かり、
「ただいま・・・・・・」
と一応声をかけてみる。が、父の目は姉に一心に注がれていた。
一分か、二分か、家先で俺達は立ち尽くしたままだった。
やがて目の前で父の口が笑みに歪んだ。
「『かーんど、かんどー、かんでん、かんでん』」

その声と言葉に俺は恐怖した。ビデオテープの音を無理やり引き延ばしたような、ザラついて不快な、『赤い鬼』の声。
 
それは姉がまだ小学生の時に俺が聞いた、姉には伝えていない鬼の言葉だった。
父の口から、喉から、鬼の声が聞こえた。
それだけを言うと、父はぼんやりとした様子で家の中へ入っていった。
家もまた1つの箱だというなら、ここは鬼の箱の中なのだろうか。
姉は無表情に家を眺めていた。何を考えているかはまるで分からない、温度の無い眼差しで。  


先日の話だ。
久しぶりに実家へ寄る機会があったので、ついでにKさんの家まで足を伸ばした。
今はどうなっているのか、遠目でいいから確認したかった。
だが、そこに家はもうなかった。
がらんどうの空地。売り地の錆びた看板が、ぽつんと置かれている。
あの日の光景が頭をよぎる。鉄格子の向こうで、ほうけた顔で親指を吸っていたKさんの姿が。
もはや二度と会うこともないだのだろう。
境界を越えてしまった人達は何処へ行くのだろうか。
暗がりの境界線を歩く、あの日の姉が頭の中で笑う。

しあわせでたまらない。
ぐちゃぐちゃに描かれたクレヨンの文字。

人の幸せの形はそれぞれで、分かりやすい不幸の形とは違い他者が本当の意味で理解することはできないのかもしれない。
 
鬼の形をした不幸、それならあの頃の姉の幸せはなんだったのだろう。
鬼の姿がちらちらと。
境界線はどこまでも続いていた。

それはまた、別の話で。









「とうま◆xnLOzMnQ」 2021/08/12

俺には4つ年上の姉がいる。
暗がりの世界を覗き込み、薄く笑ってその淵に佇む。
祀られたモノ、家に棲むナニか。
古い庭の片隅、ぽつりと存在する家守神の鳥居の奥からするする伸びた、女の手。
きゃはきゃはと耳障りな、かすれて甲高い子供の声。
鬼のいる場所は一つではない。

姉が中学に入ってから、初夏の話である。


祖父母の家から新居に移ってだいぶ時間が経ってから知った事だが、引っ越しの理由とそれにまつわる父の素行は、悲しい事に田舎ゆえの遠慮の無さで当時かなりの早さで親達の間で広がったらしかった。
わかっていた事だが、父は世間からの自分の評判に対して大いに荒れた。
深酒をして世間への恨みを暴言でもって挙げ連ね、それは時折2階の子供部屋まで響いたらしい。
らしいという曖昧な表現になるのは、不思議なことに俺の記憶には父の罵声などほとんど残っていないからだ。子供ゆえの恐怖心で忘れてしまったのかとも考えたが、当時の事を姉に問うと、

「あんたは『赤い鬼』の外側にいた。奴等の邪魔者は増えないにこした事は無かったんだろう。鬼にとってはあんたも目障りな『とや』にかわりはない」

と、興味なさげに呟くだけだった。
俺にはわからなくとも赤い鬼はあの時も確かにいて、家族の中を荒らしまわっていたのだと思うと今でも酷く悲しい気分になる。
あの頃、姉の目には赤い鬼達がどう視えていたのだろう。



ともかく、親が白い目で見れば子供もそれに習うもの。
姉と小学校での友人は引っ越しを起点にずいぶん疎遠になっていた。
結局中学に上がって以降、小学校の時に友人だった人達の名前を、俺は一度も姉の口から聞くことはなかった。
代わりに姉は中学に入ってしばらくして、新しく親友と呼べる人を2人得たようだった。
同学年の恵さんとコノミさん。
二人ともたまに家に遊びに来ることがあったし、逆に姉が遊びに行くこともあったようだ。
恵さんはわりといいところのお嬢さんらしく、おっとりとした雰囲気の優しげな人だった。会社の社長さんの娘さんで、恵さんの弟は俺が転校したの小学校で同じクラスになった活発な少年だった。
俺も恵さんの弟のT君とはわりと早く仲良くなり、一緒に遊ぶことも多かった。
穏やかな風貌の恵さんに対して、コノミさんは当時小学生の俺でもわかるような大人びた雰囲気のすごい美人だった。
人を寄せ付けない雰囲気で、黙っていれば高校生に見えるぐらい落ち着いていた。俺にはとても優しい人だったが、町での評判はあまり良くなかった。
大学生ぐらいの男の車に乗って、頻繁に夜まで帰らずに遊びまわっている不良娘。
お嬢さんと素行不良少女。
この正反対とも言える二人が、中学生の3年間、姉と長く時を過ごす事になる。


一方で父と姉の仲はいよいよ険悪になっていた。
新居に引っ越して2階に1人部屋を得た事も大きかっただろう。姉は家にいる時間のほとんどを自室で過ごし、そうでなければ町の図書館でいつも調べ物をしているようだった。
中学生が読むには分厚すぎる古い本を何冊も借りては読みふけっていた。
調べ物以外の時間は、父の外出している時間を見計らって恵さんの方が家に遊びに来ることが多く、逆にコノミさんとは外で会っている姿をよく見かけた。
もっとも父は世間に対しては極めて『普通』の父親の姿像をしていたから、恵さんと鉢合わせることがあっても愛想よく振る舞っていたそうだった。
『これ以上悪評がたっても困るって、流石にあの人がいくら馬鹿だってわかるさ』と、二階の子供部屋で姉は皮肉げに笑んでいた。


「姉ちゃん、さすがにお父さんが怒るよ」
「あの人はもう、いつでも怒ってるよ。それ以外は欲と恨みしか無いんだよ」


それはもはや中学生が浮かべる表情ではなく、父親というよりは嫌悪する他人に向ける何処か遠い言葉だった。
姉の言葉はいつも難しく、俺にはわからないことばかりだった。
大人になった今でも、あの日の姉を理解できているとは思っていない。


その頃、俺は俺で一つの悩みを抱えていた。
学校に行くと、ある特定の条件の時に嫌な音がするのだ。
最初ソレが聞こえた時は、何の音だろうと一瞬首をかしげて、けれどキャッチボールの最中だったからすぐに意識の外に行き、そのまま忘れてしまった。
音は、最初は遠かったのだ。
それがだんだん近づいてきた。
それは多分足音で、しかも徐々に数を増やしている気がした。
ひた、ぐちゃ、ひた、にちゃ、ひたひた、びちゃっ。
足音というのはあまりに気色の悪い、何かでぐっしょりと濡れたモノが徐々に距離を詰めてくる。
決まって、それはT君と二人きりの時。もっと酷いのは、恵さんが小学校へT君を迎えに来た時だった。
「こんにちは、とうま君。いつもTと一緒に遊んでくれてありがとうね」
「姉ちゃんうっせー!恥ずかしいから迎えとか来んなよ!!」
「Tが道草ばっかりして遅くまで帰ってこないから、家族がみんな心配するんでしょう?嫌だったら早く帰ってきなさい」
何気ない姉弟のやり取りの中、ソレは俺達の周りを取り囲んでぐるぐる、にちゃ、びたびたと歩きまわっていた。
ソレが聞こえているのは当然俺だけで、その音がやってくる度に、俺は急に世界と自分とがズレたような酷い恐怖心に襲われた。俺は姉のようにナニかに対して対処ができるわけではない。
この音が自分に襲いかかってきたら自分はどうなるのかという想像は、吐き気がするほど嫌な感覚だった。胸の奥がずんっと何か黒い暗いもので押しつぶされるような、そんな錯覚すら覚えた。
もしかして姉はいつもこんな恐ろしい世界に一人でいるのかと、ようやく俺は人でないモノの世界のごく片隅に触れ、ともすればあがりそうになる悲鳴を飲み込んんだ。
早く帰ってくれと、その時ばかりはT君を疎ましく思った気がする。
怖くて、恐くて、たまらなかった。
けれどごく普通の状況のはずのT君は、いつも妙に家に帰るのを渋るのだった。

「じゃあまたね、とうま君」

穏やかに微笑まれて、俺は我に返った。何分経ったのだろう。時間の感覚はまるで無かった。
恵さんとT君が家へと帰っていく。
明るい夕日の中、二人について遠ざかる足音が耳について離れなかった。


それでも俺は学校を休むことなく、こりずにT君と仲良く遊んでいた。
いいヤツなのだ。あの音さえなければ、一番の友達と言ってもいい。転校して緊張している俺に、一番に声をかけてくれた。
クラスでも人気者で、明るくて、一緒にいてすごく楽しい。
そんな友達を自分だけに聞こえる気味の悪い足音で疎むのは、酷い裏切りをしているように思えた。
そのうち音は消えるかもしれない。俺の気のせいかもしれない。
姉ちゃんにこれ以上、変なことに関わってほしくない。
何度も耐えて、しかし足音が消えないどころか増え続ける事に、俺はうまれて初めてこれが絶望感というものだろうかと考えていた。
どうしたらいいのか、もうわからなかった。
学校近くの公園でぼんやりと一人で過ごしていると、

「ねぇ、ゆきちゃんの弟くん」

背後から不意に声をかけられ、俺は飛び上がるほど驚いた。
振り返るとそこにいたのは、コノミさんだった。暑さの厳しい日だったのに汗の一つもかかず、セーラー服をまとって一人佇んでいる。
日に焼けない白い肌は気の滅入っている今の俺には、そんなはずはなくともいっそ人でないのモノのように感じられた。
「こんにちは、コノミさん。姉ちゃんは一緒じゃないんですか?」
挨拶をする気分ではなかったが、俺は無理やりにでも笑顔を作った。
長いまつげ、黒く長い髪。黒い瞳が俺をじっと見つめている。表情をなくすとこの人は本当に綺麗な人形みたいだと場違いな事を思っていたが、続いた言葉に俺は体を強張らせた。

「ソレ、ゆきちゃんに相談しないの?」

白い指が、俺の座った場所から少し離れたところを指している。
俺には何も視えない。
コノミさんには何か視えているのか。


「ソレ、放っておいていいものじゃないよ。友達思いもえらいけど、つかまっちゃうよ」


「なに・・・・・・なにか」
いるんですかと聞こうとして、それは俺を呼ぶ声に遮られた。
「おーい、とうま!なんで帰るんだよ、探したぞ!」
駆け寄ってくるT君の姿に、どうして今なのかと神様を恨みたい気分になった。
ずるっ、ぐちゃ、にちゃ、ぎちゅぐじゅ、べたっべたっ。
足音が、今は何人分になったのだろう。 

「弟くん、これあげる。はやく相談するんだよ。アレは私じゃ無理だから」

コノミさんが何かを手に握らせた。瞬間、足音が嘘のようにかき消えた。
「じゃあね」
とT君が着くより先に身をひるがえして、コノミさんは何処かへ行ってしまった。
握った手を開くと、白い紙を袋状に折り畳んだ中に何かの粒が入っているらしい、不思議なものがあった。
白い紙袋を慌ててポケットに隠す。何故かそれがT君に見つかってはいけない気がした。
汗をかきながら笑顔で駆け寄ってきたのは、ずいぶん久しぶりに感じられる、ごく『普通』のT君だった。
普通のありがたさに、怖いもののいない世界に、俺は泣きそうになった。
けれど、
「相談があるんだ、内緒の。お前の姉ちゃんて幽霊とかみえるんだろ。なあ、困ってるんだよ。なんとかしてほしいんだ」
「え?」
T君が口にした言葉の内容に、俺は再び恐怖の底へ突き落とされる事になった。
俺が姉の事に関して何を言ったとしても、T君は相談を止める気はなかったに違いない。
T君の顔色にも、恐怖と憔悴の色が見て取れた。
「助けてくれよ。姉ちゃんが、時々婆ちゃん達になるんだ。青黒い鬼の婆ちゃん達に」
ぐらりと足元が揺らいで目眩がした。


『境界なんか、本当は無いんだ』

いつか聞いた姉の言葉が、耳元で響いた気がした。



相談は姉と俺とT君の三人で、図書館の勉強室を借りて行うことになった。
小さい一室ではあるが音漏れも無いし、誰かに話を聞かれる事もないだろうと姉が選んだ場所だった。小学生に中学生が勉強を教えている体で、机の上には適当に教科書が広げられている。

「それで?誰から私の事を知った?教えられた?吹き込まれた?」

威圧するように、姉はT君を睨みつけた。
外向きには優等生の皮をかぶって行動している姉が最初から攻撃的な姿勢を見せるのは珍しい。
萎縮したT君はうつむいて半ズボンの裾を握りしめたまま、黙りこくってしまった。
しばし待っていると、

「町でとうまとお姉さんが歩いているのを見たことがあって、そしたら姉ちゃんが家の外なのに婆ちゃん達になって・・・・・・『アレはヨソの所のだから近づくんじゃないよ?ヨソのは盗っちゃいけないからねえ?あぁ、アレは駄目。おぞましいモノだ。ヨソの視える子は嫌いだよ』って言ったんだ。婆ちゃん達は家の中でしか出てこないと思ってたのに」
「へえ?」

俺はT君の言葉に絶句し、逆に姉は楽しげに笑った。

「『青黒い鬼の婆ちゃん達になる』・・・・・・ねぇ?変なモノが言ってた事を信じて、その言いつけに逆らってまで私のところへ来ていいのか?本当は恵が私の事を嫌いで、ただのでまかせや悪口を言ったとか考えなかったのか?」
「考えなかった。婆ちゃん達はほんとの事しか言わないんだ。婆ちゃん達が言った事は良い事でも悪い事でも絶対に当たるんだ」
「ふーん?その婆ちゃん達に嫌われてる私に相談していいのか?今よりもっとずっと怖いことになるかもしれないぞ?」

ニヤニヤとわざと悪意があるかのように意地が悪い表情で、姉は嗤い続けた。実際に文言としてはT君を脅している。
もっとずっと怖いこと。具体的に何がどうなると言うわけではなく、ただ不安を煽る。


「姉ちゃんが、いつか婆ちゃん達と同じモノになるのが嫌なんだ!ウチでは普通だってお父さんもお母さんも言うけど、あんな化け物になるなんて絶対に普通じゃない!婆ちゃんだって死ぬまではあんなに優しかったのに!化け物になるのが幸せなんておかしいよ!!」


いつしかT君は泣いていた。
『姉ちゃんごめん、何にもできなくてごめん、怖くてごめん』と繰り返し謝りながら。
T君は恵さんが大事で、とてつもなく心配なのだろう。
わけのわからないモノに家族を脅かされる怖さは、俺にも覚えのあることだった。
できることなら助けてあげてほしい。でも危険なことには関わってほしくない。相反する感情が言葉にならずにただ沈黙になる。
部屋が重苦しい空気に潰されそうになった瞬間、ぱんっと姉が手を叩いた。

「化け物になる、か。いいだろう。興味がわいた。手を貸さないでもない」
「助けてくれるの?」
「何をもって助かるというかは、私にはわからないな。できることはするが、手に負えるかはわからない。だが、恵が『青い鬼』にはならないようにしてやる」

それでいいか?とハンカチでT君の涙を拭ってやって、その日姉は初めての優しさらしきものを見せた。
T君はひどく安心した様子で、また泣き出してしまった。
誰にも言えなかったのだろう。
小学生が一人で抱える不安はどれほどのものだっただろう。

「よく頑張ったな」

T君を撫でる手が優しげであるほど、俺は悲しくなった。
どうして姉には助けてくれる人がいないのだろう。
姉もまた、赤い鬼と独りで戦っている事に変わりはないのに。。


そこからはT君の家の詳しい事情を聞くことになった。
拙いながらもT君は一生懸命自分の知っている範囲の事を伝えようと努力していた。
T君の家には庭の片隅に代々神様を祀っている小さな鳥居があるらしい。
鳥居だけで祠はない。社も無い。けれどその古ぼけた鳥居は丁重に敬われて、ずっと大事にされている。
しめ縄は無く、紙垂のみが鳥居の前部分に下げられている。

「前だけ?四方では無く?」

姉は俺達にはわからない不思議な質問をした。

「前だけです。1ヶ月に1回は必ず取り替えて、あとは急に汚れてた時とかに姉ちゃんが交換する。前はお母さんがやってた」

商売繁盛の家守神様と教えられ家族みんなが敬っていたが、T君のお婆さんだけは生前その鳥居を非常に恐れていたそうだ。
鳥居には近づかなかったし、みんなでやるお参りもしなかった。T君のお爺さんは寝たきりになるまでそんなお婆さんを責めたが、よそから嫁いできたお婆さんは頑として譲らなかったそうだ。
どうもお婆さんは視える人だったらしく、T君もお婆さんといる時に一度だけ異様なモノを見たという。
鳥居の奥、草むらの暗がりからお婆さんへと伸びた、青黒い肌色をした異様に長い女の腕。
腕はお婆さんを掴みそこなって、またするすると鳥居の奥へと戻って行った。
キャハァ、アハハという甲高い子供のような声と共に。
鬼ごっこで遊びながら相手を捕まえるのに失敗した時のような、無邪気だが不快に高い声だったそうだ。
それから、T君は家に神様の部屋があると言った。
普段は掃除以外には入ることは無く、閉められている、飾り気の無い六畳間。入る時には膝をついて礼をしてから、出る時も同じように礼をしてから。
神棚もなく、鳥居もなく、紙垂も、しめ縄も無い、ただの部屋に礼節をつくしている。
この部屋がまっとうに使われるのは、家の女性が死ぬ少し前。死後安らかに過ごせるようにと神様の部屋で手厚く介護され、それは亡くなる時まで続く。
無論お婆さんもその部屋で介護されて亡くなったが、最後の最後まで脱走癖が抜けなかったらしい。
お婆さんは病気で体を壊して寝付いた頃に呆けてしまい、わけのわからないことばかりを言って神様の部屋から抜け出しては徘徊し連れ戻されていたが、T君はあの時お婆さんが口にしていたのは本当に視えていたものを嫌がっていたんじゃないかと、今では思っているそうだ。

「怖いよう、怖いよう。ぶよぶよの女が私を囲んで見てる。腕がたくさん伸びて私を触ってるのよ。あぁ、助けて助けて、ここから出して。ここは嫌、いやいやいやいやーっ」

お婆さんはやがて老衰で亡くなった。やつれ細って生前の面影は無く、死んだ肌色はいつか見た鳥居から伸びた腕の青黒い色によく似ていた。
神様の部屋で葬儀は執り行われ、その時だけ何処から出してきたのか仏壇があったことをT君は不思議に思ったそうだ。
火葬場で焼かれ、骨になった祖母は、何故か2つの骨壷に入れられて仏壇の亡くなった神様の部屋の中央に安置された。1週間か2週間か、正確には覚えていないがいくらかの時間が過ぎ、大きな骨壷はお墓へおさめられ、小さな骨壷は何処へ行ったのかT君にはわからないままになった。

「そうして少し経って、家の中で姉ちゃんが婆ちゃん達になるようになったんだ」

ある日恵さんがお婆さんの声で喋った。


『N家はもう駄目。商売は切りなさい』
『S家は社長が死ぬから息子はもう駄目。切りなさい』
『K家はウチの水がいいから言うことをきくでしょう』


「予知・・・・・・託宣か、あるとこにはあるもんだな」
姉は感心したように言った。
声は最初のうちこそお婆さんのものだったが、だんだんといろんな女の声の輪唱のようになったそうだ。子供、若い、女、老婆。様々に。
両親はこれを喜び、恵さんに綺麗な着物を着せ、神様の部屋に祀った。
恵さんはしばらく戻らなくなった。T君は異常事態に夜中こっそりと言いつけを守らずに、礼もせずに神様の部屋に入って、恵さんを引っ張り出した。
恵さんは半分だけ元に戻り正気の時と、青黒い鬼のような姿のお婆さん達が恵さんの体に重なって視えるような、おかしな状態の時が交互になってしまったそうだ。
それから時折、濡れた足音がT君の周囲をぐるぐると責め立てるように歩く音がきこえるようになった。

「その青黒い鬼はどういう風に視えるんだ」
「顔はその時その時で違って角みたいなのがあるんだ。髪の毛とかも長かったり短かったりするけど、なんかずぶ濡れになったみたいな感じ。あと、腕が長い。時々腕の数が多くて、足のほうに近づくと暗くなって影みたいな感じになる。足元は真っ黒」
「首から下、腹とか、腰とかは?」
「全部姉ちゃんに視える」
「へえ?すごいな。本当に化け物じゃないか」

楽しそうにいうところではないと文句を言いかけたが、姉の目がいつになく爛々としていて俺は若干の戦慄を覚え、黙ってしまった。
もとよりこういった現象に俺が何かできるわけではない。ただ物事を聞き、事態がどう収まるかを傍観するしかないのだ。
「まぁ、構造は大体わかったよ。何とかなるだろう」
「今のでわかったの!?」
俺達は驚愕した。姉は頷くと、
「あとは現物を見ないと何とも言えないが、ご両親と恵のいない日に遊びに行かせてもらおうか。ちょうどいい日、わかるか?」
こともなげに言った。
T君は未だ半信半疑といった感じだったが、
「お父さんとお母さんは仕事で大体六時半までは帰ってこないし、土曜日は姉ちゃんピアノの稽古があるから四時ぐらいから六時ぐらいまではいない」
「じゃあ明後日だな」
話疲れたというように、椅子の上でうんと両手を伸ばして、密かに姉が呟いた言葉を聞いてしまったのは不幸な偶然だったのだろうか。


「赤い鬼の前に、青い鬼と対峙するのも悪くない」


暗く、深く、どこか楽しげな、聞く者が不安になるような声で唄うように囁いた。



約束の土曜日はすぐに訪れた。
姉はそれまでに自由になる時間の全てを使い、図書館と郷土資料館で何かを調べていた。
図書館でコピーしてもらった町の地図と、郷土資料館にあった古い地図を見比べて何かしていることだけはかろうじて理解できたが、相変わらずそれが何のためなのか俺にはさっぱりわからなかった。
それよりも、

「今回は危ないしちょっと面倒だから、これが片付くまで一緒にいな」

と珍しくも姉の側にいることを許された事の方が意外だった。
いつもなら『おとなしくしてろ、お前は対処できないんだから』と、蚊帳の外に放り出そうとするのに。それでも俺は結局何だかんだと過ごしているうちに、巻き込まれてナニカを目撃してきたわけだが。
この、『完全に部外者になれない』体質のようなものに関してだけは、姉は俺に対して頭を抱えていた。
霊感の類は無いはずの俺が、今回は姉の側にいなくとも濡れた足音という視えないナニカに一人で行き遭ってしまったから、余計に用心したのかもしれない。
今回の件で手を貸すにあたって、姉はT君に一つだけ注文をつけていた。

「土曜日は自分が持ってるお金を全部を持ってくるんだ。何円でもかまわないけど、絶対に一円もごまかさないこと。それを2つの白い封筒に入れて来ること」

聞く人が聞けばカツアゲである。
今までにこういったヒトでないモノが関わった件で、姉が金銭がからむ発言をした試しがなかったので、俺はぎょっとした。
T君はしばらく迷っていたが、最終的には頷いた。大人に許可をもらわずに持っている金銭を全て使うなど、後で怒られるかもしれない事を考えれば小学生の俺達には十分に怖いことだった。
それでもT君は頷いた。姉を信じるしかなかったからだろうか。


土曜日、姉が集合時間に指定したのは午後一時の事だった。
T君の家に行く前にいくらかやる事があると説明されていた。
図書館での待ち合わせに、T君は俺達より早く到着していた。緊張した面持ちで、俺達を待ち構えていた。
「お金は?」
「ちゃんと2つにして全部持ってきたよ」
「よし、えらいぞ」
持っているバッグにそれがはいっているのだろう。握りしめる手は力が入りすぎて白くなりかけていた。
姉は緊張を和らげるようにぽんぽんとT君の頭を撫でた。

「じゃあ行くか」
姉は大きめのボストンバッグを肩にかけ、俺達を誘った。
姉の案内で、俺達は町内の知らない道をしばらく歩くことになった。裏道、抜け道、そんな言葉が似合う、人通りの少ない場所ばかりを選んで姉は先を進んでゆく。
こんな場所に道があったのかというような藪の中の舗装されてない道を抜けると、小さな川のほとりに出た。
ぐるぐると20分も歩いたような気がした。
川は小さいが水が澄んでいて、ごく近場に小さな社があった。古びてはいるが大事にされている佇まいで、小さいが賽銭箱もあった。
「お賽銭を入れて、手をあわせて祈って。とうま、あんたもだよ」
具体的に何をお祈りしろという指示はなかった。
柏手は打たずに、ただ静かにお参りする。T君はことさら熱心に何かを祈っていた。
姉の無事か、青い鬼からの解放か、怪奇現象の収束か、あるいはその全てか。
T君の内心を知ることはできないが、必死さは見ているだけで伝わってくるものがあった。

「つぎ」

短く告げて、姉はまた歩き出した。
またうねうねとしばらく歩くと、わびしい景色の場所から普通の町中に出て、一軒の家の前でぴたりと足を止めた。

「T君。T君の家の水がいいって鬼が言ってたK家ってここ?」
「そうだけど」

なんでわかったんだと言いたげに、T君は目を見開いた。
「ふーん」
興味なさげに相槌をうつと、姉はK家に少しだけ近づいた。そのまま門扉の前で、地面に踵をつけた状態でたん、たんと右足を二回踏み鳴らす。
すると何かすうっと冷たいものが、背中から体を抜けて前へと抜けていった感覚がした。
嫌な感じはまるでしない。むしろさっきお参りした川の祠のすぐ側の心地よい涼しさに似ていた。妙に重かった体が軽くなったような気がする。

「行くよ」

短く言って、姉はまた歩き出した。
今度はわりとすぐに俺達にも目的地がわかった。町で一番大きな神社だ。
といってもお祭りの時以外は閉じられていて、宮司さんだか神主さんだかもいないはずだった。
何をしに行くんだろう。封筒に入れられたお金はまだ半分残っている。またお参りだろうか。
急勾配の石段を登りきると、そこにはしんと静まり返った神社があった。
やはり人の気配は無いように思えた。
まっすぐにお社へと向かうと、今度は柏手を打った。一度頭を深く下げ、俺達に同じことをさせると、姉はそのまま階段を数段登って、閉ざされた扉の前に膝をつく。

「なにか」
「みなのもうでで ございます」
「なにか」
「御神酒を一升 賜りたく」

ぼうっと社の中に蝋燭が灯ったようだった。
扉が少しだけ空いて、朱塗りの器を持ったがっしりとした男の腕がぬうっと奥から出てきた。腕より後ろは暗がりで見えない。

「財を捧げて」

姉がT君に告げると、金縛りから解けたようにわたわたとした動きでお金の入った白い封筒を赤々と輝く器にのせた。
すぐに腕はぬうっと引っ込んでいき、次に出てきた時にはラベルも何も無い一升瓶を握っていた。
姉はそれを丁重に受け取り、頭を下げる。

「お恵み ありがたく頂戴いたします」

俺達も姉に習って頭を下げると、たん、と僅かな音をたてて扉は閉まり、蝋燭と思しき灯りも消えると、辺りは再び静けさに包まれた。
人の気配は、無い。
扉の奥にも、何処にも。


「それじゃあ遭いに行こうか、青い鬼に」


ざあざあと急に強い風が吹いた。これからの事を暗示するように。


訪れたT君の家は大きく、今は家族が誰もいない静かさに包まれていた。
いつもの習慣なのだろう、でなければ恐さをどこかに追いやりたいのか、ことさら大きな声で「ただいまー!」とT君は声を出した。
しーんという無音だけが残る。
「まずは鳥居から片付けよう。神様の部屋はそのあとだ」
T君の家族が戻るには時間があるとはいえ、万が一早く帰宅するということも可能性としてはあるわけで、俺達は早々に鳥居があるという庭の一角に向かった。
T君の話通り、その鳥居はぽつりと庭の隅に存在していた。
意外なほど小さいその鳥居は、縦に50cmほどあるかないかという程度のサイズだった。古くはあるが丁寧に磨かれている。白い紙垂が風に揺れて、鳥居を除けば特に何の変哲もない、拍子抜けするほど穏やかな昼下がりの庭が目の前に広がっているだけだった。
けれどT君は昔お婆さんと一緒に、この鳥居の奥から伸びる腕を見たんだ。そう思うと、一気に目の前にあるものが気味が悪く見えていった。
姉は俺が薄気味悪い思いをしている間にも、持ち歩いていたボストンバッグを地面に下ろすと、中から何やらごそごそと取り出しながら作業を進めていた。
50cmほどの細い真っ直ぐな竹が4本。
小さいしめ縄が1本。
真新しい紙垂がたくさんついた、長いしめ縄が1本。
しげしげと俺がそれらを眺めていると、鳥居の方から突然、
「うわあっ!!」
というT君の悲鳴が聞こえた。
振り返ると、昼下がりにはまるで似つかわしくない、青黒い肌の長い腕が、手が、T君の頭を鷲掴みにして鳥居の方へ引きずり込もうとしていた。
「T君!」
俺が叫んだ一瞬で姉は鳥居までを大股の2歩で駆け寄り、右手でT君の襟首を掴むと、左の手刀で鳥居に垂らされた紙垂をつなぐ紙紐を両断した。
薄い紙紐は容易く断ち切れ、はらりと地に落ちる。同時に一瞬で腕が溶け崩れ、T君が解放された。T君の額には深い爪痕が残り、わずかに血が滲んでいた。
「さすがにおとなしく傍観していてはくれないか」
嗚咽を漏らすT君をなだめる暇も惜しいのか、姉は作業を進めた。
竹を鳥居の四方にまっすぐ突き立て、竹に長いしめ縄をかける。鳥居を竹としめ縄で四角に囲んだところで、例の足音が聞こえてきた。
ひたひた、にちゃ、ぐちゃぐじゅぐじゅう、べちゃっべちゃっ、にちゃ、ぐちゃ。
数が多い。囲まれている。
鳥居を囲んだのは竹としめ縄の四角い空間。結界というのだろうか、神社でお祓いや祭礼をするという時に見たことがあった。
その前でぱんっと柏手を一回。一礼し、結界をくぐって、もう一度柏手を打つ。
足音は明らかに怯んだようだった。
小さな鳥居に未練がましく張り付いた古い紙垂を乱暴に取り去り、姉は新たに小さなしめ縄をかけた。

「あめつちのもとにおいて こはみちにあらず このいきは かみのいき!」

姉の声と共に、凄まじい女の悲鳴の輪唱が轟いた。絶叫、断末魔。
やがて響いていたおぞましい声が嘘のように静かに消えた。水に濡れた足音もいつのまにか消え去っていた。
「なんだよこれ、なんなんだよ」
T君は半ば恐慌状態だった。
「説明をしている暇は無い」
冷たく言い放ち、姉は御神酒の入った一升瓶を持って、鳥居から続く草むらへと向かった。いくらかかき分けたところで、

「在った」

暗い声で姉が言った。
石をくり抜いて作った、高さ120cmほどの水瓶のようなものがそこにあった。見渡すと庭の奥には水路があり、その一角にこの水瓶らしきものは置かれているようだった。
石の底には穴が開けられていて、そこから水瓶を通してまた水路に水が流れ込んできた。
見ても意味がわからない。
わざわざ草むらの奥にあるなら、隠れている事に意味があるのだろうが何のためのものなのか。虫がわくような状態ではなく、溜められた水自体は綺麗なものだった。
覗き込むと、何か白っぽい欠片や短い棒のようなものが水瓶の中には沈んでいた。
何者かと確かめようとして、

「見るな」

と姉の手で視界を覆われてしまった。

「どうりで手と足が来る」

姉は持ってきていた御神酒を開けると、どうやらそれを全て水瓶の中に注ぎ込んだようだった。

「予想はできていても実際に目にすると胸糞が悪い。何が鬼だ、神様だ。2人とも来い。次だ、さっさと終わりだ。こんなモノ」

嫌悪感もあらわに吐き捨てるように姉が言った。わけもわからないまま、俺達は鳥居から離れることになった。
T君を急かすようにして神様の部屋へと向かう。
姉の態度がまだ何も解決してはいないというを物語っていて俺は恐怖した。
そうこうしているうちに、襖の閉じられた神様の部屋の前にたどり着いてしまう。さっきのアレよりももっと怖いモノがいるのか。
「見るか、見ないかを選ばせてやる。見ても嫌な思いしかしない。怖い思いしかしない。何も残るものは無い。見ても見なくても、青い鬼は必ず消してやる。約束する」
ついにT君は泣き出した。青い鬼はまだいるのだ。さきほどあれだけ怖い思いをしたのに、自分たちが神様の部屋と呼んでいた場所には鬼がいる。
「俺は、俺は、見れない。ごめんなさい、ごめんなさい。怖いんだ、婆ちゃんも姉ちゃんも助けたいのに怖くて怖くて駄目なんだ」
「いいんだ。それでいい。それが普通の反応なんだ。さあ、後ろを向いてもう一つ先の部屋に出て。そう、いい子だ。座って、目をつむって、耳を閉じて。もう怖いことなんかない。眠って、起きたら怖いことは夢になって忘れてしまうから」
優しげにT君を座らせると、一転して、

「眠れ」

低い声で一言命令し、その瞬間ぐりゃりとT君の体から力が抜けていった。へなへなと崩折れたT君は深い眠りについたようだった。
「お前はどうする。とうま」
部屋が薄暗い。姉の表情はこの距離なのに靄がかったようによく見えなかった。

「忘れさせてやろうか、眠らせてやろうか、怖いモノなど、無かったことにしてやろうか」
怒っている。理由はわからないが、姉はとてつもなく怒っていた。
「俺は見る。俺が見なかったら、姉ちゃんが知ってること、見てるもの、誰も知らなくなるから」

怖かったが、俺は姉をまっすぐに見て伝えた。姉の顔はまだ見えない。
ここで俺が姉ちゃんを独りにしたら、姉ちゃんが姉ちゃんでないものになる。
それこそ、青黒い鬼が恵さんに重なって見えたように。
ほとんど直感だったが、たぶん的外れではなかったと思う。
はああ、とため息をつかれ、頭をぐちゃぐちゃに撫でられた。
「お前はそういうところがほんとうに駄目で、危なっかしいんだよ」
盛大に溜息をつきながらも、姉はゆるく笑っていた。顔が見える。
「これでいいんだよ」
姉が鬼にならないためには、きっとこれでいいんだ。
「言ってろ、ここ開けたらすぐに後悔するからな。ばーか、とうま。何にもできないくせに」
「姉ちゃんの役にはたってるよ!」
「知るか。はい、お邪魔しまーす」
乱暴に襖を開けた瞬間、目に入って来た光景に俺は本当に吐きそうになった。
和室で6畳間、ただそれだけのはずの神様の部屋。
その壁の隅には四肢と頭の無い、女のようなナニカがいた。
頭も無く、腕も無く、足も膝から下が無い胴体だけの肉の塊が女だとわかったのは胸が膨らんでいたからだ。乳房があるから、女性だったものと思えたが、そうでなければただの意味のわからないナニカに見えたことだろう。
部屋の隅に立ったソレの首があるはずの場所からまた太ももが生えていてその上に胴体があり、そこから壁と天井に肉がぶよぶよと伸びている。壁を伝い締まりの無い皮膚が広がって、天井についた腹から真横に部屋いっぱいに延びていく。
天井に広がった胸と腹の部分からは、部屋の隅に立った胴体とよく似た形の、けれど年齢がバラバラの胴体が、肉瘤のように垂れ下がっていた。
汚れた紙垂を思い出す。
その垂れ下がった胴体を引きちぎって、部屋の中央で貪り喰う子供のようなサイズの青い鬼が数匹。
キャハハ、アハハと耳障りな甲高い声をあげながら、青い鬼は捧げものを喰っていた。

「骨壷が2つ。手足とそれ以外とに分けて、通う足ともぎ取る腕は使役して、残りはお前達への供物か。胴体は床の下なのか、別に捧げてるのか。頭はどうしてるんだろうなぁ?運が良ければ墓の中、そうでなければ何処へやったやら。そうまでして富がほしいか、業の深さに恐れ入る」

一歩室内に踏み込むと、途端に青い鬼達が憤怒の形相になった。
境界を侵されたせいなのか。
肉を貪るのを止め、姉へと鬼の目線が集まる。じりじりと距離を詰め、青い鬼達が姉に襲いかかる気なのは否が応でも伝わってきた。

「死んでからこれだけの事をされれば化けて出もするだろう。成仏すべき場所に向かう足は奪われて、延々肉を啜られる。土に還るはずの骨を水に沈めて、死んでからまで溺死させるからあんな青黒い色で祟りにくる。祟りに来た魂だか残留思念だかまで使って、作っているのが財を集める程度の能しか無いこの鬼もどきか」

侮辱が伝わったのか、一斉に青い鬼が襲いかかってきた。鋭い爪が、牙が一気に姉に向かい、
「危ない!!」
と叫んだが、その爪や牙が姉に届くことは無かった。

「人工物の鬼もどきが私なんぞに手を出そうとするから、本物が怒ってるじゃないか」

せせら笑うように姉は言った。その眼下では、肉を貪っていた青い鬼が、今度は立場が逆転して赤い鬼に喰い散らかされていた。
腕を千切る、体を割く、眼球をほじる、喰む、啜る、齧りつく。蹂躙と言って差し支えのない惨状だった。
ぎゃっぎゃと嗤いながら青い鬼を弄んで、喰いつくして、部屋に残っていた女の肉塊の一欠片も残さず平らげて、赤い鬼は消えた。
ものの2分もかからなかった気がする。
終わったのかとほっとした瞬間、パチパチと場違いな拍手が響いた。
後ろを振り向くとそこには、恵さんがいつの間にか立っていた。上品なお嬢さんといった感じの服を着て、いつもどおりおっとりと笑んで。
腕時計を見る、17時。帰ってくるには随分と早かった。

「やっぱりゆきちゃんのところの子達はすごいねぇ」
「終わる頃には来るだろうと思ってたよ、恵」
「鳥居は周囲を区切った結界ごと燃えちゃってたし、水瓶は粉々に割れて使い物にならなくなってたし」
「恵、お前はわかっててやってたんだろう」

姉の言葉に、恵さんはよくできましたと言わんばかりににっこりと笑った。

「だってみんなが信じてるから、応えてあげなくちゃ可哀想でしょう?お父さんもお母さんもお爺ちゃんも、ほんとにすごく信心してたんだよ。うちの神様はすごい神様だって。丁寧にすごく敬って、お祀りして。視えないってとっても幸せだね」
「家の伝統を守っただけ、か。家族の幸せのために、伝えられてきた、途中でねじ曲がってしまった因習を」
「お婆ちゃんの事は可哀想だったけど、どうせみんなと混ざって怖いっていう気持ちも無くなっちゃうんだから、いずれ無くなるなら一時耐えればいいだけだと思わない?神様って敬われているものの一部になれたんだよ?少なくともお父さんとお母さんはすごく感謝して、すごくありがたがってた」
「でも実情はあの鬼もどきの材料だ」
「ほとんどの人は自分が信じて大事にしてるものしか見えないの。それが大事で、大切なもの。外から歪に見えても、誰がどう幸せなのかはその人にしかわからない。ゆきちゃんの幸せが、ゆきちゃんにしかわからないように。わかってもらえないように」

初めて姉は言葉をつまらせた。

「私の行動を否定したいけど、私のことは嫌いになれない。だってゆきちゃんと真っ当に、『あっち』と『こっち』の話をできる人は滅多にいないから。ゆきちゃんは世界のほとんどの人に嘘をついて生きていかなきゃいけない。でも、私には本当の話が通じる」
「滅多にいないことと、全くいないことは違うさ」
「それは強がりだよ。寂しいっていっていいんだよ」
「言わないことが私の幸せだ」
「もう、強情だなあ。あ、そろそろお父さん達が帰ってくるから、ゆきちゃん達も帰った方がいいよ?後片付けは私がやっておくし、お父さん達びっくりするだろうけど、ちゃんと私がなだめるから」
「そうして今度はお前がこの家の神様になるのか?予知がどれだけ先まで視えるのかは知らないが、本当に持ってる能力なんだろう」
「・・・・・・・・・・・・」

この問に恵さんは答えず、ただ少し暗く薄く笑うだけだった。
その表情は、姉が時折浮かべるものによく似ていた。

「せめて弟に対しては優しい姉でいてやれよ」
「この子がそれを私に望む限りはね」
「最後に教えろ」
「なあに?」
「鳥居からしめ縄を外して、紙垂だけにしたのは恵だな?神性を排除して、霊性のモノの通り道の縛りを緩めて、何が通るか試してたんだろう。悪いものが出入りすることは視えてたはずだ。その結果お婆さんがどうなるかも。やったのは、いつだった」
「小さい時。お婆ちゃんに化け物って思われた日」
「・・・・・・そうか」


救われない話だった。

T君の家を出る頃には、すっかり日が落ちようとしていた。
恵さんは『これにこりずにTとまた遊んであげてね?まあ、とうま君はそうしてくれるんだけどね』と、常日頃と変わらない態度で、常とは違う言葉を俺にかけて家に戻っていった。
日常と非日常の境目が、常に曖昧な人のように思えた。
雨が降るからと傘を渡されて、5分後ぐらいには本当に雨が降ってきた。

「これも予知?」
「どっちかっていうとペテンだ。今日の夜の降水確率は80%。予知の話なんかしたあとだから、遊ばれたんだよ」

軽口を聞いてはいたが、どうにもすっきりしない終わり方に、なんだか足取りが重くなっていた。
帰れば父がいる。姉に逃げ場らしい逃げ場はほとんどない。

「姉ちゃん」
「なに」
「どっか行かないでね」
本当は別のナニカにならないでねと言いたかった。
T君の家で『忘れさせてやろうか』と凄まれたあの時、姉の顔は近くにあるのに黒く靄がかって見えなかった。
あれが真っ黒になったら、きっと姉は姉じゃないものになってしまう。
不安だった。俺になにができるのだろう。なにかできるのだろうか。

「とうまがそう望んでくれる限りはね」

ポツポツと雨の降る道を、家に向かう。
薄暗がりを2人きり。
今暗がりの中を進む俺と姉は、境界の同じ場所に立っているのだろうか。
濡れた足音はもう俺を取り囲みはしないけど、2人分の雨をパシャパシャと踏む足音のがなんだかとてつも無く心細い気分にさせた。
いっそ足音も聞こえないほどのザアザア降りになればいいのに。
鬼の声も父の声も、姉の耳に届かないように。
靄がかってきた雨の中を進んだ。姉の姿を見失わないように。


【4つ上の姉にまつわる話だ】⑬ 箱






「とうま◆xnLOzMnQ」 2021/02/11

俺には4つ年上の姉がいる。
見えるモノと見えないモノの世界の間を、ゆらりゆらりと泳ぎ生きているような姉が。
薄暗がりの異質な境界を俺がおっかなびっくり歩く時、何だかんだと言いながらも先に立って追いつくのを待っていてくれるのだ。
視える世界と、聴こえる世界の話を、今日はしようと思う。


夜中にかかってきた電話で、眠りの淵から叩き起こされたことはあるだろうか?
急速な意識の覚醒と、それに追いつかない体の感覚。
時刻は真夜中の2時を少し過ぎたばかりだった。鈍い体の動きを総動員して通話ボタンを押す。

「・・・・・・・・・・・・」

無言。
何なんだといぶかりながらも、こんな時間に一体何の用だと、相手が誰かも判然としないまま通話口に向かって「もしもし?」と話しかける。

「・・・・・・・・・・・・」

無言の中に聞こえる、わずかな息づかい。電話を通して、暗闇の向こうにいる『誰か』の気配を感じる。

考えてほしい。

電話に出る前に、相手が誰かをディスプレイの表示で見たか。
知り合いの名前だったか。
眠っていたところから電話に出て、ロクに確認をしなかったとしてもごく普通の反応だと思う。



けれど、もう一度考えてほしい。

午前2時という真夜中に電話をかけてくるような知り合いがいるか。
そんな時間に連絡をとらなければならないような緊急の用事だとして、ならば何故黙っているのか。
しんと静まりかえった夜の中で、真っ暗な部屋の中で、握りしめた小さな通話機ごしに自分が本当は『ナニ』と繋がっているのかを。
それが、『誰』からのコールなのかを。
だいぶ前の話になる。
「はい、姉はただいま電話に出ることが出来ません。用件のある弟君は、ピーという発信音がしたらそのまま電話をお切りください。ピー」
「おい」
「ピー」
「やっと電話に出たと思ったら悪ふざけか!」
携帯電話から耳に入ってくる姉の声に、俺はいよいよ溜息をついた。
相談したいことがあって何度となく電話をかけたのに、いっこうにつかまらない。一週間かけてやっと繋がったと思ったら、妙な留守電風メッセージで対応してくる。
「・・・・・・ちっ」
「露骨な舌打ちやめろ!」
ついには女らしさの欠けらも無い低音の舌打ちをされて、俺は4つ年上の姉がかなり気合いの入った電話嫌いであることを思い出したのだった。
「それで?ご用件は何ですか」
いかにも渋々と言った感じで、姉が電話の向こうで話しかけてくる。
「電話嫌い、いまだに直ってなかったんだ?」
「電話もメールもきーらーいーでーすー」
「機械系強いのに」
「それとこれとは別なんですー」
間延びしたしゃべり方。完全に拗ねている。
だったらどうして今出てくれたのかと聞けば、「留守電に切り替えようとしたら、手が滑った」と呆れるような理由を聞かされた。
着信履歴の多さから、弟の用件を聞く気になってくれたわけではないらしい。
世の中にスマホが普及してずいぶん経つのに、姉は相変わらずその利便性よりも自分の好き嫌いを優先しているようだった。家族と親しい友人ならば、留守電を入れておけばそこそこ連絡はとれるが、それ以外にはまず出ない。
俺は生活上、何につけても便利なので今更スマホの無い生活なんて考えられないが、姉はできるならば手放してしまいたいとよく言っている。
仕事には必要なので、嫌々ながら持っているといった感じだ。我が姉ながら、それでよくやっていけてるなあと、感心半分呆れ半分で俺は溜息をついた。
「とうま君、用が無いなら切っていいですか」
「用件はメールで送ってあるだろ!?」
「メール?あぁ、来てたねそういえば」
『かたればさわる』という姉の言葉が、ずっと引っかかっていた。
まるで無知ではいられないと、事故にあってから初めて俺はオカルト関連の書籍に手を延ばした。
自分が書き綴った記録のせいで、誰かに災難や厄が降りかかるかもしれないなど、放っておけなかった。
姉が関わったオカルトや鬼といった、俺には全くどうすることも出来ない世界の話を多少なりとも知ろうとした過程で、『共感呪術』というものがあることを俺は知った。
確かJ・G・フレーザーだったと思う。本は読むが、オカルトの専門書のような書物を俺は今まで手に取ったことがなかった。
読むと言っても新書を普通に読む程度。姉のように、ジャンルも専門の度合いもバラバラにものすごい冊数を読むというわけでもない。いつだったか母が「本の重さで二階の床が抜けてきそうで怖いわ」と漏らしたことを考えれば、姉の読書量がなんとなく想像してもらえるだろうか。
初めて目を通したオカルトの専門書は、難解で正直理解できた感じはなかったが、共感の法則の「接触したもの同士には、何らかの相互作用がある」という記述が印象に残った。
『語れば触る』ということなのか、『語れば障る』ということなのか。
そもそも、この考えであっているのか。
俺が語り、誰かが読むことを「接触」とみなし、そこに『赤い鬼』が残滓として影響を与えるならば、読んでくれた人に悪影響が出ないようにする方法はないのかというのが、姉に送ったメールの内容であり、俺が解決したい用件だった。
既に「さほど影響はないだろう」と姉に言われてはいたものの、自分が投稿したせいで誰かに災厄が降りかかるなんてことは万が一にもあってほしくなかったのだ。
改めて電話でその旨を伝えると、
「心配性になったよねぇ、とうまは。もはやうっすらぼんやりしか存在していない、残滓とも言えないようなモノが与える影響のことまで考えるか・・・・・・」
と何処か遠い場所でも眺めるような、ぼんやりとした声が返ってきた。自分の身に起こった様々な事を思い出しているのかもしれない。
姉の指摘に対し、そんなことは無いと否定はできなかった。
最終的には俺だって『赤い鬼』が引き起こした事の顛末から完全に逃れることはできなかったし、オカルトが人にもたらす影響の恐ろしさは身をもって知ることになったのだ。
「三日後の予定は空いてる?」
「え?あぁ、空いてるけど」
唐突な問いかけに、頭の中で予定をさらって答えると、電話の向こうの気配がうっすらと暗くなったように感じた。
「・・・なら丁度いいか。じゃあ三日後に図書館のカフェで。ただ働きはしないからな」
何処か渇いた印象の鋭い声音に切り替わる。口調と声音の切り替えは姉が鬼と関わるうちに身につけた、クセの一つだ。
きっと、この電話の向こうでうっすらと笑んでいるのだろう。
あの敵意が自分に向いているものでないとわかっていても、ぞわぞわと背筋が逆立つ感覚が襲ってくる。
「全て残らず片付けてやる」
そう言って、電話は切れた。
いつだったか生物学の本で読んだ、『微笑みの起源は威嚇である』という話を思い出した。
もっとも、姉の笑みは少しばかり皮肉気に見える薄い笑いで、ニホンザルのグリマス表出のように歯をむき出しにして嗤っていたのは、姉が敵と見なしていた赤い鬼の方だったのだが。


三日後、俺は待ち合わせのカフェでぼんやりしていた。黒のジーンズにシャツ、暖かい陽気だったから軽いジャケットを着ただけのラフな格好でスマホをいじる。
直接会うのは事故以降初めてだから、結構時間が空いたなと今更考えた。俺も姉もそれなりに多忙な日々を送っていたということだろう。
県内でも有数の大型図書館は、姉の気に入りの場所だ。同じフロアにカフェがあることから、いつでも多くの利用者がいる。
「カフェに着いた」とメールして15分もしない内に、姉が姿を見せた。相変わらず色が白い。肌が弱く、日焼けを避けるせいだ。金属にも負けるから、アクセサリーもほとんど身につけない。
赤みがかった髪は地毛だ。俺の黒い髪とは全く別な色味。並ぶと姉弟というよりは男女の双子のようだと言われるほど年が近く見える俺と姉だが、長い付き合いの友人達は口をそろえて「似てるのはぱっと見の外見だけ」と評する。
たぶん、言動と表情が全く似ていないことが、長く付き合わないとわからないからだ。普通の皮をかぶっている状態の姉は、単純に明朗快活に見えて、俺とよく印象が似ているらしい。
その日の姉はグレー地にラインの入った、タイトなスーツを着て姿を現した。仕事じゃ無い日にかっちりとした格好は珍しく、俺ははてと首を傾げた。
「お待たせ」
俺の左隣の席に着いて、接客に来た店員に珈琲を頼む。
姉が落ち着いたのを見計らって、「どうなった?」と切り出した。
三日前、電話越しに聞いた『全て残らず片付けてやる』という薄暗い声を思い出す。
あの晩の気配を微塵も感じさせない明るい様子で、
「始末は全部つけました。何の影響も出ないように片付けたから、今後一切とうまが無駄な心配をする必要はありません」
何をどう片付ければオカルトの影響が出ないようになるんだと尋ねた俺に、図書館入り口の方を示し、
「九野に全部喰わせた。もうこの世に影響の与えようも無い。『赤い鬼』の残滓も、関わりも、慣れの果ても、よすがの全て放り込んでやった」
人の悪い笑みを浮かべて姉は答えた。
その名前に俺は思わず腰を浮かせかけ、姉が素早く静止する。
「はい、とうま逃げない。というより逃げても遅い、もう遅い」
罠にかけられた気分になった時には、すでにその人物は入り口の扉をくぐって、こちらの席に向かっていた。
「・・・・・・九野さん」
「とうま君、久しぶりー。なんか面白いことやらかしちゃったって?」
軽い口調で俺の正面の席に腰掛けた男性は九野(くの)さんという。
年は姉の一つ上。高一の時に姉が唐突に「友達連れてくるから」と言って家に招いたのが初の出会いだが、その時は姉と違う高校の制服を着ていた。
下の名前は未だに知らない。
背はそれほど高くなく、肉付きもどちらかといえば薄い方だろう。
色素の薄い髪色と若干の猫背。顔が良く、人当たりも良く、相談事にのるのが得意で多方面に友人が多い。
何度となく会ったことのある人だったが、とにかく俺はこの人が苦手だった。深く関わりたくないため、九野さんに関する詳しい情報を意識的に耳に入れることを避けるほどに。
苦手とするのに十分な理由がある。気さくなこの人が、その軽さとは裏腹に姉と同程度かそれ以上にどっぷりとオカルトに浸かっていることを知っているからだ。

「とうま君が持ち込んでくれた相談事ね、おいしかったよ。ごちそうさま」
「そう・・・・・・ですか。良かったです」

九野さんは、『異様』だ。
表情や語る声音は朗らかで、人格的には決して嫌いじゃない。
暴力的なところもなく、話題も豊富で面白い人だ。
けれど、相対する度、ぬぐい去れない違和感が増していく。
人間を相手にしている感じがしない、という違和感が。
姉や本人の言動の端々を素直に受け取るなら、オカルト的な現象もその理由の大元も、九野さんは『喰える』ことになる。
オカルトに対処できる手段を持っている人間の中で、持ち込まれた相談事に『おいしかった』と感想をつける人はどれぐらいいるだろうか。
それが厄介で悪質であればあるほど、九野さんは嬉しそうに、満足そうにするのだ。
九野さんという人は、怖い。
何処までいっても得体が知れない。それは、とても不快な感覚だった。
「どういうことだよ」
姉に真意を問う声が、自然とキツさを増す。
この人が出てくるような大事が、何かあるとでもいうのか。
「そう怒るな。ただ働きはしないって言ってあるだろう?私も九野も、基本的にこの手の頼まれごとはボランティアではしないことにしてる。それが身内でもな。とうまには少し手伝ってほしいことがあるだけさ。お前は自分の友達をみすみす見捨てる真似なんかしたくないはずだが?」
「何のことを言ってるんだよ」
その時、俺の背後、図書館側からゆっくりと近づいていたその人物が、右隣の椅子を引くのを視界の端に捕らえた。
瞬間、照明の明かりが翳り、急激に周囲の温度が冷えたような感覚に陥る。
何だこれはと考えるより先に、相当にまずいナニカに関わっている人間が放つ独特の気配が伝わってきた。
全身に鳥肌がたつ。
カタッ、ススーッという椅子の脚がリノリウムの床にこすれる音が、妙に引き延ばされ雑音となって耳の中で反響した。
右隣に腰掛けた人物を、見たくない、でも見なければならないという相反する気持ちの中で視線をやり、自分の目で確認して俺は驚愕に凍りついた。
外の暖かい気候にまるでそぐわない、冬用の分厚いニットカーデを羽織ったその人物に見知った面影を見つけたからだ。
青白いというよりは土気色のような憔悴しきった面持ち。
生気に乏しく、影までもが薄い。
「・・・・・・まさかSか?」
「あぁ。とうまは変わりなさそうだな」
人違いであってほしいという希望は、即座に打ち消された。
「本当にSなのか?何なんだその顔・・・お前何kg減ったんだ。何があったんだよ」
弱々しい笑みを浮かべ、やつれて見る影も無いほど変わってはいたが、紛れもない親しい男友達の姿がそこにはあった。
「悪い。こんなみっともないところ見せて。お前にも迷惑かける。でも、俺もうこれ以上は無理で・・・・・・」
Sは痩せた手にスマートフォンを握りしめていた。
指先が白くなるほど力を入れ、震えながらSが俺を見上げてくる。
「助けてくれ・・・・・・夜になると電話が、ずっと、電話がかかってくるんだ」
「・・・・・・誰から」
俺の問いかけに、Sは恐怖に目をいっぱいに見開きながら、消え入りそうな声で答えた。
「沼の底の、幽霊から」
俺はもう一度、Sの手の中のスマホを見た。握られたままではよく見えないため、強ばったSの手を開かせ、スマホをテーブルに移す。
テーブルに移そうと機器を受け取った瞬間、今ままで人の手の中にあったとは到底思えない、一切の熱を感じさせない冷たい温度が伝わってきた。
あまりの冷たさに驚いて、テーブルの上に投げ置くような形になってしまう。
液晶には罅が入り、電源も落ちたスマホは真っ暗な画面しか映していない。
ううぅ、と嗚咽を漏らし始めたSがどんな状況にあるのか、俺には想像もできなかった。
テーブルの上で照明の光を反射するスマートフォンが、不気味な存在感を放っていた。


背を小さく丸めてぽつぽつと語り出すSの姿を、俺はどことなく悲しい気持ちで見つめていた。
元々Sはどちらかというと大柄でがっしりとした体格をしていた。それが今は筋肉は衰え、ふたまわりも痩せたように見える。年明けに会った時には何ら変わらず、面倒見のいい兄貴分をやっていたのに、ここまで変わってしまうものなのか。
明らかに不健康にやせ衰え、重篤な病気を患ったと言われても何ら疑いを抱かないだろう容貌になってしまった友人。
席に着いたSが話始めたのは、よくあると言えばよくある、オカルト系ではテンプレートな話だった。
2週間前のこと。
久々に地元で集まった友人達で遊び、男も女も酒を飲み、さんざん騒いだあと心霊スポットに行こうという算段になった。
誰も幽霊や心霊現象を信じていないから話はエスカレートする。何も起こらなかったら興冷めだし、どうせなら県内でも1、2を争うやばいところに行こうと決まった時にはもはや異様なテンションで嫌だと言い出す事すらできなかった。
Sが下戸だったのも災いした。元々飲み会のあとの送迎役を引き受けていたのが、まさか心霊スポットへの運転手になるとは思っていなかったそうだ。
「ちょっと行って、多分すぐに女子が怖がって帰ろうって話になるだろうって。それが、あんな、あんな事に・・・・・・」
うつむき喋るSの目の下には濃いクマが浮かんでいた。きっとロクに眠れてもいないのだろう。
「お前、何処に行って何をしてきたんだよ。こんな酷い状態になるような何かしてきたのか?」
今までの経験で禁止されている事にはちゃんと意味があり、破れば相応の罰といえる現象が起きる事は理解していた。遊び半分の肝試しがどういう結果になるかも、巻き込まれた形ではあったがどれだけヤバイか体験している。
それでもたった2週間で俺が知っているSから、これほど憔悴して激痩せするほどの変化を見せた人間にはまだ行き会ったことが無かった。
3ヶ月の間、心霊現象に悩まされ姉のもとへ相談に来た女性でも、ここまで激変してはいなかった。あの女性を悩ませていたモノだって決して生易しい存在ではなかったのに。
「お前達N山に行ったんだろう」
姉の言葉に、Sはがばりと音が出そうなほどの勢いでうつむいていた顔を上げた。
表情は恐怖に強張り、けれど目が妙に爛々と輝いている。
「男5人、女4人」
「なんで・・・・・・なんでわかるんですか・・・俺まだ何も説明してないのに」
N山。姉の口から出てきた地名に俺はぞっとした。
N山には沼がある。ネットで検索すればすぐにわかる心霊スポットで、近辺ではたまに不審死が出ることで有名だった。
姉に以前、絶対に近づくなと渡された地図の中で大きな赤丸が記してあった場所だ。
ついにSは泣きながら、その夜起こった事件を語り始めた。


車2台で辿り着いたN山の公園駐車場は実にもの寂しい様子だった。
昼間でもあまり人が寄りつかないそこは草刈りなどの手入れもされず、木の枝も伸び放題で見るからに薄気味が悪い。
風は夜だというのに妙に生暖かく、だが誰もそんな事は感じないようで心霊スポットにはしゃいでいた。
「なんだっけー?道はあるけど沼に行っちゃうとアウトなんだっけー?」
「沼だか池だかに女の幽霊が出るんだろ?」
「早く行こーぜ。飲みなおしたいしさ」
てんでバラバラにわいわいと、山の奥へと分け入っていく。幸い、途中で人数分の懐中電灯を買ってきたので、集まっていればいくらかは明るかった。
心細さが少しはマシになる。
「ここって山の裏側に神社あるんだっけ?あんまよく知らないけど」
「足痛くなってきた。何にも出ないしつまんない。もう帰りたいよー」
「なんだよSそんな後ろにいて。まさかお前ビビッてんのか?」
「いやビビッてるわけじゃなくて、足場悪いなと思って。女の子達ヒールだしこの山道は辛いんじゃないかなってさ」
「S君やさしー」
内心では今すぐ帰りたいほどだったが、正直に言っても面白がられるだけだと、相手を気遣って帰る方へ話を誘導しようと試みる。
「でもせっかくここまで来たならやっぱり心霊現象の一つぐらい体験したいじゃん」
その時、友人たちの向こうに何か白いモノが見えた気がした。
目の錯覚かと思い、立ち止まってその白いものが何なのか目を凝らす。
ひゅっと自分の喉が恐怖に鳴る。
いる。道の3mほど奥、木々の間に。
ざんばらの長い髪の女。
肌は生きている人間の色をしていない。生白く、青褪めた死人の色。向こうの景色がうっすらと透けていた。
ソレがこちらを見ている。髪の毛と髪の毛の間から覗く、血走った目がじっとりと睨んでいる。
映画で観たことのある、『農民』といった風体のナニかに、友人達は気づかずにどんどんと近づいていく。
目の前にいるのに、見えていない。
「おい!!止まれって!!」
「はぁ?なんだ急に」
女の手には鎌が握られていた。大ぶりの、錆ついた鎌が。
男友達の1人に振り下ろされるまでは、一瞬の事だった。
ばたりと、先頭を進んでいた男が倒れる。
「ちょっと大丈夫!?」
「おい、どうした!?おい!!」
倒れた友人のもとへ皆が駆け寄り、その体を抱え起こした瞬間、悲鳴があがった。
「は?なんだよこの傷!!」
傷は深くは無いものの、肩口から腹の半ばぐらいまで一気に服と共に引き裂かれていて、そこから血がシャツにじわじわと染み出していた。
「とりあえず車戻って病院!」
「抱えるの手伝ってくれ!」
気絶した男の周囲でばたばたとあわただしく、皆が動く。
Sは動けなかった。女がまだ皆を睨んでいた。
見えていない。誰にも視えていない。
女の口がぱかりと開く。
『『『ねんねぇん ころぉりよ おころりぃよ』』』
傷を負って倒れた男の口から、女の声の子守唄が溢れた。
何重にも音が重なった、叫ぶような女の声の子守唄。
世界が歪むような、重なるような妙な浮遊感の後、友人達は不意に女に気がついたようだった。
今は血を纏わせた鎌を握る、ざんばら髪の女の幽霊に。
一瞬にして場はパニックになった。
男女問わず絶叫を上げながら、我先に女から離れようとバラバラの方向へ走っていく。
車の方へ戻ればいいものを、誰一人として来た道へと引き返してこない。
『『『坊やは よいこだ ねんねぇしなぁ』』』
倒れていた男が白目を向いたまま起き上がる。その口からはいまだ子守唄が響いていた。
硬直したSは動くことも、逃げることもできない。
蛇に睨まれたカエルのように、女に睨まれてSの体は動くという機能を失ってしまったようだった。
その足にコツリと、何かがぶつかった感覚があった。
体は動かない。呼吸だけが荒い。視線が動かしたくないのに下へ下へと向いていく。
足元へ。
ぶつかったものへと。
右足下に何か小さい丸いものが転がっている。
見たくない・・・視たくない!!!!!!
土で汚れた、赤ん坊の頭が、首が無惨に引き千切れたソレが。
赤ん坊のその口から。
「だずげで、S」
今度は子守唄を唄っている友人の哀願する声が、零れた。
そこからは意識が無い。


気がつくと全員が沼のほとりにいた。
何人かは沼の中にふくらはぎまで水に浸して呆然と立っている。
沼の水は不思議と冷たくない。むしろ生温いほどで、何故か「羊水か。お母さんの中だ」と自然に納得していた。
今思えば異様なことだとわかるが、その時は心地良いとすら感じていた。 
全員の首にはお揃いのように幾筋も、浅い切り傷が刻まれていた。
近くで女の子守唄が聴こえる。あぁ、自分の喉からだ。
「何よ・・・・・・何よこれ!?」
女友達の1人が正気にかえったようだ。
「みんなしっかりして!!戻ろう!!帰ろうよ!お願いだから!!」
うるさいな。子守唄が聴こえない。
バチンッと頬に熱い衝撃があった。焦点が合う。世界が鮮明になっていく。
「Sもしっかりして!手伝って!!みんなが沼の中に進んでいくのよ!!」
他にも2人正気づいて、沼の中に行こうとする友人達を必死に引き留めていた。ごめんと思いながら男友達を殴った。子守唄がやみ、ゆっくりと正気にかえっていくのがわかる。
「なんだよここ!?」
「おいやめろ!進むな!!」
残った友人達を全員で正気づかせ、ほうほうの体で沼から這い上がる。
ほっとした瞬間、暗闇の中で一斉にスマホの着信音が響いた。バラバラの不協和音が鳴り響く。
「もうやめて!!」
女友達の1人が、近場にあった石に向かってスマホを力いっぱい投げつけた。
バキッと音がして液晶画面にヒビが入り、音が止む。それをきっかけに、それぞれがスマホを石へ向かって叩きつけて、やがてあたりはしんと静かになった。
もう嫌だ。何もかも嫌だった。
最初にスマホを投げつけた女子が、目の前にわずかに見える道へと走り出す。足が傷つくのもかまわずに、ヒールを脱ぎ捨て裸足でその場から逃げ出した。
ばたばたと足音は続き、全員が駐車場を目指して駆け出す。遅れて走り出し、けれど何故か一瞬沼へと引かれるように振り返ってしまった。
女の上半身が沼の中心に浮かんでいた。まだ睨まれている。見える距離ではないのに、何故かはっきりとわかった。
そのまま背を向けて、ゆっくりと沼の中へ沈んでゆく。
背中には赤子をおぶっていた。頭の無い赤子を。


「そこからどうやって帰ったかは記憶にありません」
Sの告白は壮絶だった。
だが心霊スポットを甘く見てN山に立ち入った以外、少なくともこれほど酷い罰や災厄が降りかかるようなことはしていない気がした。
今まで経験した心霊現象は、もっとはっきりと因果関係がわかるものだった。
そこまで考えておかしな事に気づく。
テーブルに置かれた壊れたスマートフォン。これは新しく契約したものなのか?
「なあS、このスマホって」
新しいのを買ったのかと尋ねるより先に、
「戻ってきたんだ」
暗い声でSが呟く。
「次の日の夜になったら机の上にあった。何度捨てても戻ってくる。昼間は電源は入らないし、確かに壊れてるんだ。でも夜になると」
「勝手にスマホが鳴って、通話を始めなくてもN山で聴いた子守唄が流れ始める。そうだろう」
姉の指摘に、Sは必死な様子で頷いた。
「通話を切る事はできない。一定時間が経って子守唄が止んだ後、水音のようなものが聴こえて不意に静かになる」
「そうです。でもいつまた同じ事が起こるか不安で、毎日あの唄が聴こえて、怖くて、眠れなくて、何度も謝った。謝ったけど、許してもらえない。辛くて死にたくて、でも死んだらあんな風になるんじゃないかと思うと、死ぬのも怖くて」
もう耐えられないとSは疲れ切った顔で漏らした。この話をした時間で一気に年をとったようにすら見える。
「一緒に行った友人とその後連絡はとれたのか?」
「怖くて確認してません。俺だけなのか、みんななのか、それとももっと酷い事になってるかもって思うと確かめられないんです。情けないってわかってるけど」
助けてくださいというSの声は消え入りそうだ。
「あそこに行ったって奴は他にもいるし、そいつらはネットに書き込んでて、写真だってあげてるのになんで俺達だけ・・・・・・」
きみ、きみと脈絡なく九野さんが語りかけた。
「友達の中にN山近くの地元の子が混ざってたでしょう?その子が心霊スポットに行こうって言い出した、違うかな?」
穏やかな、人を安心させる語り口。
Sはしばらく考えるそぶりをみせて、やがて頷いた。
「じゃあきっと下見に行ったんだな。それで運悪く、君達は彼女に呼ばれてしまった」
「なんで俺達が・・・・・・」
「それはね」
「九野。やめろ」
姉が制止した。姉と九野さんの間で視線がぶつかる。姉は軽く睨んでいて、九野さんは嗤っている。
ものの30秒ほどで九野さんが肩をすくめ、それで九野さんはひいたようだ。
「助けてもいい。ただし条件がある」
「何ですか!?何でもします!!」
Sが必死な様子で立ち上がり、声を上げた。周囲の人間が何事かとこちらを見た。
「静かにしろ。座れ」
素直に再び椅子に戻り、集まっていた視線が外れていく。
視線が自分達から完全にばらけたのを確認し、姉はSへと語りだした。
「一つ、そのスマホを渡すこと。契約は解約していい。二つ、悲しいだろうが一緒に行った友人達には今後一生会わないこと。電話はもちろん駄目だ。仮に手紙が来たら見ないで捨てろ。三つ、この件に関して一切理由を問わないこと。忘れろ。四つ、家族を大事にすること。以上だ。これが守れない場合、身の安全は保障できない」
「それだけ、ですか」
2週間苛まれ続けたSにとっては、拍子抜けするような条件らしい。
「それだけとは?」
「お祓い?をしてもらうのにお金がいるとか」
「金銭はいらない。代わりに君は今日、8人の友人を失う。それはもう一生戻らない。軽くはないと思うが?」
Sは考えこんだ。苦渋と、それにまさる根強い恐怖がうかがえた。
「他のみんなも、助かりますか?」
「あぁ。君が条件を守ればみんなが助かる。みんなを助けると思って、友人の事を忘れろ。連絡は決してとらないこと。あとは心霊スポットに付き合うなんて馬鹿な真似を二度としなければ、そんな怖い目には逢わずにすむ」
「わかりました」
 テーブルの上のスマホを差し出し、姉が受け取る。九野さんは何故か少し残念そうにしていた。
「よろしくお願いします」
「引き受けた。もう子守唄は聴こえない。友人のことは縁が無かったと思え。忘れろ」
深々と頭を下げて、Sは カフェを出て行った。
藁にもすがるしかないし、Sは姉を信じるしかないのだろう。
姉は俺にただ働きはしないと言っていた。手伝ってほしいとも。つまり俺はこれからこの件に関して何かさせられる。
「俺には事のあらましを訊く権利があるんだろうな、姉君様」
少しばかりの嫌味を込めて言うと、姉は笑った。
皮肉気でない、素直で明るい笑顔で。
「3日前の件を含めて、肉体労働と引き換えに」
それならば乗りかかった船、あるいは毒を喰らわば皿まで。
きっちり納得のできる終わりを与えてもらおう。

九野さんの運転する車で姉のが住むマンションに寄り、待つこと10分程。
もういいの?と訊ねた九野さんに、いいと姉は短く返した。
思えばこの2人の関係もよくわからないままだ。
高校からの友人だという事は知っているが、時折さきほどのように姉が九野さんを睨みつけたりしている時もあるし、どの程度親しい間柄なのかも実のところ不明だった。
再び車に乗り込んで、次に到着したのはホームセンターだった。枝切バサミを2本購入して、今度こそN山へと向かう。
N山に到着するまでは少々時間がある。
「今回の件、どういう事なのか説明してほしいんだけど」
どういう理由でS達は酷い心霊現象に悩まされているのか。捨てたスマホが戻ってくるという物理的にありえない現象はなんなのか。
訊きたい事はたくさんあった。
「せっかちだなあ、とうま君は」
「九野さんは黙っててもらえますか」
この人と話していると話を色々と混ぜっかえされ、そうこうしている内に本題がなんなのかわからなくなる事がしばしばあった。
うやむやにされた話題がいくつあったかは数えたくない。
「説明されてないのにN山へ行ったってわかった事とか、何人で行ったかとか。際立って罰当たりな事をしたわけでもないS達がどうしてあそこまで憔悴するような目にあっているかとか」
「理由は赤ん坊だよ」
助手席にいる姉の表情は見えない。
「Sの足元には9人の赤ん坊がいた。1人ははっきりしていて、あとは視え方が薄かった。体は赤ん坊だったが、頭は大人のものがついていた。男5人と女4人。目の前にいるSの顔もあったぞ。首には赤い線状の傷が何本も走っていた。ここいらでそんな目に遭いそうな場所、N山しか私は知らない」
赤ん坊の体に、大人の首が乗っている。想像して気持ちが悪くなった。気味が悪いにもほどがある光景だ。
「N山に行ったのは最近それぞれに結婚した連中で、まだ産まれていなくとも子供を授かっていた。単純な話にすれば、自分が失ってしまった愛しい存在をこれから手に入れる者へ、あの山にいるモノが嫉妬した。妬んだ、恨んだ。あそこにナニがいるかは、さすがにお前でも知っているだろう?それに彼等はさわってしまった」
N山に出るモノがどういった存在かは、確かに俺でも知っていた。それほどやばいと有名な場所なのだ。

産まれて間もない赤子をおぶってあやしながら、その母親は熱心に農作業に励んでいた。子守唄を唄っていると泣いていた赤子が静かになって、眠ってくれたのだろうと母親はその後も畑仕事を続けた。
女が仕事を終えて赤子の世話をしようとすると、赤子の首が、頭がどこにも無かった。母親の愛しい赤子の首は、働いている最中に当たった鎌で不幸にも切り落とされていた。
首はいくら探しても見つからなかった。
手元に残ったのは赤子の血で赤く染まった鎌。発狂した母親はN山にある沼へと身を沈め亡くなったが、それ以来、山には赤子の首を探してさ迷う女の幽霊が出るようになった。

ひどく悲しい話だ。
不幸で、救われない。母親も、赤ん坊も。

「子守唄が聴こえるのは母親が亡くなった時間だよ。水音は入水した母親が沼底に沈んでいく音だ」
姉によって語られる毎夜Sを悩ませた心霊現象の真相に、ぞっとせずにはいられなかった。誰かが死ぬ時の音を、Sは何度も何度も繰り返し聴いていた事になる。
教えても恐怖が増しただけだろう。
九野さんはSに問われたから、これらの事実を教えようとしたのか。
「おいしそうだったんだけどなあ」
「黙れ、九野」
「彼等は悪気無しに面白がって行ってはならない場所へ踏み入って、酷く悲しみ、悔いている母親を怒らせた。助からない因果は十分に成立していると思うんだけど」
「産まれてくる子供に罪は無い」
「優しいなあ」
「黙れ」

姉の声音はいっそ憎々しげだった。対する九野さんは楽しそうだ。
だからこの人は苦手なのだ。
朗らかで、悪意が無い。けれど善良では決してない。
得体がしれない。気味が悪い。近づきたくない。

ほどなくして、N山に辿り着いた。
時刻は昼の2時をまわったところで、まだまだ十分に陽が高い。
予想していたが、俺達の他には誰もいなかった。公園駐車場の周囲もSが言っていたとおり草が伸び放題で、荒んだ印象の強い景色だった。
先ほどホームセンターで購入してきた枝切バサミを車から姉が持ち出して、俺と九野さんに一つずつ渡すと、
「さあ、きりきり働いてもらうぞ。男共。夕方までには片づけたい」
N山の奥へと向かっていった。
のだが、道らしきところを進んでわりとすぐに、生い茂ったツタやら長く伸びた樹の枝やらで、それ以上進むのが困難になった。跨げば進めるとかそんなレベルではない。
Sの話とずいぶん違う。別の道があったのだろうかと首を傾げていると、
「ほら、切って進むぞ」
と枝切バサミを指さされた。このために準備してきたなら、この状態を予想というより確信していたのだろう。
「S達は一体どこを通ったんだよ」
「呼ばれた子達がまっとうな道を進めるわけがないんだよねえ」
肉体労働は範疇外なんだけどなぁと呟きながら、九野さんがてきぱきと道を切り開いていく。
1時間ほどかけて、俺達はようやく問題の沼に辿り着いた。俺も九野さんもすっかり汗だくだ。大バサミを使い続けた腕が軋んで悲鳴をあげている。
湖面は穏やかに凪いでいて、不気味さは感じられない。とても恐ろしいモノが出るような場所には見えなかったが、確かに民間伝承には母と赤子の悲劇が記されている。
腹が減ったし割に合わないと、九野さんは座りこんでぶつぶつ呟いている。どうやら拗ねているようだった。
俺も休憩に地面に座って、辺りを見渡してみた。どこを見ても、切り開いてきた道以外に辿りつけそうな場所は無い。どこも草木がぼうぼうでツタが多く、夜に来て簡単に辿りつけるようには思えなかった。
九野さんが言ったように、S達はまっとうでない道を通ってしまったのだろうか。そうでもないと説明がつかなかった。
姉は沼の周囲を歩き回って、何かを探している風だ。
そういえば夜になると手元に戻ってくるスマホの件を訊きそびれている。ここに捨てたスマホが家まで戻るやら、再びゴミに出しても戻るやらの説明がされていない事を思い出した。
「あったぞ」
姉が少し離れた場所で手招きしている。
億劫だったが腰をあげて姉が立つ場所に向かうと、そこには9つの壊れたスマホが残されていた。
「は?」
思わず声が出た。姉が受け取ったはずの、カフェで見たSのスマホまでそこにあった。
「意味がわからない。なんで?スマホは幽霊に行き会った奴らのところに戻ってるんじゃなかったの?」
「戻ってなんかいない。捨てられたスマホはずっとここに在った。ただ、Sには手元に戻ってきてしまったモノが視えていたし、ソレから聴こえる子守唄も水音も聴こえていた。遭ってしまったもの同士には、相互に何らかの縁が作用する。関わりあい、まじないあう」
それは。
共感呪術に関する記述にとてもよく似ていた。
「Sに差し出されたスマホは最初から透けていた。Sには触れるし、Sと一緒にいる間は見えるし触れる。だがSから離れてしまうと、関係が絶たれてソレは無くなってしまう。ここにいる母親と縁が結ばれてしまった者だけが、彼女からのコールを受ける資格がある。だからスマホは見えるし、彼等のもとには存在する。捨てることなんか不可能なんだよ。実物はここにあるんだから」
関わった者だけに視えるもの、聴こえる音。
境界に存在する、不可思議な世界。
「じゃあどうしたら終わるんだ」
その時じっと、背にした沼の方からじいぃっと何かが見つめる強い視線を感じた。
寒い。鳥肌が立つ。関わってはならないモノが放つ独特の気配が、Sがカフェに現れた時にも感じた気配が、強烈な存在感で不意に『こちら側』に浮かび上がる。
沼の方を振り向いても俺には何も視えない。
だが視線は強く強く睨むようにこちらを視ているのがわかった。
足がすくむ。動けない。こんなものどうやってなんとかするんだ。視えなくてもこんなに恐怖を感じる相手なのに、実際に視えていたS達を助けることなんてできるのか。
姉がゆっくりと沼の方へ足を進める。
「ねんねん ころりよ おころりよ」
子守唄を歌い、一歩。
「坊やは良い子だ ねんねしな」
二歩。
「ねんねのお守りは ここにおる」
三歩。足元が水に浸かる。
「この沼いでて 赤子抱く」
四歩。いつの間にか、姉の手の平には簡素な赤子の人形が握られていた。
「人のみやげに こをあげよ」
五歩。ふくらはぎまで沼に入って、人形をそっと沼へ流す。
「ねんねん ころりよ おころりよ 母も良い子だ ねんねする」
赤子の人形は吸い込まれるように沼の中心へ流れ、とぷんと静かに音をたてて消えた。
俺が知っている子守唄とは途中から音階も違っていたが、今ここではそれが正しかったのだろう。
視線はすでに消えていた。あれほど感じた寒気もおさまっている。
沼から足を引き上げると、びしょびしょだと姉は苦笑した。
「これは食べちゃっていいよねー?」
壊れたスマホが落ちていた場所で、九野さんが声をあげる。
「勝手に喰え!悪食!馬鹿!」
「いただきます」
ぱんっと手を一度打ち鳴らすと、スマホの残骸から何か黒い靄が九野さんの方へ流れて消えた。一瞬の事だった。
相変わらず、九野さんは意味不明だった。
「まったく、しまらんヤツだ」
いつのまにか陽が暮れようとしていた。
夕焼けの赤色が沼を染めて、静かに閑かに輝いた。


帰りの車の中で、赤子の人形を贈ったから母親は満足したのかと俺は訊いてみた。
すると少し違うと、姉から応えがあった。
「母親は許されたかったんだよ。己の手で子供を殺めてしまったこと。首を探し出せなかったこと。身を沼に沈めて、命を捧げて、赤子はとうに母の背に還っていたのに、気づくことができなかった。だから赤子に少しだけ形を与えて、その手の内に届けた。正しい赤子の形を得て、ようやく母親は我が子と眠りについた。それだけ」
「優しいなぁ」
「黙れ」
来た時とまるで同じやり取りがされて、思わず俺は笑ってしまった。
そうか、子供と一緒に眠ったのか。
「子供を大事にして、眠ったんだよ」
空は燃えるような赤。この色に姉は何を思い出しているのだろう。
「視えないものが、視えるようになっただけ。最初からそこにいたんだよ」
優し気な、囁くような声だった。
S達も、今夜からは平穏に眠れることだろう。

この話は、これでおしまい。
親子の暗がりは、すでに無い。

【4つ上の姉にまつわる話だ】⑫ 青い鬼







「とうま◆xnLOzMnQ」 2015/03/04

以前の投稿期間からずいぶんと間があいてしまった。
心配していただいた人には、ありがたく、そして同時に申し訳なくも思う。


もうこの話に関しては、書くべきではないのかもしれないと何度も悩んだ。
全てが終わったのだと思っていたからこそ書き始めた姉にまつわる話が、
その後別な形でその片鱗を見せることになるなんてこと、俺は正直考えてすらいなかった。
自分が体験したことすら、未だに半信半疑で、正直、今でも書き記すかどうか悩んでいる。

全ての人に同じような体験が起きるわけがないと思っているが、一応断り書きをいれさせてもらおうと思う。
俺の姉にまつわる『赤い鬼』は、その存在自体はもう無いものの、
知った人間の一部に残滓のように影響を与え、時には災厄に巻き込むそうだ。

俺自身は姉と共に乗った車で事故に遭い、その時たまたま姉が同乗してくれていたから今もまだ生きている。
雪の吹きすさぶ中、自分も事故に遭ったというのに平然と笑っていた姉。



深夜も過ぎた午前1時過ぎ。
国道とはいえぽつりぽつりとしか道路照明灯の無い、それでも通い慣れた道。
月も無く、等間隔にともった道路灯の頼りない光と、車のヘッドライトだけの寒く暗すぎるほど暗い夜の中、
「とうま、お前『赤い鬼』に関して何かしてるだろう?ずいぶんと思い切った真似をしたもんだ」
姉は若干呆れたような眼差しで、それでも責めることすらせず、ただ口の端を少しばかりつり上げて苦笑するだけだった。
高い高い橋の上。
事故で車ごと落下死しなかったことが不思議なぐらいの状況で、まるで恐怖も無いように普通の態度だった姉が、
その時初めて何か恐ろしい存在に思えた。
のぞき込んだ橋の下は、ひたすら黒い暗闇で、
一歩間違えばあの下でぐちゃぐちゃになって死んでいたんだと思うと、寒さよりも恐ろしさで背筋が冷えた。
生きた心地がしなかった。
「興味があるなら、誰でもが覗く権利がある。幽霊だろうが、怪異だろうが、鬼だろうが、ナニモノだろうが」
あの夜の姉の言葉が今でもはっきり耳に焼き付いて聞こえる気がする。
「ただし・・・『かたればさわる』ぞ。暗がりをせいぜい楽しむといい」

俺が死ぬかと思ったあの車事故の話も、機会があればいつか書こうと思う。

これらの話を投稿し始めてから、立て続けに遭遇した様々な怪我や病、機械の故障に果ては事故も、
読んでいる人に『ただの偶然だ。怖い話なんか知ってるからって、何でも結びつけて考えるなよ、馬鹿らしい』と、
笑い飛ばしてほしい。
いっそそうしてもらえると、俺も気が楽だ。

かたればさわる。
ただそれが大事だ。
今後俺が書く話を読む人は、ナニカに自分もさわられることがあってもいいという人だけにしてほしい。
そして、俺の記した話をもし誰かに話すなら、そこに決して嘘を混ぜないでほしい。
『かたればさわる』からだ。

前置きが長くなって申し訳ない。
それでは、いつも通り四つ年上の姉にまつわる話をしようと思う。


姉が小学校の6年になって半年ぐらいの事だ。
当時、母方の実家での父の我慢は年を経るごとに限界に近づいており、祖父と父との仲はかなり険悪な状態になっていた。
祖父が歩み寄ろうとしても、父が受け付けない。
どこの土地で住むにしてもそうだが、
その土地の人間とうまくやっていくには相応の風習というか、暗黙の了解のようなものがある。
父は近所付き合いですら田舎の因習として忌み嫌い、
4件先の小さな工場で働くことも自分にふさわしくない恥としていたらしく、
表面上はものわかりのよいような態度をとって生活しつつも、
深夜になれば今住んでいる場所がどれほどくだらない因習に縛られた時代遅れの低俗な町であるか、
つのる不満を全て母にぶつける日々が続いていたそうだ。
俺は当時小学校中学年にようやくなった頃。
学校の男友達と毎日遊ぶのが楽しく、毎日体力の限界まで遊んでは夜にはすぐ熟睡していて、
同じ部屋で起こっている両親の修羅場にはまるで気づいていない、ある意味では幸せな生活をしていた。
姉はといえば、5年になった段階で一階にある小さな部屋を自室として与えられ、そこで寝起きしていた。
祖父母もまた一階で寝起きしていたが、
それでも深夜に大の男が怒鳴り散らせば、1階にいる誰もが2階の物々しい罵声には当然気づいていたそうだ。
今振り返ってみれば、父が暴れる声も音も、俺だけには覚えがないというのもおかしな話だ。
子供だから気づかない、ですまないレベルだったのは、母にも姉にも祖父母にも確認したから間違い無い。
不自然に抜け落ちているといってもいいほど、ごっそりと俺にだけその体験が失われている。
どうしてなのかは、いまだにわからない。
眠っていたのか、あるいはナニカに眠らされていたのか。

ともかく、俺の気づかないうちに俺の家族の関係はぎしぎしと歪んでいっていた。
たぶん、姉が誰よりも敏感にそれを感じ取っていた。
何せ、もうその頃には父の足下には常に『赤い鬼』がまとわりついてまわっていたそうなのだ。
姉自身には手を出さず、けれど姉の生活の基盤を鬼達は少しずつ削ぎ取っていた。
父の足の後ろから、隠れんぼをしながら悪意に満ちたくすくすという忍び笑いを向けてくる鬼達。
決して顔は見せず、細い手足にずんぐりとした腹、餓鬼に似たその鬼が、
徐々に自分との間隔を狭めているのを、姉は感じていたらしい。
『秘密の友達』が教えてくれた、いつかの言葉。
「赤い鬼に殺されては駄目よ。赤い鬼と同じモノになっても駄目」
それをその都度思い出して、どうしたらあの鬼を退けることができるのか、
そして父を元に戻せるのかを意識しない日はなかったそうだ。
自分はあの鬼らしきモノにとってどんな意味があるのか。
何が鬼の目的で、何を求めているのか。
父方の家筋にまつわり、曾祖父は自らが死ぬ前に『資格』があると言っていた。
資格とは何か、直系の長女にナニがあるというのか。

姉は学校で起こる説明しがたい心霊現象の問題を、人に知られないよう注意しつつも片っ端から片付け、
(何故俺がそれを知っているかと言えば、幽霊退治?の現場に面白がってついて行っていたからだ)
古い文献などを調べ、博識な老人達の元に足繁く通い、打開策を模索していた。
だが、ちょうどその頃から、姉は徐々に体調を崩すようになっていた。
もともと喘息をもっている上に母方の貧血も継いだらしく、
普段はは快活に過ごしていたが、目眩や貧血を起こしぐったりとした姿を見ることも頻繁だった。
そもそも姉は多忙だった。
5年の終わりから当選して引き継いだ学校の児童会長の仕事に、姉の代での校舎閉校、新校舎設立の行事のあれこれ、
一年を通して行われる朝と放課後の運動強化訓練、それから家の手伝いに、オカルト関係の雑事と研究。
小学生のする量ではない労力を姉は日常的に続けていた。
姉なりに必死だったと、いつか酒を飲んでいた姉が珍しく自分から話してくれた事がある。
自分の家に降りかかる災難だけを、何もできずに過ごすことが歯がゆい。
人に視えないものが見えて、交流をとり知識を得たり、あるいは誰かに災厄をもたらしているモノを排除したりできても、
肝心の自分の家族に纏わり付く鬼をどうにもできないならば意味が無いだろうと、
子供なりに研鑽を積めばいつかどうにか出来るだろうと、信じていたのだそうだ。
必死で、ある意味盲目的だったと、姉は言った。
だから気づかなかったのだろうと、その時は陰鬱な表情だった。

俺達が通っていた学校の裏通りには、気さくなおじさんの経営する魚屋があった。
魚屋といっても魚を中心として様々な食品を取り扱い、トラックで地区の端から端まで売りに来てくれるような、
重宝されていた店だった。
田舎といっても、小さいがそれなりに店はあった。
特に学校裏が一種商店街のようになっていて、パーマ屋から燃料店、駄菓子屋に魚屋と様々に、それなりに活気があった。
魚屋のおじさんは恰幅が良く、日に焼けた浅黒い肌もあいまって、ガハハと大きく口を開けて笑う豪快な人だった。
子供が好きで、よく大きな手でがしがしと撫でてくる人だった。
6年の教室を出てすぐの廊下から、その魚屋はよく見える場所に経っていた。


夏が終わって秋が来て、赤トンボやススキなんかが目にとまるようになった季節。
その日は6時のサイレンよりも早く、パトカーのけたたましい音で目が覚めた。
朝の5時頃だ。
たぶん3台ぐらいが連続で通って、もの珍しさにパジャマ姿で眠い目をこすりながらわざわざ外に出たのを覚えている。
せっかく起きてパトカーを探したのに、音だけで車が見れなかったことにずいぶんとがっかりした。
姉は具合が悪いらしく、7時近くになってようやく身支度を調え起きてきた。
朝から貧血らしく、頭を押さえながら青白い顔で食卓につく。
父の食事の時間に父の姿は無い。
ずいぶん前から、父は生活の主体を2階で行うようになっており、団らんの席についたことが無かった。
そもそも父は朝食が遅いのだ。
俺は起きてきた姉に、興奮しながらパトカーが来たらしいことを伝えた。
具合が悪く生返事で、話の半分も聞いていないようだった。
「とうま。パトカーが来るのは何か事件があった時なんだから、喜んだらダメだよ」
「だってかっこいいじゃん!パトカーとか消防車とかパワーショベルとか」
「男子はそういうの好きだよねー」

朝食をとりながら他愛も無い話をして、いつも通り学校に向かう。
学校に近づくにつれて、普段なら出勤しているはずの大人達が道で立ち話をしている姿が増えていくのを奇妙に思った。
学校の真向かいには公民館がある。パトカーはそこの駐車場に止まっていた。
険しい顔をした大人達が行き交い、辺りが物々しい空気にあふれている。
校門には複数の先生が立ち、通学してきた児童ををまっすぐ校内に誘導していた。
明らかに何かが起こり、それに近づけさせまいとしているのだと嫌でも伝わってきた。
全校児童がしばらく体育館に待機させられ、みんなが「なんだろうね?」と口々にざわめき合っていた。
普段なら開けているはずの体育館の扉も全て閉めてあり、
教室へと続く渡り廊下の前には常に2、3人の先生が立って、生徒が体育館から出て行かないよう見張っている。
授業が始まらないのをいいことに、みんなは集められた体育館でいくつかの仲の良いグループでまとまり、
子供らしい雑談をして賑わっていた。

30分ほどして、学年ごと担任の先生に付き従って教室に移動が始まった。
窓際の席だった俺は、教室に入ってすぐにまだパトカーがいるかと公民館側に視線をやったが、
パトカーもいなければ大人の姿も無い、ただの退屈な光景が広がっているだけだった。
がっかりしてふてくされて、自分の席に着こうとした時だった。
にわかに廊下が騒がしくなった。
「あ・・・あああ・・・・・・なんで・・・なんでっ!うそ・・・あああああああぁーっ!!」
奥の廊下から聞こえてきたのは、紛れもない姉の叫びだった。
「姉ちゃん!?」
あんな悲鳴じみた叫びなど聞いたことも無い。
だいたいにして落ち着いて、それこそ他の児童が問題でも起こさない限り騒ぐことなど無い、あの姉が。
ランドセルや運動着の入った袋は廊下の窓側にかけておく。
6年の教室の廊下側からは、あの魚屋がよく見える位置にあった。
「どうしたんだよ!!」
荷物も取り落とし、姉は一点を凝視したまま悲鳴を上げていた。
駆け寄って姉の腕を掴んで強く揺さぶるが変化は無い。
姉の視線の先を辿ってごく平凡な田舎の風景の中に、ぶらり、と垂れ下がったモノを『視て』、俺も硬直した。
見慣れた魚屋の2階。
ベランダにだらりと垂れ下がって、舌をだらしなく出し、日焼けた浅黒い肌が妙な紫じみた色になって、
苦しさに限界まで開かれたまぶたから目玉がこぼれそうな、あの姿は。
魚屋の2階まではそれなりに距離があるはずなのに、それは妙に鮮明に近くで視えた。
首に太い縄。おじさんの体は若干透けていて、体の向こう側にある窓やベランダの景色が重なって見えた。
これが姉の視ている世界なのかと、
幽霊となっても首をくくったまま、時折強風に揺れる魚屋のおじさんのだったモノを俺は初めて鮮明に視て、
知っている人の死後、幽霊となってもグロテスクな有様に吐きそうになった。
突然バランスが崩れ、俺はその場に転んだ。
姉が気絶し、引っ張られて俺も転んだのだ。倒れた姉の顔色は蒼白で蝋のようだった。
騒ぎ出す児童をそれぞれの担任がなだめて教室へと押し込む。
姉は先生におぶられ、保健室へと運ばれて行った。
掴んでいた姉の腕はもう離れている。
魚屋の2階のベランダには何もない。
もう何も、視えなかった。

昼休み。保健室で目を覚ました姉は、保険医が早退を勧めてもそれを断り、あまつさえ家への連絡も拒否していた。
朝から貧血気味だったところに登校して変な騒ぎだったから、
頭痛と目眩がした時に今朝見た怖い夢を思い出してパニックになっただなどと、
口からでまかせもいいところな言い訳をしていた。
家に連絡がいって変に大事になるのが嫌だと担任と保険医に頼み込んで、とりあえず落ち着いた様子だしと不問になった。
普段から真面目の皮をかぶっていたのが幸いしたのだろう。
俺はもう呆れ果て、姉の言い訳にテキトーに話を合わせて終わった。
それから、姉の知っている世界と自分の知っているせかいのあまりの違いに、今更気後れしたのもあった。

姉があまりに普通にしていたから、気づかなかった。
あの時、俺がもう少し物を知っていて、何か力になれたり、せめて相談に乗れていれば、
何か変わっていたことはあったのだろうかと、今も時折思う。
思えば俺は、姉のことについてもう少し考えるべきだったんだろう。
自分が年下であるというのを差し引いても、色々とオカルト的なことに関しては一緒に経験していたのだから、
ただただ聞くだけに終わらせず、姉のように色々と考えてみれば良かったのだ。
そうすれば、あの時姉が弱っていたことにも気づけたかもしれなかったのに。


3日もすると姉は完全に調子を取り戻し、放課後の運動強化練習にも普通に参加していた。
秋は学校対決の陸上競技大会があるから、練習時間も長くなる。
夕焼けが眩しく、秋風が気持ちいい。
俺はわりあい短距離走が得意なので、タイムを上げる筋力強化メニューとやらに励んでいた。
対照的に姉は短距離走が嫌いだ。
「すぐに終わるから楽しくない」と、真面目に短距離で走らない意味不明な理由を聞いたことがある。
そもそも運動が全般的に得意な姉が、競技大会に向けて取り組まされているのは走り高跳びだった。
もともと身長が高いという長点と、
「空が見えて面白い。蒼いから好きだ」と、これまた意味不明な理由で割合熱心に記録を伸ばしていたから、
競技選手に選ばれていた。

夕日が陰ったような気がして、俺は空に眼をやった。
雲も無く、陽はちゃんと差しているのに、何かが妙に薄暗い気がする。
目をこすってみても何も変わらない。
急に日陰になったわけでもないのになんだコレと首をひねって、
100m走のコースを眺めるような位置にある学校向かいの墓に目がいった。
そういえば、墓地の上に学校を建てたんだよと姉が教えてくれたことがあったなと思い出して、妙な不安感にかられた。
姉の姿を探して、ちょうど高跳びで飛んだ瞬間の姿を見つけ、地面から姉に向かって伸びる何本もの腕を視て、
その腕の中にあの魚屋のおじさんの妙な紫じみた腕がもがくようにすがるように伸びているのを視て、
何本もの腕が宙にある姉の足に絡みつき、引っ張り、マットの無い場所へ落とすのを視ていた。
何もかもが一瞬だった。
170cmのバーを落とさず跳んで、その位置から固い地面に叩きつけられた姉が声も出せずにもがいている所へ、俺はこれ以上無いスピードで走った。
一番早く走れた気がするが、そんなことはなんの救いにもならない。

すぐに大騒ぎになって、今度こそ姉は病院送りになった。
背中から腰までを強く打ち、しばらく姉は歩けない日々を送ることになった。
「すぐに治るからだいじょうぶだよ」
「うそだ。一つも大丈夫なことなんかない」
「・・・・・・。何か視えでもしたか?」
「・・・・・・・・・・・」
「言いたくないなら答えなくていい。怖いなら離れてろ。視ず、聞かず、知らずにいろ。それなら安全だ」
ベッドの上で痛々しい姿で身を横たえたまま姉は言ったが、安全などないことを俺は知っていた。
あの時校庭で呼吸もままならず、痛みに身じろぐ姉の手に触れた時、俺にもそれははっきり聞こえていた。
『あーし、あーし、つかまえたー』
『かーんど、かーんど、つかまえたー』
姉の語る赤い鬼が、その日は俺にも視えた。
甲高くザラついた、ビデオテープか何かの音を無理に引き延ばしたような、不快で間延びした鬼の声。
姉は痛すぎて落ちたと時のことは覚えてないと言う。
俺はあの日視たもの、聞いたものを何も伝えなかった。

すがられていたよと教えて、いいことが起きるわけもないと嫌でもわかってしまった。
墓の上に建てた学校には幽霊が移り棲むのだ。
プールに七不思議が産まれた時に、そう言っていたのは他ならない姉だ。
気さくなおじさんも、あの学校の土地に棲むモノに引き込まれたんだろうか。
けれど、あのおじさんが自殺後に、赤い鬼を呼び込んで好きにさせた引き金になったのだと、それは確信できていた。
『やぐそぐ、ど、ぢがううぅうううううう』
赤い鬼は痛みにうめく姉の周りで、おじさんを貪り喰っていた。
死んだ後にも痛みがあるなら、本当に地獄だとそんな風に思った。
生前の気さくな面影はなく、恨みの言葉を吐きながらかじられていくその姿に同情はできなかった。


後日の話だ。
無事に歩けるようになったは良かったが、姉の小学校卒業と同時に、慣れ親しんだ母方の実家を出る事が決まった。
中学校に近い場所に家を借りて、そこで父の治療院も開始するとのことだった。
喜色一杯に、
「不自由の無いところへ行けるぞ。とうまも町の大きな学校の方が設備もいいから楽しみにしてろ」
祝杯だと機嫌良く酒をあおる父に、
「わかった。住む場所は決まってるの?」
「家を借りる金はきっちり準備できたし、何も心配いらないぞ。ゆくゆくは家を買ってやるからな、いい家があれば」
すぐに背をむけ、自分の部屋へと戻る姉が階段で漏らした呟きを、俺は聞き逃さなかった。

「つかまったか。この間の足のぶんだとでも言いたいか・・・馬鹿鬼共が『カンド』になぞ、誰がなるものか」

呪いじみた重い響きだった。
痛みで覚えていないはずの姉が、何故鬼の言った『かんど』というものを既に知っていたのか。
知る度に、より謎も因縁も深みへはまっていく。

中学、高校とさらのその先も、その縁は続いていく。
どんどんと深みへ。暗がりへと。


【4つ上の姉にまつわる話だ】⑪ 電話






「とうま◆xnLOzMnQ」 2014/09/07

4つ上の姉の話だ。
何故かはわからないが『赤い鬼』にまつわる因果に深く関わりがあり、不思議な出来事によくよく遭遇する姉。
他人には見えないモノと聞こえない世界を知りながら、あっちとこっちの境界線を飄々と歩いている、そんな姉だ。
小学生の時に引っ越して、七不思議を初めとして通う小学校では色々あったが、
たぶん当時の姉が最も嫌がった出来事が、小学校6年時に遭遇したこの事件だと思う。
俺も巻き込まれた形で、この件には直接関わっている。
小学校段階で降りかかった実害レベルも、あれが最大だったんじゃないだろうか。
『かわき石』。それがその石の名前だった。
正確な由来は知らない。
けれど校舎が尋常小学校と呼ばれていた頃から、その石は学校の中庭にあったという。
昔は信仰の対象であったとも、祖父母から聞いた。
母が通っていた頃にもその石はずっとあって、けれど詳しいことはだんだん忘れられていたという。
ただ、大事にしなさい、と先生達には教えられていたそうだ。
かつてはきっと大事にされていたんだろう。



俺達の代ではそれは『呪われた石』として有名だった。
触れると呪われるて、必ず不幸に見舞われる。
その話のせいか、児童達も中庭にはあまり集まることはなく、昼休みでもそこはいつも閑散としていた。
中庭のすぐ近くが校舎裏の杉林で、うっそうと生い茂る杉が陰を落として、
なんとなくいつでもうす暗い場所だったせいもあるかもしれない。
俺も『かわき石』と呼ばれるその石を、間近で見たことがある。
もちろん友達数人と一緒にだ。
大きさは横20cm、縦10cmぐらいだったと思う。
当然触ってないから重さはわからない。
石特有のゴツゴツとした感はあるものの、全体的につるりと光沢があるような石だった。
中庭にごろごろと転がっている具通の石とは一目で違う事がわかる。
赤と橙と黄色を混ぜたようなで色合いで、
一番特徴的だったのが、滑らかな表面に年輪に似たはっきりとした模様があったことだ。
その時は格別嫌な感じも何もしなかった。
男子は面白がって、
「お前触ってみろよ」
「なんだよ怖いのか」
「じじばばが触ったらダメだってウルセーもん。先生も」
と集まっては冷かして、結局誰も触らないというのが日常だった。
怖くて不思議なことには子供は結構貪欲だ。

ところでうちの隣には、N君という姉の一つ下の学年の男子児童がいた。
一見細見なんだが、乱暴なことが好きというか、物や人に危害を加えるのが好きな、ちょっと問題行動のある子だった。
何かの拍子にキレて、教室の机を先生に向かって投げ飛ばしたり、
同じクラスの女子を殴って、泣いて鼻血が止まらなくなるまで殴って、先生に押さえつけられたことがあるような子だ。
N君がどうしてそんなことをしてしまっていたのかは、未だにわからない。
普段は普通の性格だし、変な行動もしないのにどうして、と当時の俺は不思議に思っていた。
家が隣同士ということもあって、それなりに交流も持っていた。
姉も混ざって一緒に遊んだことも多い。
突然暴力をふるう以外は、わりとどこにでもいる小学生だった。
当時学校でオカルトがブームになっていた中では珍しく、N君はオカルト否定派だった。
N君曰く、
「幽霊いるとか信じてる奴らって全員馬鹿っじゃねーの。盛り上がって、実際みたことあんのかよ。連れてきてみろよ。
 お前らみんな嘘つきでバカ、バーカ、バーカ」
完全に馬鹿にしていた。
姉はその辺はどうでもよかったらしい。
そういう現象に関してどう思おうが個人の勝手、というのは姉が小学生の時からのスタンスだ。
信じたきゃ信じればいい。
否定したければ否定すればいい。
ただ、何かをしたら無関係ではいられない。
縁ができて、報いや恵みをもたらすこともあると、
あまり小学生の段階ではオカルトに関して語ってくれなかった姉が、俺に教えてくれたのはそんなことだった。


それはいつもと何もかわらない日。
昼休みに騒ぎは起こった。
女子たちの悲鳴と、「やめなよ!」という焦った声、
それから男子の「やれるもんならやってみろよ!」という、なんだか喧嘩でも起こってそうな声が聞こえてきた。
騒ぎとしてはまだ小規模だったが、体育館と中庭が近かったのでバスケをして遊んでいた俺にも偶然聞こえたという感じだ。
何事かと思って駆けつけてみると、
『かわき石』を手にし、大きな庭石の上で仁王立ちしたN君の姿が目に飛び込んできた。
N君は叫んでいた。
「こんなもの信じてる奴が死ね!呪われて死ね!」
まずい、完全に凶暴なスイッチが入ってしまっている。
止めようと近づく誰かがいると、そいつに向かって石を投げつけるような仕草で威嚇する。
騒ぎを聞きつけた姉か先生がきてくれればと思ったが、それは少しばかり遅かった。
2階から駆け下りてきた姉が声を張り上げる。
「N、何する気だ!!」
「俺は信じてねーから!お前ら馬鹿なやつらとは違うんだ!!呪われて死ぬとか、絶対ありえねえんだよっ!!」
「誰もお前が死ぬなんて思ってない!やめろ!!それ以上口にするんじゃない!」
姉の制止を振り切って、N君の両腕が地面に向かって振り下ろされる。
ばきっ、と乾いた音が響いた。集まっていた児童が静まり返る。
『かわき石』は渾身の力で固いコンクリート地面に叩きつけられたにも関わらず、粉々になることはなかった。
ただ、ありえないほどきれいに、真ん中からばっくりと二つに割れていた。
「ああ・・・・・・」
姉の苦渋に満ちた溜息が聞こえた、瞬間だった。
地面に割れた断面をさらしたままの石から、黒い靄のような何かが空へと立ち昇っていくのが、俺にも見えた。
目をこすってみたが、消えることはない。
そして、他の児童には黒い靄は見えていないようだった。もちろんN君にも。
「ほらみろ、何も起こらないじゃねーか!呪いなんか嘘っぱちなんだよ!!」
N君は大きな石の上で勝ち誇った表情をしていた。
なーんだ、と言わんばかりに興味を失った児童たちが中庭から数を減らしてゆく。
その間も、黒い靄、というか煙に似た何かは空に昇り続けた。
おおよそ一分ほど、風で消えることも揺れることもなく、ただ真っ直ぐに空に吸い込まれていった。

やがてN君もどこかへと昼休みを満喫しに姿を消し、残ったのは俺たち姉弟だけになった。
姉は昼休みの時間ぎりぎりまで、その場所にとどまって『かわき石』を見つめていた。
「今後一切何があっても、あの割れた石には触るんじゃないぞ」
強い口調だった。
「何か起こるってわかってるなら、ねーちゃんに何とかできないの?」
一瞬姉は悲しそうにして、
「信じていない者は、謝ることもできないからな。何もしてやれない。
 『存在』を受け入れていない者が禁忌を犯して、それなのに報いを回避するっていうのはほぼ不可能だと思う」
何やら難しいことを言っていた。

昼休みの騒ぎなど嘘だったように午後の授業が始まり、放課後を迎えても何も起こらなかった。
ただ、N君が『かわき石』を割ったという事は、ほぼ学校のみんなが知るところとなっていた。
若い先生たちは石を一つ割ったぐらいならと、逆に楽観的な空気だった。
年を重ねた用務員さんだけが、難しい顔をしていた。

帰り際、用務員さんが姉に声をかけてきた。
「『とや』のぉ、あんたどうするつもりだね」
「どういった形で起こるのかわからない以上、待つしかないです」
「難儀だな」
「本当に」
軽い会釈をして、用務員のおじさん(おじいさんに近い)は仕事に戻っていった。
俺たちは家に戻り、いつも通り次の日の学校の準備をして、夜9時過ぎには眠りについた。

バリバリバリバリイイイイィッ!!
聞いたこともない音に驚いて目が覚めたのは真夜中。
暗闇に目が慣れるまで時間がかかるはずなのに、外がいつもより明るかった。
時刻は2時過ぎ。ちゃんと真夜中だ。
2階で一緒に寝ている両親の姿がなかった。
姉はその頃には自分の部屋を与えられていたから、俺1人が部屋に取り残されている。
寝ぼけた目をこすって、一階に降りると明かりがついていて、玄関も開いていた。
少し離れた場所に、祖父母と両親、姉の姿がはっきり見えた。
違和感を感じながらも外へ出て、俺は音の正体がなんだったのかを知り、驚愕した。
隣家との境には5メートルほどの敷地があり、
そこにはN君の家の人が何本も木を植えては世話をして、わりあい立派な木庭があった。
N君の敷地へはそのまま繋がっていて、一番傍には立派な松の木が枝を伸ばしていた。
その松が、真っ二つに割けて燃えている。
ようやく俺は違和感の正体に気付いた。
こんな真夜中に、玄関のあかりだけで家族の姿があんなにはっきり見えるわけがないのだ。
轟々と燃える炎に照らされていたから、全員がくっきりと見えたんだ。
姉の側に駆け寄ると、
「シルシだ」
と呟いたのが聞こえた。

怯えた隣の住人も全員出てきていて、燃える松の大樹を眺めている。
燃え盛る火の勢いはかなりのもので、ほどなくして消防車が到着し、消火活動を始めた。
だが、これがなかなか消えない。
普通ならばすぐに鎮火しそうものなのに、まったく火の手は衰えることなく、ついには家の端に燃え移った。
煙は昼に見たものによく似た黒い煙で、それでいて立ち上る量は比べものにならないほどだった。
応援を要請する緊急連絡が出され、結局3台の消防車で鎮火にあたり、結局N君の家は半焼した。
雨も降らない、雷の気配も無い、そんな夜の出来事だった。

火事の後、N君はますます乱暴になり、それが原因でみんなが怖がって近寄らないようになっていった。


数日後、やはり放課後に用務員さんに行き会った。
「災難だったな」
「えぇ、まあ。即座に『シルシ』が来るとは思いませんでした。
 せめてもう少し時間がかかるかと思っていましたが、見通しが甘かった。さすがに容赦が無いですね」
「神様は本来恐ろしいもんだ。仕方ない」
「あの!」
俺は思い切って二人の会話に割り込んだ。
「『かわき石』ってなんだったんですか?用務員さんは知ってるみたいだけど、火事と関係あるんですか?
 それに『シルシ』ってなんなんですか!?」
俺の問いかけに、用務員さんはおっという顔をして、
「何も教えてないのか」
「必要があることと、聞かれたことには答えてますよ」
「じゃあ何も知らんのと一緒だな」
にか、と用務員さんが親しげに笑った。心なしか側にいる姉の空気も柔らかい。
「用務員さんはね、前に私がこの土地の伝承とか、風習とかを社会の勉強で調べた時に一番お世話になった人だよ。
 この土地のことにとても詳しい」
だから親しげだったのか。
姉が民俗学者みたいなことをしているのは、大人たちの間で結構知られていることだ。
子供がフィールドワークらしきことをしていると、年寄たちは面白がってお茶に読んで話を聞かせる。
「とやの坊主、『かわき石』ってのはな、元は学校に通う子供たちを守って下さいって神様にお願いする時の道具だ。
 人間が使ってるもので言えば電話みたいなもんだ」
「電話?」
「『彼我来石』と、本来はこう書く。彼は神様。我はお願いする人。神様が自分のところへ来る石っていう意味だな。
 学校の子供を守って下さい、それだけのものだ」
守ってくれるなら、やはり割ったのがいけなかったのかと問うと、
「割ったことも悪いが、学校の子供達を守るための神様だからなあ。
 その子供らみんなに『死ね』って言って割ったのがまずかったんだろうなぁ」
「『シルシ』っていうのは?」
「この神様は陽に属する神様なんだ。
 坊主には難しいか?陽は火に転じて、正しく来ると玄関に蝋燭の灯りみたいに小さい炎の印が残る。
 今回はN君が悪いものと判断されたんだろう。
 松は神様が宿るもんだって言われるから、
 割られて燃えたなら、N君の家は神様に守られる資格無しって罰が来ちまったのかもなあ。
 火勢は神様がそんだけ怒ってたんだろう、たぶん」
「しかしこれで、本当にこの学校を守るものがなくなってしまいましたね。
 私が最後の卒業生で良かった。新校舎の着工も順調みたいですし」
「あぁ、玉串捧げたんだってなぁ。お前さんが地鎮にいったなら、新校舎はまず問題ないだろうさ」
用務員さんの話は難しかった。俺は半分も理解できたかどうかといったところだ。
そしてあの日と同じように、会釈して「さようなら」と帰り道を進んだ。

「用務員さんも見える人?」
「あの人は感覚が鋭い人だ。気になるなら本人に話を聞くといい」
「ねーちゃんは本当に何もできなかった?」
納得できてない部分だったので、直接聞いてみた。
少し黙ってから姉は、
「無理だな」
言い切った。
今までいろいろな事柄をどうにかしてきたことを知っている俺としては、何故今回に限って駄目だったのかがわからない。
「用務員さんは電話みたいなものと言ったが、正確にはあれは神様と自分の間に縁を繋ぐものだ。
 縁を繋いで一時的に強くし、子供たちを守るという願いを届け、神を招くもの。
 けれど神様でなくとも縁は繋げる。ましてすでに繋がってる縁があるなら」
意味がわからない。
「石にはちゃんと魔除けの印があったが、それでも私があの石に触っていたら、もっと酷いことが起きていただろうさ。
 『赤い鬼』との縁を深めるなんて死んでもごめんだ。絶対に嫌だ。それこそ何が起きるかわからん。
 お前は大丈夫だろうが、間違っても石の欠片に触るなよ」
すとんと、語られた理由が収まるべきところに収まったような気がした。
それで絶対に無理なのか。
「石の魔除けって何だったの?」
すでに失われたものは確かめようがない。
「なんだ、気付いてなかったのか。さんざん眺めに行ってたのに」
バレていたらしい。それでも基本的に放任してくれるのがありがたい。
「石に年輪みたいな模様があっただろう」
「うん」
「中心がくっきりとした濃丸型。石の形は菱形に近くて、中心の丸を取り囲むように年輪上の模様が広がっている。
 もう一度頭の中で模様を思い出してみろ、何かに似てないか?」
「えー」
何かと言われてもと考えて、俺は記憶を探って石の模様を思い出す。似てるもの。似てるもの。
「!!」
「わかったみたいだな。あれは『目』だよ。あの目を通して、神様と言われるナニカは全て見ていたんだ。目は魔除けになるというけれど、割れたその中には良くないモノが溜まっていた。
お前も見たんだろう?家が燃えていた時とよく似た黒い煙が石の中から出ていったのを。
私たちは本当はナニに見られていたんだろうな」
空に吸い込まれていった黒い靄を思い出す。
わかるか?と問いかけられたが、当然答えることはできなかった。


【4つ上の姉にまつわる話だ】⑩ つかまる 






「とうま◆xnLOzMnQ」 2014/08/20

4つ年上の姉の話である。
人には視えないモノを視て、日常と非日常の混ざった不思議な世界に身を浸した、それでも快活な姉の話だ。
姉の視る『異界』を、俺は共に在る時だけ共有することができた。
不可思議でおぞましく、けれど何処か心惹かれる、恐ろしいけれど尊いこともあった、理解しがたい数々の世界を。

怪談や都市伝説、オカルトにはブームがあるような気がするが、当時小学生だった俺と姉の世代にもそういう時期があった。
学校で起きてしまう様々な説明のつかない事故。
怪我人が出ても止まらない当時の同じ学校の児童は、
好きなものにハマッて熱狂するというよりは、狂乱していたと言った方が伝わる気がする。
怪談の無いはずの小学校にいつのまにか産まれ、増えていき、最終的に『七不思議』として完成したアレら。
それで被害が出ても、喜ぶ児童達。あれは明らかに異常な状態だったと、俺は今でも思う。
今日はその中から一つ。
『一三階段の呪い』について話させてほしい。



俺と姉が引っ越して通っていた学校は本当に田舎にあった。
四方を山に囲まれ、少し視線を向ければ田んぼの棚田が綺麗な段々を描いている。
森の中の山道は格好の遊び場で、カブト虫やクワガタと捕って競ったり、友達と桑の実を食べ合ったり、
なんかよくわからないトゲっぽい実を投げ合って服にひっついて取れない実と悪戦苦闘したり。
何もかも子供心に新鮮で、楽しい日々だった。

学校の怪談が児童達の間で流行りだしたのは、図書室にはいった『学校の怖いはなし』シリーズが最初だったと思う。
普段図書室なんか使わず、サッカーやバスケットボールで遊ぶ男子達まで、集まってはみんなで読み回し、
オバケがいるだのいないだと、デタラメといいつつ女子を怪談ネタでさらに怖がらせたり、
なんのことは無い、よくある日常のはずだった。
最初は。

書き忘れていたが、俺の姉の特徴のようなものを今まで書いてなかった気がするので、ついでに書いておこうと思う。
一言でいえばものすごい本好きだ。
しかも読むのがめちゃくちゃ早く、どの本のどこに何の話があったかまで覚えてられるような、妙な特技を持っている。
これは単純に小さい時からの話で、絵本から始まって文庫に至り、
俺だったらすぐに閉じて読むことを拒否するような分厚い2段組の小さい文字で書かれた辞書に似た類いの本まで、
活字と在れば楽しんでいたような人だ。
小学校の時の自分の愛読書はこれまた字の細かい2段組の『世界の童話』、
それからかなり大判で重い『日本のむかしばなし』だった。
『日本のむかしばなし』はふしぎなはなし、楽しいはなし、すこし怖いはなし、わらいばなしの四項目に分かれていて、
読まれ過ぎたその本はある日無残にも真ん中から割れたという逸話がある。
本を割るほどに読み込んだ姉はめちゃめちゃへこんでいた。

もう一つは探究心がものすごく旺盛だということ。
夏休みの課題で誰もが嫌がる自由研究を喜々として、引っ越した先の『郷土研究』としてまとめて提出したり、
本から覚えた知識で実際に草木染めを作ってみたり。
調べること、実践すること、探求することに並外れていた。あと、着眼点も変だった(俺にとっては)。

両親が共働きだったから、姉が物心つくころ育ててくれたのは祖父母ということになる。
祖父とキャッチボールをしたり、祖母と庭の手入れをしたり、
それが父と母で無いというだけで、おおむね普通の生活をしていた。
ただ、祖父母が相手だから昔の話を聴く機会は多かったのかもしれない。
俺は小学校の頃はだいたい友達と遊んでいたぐらいの記憶しか無い。
ようは楽しい記憶が多いということで、それは俺にとっては幸せなことだった。


脱線はこれぐらいで、肝心の七不思議『一三階段の呪い』について話そう。
何度か書いてきたが、姉の話によると俺たち姉弟が通う学校に元は怪談なんて存在しなかったそうだ。もちろん七不思議も。
それが姉が小学校に転校してすぐにオカルトブームに行き当たり、その流行と共に産まれて、
通っているうちに七不思議は増えていき、実際に被害が出て、七不思議として完成してしまった。
無かったことが、それこそ何十年も前からあるように皆が話すようになった。
築何年か不明の木造校舎は雰囲気たっぷりで、児童が怪談を期待するには十分過ぎるほどの場所だった。
しかも元は墓地で、そこを潰して建てられている。
流行にのった誰もが、恐れながら期待しながら、怖い出来事を待っていた。

七不思議『一三階段の呪い』とはこんな話だ。
放課後、誰もいない時に一人で行わなければいけない。
誰もいないことを確認したら、踊り場に立ち、まずはそこから2階へ向かって階段の数を数えながら昇る。
この間、決して言葉を発してはならない。頭の中で階段の数を数える。
2階に着いたら、今度は踊り場を目指して同じように階段の数を数えながら降りる。
昇った時と降りた時で階段の数が違わなかったら成功。願い事が叶う。
もし、昇りと降りで数が違い、一段増えて13階段になっていたら、あなたは呪われる。

単純といえば単純。呪いといいながら、要は願い事を叶える儀式なのだ。
いかにも子供らしいというか。
だが姉はこの間、オカルトへの熱狂を眺めている時、終始不機嫌そうだった。
だいたい笑顔の姉には珍しく、しかめつらの日々が多かった。
それも『うぶすな』の沼を訪れる前の話だが。
沼に行った以降、姉は元の快活さを取り戻した。
あの時は不機嫌だったのではなく、もしかすると原因を考察していたのかもしれない。

話は子供が考え出した、稚拙な願い事を叶えるための儀式では終わらない。
七不思議 『一三階段の呪い』は正しく機能した。
あなたは呪われる。
つまり、犠牲者が出たのだ。

とある日学校に着くと、なんだか空気がざわついていた。
ひそひそと陰で集まって何事が話しているグループがあちらこちらに。
意味がわからず下駄箱で靴を履き替えて教室に向かおうとすると、階段付近が大騒ぎになっていた。
渡り廊下で泣いている女子もいる。
すぐに先生達の大きな声が聞こえてきた。
「近づくんじゃない!」
「大人しくして!
 みんなは一年生の教室か図書室、階段の近くが嫌な子は体育館にいなさい!!
 危ない事はしちゃだめですからね!!」
姉が踊り場を睨むように見据えていた。
そこには、腕の関節が妙な方に曲がり、片足が完全に折れて泣きわめいている一人の女子の姿があった。
姉の一つ年下の学年の、学校のごく近所に住むYちゃんだった。
細めの体格で髪を長く伸ばし、優しい美少女お姉さん風の女子だ。
男の先生は痛がってなお暴れようとする女子生徒を押さえ、できる限りの応急処置をしていた。
「痛い痛い痛いいいいいいいいぃ!!助けて!!助けて放して!!」
押さえ込む男の先生は汗だくだった。どれぐらい前から、この状態が続いているのだろう。
Yちゃんは長い髪を振り乱し、一部は汗で張り付かせ、普段の優しげな顔からは想像できないような険しい形相で、
「「は な せ えええええええええええ!!!」」
一声叫ぶと目をぐわっとかっ開き、口の端に泡をしたたらせ濁ったような声で、
女子が押さえつける先生の腕に思い切り噛みついた。
直後救急車が到着し、担架に乗せられ女子は暴れないように固定されて、搬送された。
昼休みは当然大騒ぎになり、噂を口々にいう児童と、否定して回る先生達とで異様な状態だった。
午後の授業もみんなうわの空。
後日、校長先生から保護者も集めての『事故』に関してのお詫びとより安全に配慮するという挨拶が行われたが、
児童の中で納得している者はたぶん誰もいなかった。

これが初めの年の出来事。
Yちゃんは呪われたんだという者がいたり、呪いなんてあるわけないという者がいたり、
Yちゃんが退院して帰ってくるまで、好き勝手に噂は続いた。
けれどYちゃんが無事に戻ってくると、そんな噂も立ち消え、もとの学校生活が戻ってきた。

Yちゃんの家は「石屋」と呼ばれている。
田舎だから屋号で呼ぶ風習が残っているのだ。うちが「とや」と呼ばれるように。
「石屋」とは文字通り庭石を扱ったりなんだりする仕事だが、
その仕事のほとんどは墓石を作り、設置するもので田舎では特に重宝されていた。

翌年もYちゃんは階段から落ちて骨折した。
一人で発見されて、半狂乱の姿を見せて、入院から帰ってくるとけろりとして松葉杖をついている。
他の誰も落ちない階段で、Yちゃんはその翌年も落ちた。
他の誰もがどれほど試したかわからない願いを叶えるおまじない。
効果がなくて、ただ昇りと降りで数が合うだの合わないだのの、ただの肝試しと成り果てた『一三階段の呪い』で、
たった一人、ただ一人、Yちゃんだけが3年間連続して落ちて骨折した。
みんなもう、ただの連続とは思わなかった。
本当に呪われたのだと、そんな空気が言葉にせずとも流れていた。
もともと肌の白いYちゃんはなんとなく遠巻きにされるようになったせいか、ますます青白くなり、目に見えて落ち込んでいた。

「あ、とうま君」
ある日校庭に俺の姿を見つけたYちゃんが近寄ってきて、力無くひらひらと手を降った。
「とうま君、私なにかしたかなあ」
校庭に一定間隔で半分だけ埋められたタイヤ群、通称「連続飛び箱」と呼ばれている遊具を腰掛けがわりに座り、
俺はYちゃんと少し話をした。
「骨折して運が悪かったなあとは思ってたけど、まさか続くとは思ってなかった。
 なんかみんなよそよそしいし、
 最初は不注意だって怒ってたお父さん達は、
 この間町に連れて行っていきなり『お祓い』してもらえって、わけわかんないことされるし」
「おはらい?」
「そう、意味わかんないよね」
「わかんないって、Yちゃんの一三階段のことなんとかしようとしたんじゃないの?」
「なにそれ?」
「だから七不思議の・・・」
「ストップ!ストップ!!」
俺が七不思議について話そうとした途端、Yちゃんは耳を塞いで大声で俺を制止した。
そしてそろーっと目を開け、耳から手を放すと、
「それ怖い話?怖い話だよね?七不思議ってそうだよね?
 ごめん、無理!私怖い話とか聞くのもTVとかで見るのも絶対無理なの。怖いの苦手で、苦手っていうか嫌いで」
「え?」
俺はYちゃんの話に逆に驚いてぽかんとしてしまった。
「Yちゃん、願い事が叶うおまじないとかやったことない?」
「ないない。だって、効かないもん。
 好きな人と両思いになるのに消しゴムに名前書いて、誰にも知られないように使い切るとかでしょ?
 そんなことしても両思いにはならないと思う。
 それより、自分が好かれるようなことした方がいいって。相手の好みを知るとか、一緒に遊んでみるとか」
話してわかったことは、Yちゃんが怖い話関係は一切関わらないようにしていること。
だから学校の七不思議も当然知らないだろうこと。
つまり 『一三階段の呪い』を実行したとは思えないこと。

俺は自分なりにYちゃんから聞いた話を姉に伝えてみた。
すると姉は「どうりで」と一言呟いて、その日はそれっきりになってしまった。


次の日の夕方だ。
姉は俺に、用事があるから先に帰れと言ってきた。
高学年になった姉は児童会に所属していたから、色々と忙しかったのも事実だった。
俺は俺で『うぶすな』の件が気になったし、先に帰ることにした。
だからここから先は、姉があの時いったい何をしたのかを聞きだしてわかったことだ。

俺が帰宅で学校を出たのを確認し、姉は『一三階段の呪い』を実行したのだそうだ。
ただし、素直には実行しなかった。
階段の数も数えなかった。
踊り場で手を叩き、小さな声で謳いながら、それを始めたそうだ。
「おにさんこちら、てのなるほうへ」
「おにさんこちら、てのなるほうへ」
二度謳って、昇り始める。
手は叩いたまま、童謡『はないちもんめ』の言葉を変えて。
「刈って嬉しい骨折れ花を、集え楽しき一三階段」
「あの子がほしい、あの子じゃわからん」
「この子がほしい、この子じゃわからん」
「集まれ、怪談のまじないご」
2階まで辿り着いたら、今度は降りで同じ事を。
「集まれ、階段の呪い子」
くるりと振り向いたそこには、数人の児童が音も無く立っていた。
感情の無い、人形のような眼差しがいくつもならぶ。
「お前達のやったことは他愛ない子供の遊びかもしれないが、被害が出たのにやめなかったお前達は今やおにの子だ。
 人を呪わば穴二つ。人の子の嫉妬、鬼の子の呪い、等しく還れ。業よ還れ」
柏手を高く二度打ち鳴らす。
「この場所に怪談は存在しない。嫉妬と妄信でできた七不思議『一三階段のおまじない』、宿り子はもう無い。
 お前も無かったのだから無きモノへ還れ」
踊り場を打ち鳴らすようにだんっと踏み、さらに柏手を一拍。
途端、ぐたりと力を失い、踊り場に集まった児童は姉の足下へと倒れ伏した。
俺が見つけたのは、ちょうど祓いが終わった瞬間だったらしい。

「秘密だよ」
口元に一差し指を当て、にやりと猫のように笑んだ姉。
その後は保健室へ行き、「怪談の踊り場で何人か倒れてましたよ」といけしゃあしゃあと報告し、
慌てて見に行った保険医が職員室へ駆け込み、一時は騒然となった。
姉は当然事情を聞かれたが、「さあ、見つけただけなので何もわかりません」と平然と真実に蓋をしていた。
いや、この場合『クサいモノに蓋』だろうか。

踊り場に居た児童は自分たちがどういう状態かわからず、
しかしきつく叱られるうちに、七不思議 『一三階段の呪い』のやったことを全員が自白したらしい。
「目的は美人でもてるYちゃんが妬ましかったから、少し不幸な目にあえばいいと思った、だろ。
 男子から人気があるのも考え物だ。嫉妬で複数の人間から同じ願いをかけられるとは」
「『一三階段の呪い』の話と違う。
 数が違わなかったから成功したってこと?だから願いが叶ったって?
 あなたは呪われるってのから無事逃げれたってこと?」
「違う。どうでもいいんだ、そんなことは。
 そもそも七不思議 『一三階段の呪い』ってヤツが、子供が考えたらしく、
 定義というか、ようはおまじないとしてのやり方が大雑把過ぎて、
 悪いモノが好き勝手し放題にできる、つけ込みやすい雑な作りだった。
 昇りと降りではどこから数えるかで段数が変わるんだ。ここで『あなたは呪われる』は確定。
 次に、そもそも悪い願いをされたのなら悪いことを起こして、更に信憑性を増すことで力を蓄えるのが、
 悪いモノのよくある性質。
 悪い願いは叶うし、必ず呪われるんだ。
 Yちゃんの家業が死に近いから、余計に悪いモノはつけ込みやすかったのかもな」
俺は精一杯食い下がる。
「呪いとおまじないは違うと思う」
そこで姉は、あのニヤリとした笑みを浮かべ辞書を指し示した。

【呪う】
①のろう。のろい。神や仏に祈り他人に不幸をもたらす。
②まじなう。まじない。

「『一三階段ののろい/一三階段のおまじない』。
 人が知識として知っているか、知らないかは問題じゃないんだな。知られてなくとも効果はある。
 怖いものが嫌いなYちゃん本人が、こんな事をやるわけはないから不可思議だったが、
 これでYちゃんにはもう同じ不幸は起こらない」
ぞっとして俺は乱暴に辞書を閉じた。
「七不思議『一三階段の呪い』は死んだ。今回はいい勉強になったよ」
夜空に瞬く星々を眺め、ぽつりと姉が呟いた。

【4つ上の姉にまつわる話だ】⑨ かわき石







「とうま◆xnLOzMnQ」 2014/07/09

4つ年上の姉の話だ。
不可解なモノ達が見え、そのモノ達と共に生きたり、時には対峙したりする道を選びながら人生を送っている、
俺にとっては少し不思議な姉だ。
俺には霊感の類いは一切無いと思ってもらってほしい。
ただ、姉と一緒にいる時だけは、その『異質な世界』を俺も垣間見ることがある。

今後この話を綴っていくにあたって、今日は先に断りを入れさせていただきたいと思う。
前回、『曾祖父の葬儀』という話をかかせてもらったが、
その後、初めて俺の身単体に不可解と言えるかわからないが、立て続けに書き続けるのが困難な状況が起こった。
新品に近いパソコンの立て続けのトラブル(5~6回)。
それから俺自身は今、ちょっとした理由があって化膿止めやら破傷風の治療をしている状態だ。
俺は健康優良な方なので、病院にお世話になるのも新鮮だった。
ようやく手を動かせる状態になり、今日こうして続きを書き始めている。
これが単なる偶然なのか、書き記したから何かが働いたのか、俺に判別はつかない。
先に書いたとおり、これはひとえに俺に霊能力的資質が0だからだ。
だからのんきに今日もパソコンに向かえている。
恐怖感は無いが、今後間が空いたら、『また何か起こったかな』ぐらいに思ってほしい。
今回勉強になったことは、「破傷風の治療は1ヶ月に1回の注射を3ヶ月続けねばならない」という医療的な知識だった。



そろそろ本題に入ろう。
『曾祖父の葬儀』から帰ってきて、さすがの姉も普段の元気を失った。
口数が少なくなり、外へ遊びに出る回数が減った。
家の中がギスギスとした空間であったのは、当時小学生の俺にもさすがに理解できた。
そして、その頃俺たちが通っていた小学校は、
『学校の七不思議』で実際の被害者が出るというかなり大変なことになっていた。これは、別の話で書こうと思う。
ようするに、姉はたぶん疲れていたのだ。
突然降りかかった訳のわからない赤い鬼を中心とした危害やら、
近しい人間の悪意やら、通っている学校の怪異やらが一気に重なって、
小学校高学年にさしかかっていたとしても、子供が受け止めきるには過ぎたものだったのだろう。
大好きな探検にも出ず、学校で友達と笑っていても明らかに無理しているとわかる笑顔、
姉は徐々に様々なものに追い詰められて摩耗していた。
そしてそれは、周りが理解しようとしても、感覚に違いがありすぎて理解ができないというジレンマを抱えたものだった。
助けてほしいのに、助けの求め方がわからない。
助けたいのに、何をしてあげたらいいのかわからない。
そうこうしている間にも、学校の七不思議による被害者は増え、誰もが恐怖を隠しながら笑ってすごし、
『怖いことなんかそうそう起こるはずない』と自分に言い聞かせながら生活しているような、
大事な場所が『害意のあるナニカ』に日々浸食されているような、学校はそういう場所に塗り替えられていっていた。
いつもなら容易に対処してくれるはずの姉は、
常に何か考え込んでいる風でもあり、学校のそこここで起こる流血沙汰を冷めた目で見ていた。
俺は血を流す友達を無表情に眺める、そんな姉が怖かった。
七不思議にまつわる『おまじない』や度胸試しは、
実際の被害者が出ているのにも関わらず、のめり込む児童がほとんどだった。
先生達が注意を促しても聞ききれない、無法地帯になりつつあった。

そんなある日の事だ。
いつもどおり朝の全校集会があり、
学校で流行している悪い遊びに関して校長をはじめとする先生達からきつい叱りが続く、普段よりも少し長めの朝会があった。
その日は反省させるためなのか、いつもは体育座りで聞く先生達の話を全ての児童が立たされた状態で行われていた。
ばたあああああああん!!
異質な音が体育館中に響き渡ったのは、朝会が始まってわりとすぐのことだった。
集められた児童は辺りを見渡し、小さい声で「今の音なに?」「さあ?」「またお化けかな?」などと無責任な発言をしていた。
音の発生源はわりとすぐに見つかった。
そこだけが丸く人垣が広く避けていて、先生方が慌てて走って行ったからだ。
俺も何が起こったのか確認しようとして、それはすぐに驚愕に変わった。
そこには、真っ青な顔をして倒れたまま動かない、姉の姿があった。
保険医が簡単なチェックを行ったあと、姉は男性教諭に背負われてすぐに保健室へと運び込まれた。
弟の俺は当然ついて行った。
体育館はざわめきでいっぱいだったが、そんなのは知った事じゃない。
眠っている姉は唇まで紫で、先日目にした曾祖父の遺体を嫌でも思い出させた。
保険医がいうにはたぶん貧血だろうと、頭を打っているかもしれないから目を覚ますまでは起こさないこと。
派手な音はしたが、痙攣などもみられないし、安静にしていれば大丈夫だろうと。
俺は説明の間、姉の手をずっと握っていた。
かろうじて温かいこの手を離してしまうと、姉がどこかに行ってしまいそうな気がしたからだ。
1時間もしないで姉は目を覚ました。
状況がわかっていないようで、自分が倒れたことにも驚いていた。
相変わらず顔色は良いとは言えず、すぐに早退の許可がおりた。
両親への連絡は姉が断った。共働きだし、心配をかけたくないと。
だから代わりに俺が、付き添いで早退することになった。
『姉がもし途中で具合を悪くしたらすぐに近くの大人を呼ぶこと。その場合は病院に行くこと』と約束をして。
保険医は最後まで心配していたが、姉は姉で自分の状態をしっかり理解したようだった。
「帰ろっか」
「うん」
姉に促されながら、俺はその後ろ姿を追った。

通学路はとくに決まっていなかったが、その日はいつもとは違う道を姉は選んで進んだ。
いつもの通学路とは正反対の道だが、距離的には大して変わらない。
気分転換のつもりなのだろうと着いて行って、姉が横道に逸れたところで俺は初めて慌てた。
まっすぐに帰るとばかり思っていた予想が外れたこと。
それから、姉の進むそこは入ったことのない、言わば俺にとっては『知らない場所』だったからだ。
両脇にうっそうと茂る竹、綺麗に整えられた砂利道の先には石造りの鳥居。
しっかりと取り付けられた注連縄が古さを滲ませている。
参道だ。神社への。
引っ越してきてからまだ一度も参ったことのない神社。
父親が迷信や田舎の俗習を嫌うから、そういった場所は自然とうちでは禁忌になっていた。
鳥居の向こう側で手招く姉の姿が、光の加減かやけに薄暗い。
そのくせ招く手だけは貧血の影響が残る青白いもので、鳥居を挟んで俺は何か得体の知れないモノと対峙している気がした。
「来ないなら置いていくよ?」
声音だけはいつもと変わらない優しい姉のものだ。
けれど表情がほとんど見えない。
口元だけが少しだけ笑みの形にほころんでいる。
逡巡は少しばかりで、俺は覚悟というまでもない、なけなしの勇気を振り絞って姉が招く参道へと足を進めた。
「鳥居は真ん中を歩いちゃダメだよ、神様の道だから。人間は端を歩くの」
ぼんやりと聞こえる姉の声に従って、その手をとり鳥居をくぐる!!
鳥居を越えた、ただそれだけなのに。
たったそれだけで、空気がすごく清浄な場所に来たことが俺にも感じられた。
内心に抱いた恐怖感が失礼なほど、その神社は整然と静謐にそこにあった。
笹の葉がならす葉擦れのさらさらとした音。
社を中心に木々が茂り、けれどそらはぽかりと空いて青空が眩しい。
俺と姉は普通に神社に手を合わせて、鐘をならして。
それで帰るのかと思いきや、姉はそこからさらに神社の裏手にまわり、短く草の刈り取られた一本の道を降りてゆく。
誰かの家の田んぼの畦道なのだろうそこを、何故姉が進むのか、
俺には理解できずに、ただ姿を見失わないようについて行く。
家への近道でもないし、姉がよく探検に使う道でもなかった。
どこを目指しているのか、あるいはどこも目指していないで気まぐれに歩いているだけなのか。
ほどなくして、俺たちは大きな沼に辿り着いた。
陽光を反射して湖面は鏡のように輝いている。
心地よい風が吹き抜けてゆくのに、水面には一切波立つ気配も無い。
こんな場所があったことすら、自分が住む土地なのに俺は今の今まで知らなかった。
姉は少し辺りを見渡して、深く息を吸うと沼のほとりに腰を下ろした。
「私たちはね、産まれる時はこっちに居たんだって。いや、産まれる前、お母さんのお腹の中に居た頃からかな」
「少し不安だった。曾祖父さんのお葬式以来、急に足下がぐらついた気がして」
「でも、ここが私の産まれた土地で、産土様に呼ばれて、だからもう、大丈夫」
ぽつり、ぽつりと語られる姉の言葉の意味はほとんどがわからなかったが、
いつしか血色を取り戻して、いつもどおり元気に笑む姉の姿を見て、俺は心の底からほっとしていた。
うぶすなさま。ここの神様の名前だろうか。
ねーちゃんを元気にしてくれてありがとうございます、心の中でお礼を言って、俺たち姉弟はその沼を後にした。
帰り際、振り返り様にみた沼はやはり静かに光をたたえ輝いていた。
鳥居をくぐると、もう夕暮れ時だった。
来た時はまだ青空だったのに、明日も良い天気を思わせる朱色の夕焼け空と雲が空のどこまでも広がっている。
そんなに長いこといたつもりは無いが、無意識にぼんやりして長時間経っていたのか。
家に帰ってからも姉は元気な様子で、貧血で倒れた話も自分から報告して、
祖母と母が『うちは貧血持ちの家系なんだ』と笑って、久しぶりに賑やかな夕食を過ごした。

次の日、俺は気になって一人で放課後、その沼に向かってみた。
けれど進めども進めども田んぼばかりで、沼などどこにもない。
道を間違えたかと神社まで引き返すと、いつもはいない神主さんが境内を掃除していた。
「こんにちは!」
「おぉ、とやの孫さんか。珍しいな、一人か」
かくしゃくとした壮年の男性だ。ちゃんと神主の服を身につけている。
「あの、この先に沼があると思うんですけど、どの道ですか?」
俺が聞くと、神主さんは一瞬きょとんとして、それから大声で笑い始めた。
「無い場所には行けんよ、坊主。沼があったのは昔も昔、田んぼができるその前だ。なんだ学校の社会の勉強か?」
そんな馬鹿な。
挨拶もそこそこに、俺は未だ学校にいるはずの姉の元へと走って戻った。

姉は俺を見つけ、俺の顔色を察し、何があったかを理解したようだった。
口に一差し指をあて、声を出さずに、
『秘密だよ』
場所は学校側にとって一番の問題となっている『学校の七不思議 一三階段の呪い』と呼ばれる踊り場。
姉の足下には何人かの気を失って倒れた生徒。
しかしその日以来、七不思議の一つ『十三階段の呪い』は失われた。
「あの沼はなんだったんだ、姉ーちゃん。俺一人じゃ行けなかった」
「当たり前だ、あれは神様の坐す沼。お前一人で行けるはずもない」
聞いたことのない口調で姉が語る。
「招かれたから行けたんだ。この世であってこの世では無い神聖な場所。
 私はとうに護られていた。ただ、視えなかっただけだったんだ。
 境界なんか、本当は無いんだ。境目を創るのは人の心だ。
 どの『ヒビ割レ』も人のウチガワにこそ存在する」
暗がりをどこまでも見通すような瞳で、姉は語った。
聴いたことも無いような、薄く切り込むような鋭い言葉で。
「あの『赤い鬼』ですら、人のウチガワから滲み出たものなんだ」

姉が口調の『切り替え』を行うようになるのは、これ以降の話になる。

【4つ上の姉にまつわる話だ】⑧ 学校の怪談2 七不思議 『一三階段の呪い』






「とうま◆xnLOzMnQ」 2014/06/02

俺には4つ年上の姉がいる。
幽霊やらそれ以外のモノらが見えて、対処したり、交流したりという日々をごく普通に暮す、やや奇妙な人生を送っている。
今日も姉が過ごした日々から一つ、俺にとっても忘れられない出来事があった日の事を話そうと思う。


『赤い鬼』と姉が初めて接触した冬から、約半年後。
姉が小学校1年の1学期半ばに、
俺達一家はとある家の事情で父方の本家があるS市から、母方の実家があるN市へ引っ越した。
それまで住んでいたS市のある県と母方の実家のある県はそれなりに遠い。
父方の親族ともかなりもめたそうだが、
結局父の母が許可を出したため(俺と姉にとっては祖母にあたる人だ)、その土地を離れることを許されたらしい。
大人の事情はつゆ知らず、姉はせっかくできた新しい友達と離れることを寂しがっており、
俺も同様に保育園の悪ガキ仲間と離れたくなくて、引っ越しと聞いてからは泣いて嫌がる毎日だった。
両親にとってはさぞかし大変な時期だったろう。
あとから聞いた話では、一つに当時父の事業が限界だったこと。
一つに父が自分の親族を嫌っていることが理由だったそうだ。
言われてみれば、物心ついてからこっち父方の親戚とまともにあった覚えが無い。
母方の親戚とは盆・正月を初め、様々な行事で顔を合わせるのに、父は己の血筋と異様なほどに交流を絶とうとしていた。
父方の親族からの連絡は全て母が受けており、まっとうに父が話すのは父の母相手の時のみだった。


姉はすぐに転入先の小学校でもなじみ、新しい環境と新しい友達に毎日楽しそうだった。
野山に分け入り探検したり、友達の家の桑の実をみんなで食べたり、田舎でもとかく新鮮で楽しい毎日を送っていた。
俺もやがて姉と同じ小学校に入学し、田舎のガキ大将に連れ回されながらもおもしろ可笑しい日々を過ごしていた。
朝の6時にはサイレンが響き渡り、起床を知らせる。
太陽が山際からちょうど顔を出し、山の稜線が光り輝く朝陽の白っぽいオレンジ色に染まる。
老人達はそれよりも早く起きて畑や田んぼの仕事に精を出す。
子供にも家のお手伝いが割り振られ、ちゃんと生活できるようにいつの間にか様々な事が身についてゆく。
見たことの無い花々、草木、食べられるキノコとそうでないものの見分け方、皆が小学校に集まっての折々の祭行事。
日本の原風景のような暮らしがそこにはあった。

俺が小学校に上がった夏休み、その知らせはけたたましい電話の音と共に訪れた。
俺は眠い目をこすりながら姉に手を引かれて2階から1階へと降りる。祖母が電話に出て、急ぎ母が変わった。
母の顔色が変わる、母は一旦受話器を置くと、2階にいる父を慌てて呼びにいった。
嫌そうに電話をとる父、しばし口論が続く。
ぴりぴりと緊迫した空気であることが子供心にも理解でき、俺は握ったままの姉の手をぎゅっと握った。
姉は、見たことも無いような張り詰めた顔をして、電話口に立つ父と、その話す内容を一言も発さずに見ていた。
まるで観察しているように。
知らせは、父方の曾祖父の容態急変を知らせるものだった。
父にとっての祖父。俺の記憶にはいない人だ。
どんな人なのか、想像もつかなかった。
最終的に「おそらく葬儀になるから、せめて最後に顔を出してちょうだい」と
父の母に直接告げられたのが決定打になったらしく、
両親と俺達姉弟はその日のうちに懐かしいS市へ向かうこととなった。

車の中の空気は、どんよりと重かった。
父があからさまに不機嫌なのが原因だ。俺達子供は、後部座席を倒して、うつらうつらと眠りながら移動した。
次の日の朝には、もうS市内に入っていた。休みもあまりとらずにきた、車での強行軍だった。
体中のあちこちがミシミシして、一刻も早く広い部屋で大の字になりたかった。
不謹慎だろうが、事情をろくに理解していない子供なんてそんなものじゃないだろうか。

久方ぶりに見る父方の本家は大きかった。
2階が無く、全て平屋作り。重厚な門に、立派な庭は隙が無いほど手入れがされている。
野花や山に慣れた俺には、あまりに人の手が入って綺麗な場所は何だか逆に気味が悪かった。
その立派な家に何台もの車がならんでおり、見たことも無い人達が、大人も子供も大勢が集まっていた。
曾祖父のためにこれだけ人が集まったのか。すごいなと、なんだか普通に関心してしまった。
知らなかっただけで、もしかして父方の曾祖父はすごい人なんだろうか、そんな空想を広げながら、
俺達一家は案内された部屋に入って、急ぎ身支度をした。
びしりとしたスーツを着た大人達は病人を見舞うというよりは、おとぎ話の王様に謁見を伺う国民のようだった。
子供達も身ぎれいにしっかりとした衣服を身につけさせられている。
もちろん、俺と姉も例外じゃない。
そんな、人々が緊張して曾祖父を案じる空気の中でも、父は不機嫌丸出しだった。
さすがに父の母に久しぶりに会った時には笑顔を見せたが、
曾祖父の話になった途端、苦虫を噛みつぶしたような表情に変わる。

いくらか父と祖母は問答を繰り返し、まずは父の兄弟へ挨拶することになった。
父は3人兄弟の末子で、しかもいわゆる『直系』と親族内で分類される立場にいる人だったらしい。
俺と姉はそこで初めて、父に関する親族と家の情報を得ることになった。
長男が家を継いではいるが、それは形式的なもので祖母が一族を取り仕切っていること。
しかも嫁をとっていないことから、まだ重要な立場では無いこと。
次男は他県に婿に出ており、妻と男子を二人授かったが、いずれも脳に障害を抱える身であること。
その従兄弟達が姉よりも遅くに授かった、しかも男子であるから、長男と同じく重要な立場では未だ無いこと。
そして同じく県外に婿に出たが、兄弟の誰よりも早く長女を授かったこと。
だから重要な立場であり、今までのわがままも許されてきたということ。
長女を産んだ母も本来であれば父の実家に直系の一員として迎えたいこと。
父の母は男児しか授からなかったため、曾祖父からみると産まず女(石女)に等しく、かなりキツい扱いをうけていること。
それが元で父が曾祖父及び親族と絶縁寸前の関係だったこと。
きけばきくほど、ドッキリか何かに聞こえる話を、大の大人達が真剣そのもので話し合っているのが、殊更異様だった。
そして、危篤状態であとは家で死ぬのを待つ身なのだから、
最後に一家揃った姿を見せて曾祖父を安心させて逝かせてほしい、というのがおおむね祖母の言い分だった。
患いから曾祖父が人払いを命じていて、
父と姉が来るまで他の親族には会わないと言っていることがそもそも呼ばれた原因だったらしい。
「母さん、俺はあのクソじじいが母さんにした事を絶対に許さないし、今でもぶち殺したいぐらいだ。
 死ぬって聞いてせいせいする」
「T、お前が私を心配してくれてるのも、それでお祖父様を嫌ってのもよおおく承知の上での母からのお願いだ。
 お祖父様が安心して逝ってくれれば、私が何も角はたたせん。親族のことも、今まで通り干渉せずとできる。
 私もお前が可愛いんだよ、T。お前の自由のためと母の気を楽にすると思って、この通りだから」
ついには祖母が父に向かって頭を下げ、ようやく父は折れた。
一度きり、ごく短時間でなら、と。

曾祖父の寝る寝室は、薬の清潔な匂いと、老人から発せられているのだろう死臭のような、相反するもので満ちていた。
老人が一人、眠るように布団に横たわって浅く呼吸をしている。
思っていたよりずいぶんと大柄な老人だというのが、俺が曾祖父に初めて抱いた印象だった。
父の兄弟達も背が高かったし、背の高い家系なのだろう。
父が姉を連れて曾祖父の側へ近寄る。俺は母に手を引かれてその後を追う。
「よう、じいさんようやく冥土行きだってな」
「ちょっと、お父さん!」
「良いんだ、こんなヤツにはこれで!
 俺はこいつが許せないし、大嫌いだし、殺したいほど憎いんだ!!手にかけないだけマシだと思え!」
俺は怒鳴りつける父を見るのも初めてだったので、その時はすごく驚いた。
父の大声に、老人が薄く目を開いた。
「ほら、見えるか。あんたがさんざん馬鹿にし続けた俺が、あんたがずっと欲しかった長女を授かった。
 けどな、絶対に家は継がさせない。あんたが望むことなんかぐちゃぐちゃにしてやる。
 だから婿にいったんだ、直系の字も名につけなかった!!ざまあみろっ」
か、か、か、と。
老人の枯れた喉から声が出た。
表情を見ると、先ほどまで衰弱した様子の曾祖父の眼にぎらぎらとした力が宿っていた。
横たわったまま、老人は嗤い、だがはっきりとした声で父への言った。
「うつけが何ぞほざいておるわ。その年までわからなんだら大うつけじゃ、それだからお前は駄目なんじゃ。
 未だに何もわかっておらんで、逃れた気になっておる。か、か、愉快じゃ」
姉を曾祖父の側に寄らせ、見えるように父が曾祖父の胸ぐらを掴みあげる。
「見えるか?名前も知ってるか?直系にはなんら関係無い、うつけはてめえだ!呆けじじい!」
「よう見えるわ。おい、T。この娘を授かったこと、名をあれにしたことだけはお前を褒めてやる。
 初めて、一つだけ褒める価値じゃ。立派な良い直系じゃ」
とうとうぼけたかと、呆れて父が曾祖父を布団へ投げ出す。
母は病人になんて真似をと曾祖父を慌てて介抱していた。
体勢と衣類を直されて、満足げに曾祖父は父へと笑んだ。
「T、確かに『T』の1字は入れなんだなぁ。それで資格が消えると思いこんでいるのが、お前の本当にうつけなところじゃ。
 お前は我々の何を知っているというのだ?拒み続け、逃げ出した、不出来も不出来な無知の塊が」
声も無く激高した父を、母が止めようと必死なのを、姉と俺は近くで見ているしかなかった。
早くこの怖い部屋から出たい。それだけが、その時の望みだった。
曾祖父の声はまだ続く。
「字体をばらばらにして己から一つ、愛する己が母から一つか。愚かしい、本当に愚かしい。部首に考えが至らなんだか。
 お前の母に、つまり儂の娘に何の意味も無い名をつけると思うたのか」
「何が言いたい、耄碌じじい」
「直系が持つ正当な古字はな、こう書くのよ。『りっしんべん』ぐらいお前が阿呆でも知っとるじゃろうて。
 常用では部首は別だが、当家ではコレが引き継ぐべき字のありよう。お前の母にも別な形で入っているじゃろう」
「・・・・・・こころ」
「心を引き継ぐが習わし。りっしんべんの意味に、まさに心を与え、直系であるお前の1字を持って完成と成す。
 よくぞ強めたのお、うつけが」
曾祖父の悪魔のような歪んだ笑顔は今でも鮮明に思い出せる。
その後は酷かった。
父が唸り声を上げたのをさすがにいぶかしんだ大人が3人がかりでようやく父を押さえつけ、落ち着くまで別室で軟禁された。
その後の曾祖父はうって変わったように上機嫌で親族と別れを楽しみ、早晩、眠るように穏やかに息を引き取った。

俺達は本家に滞在する時、必ず仏間が部屋にあてがわれる。
別室にいる父を除いた3人で、葬儀の終わる夜までを過ごした。
葬儀は、それは盛大なものだった。
元々葬式の派手な土地柄らしいが、
近所の人が葬式行列を見て「さすが御方のご葬儀ともなると違うねぇ」と言っていたのが聞こえた。
『御方』が何を指すのかもわからない。
父のように、俺も何も知らない。知らない方が、それでも幸せな気がした。
長男のおじさんに子供ができれば。その子が家を継ぐだろう。
末子の息子になど、用は無いらしいのだ。

盛大な葬式のあと、俺はぐったりと疲れて眠っていた。
気がつけば、姉が暗がりの中、窓を開いて外を眺めていた。たぶんまだ真夜中だ。
背後の天井近くには歴代の遺影が飾ってある。
俺は写真に見られているようで怖くなり、姉の隣へとタオルケットを被って並び座った。
眠っている母を起こさないように、
「ねーちゃん、何してんの」
「蛍見てた」
言われて窓の外を見ると、夏の深い夜に蛍の光がいくつも点滅していた。
「そっちお墓の方だよ。夜見てると呪われるよ」
「見てるぐらいじゃ呪われないよ」
俺の言うことをまったく聞かず、姉はぼんやりと外を眺めていた。
そういえば、この騒動の最中、姉は身を潜めるようにほとんどしゃべりもせずにいたのだ。
「とうま、知ってる?人魂って青いんだって」
「ひとだま?」
姉の指差す方を見るとお墓の方に確かに青白い光があった。
ゆらゆらと、なんこも漂うようにしている。
俺は血の気が引く思いだった。
「燐とかいうのが燃えるから、青く見えるんだって。
 人間の身体にも入ってるから、その燐が燃えたら火の玉で人間の魂らしいよ」
「ねーちゃん、ヤバいよ。ほんとにお化けが来るって」
「やばくないよ。理科とかで習うもん。
 今度あんたも百科事典見てみなよ。燃えるモノで色が違うんだよ。写真綺麗だったよ」
「理科とか科学とか苦手だって知ってんじゃん」
「恐竜ものってるから見なよ。面白いよ?」
「まじか!」
俺はその頃恐竜にハマッていたので、家に帰ったら夏休み図書で図鑑を借りようなどと、一気にのんきな気分になった。
だから、ぽつりとそれを口にした時の、姉の顔は見ていない。
「でもさあ、だったら・・・あの赤い火の玉は何が燃えてるんだろうね」
蛍を見ていたんじゃない。姉は最初からそこを見ていたのだろう。
葬式が終わって、今は曾祖父が眠る墓の上に他よりも大きな赤い火の玉が浮かんでいた。
「本当は人魂は赤いのかなあ」「赤い鬼、赤い人魂・・・」

どんな気持ちで、姉があの光景を眺めていたのか。俺にはわからない。
そのそも姉にはあの騒動の間、頑なに口を閉じていた姉には一体何が見えていたのか。
同じものを見れない俺にはわかることのない、ナニカ。
『ナニカの世界』は今日も姉と共にあるのだろう。

「境界線なんて無いんだ」
蛍の飛び交う夏、ぽつりと姉が呟いた。

【4つ上の姉にまつわる話だ】⑦ うぶすな







「とうま◆xnLOzMnQ」 2014/05/06

俺には4つ年上の姉がいる。
よく不思議な体験をするが(普通の友達に言わせるとかなり怖い体験だそうだ)、
わりとあっけらかんとその現象を乗り越えて生きている姉だ。
その姉が、初めて『恐怖』というものを覚えた日の話をしようと思う。


姉が小学校1年の一学期、俺がまだ保育園児で記憶もあまり定かで無い頃、
俺達一家は父方の本家があるS市から、母方の実家へと引っ越した。
俺は物心つくかつかないかの頃だったし、どうして引っ越したのか理由も長年とくに考えたことは無かった。
俺達の父はその頃家で自営業をしていた。だから幼い俺と姉、父は時間を長く共にすることは普通だったそうだ。
逆に母はパートで働きづめ、なかなか家にいることが難しかったらしい。
俺はその頃の事をほとんど覚えていない。
いや、正確にはその頃だけじゃなく、
不思議というより不自然なほどに、俺達一家を取り巻いていたらしい様々な『悪いもの』の記憶がほとんど抜け落ちてるのだ。
それは姉が『秘密の友達』から「赤い鬼に気をつけて」と奇妙な忠告を受けてから、一年も経とうかという、
冬の日の事だった。



S市は雪の多い都市だ。真冬ともなると、地吹雪が起きて一台前の車も見えなくなるようなことがある。
俺も免許をとってから友達のところへ遊びに行く時、一度その豪雪の中を運転したことがあるが、
比喩でなく目の前が雪と風に覆われて見ることが困難で、冬の時期の運転は二度とごめんだと痛感したほどだ。
当然、積雪もかなりすごい。高い雪の壁も珍しく無いし、雪祭りが行われる程度には雪の量が多い。
冬場の遊びと言えば、定番が自分の家の敷地内に手製の雪滑り台を作って、そりで何度も滑り落ちて楽しむことだ。
大概の子供は時間を忘れて遊ぶ。あとはかまくらを作ったり、雪が降れば雪合戦も毎日のように行われた。
俺にとってはぼんやりとだが、楽しい記憶ばかりだ。
姉にとっても、その日まではなんら変わらない冬だったはずだ。

余談になるかもしれないが、父はあまり子供を好く人では無かった。
俺達をというより、『子供』という生き物自体をうるさくて面倒なものだと思っていた感がある。
それでも我が子であれば、時間があればそれなりに遊んでくれてはいた。

俺は姉が『恐怖』を覚えたその日の出来事を覚えていない。
部屋の中で様子を見ていたと姉には教えられたが、一切覚えていない。

その日父は仕事が暇で、雪が降る中「遊んでやる」と、姉を外に連れ出したそうだ。
初めは普通にそり滑り、大きな雪だるまを作って、玄関のわきに飾った。
父が長時間まっとうに遊んでくれることが珍しかったせいで、姉は嬉しくなり、
「お母さんが帰ってきたら、このおっきい雪だるま一緒に作ったんだよって教えるんだ。
 お母さん、きっとびっくりするよね」
と、父を見上げて笑った。
それを聞いた父は急に機嫌を悪くしたようで、
「そうだな。寒いから、もう家の中に入るぞ」と、唐突に遊びを止めて家の中に入ってしまったそうだ。
姉は不思議に思いながらも、一人で外遊びを続けた。
家族分の雪ウサギを作ろうとしていたのだ。
一番大きいのがお父さん、次がお母さん、自分たちは子供だから小さいの、と。

四体の雪うさぎが完成した頃、雪は本降りになり、辺りも夕暮れで薄暗くなって一段と冷え込んで、
さすがに姉も遊びは止めにしてこたつに入ろうと、自分についた雪をはらって玄関に入った。
雪で濡れた手袋を外し、外着も脱ごうとしたところで、姉は初めて、待ち構えたよう立つ父に気がついたそうだ。
父は先ほどと違い、たいそう機嫌が良かった。
にこにことした笑顔を姉に向け、「すごく面白い遊びをしてやるぞ、こい」と、姉の手を引いて2階へと上がって行った。
手を引かれるまま姉は2階の部屋へと入り、そこでまだ幼い俺が積み木遊びをしているのを横目に、
父へ「何して遊ぶの?」と聞いたそうだ。
父は窓を開けると、「いっぱい降ってるなあ」と何やら感慨深げに空から降る雪を眺め、姉を招いたそうだ。
「お父さ・・・・・・っ」
話しかけようとして、次に見えたのは重い灰色の雪空。
何が起きたのかもわからず、軽い浮遊感を覚え、次の瞬間には高く積もった一階ベランダ外の雪壁に叩きつけられる衝撃。
雪は固まると痛いのだ。雪玉が当たると痛いように、降り積もって圧縮された雪壁は雪というよりはもはや氷の堅さに近い。
背中を強かに打ち付けて、2階から見下ろす父を見て、ようやく自分が2階から投げ落とされた事に姉は気づいたそうだ。
父の姿が窓から消える。
背中が痛い、手袋をとって直に触る雪が刺さるように痛い。
必死の思いでずるずると雪壁から這い降りて、家に戻ろうとするとそこにはやはり父がいた。
いや、『居た』のは父だけではなかった。
父の陰、両足の後ろからチラチラとこちらを伺い嗤う、40cmほどの『赤い鬼』が2匹。
「楽しいなあ?楽しいな?ほら、もう一回行くぞ」
抵抗しても大人の男の力にかなうはずも無い。
ずるずると2階へ引きずりあげられ、その間周りで赤い鬼が姉の顔を覗き込んでは嗤う。
一面に開いた窓から投げ出され、階下の雪壁へ叩きつけられる。
冷たい。痛い。降りる。引きずられる。投げ出される。
何度続いたかわからない。
いつしか父は鼻歌を歌っていた。
口を大きくつり上げたその顔は、顔を覗き込む赤鬼共とよく似ていた。
だんだん2匹の鬼は父の中に溶け合うようにして混ざり、父の顔色は赤黒く変化し、
しかし陽気で、気味の悪い鬼そのものに見えたそうだ。
鬼に影は無かった。そもそもいつからいたのか。
もしかしたら最初から居たのか。
あぁ、『秘密の友達』だったお姉さんはこのことを言っていたのか。
気をつけろと言われたのに。
約束を守れなかった。
お姉さん、ごめんなさい。気絶しかかった頭で、そんなことを考えたそうだ。

いつの間にか、その『遊び』は終わっていた。
いつ解放されたのかも覚えていない。でも、痛いけど死んでない。
子供の頭で考えるには妙に冷静な思考で、それでも姉はふらふらとした足取りで家の中に戻ったそうだ。
父は普通に戻っていた。
いつもの、無愛想で、寡黙な父に。
ただ一つ、その背中の向こうから、赤い鬼達がニヤニヤと嗤っていた。
終わってないんだ。
子供心に、そう理解したそうだ。

雪壁の上の方がまだかろうじて柔らかい部分を残していたから、死なずに済んだのだろうと姉は今でも言う。

結局姉が一番恐怖したのは何だったのか。
それは、後に母の前でその出来事を訴えた時に、父がまったくの正気顔で、
「1階の窓から少し雪の上に投げてやっただけだろう。
 そんなに怖かったのか?あの日は雪も柔らかくて気持ちよかっただろうに」
と、むしろ不思議そうに口にしたことだそうだ。
悪意などひとかけらも無いように。
訴えは結局、思いの他怖がった姉の勘違い、という事にされてしまった。

「『赤い鬼』が関わるとな、あの人はおかしくなる。行動も、性格も、記憶もだ。
 いいように改竄されて、あの人の中の本当がまるで変わってしまうんだ」
どうして、父が言うように自分の勘違いだと思わないのか、俺は姉に聞いてみた。
「自分の勘違いだと思いたかったさ。
 そうならそれでまるく収まる。子供が少し怖がりすぎて、記憶違いをしたんだってな。
 その方がずっと良かった」
少し遠くを見るようにして、その後姉は語った。
「翌日の朝は良く晴れていた。
 その明るい中、めった打ちしたみたいに壊された雪だるまと、
 子供の分だけがぐしゃぐしゃに踏みつぶされた雪うさぎを見なければ、
 父親にまとわりつく『赤い鬼』を、自分の幻覚で片付けることもできたのかもしれないのにな」

姉が長く付き合う事になる、『赤い鬼』の世界。
因縁は、まだまだ続く。

【4つ上の姉にまつわる話だ】⑥ 曾祖父の葬儀




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