【閲覧注意】怪談の森【怖い話】

当サイト「怪談の森」は古今東西の洒落にならない怖い話~ほっこりする神様系の話まで集めています。 随時更新中!!

カテゴリ: 鴨南そば



02『迷子
03『運び物
04『賭け
05『






目の前には肉。白い大きな皿に盛られたステーキ用の肉がある。ジュウジュウと肉の焼ける匂いが食欲を刺激する。
付け合せのポテトやニンジンはない。僕はあの妙に甘いニンジンは嫌いなので、嬉しく感じている。
お腹すいた。
ニンジンは嫌い。
飲み物はワインかな。
ステーキ食べたい。
ああ、美味しそうだ。もう食べてもいいのかな。
さあ食べようというときに、テーブルを挟んで同席している女が口を開く。
「        」
僕はそういうものかと思い、ステーキ用のナイフを掴む。そしてゆっくり押し当てる。
切味の悪いナイフは中々進んでいかない。
早くステーキ食べたい。
「        」
それはそうだ。
その言葉に納得し、力を込め前後に動かすと、刃が食い込んだ。肉を切る感触が手に伝わろうとする。

目が覚めると駅のホームだった。


学生時代に、僕はとあるアルバイトをしていた。
アルバイトの性質上、僕のシフトは夜が通常勤務する時間だ。
完全に夜型の人間になるのにそうは時間がかからなかった。
もう少しで区役所の気の抜けたメロディーが聞こえる時間になってしまう。出掛けるまでそうは時間がなさそうだ。
起きぬけの頭で何通かのメールを返し、何通かのメールを新たに送る。
シャワーを浴び戦闘服に着替え、バイト先へと向かう。

「ずーっと続くんだよ、怖くない?」
そのお客様はモエさんという、新規の方だった。
モエという名前からは連想がつかないほど彫りのはっきりした顔立ち。
だが決して不美人というわけではない。寧ろ、顔だけで言うならば、その辺の女性など相手にはならないだろう。
切長の目。肌の質感。スタイル。髪のつや。艶やかさ。
どれをとっても本物以上の美しさ。彼らは『本物』以上だ。
そういったプライドも手伝ってか、男が想像する女性観に非常に近い。仕草やしゃべり方、そして魅せ方。
「怖いと思うから、怖いんだよ」
「でも、終りがないのに歩き続けるんだよ、怖い」
彼は両手を顔の前で握り締め、このところ多くみる悪夢の話をする。
自分がみる悪夢はとてつもなく怖く感じる。しかし、人に聞かせても怖いと思われないことはざらにある。
それは主に、夢を見るシステム上のものだと僕は思っている。
夢はもっとも日常的な幻覚の一つだ。
脳が怖いと錯覚しながら見る夢は、怖いのだ。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、それのどれともリンクが曖昧なことが寝ている状態を指す。
全くリンクが無いとは呼べないが、それを意識することはほとんど無いだろう。
ということは、夢は脳内で処理されていると言っても良いだろう。
ほぼスタンドアローンの状態で脳が見せる幻覚。それが夢だ。
感情がダイレクトに流れ込んで、その現象に後付けの影響を与えても、何らおかしなことではない。
「何でこの怖さが伝わらないかなあ」
「夢ってそういうものだよね。僕の友達の話なんだけど――」

僕は、バイトを斡旋してくれた先輩が見た夢の話をした。
巨大なモヤシ畑で一人立ち尽くす、というシュールな夢だ。
モヤシ畑なるものが本当にあるかどうかは分からない。だが、彼は非常に怖い夢として僕にこれを語った。
『モヤシが凄い勢いで伸びるんだよ、怖いだろ』と僕にその夢を語るのだ。
先輩は僕のリアクションが気に入らなかったのか、怖いと言わせたいようだ。
変な夢だとは思うが、怖くはない。
彼の幼少期に、モヤシにまつわるトラウマを持っているという類の話も聞いたことがない。
怖いと感じる脳の部位が、そういう指令を出したんだろう。

「なにそれ、全然怖くないじゃん」
「でしょ?本人は怖いらしいんだけど、聞いたほうはそんなに怖くないんだよ」
「あぁ、じゃあ私の夢も怖くないのかもね」
「そうそう、気のせいなんだよ」
「でもね、悪い夢を追い払うお守り使ってから、怖いの見るようになったんだよね」
「ドリームキャッチャー?」
「それそれ。昔流行ったヤツ」
彼は元々夢を見ない方だったらしい。
夢を見ないということを友達に酒の席で語った。同じ職場で働くホステス(?)同士の飲み会だ。
酒の席でのことだったので、さして気にも留めていなかった。
しかし、数日後に友達の一人から、そのドリームキャッチャーを貰ったという。
クルマや部屋の装飾目的で一時期流行ったアレだ。
テレビドラマで使われたことにより爆発的に人気が広がり、今ではほとんど見る事は無い。流行などそういうものだ。
友達によると、一週間連続で使うと幸福になるアイテム、という触れ込みだった。
『夢を見ないならこれで試してみてよ』と、強引に押し付けられたらしい。
今まで夢を見たことがほとんどない為、その効力は信用していない。
だが、せっかく友達から貰ったものを試さないのも申し訳ない。
そこで使い始めたところ、夢どころかむしろ悪夢を見るようになってしまったのだという。
彼はたった三日で根をあげてしまった。
悪夢は連続した夢であるらしい。
まず一日目に見た夢は、大きな門を開けることだったという。門を開けたところで夢から覚めたようだ。
二日目にはその門から中に入り、道を歩いている夢。
そして、三日目も道を歩く夢だという。
この長い道をずうっと歩き続けるのが、彼にとって非常に大きな恐怖を感じるのだという。
僕には道を歩き続けることの、どこが怖いのかが分からない。
終わらない道を歩き続けるのに不安を感じるならまだ分かる。彼は歩く行為が怖いのだという。
「友達に事情を話せばいいじゃない」
「うぅん。貰った次の日から連絡取れないんだよね」
あの子忙しいから、といい訳のように続ける。
「捨てちゃえば?」
「それがね、捨てても捨てても、手元に戻ってくるんだよね」
僕は得体の知れない恐怖に駆られた。
それではまるで呪いの人形ではないか。
軽はずみな言葉を出したことを僕は後悔した。
この後の流れは恐らく容易に想像できるだろう。
「誰か貰ってくれないかな」と言いながら僕を見つめる彼。
客商売である以上、ここで断る選択肢は無いと言っても過言ではない。
「じゃあ僕が貰ってあげようか」と言ってしまった。

その日の内に彼の家に赴いた。正確には翌日の早朝になるのだが。
ソファーに座り待っていると、部屋着に着替えた彼が僕の隣に座る。
「これ」と言って、僕に件のドリームキャッチャーを渡してきた。
一見すると、普通のドリームキャッチャーに見える。手のひらよりひとまわり程大きい物体。
だがその完成度は、ほいほいと人に譲渡するような代物でないことは分かる。
ドリームキャッチャーの通常の形は、木で出来た円状の枠に、クモの巣の形状を模した網が張られている。
そして、その周りを羽根や石またはビーズで装飾する。石はターコイズか、それに似せた模造石が一般的だ。
枠の上部には、吊るし用の紐がついている。
現物が見たいのであれば、ドリームキャッチャーの画像検索をすれば簡単に見ることが出来る。
だが、それは少し変わった形をしていた。
おかしい所を挙げるとすれば、その飾りだろう。
羽根ではなく、葉のようなヒラメ状のモノがヒラヒラと垂れ下がる。
『葉のような』というのは、中心部の支柱から細かい枝が無数に生えているからだ。
飾りに使われている石は、紫がかってくすんでいる半透明な石だ。
枠である輪は、木ではない素材で出来ている。白いゴツゴツしたモノが編みこまれるように輪を作っている。
子供のころに女の子が作る、草花で作った王冠の作りのようだ。
さらに、吊るし用の紐がない。
そして、特筆すべきは網が黒いことだ。
ドリームキャッチャーに詳しいわけではないが、大体は色が白い薄い糸またはヒモが使われている。
しかし、その網は非常に緻密で、シルクのような細い糸が細かく網目を作っている。
一言で言えば、「高そう」だ。
これをモエさんにあげた友達も、僕に引き取って欲しいというモエさんも、もったいないとは思わないのだろうか。
「ちょっと説明するね」
そうモエさんは言い、僕に語り始めた。
「友達から、これだけは守るように言われたんだけど。
 あのね、これは吊るして使うものじゃないんだ。これは枕の下に入れて使うんだって。
 わたしもそれ聞いて壊れないか心配したけど、結構丈夫だから安心して。
 それで、絶対に守らなきゃいけないのが、太陽と月の光に当てないことなんだって。
 枕の下にあるなら当たるわけないんだけど、これは絶対守って欲しいことだってさ。
 それで夢を見るから一週間頑張れだってさ」
そういう使い方もあるのだろう。
僕はむしろ説明が簡単であることに安堵した。長々続くようでは僕のハードディスクでは覚えきれない。
枕の下に置いて寝る。太陽光・月光に当てない。これだけだ。
説明が終わり、僕に渡し終わると安心した表情のモエさんは僕を誘惑してきた。
もちろん、僕にはそっちの気はない。早々にその部屋を後にした。

太陽が眩しい時間。僕にとっては就寝時間だ。
枕の下に置き、期待も不安も無く眠りについた。

昔、母親と一緒に上野に遊びに行った。
動物園は僕にとって最も行きたくない場所の一つだ。
動物が嫌いなわけではない。あの匂いがダメなのだ。
夏の暑い時期に行ったのも問題があったようだ。
とにかく僕は、初めての動物園で二度と行きたくなくなってしまった。
そして今。あの匂いが僕を包んだ。嫌な気分だ。
目の前にある見上げるような大きさの門。
『Per me si va ne la citta dolente
 per me si va ne letterno dolore
 per me si va tra la perduta gente.

 Giustizia mosse il mio alto fattore
 fecemi la divina podestate
 la somma sapienza e l primo amore.

 Dinanzi a me non fuor cose create
 se non etterne e io etterno duro.
 Lasciate ogne speranza voi chintrate』
門にはそう刻まれてあった。
はっきり言ってさっぱり意味が分からない。
日本語でも英語でもないことぐらいが辛うじて分かる程度だ。
パル?メ シ バ ネ ラ?
何だか良く分からない文章を読むことほど苦痛なことは無い。
当然のように無視した。
真っ黒な巨大な門は細かい彫刻がいくつもあり、手の込んだものと一目で分かるものだ。
だが、周りにはその門以外には何も見当たらない。文字通り、何もだ。
周りは白い空間が延々と広がり、その黒い門の存在感が際立つ。
門というのは通常は入り口か出口であるはずだから、その入り口たる建物があってしかるべきだ。
白い空間にぽつんとその大きな門以外は、ない。
してはいけないことだが、僕は裏手に周り込んだ。
どうやら裏表がないらしい。例の長い文章が刻まれ、先ほどまで見ていた光景と全く同じものがそこにはあった。
さて、どうやって開けるか。
試しにその門を思い切り押してみた。
意外なことにその門は見た目と違い、非常に軽い音を立てて、簡単に開いた。

ピリピリとアラーム音が鳴る。
携帯を掴み、停止ボタンを押す。
携帯電話を目覚まし時計にしている人は多いだろう。僕もその一人だ。
今まで見たものは、間違いなくモエさんの言っていた悪夢なのだろう。
珍しいことではないが、夢を見ているときにそれには気付かなかった。
あの現実感は脳が夢を見ている証拠にもなる。
起きて初めて夢を見ていたことに気付かされた。
早速モエさんにメールを送り、先ほどまで見ていた夢の内容と共に感想を言った。
次は歩く夢か。
そう考えながら、バイトに行く準備を始めた。

その日眠りに就こうとすると、バイトを斡旋してくれた先輩に食事に誘われた。
先輩に誘われるということは、それは決定事項に等しい。選択肢は、はい又はイエスのみ。
徹夜で飲み明かし、しかも財布をなくすという不幸に会った。
僕は次の日に、一睡も出来ないままバイトに行くという苦行を行う羽目にもなった。
慣れているからどうと言うこともないが、眠くて仕方が無い。

巨大な門が後ろにある。ああそういえばさっき門を開けたなと、一人ごちる。
前には道が続いていた。たしか裏手に周った時は裏面がなかったはずだが、今は目の前に道が広がっている。
幅十メートル程の広い道だが、橋と言ってもいいだろう。
その道幅の両端には暗闇があり、道ということが分かる。
もし後ろに門が無ければ、どちらが進行方向かすら分からない。それほど何もない道が続いていた。
前に進まなくてはならないという、不思議な義務感が僕を包む。門とは逆方向に歩き始めた。
先が続き、道の終わりが見えない。
ただ、道の外側は深い深い闇が広がっているのが分かる。これに落ちたら助からないだろうな、と想像する。
ただ黙々と歩き続ける。終わりが無い。
時間感覚も無い。さっき歩き始めたばかりのような気もするが、何日も歩いているような気もする。
終わりの無い恐怖か。確かにぞっとする。
足を踏み出すのを躊躇する。歩き続けるのが怖い。

ピリピリとアラーム音が鳴る。
あれ?ここは?
僕は自分が今起きたことに気がついた。
だが、場所はベッドの上ではない。何故か公園のベンチの上で寝ていた。
バイトの帰りに力尽きて仮眠をしたのだろうか。覚えていない。
何時間寝ていたのか検討もつかないが、アラームが鳴っているならばそろそろ行く準備をしなければならないのだろう。
そういえば一週間連続で見るんだよな、この夢は。
面倒な夢だな。面倒なことは嫌いだ。
歩くことが怖いという意味も分かった。確かに一週間もあの夢を見たくない。
僕の中で黒い行動原理が働き始める。

家に帰り、枕の下にあるドリームキャッチャーをゴミ袋に入れて、捨てた。
お客様からのプレゼントを捨てるなど言語道断だ。
だがこれは譲ってもらったものだからプレゼントじゃない。
僕はそう自分に言い聞かせ、罪悪感も一緒に捨てる努力をした。

次の日には、モエさんが言ったことは正しかったということが分かった。
捨てたところで、それは戻ってきていた。正確には、枕の下にあるのに気付いた。
何故か外で起きて、家に帰り、ベッドで寝る。起きたらまた別の場所。
家に帰り、枕をめくるとそこにはドリームキャッチャーがあるのだ。

またも僕は歩き続けた。
依然として道に終わりは見えない。一歩一歩が恐怖に変換される。
歩きたくない。だが歩かないといけないという強い気持ちが働き、足を止めることはできない。

ピリピリとアラーム音が鳴る。
またか。
今度はクルマの中にいた。初日以外はいつも起きる場所はベッドではない。
一体どういうことなんだろう。今回は確かにベッドの中で寝たはずだ。気付いたら、クルマの中。
モエさんにメールを送る。
返事は返ってこない。



続きを読む




バイトを始めて一年ほど経った頃、妙なウワサが立っていた。
僕が『除霊』を出来るという根も葉もないウワサだ。
確かにお客様との会話にオカルトネタが出ることはあるにはある。
しかし、僕がそういうものが得意だと吹聴しているわけでも、そういう事実もない。
僕がウワサに気付いたころには、名指しで相談が来るようになった。
相談事はほとんどのものが解消することが出来た。
なぜなら、相談事の内容は普通に接客しているだけで解消できることが多かったからだ。
ちょっと不思議な御悩み相談。そんなレベルの話だ。
あまりに下らないレベルのものから、あまりに荒唐無稽な話までたくさん。それこそ何十種類もの相談を受けた。
だが多くは、相談したことで自己解決してしまうことが多い。
誰にも話せない悩みを打ち明ける。きっとそれ自体が解決になってしまっているのだろう。ようするに誰でもいいのだ。
そのせいで幸か不幸か、人並み以上にその手のネタを抱えている。
勘違いの実績から、更にウワサが広まる速度と信憑性をつけてしまったらしい。
そんな理由で、新規のお客様で一見さん、さらに指名なしで一人客の場合、僕に用事があることが多くなった。
正直な話、水商売と言うものはリピート率が重要なので、嬉しいような嬉しくないような。

Aさんもそういった相談が目的の一人だった。
「ストーカー?」
「そう」
年齢は30歳前半だという。
失礼だが、見た目からはそういう年齢には見えない。50代と言われても納得していただろう。
目の下が落ち窪み、骨ばった顔には陰影がはっきりと表れている。ギョロギョロとした目には血管が見える。
シャブやスピード、Sとかアイス。そんな単語が頭の中に流れた。何故だかは全く分からないが。
「警察には行ったの?」
「警察には行かない。もうちょっと調べないといけないと思って」
警察には行かないんじゃなくて、行けないんだろうな。何故だかは全く分からないが。
幻覚。幻聴。
先輩の口癖が浮かぶ。
僕にバイトの斡旋をしてくれた先輩はリアリストだ。オカルト現象の大半は頭の故障かドーピングが原因だと。
僕も賛成だ。少なくともこの人に関しては。
さて、どうしよう。幻覚のストーカーを退治する方法か。
ってこれ病院の管轄じゃね?
「そのストーカーってどれくらい付きまとってるの?」
「うーん。一ヶ月くらいかなあ」
「被害とかは?」
「小物がちょっと無くなったりで、これといっての被害は特に。
 だからコトが大きくなる前に何とかしてよって言ってんじゃない」
ごもっとも。
だけど、僕は医者でも警察でも探偵でも池袋のトラブルシューターでもない。僕なんかに頼むのはどうかと思う。
「えーと、勘違いして欲しくはないんだけど、僕はそういった事件めいたものの相談はやってないんだよね。
 だから、僕じゃちょっとその手の――」
「うるっさいわね!知ってるわよ!普通のストーカーだったらアンタみたいなのに頼んでない!
 そのストーカーは私なの!!!」
「…………は?」

彼女が言うには、そのストーカーを初めて見たのは一ヶ月前らしい。
家に帰りお風呂に入ろうとしたところ、風呂桶には自分が。何とも恨めしそうにこちらを見続けていたと言う。
二度目、今度はキッチンで。
三度目はベランダ。笑えることに、デッキチェアでくつろいでいたらしい。
そうやって何度も何度も見るようになった。

何か聞いたことあるな。ドッペルゲンガーだっけ?見たら数日で死ぬって言う。
生きてるよな、一応。
これで僕のところに来た理由は分かった。
だが、自分が霊能力だとかそういった、
不思議現象や病理関係の問題を解決する力を持っていないこともよおく分かっている。
本格的にどうしよう。
よし。
「あの、調査が必要なので、後日に詳しい話を伺ってもいいですか?後日に」
問題の先送りをすることにした。政治でもよく使われる高等テクニックだ。
本格的に取り組んでくれる、そう勘違いしたらしい。Aさんは格段に機嫌が良くなった。
その後、大いに僕たちにお酒を振舞い、フルーツがテーブルを彩った。
Aさんがその日に落としてくれたお金は、一時間半でなんと75万円。新規で単独のお客様としてはかなりの額だ。
見送った後に店長が、「あの客は絶対逃がすなよ」と耳元で言った。
どうやら先送りは無駄なことのようだ。僕が逃げたい。

「ドッペルゲンガーって分かります?」
「ああ、見たら死ぬってヤツ?」
「それそれ!それです!」
「お前の寿命もあとちょっとかぁ。ご愁傷様。葬式には呼べよ。香典はねえけどな」
「勝手に殺さないで下さいよ。実は――」
僕は、オカルトに唯一詳しそうなパシリさんに相談した。
彼はある団体の使い走りをしていて、前述した先輩の幼馴染でもある。当の先輩に相談するのはダメだ。
性格以外は頼りになる。行動力がある。そしてそれ以外にとんでもない裏技がある。冗長になるため伏せさせてもらうが。
そんな先輩に相談するのは現実的なものに限る。
きっと彼女の言い分は幻覚だと断定するだろう。そして彼女にはその要素は多分にある。
だが幻覚だと断定したところで、彼女の悩みは解消しない。
拙い経験だが、僕にも学んだことがある。オカルト問題は否定をしないこと。それが解決の一歩になることを理解した。
オカルトとして問題を解消しなければ意味がない。例え僕がそんなものを信じていないとしても、だ。
そして解消すればリピーターになってくれるかもしれない。店長命令。例え僕が望まなくても、だ。
パシリさんは非常に興味を持ってくれた。心強い味方だ。感謝。
「ドッペルゲンガーか。
 そんなに詳しくないけど、自分にそっくり、死期が近い、他人がいると出てこないとかだな。俺が知ってるのは。
 幽霊ってよりも、妖怪とかの表現の方が正しいかも知れん」
「僕が知ってるのもその程度ですよ」
「俺も見てみたいから、協力するわ。バイト代出せよ」

その日の夜にAさんと連絡を取った。
パシリさんに協力してもらうことを了承してもらい、集合することも約束する。
お店の外でお客様と会うことはそんなに珍しいことではない。
しかし、こういった相談で会うことはあまりない。全くないと言い切れないのが、少し悲しい。

パシリさんをAさんに紹介。Aさんをパシリさんに紹介。一通りの初対面の儀式を済ませる。
さらに細かい話をパシリさんが聞き取る。
パシリさんは専門家ということにしてある。何の専門家かはパシリさんも僕も知らない。
だが流石にパシリさんの本職を言うわけにはいかないだろう。

Aさんを駅まで送って別れたあと、パシリさんに尋ねた。
「どうでした?やっぱり幽霊ですか?」
「まあ、ドッペルなんて良くわかんねえけど、実際にそれを見ないことにはどうしようもねえわな。
 一応話信じるとして、尾行してみるか」
「え?」
「今から、あの女の家まで行くんだよ」
パシリさんは「急ぐぞ」と言い、再び駅に踵を返す。
急いで改札をくぐり、ばれない様に同じ電車に乗り込む。
『家は最寄り駅から10分ほど』と言っていた。タクシーに乗る距離ではないが、乗られたら追いつくことは出来ない。

幸いなことに、Aさんは自転車でもなければバスにも乗らないで、まっすぐ家に向かっているようだ。
「おいおい、マジかよ」
パシリさんが呟く。
僕たちの20mほど前にはAさんが歩いている。しかし、その後ろに誰かがつけているように見える。
通行量はそこまで多くはない。いきなり後ろを振り返ってもばれないぐらいには人がいる。
その人ごみは一定の方向に向かってはいる。が、分岐ごとに人は減る。
その人物は駅からずっとAさんの後をつけている。暗くて姿や人相ははっきり分からない。
「なあ、今捕まえたらミッション終了じゃねえのか?」
「うーん。大丈夫ですかね?ただ後をつけているだけなのに、そういうことして」
「そうだなあ」と言いながらも目線は外さない。
おいおい。何か慣れてないか?

Aさんは背の低いお洒落なマンションに入っていった。特に警戒した様子は見られない。
その数秒後に先ほどからAさんをつけている人物が入っていく。
僕たちも急いで後を追う。物陰に入られて何かされたら事だ。
ポストを確認。三階か。
エレベーターはないタイプの建物。階段からカツカツと上る音が聞こえる。
「Aさん、ちょっと待って!」
Aさんは肩をビクリと震わせ、ドアの前で振り返る。
僕たちを確認すると、ほっと息をついた。
「ビックリさせないでよっ!?何?つけてきたの?」
「いやいや、張り込みみたいなもの。何かあった時のために」
「……まあいいわ。上がっていきなさい。コーヒーでも入れるわよ」
「ありがと。一杯貰ったらすぐ帰るね」
「もう。驚かせないでよ。……あ!ちょ、ちょっと待ってて!部屋片付けるから」
鍵を開け、音も出さない木製の扉を開けるとそそくさと中に入っていった。
ん?何か……
「待て!今まで追ってたヤツどこだ!?」
パシリさんがそう言うと、中できゃあと悲鳴が聞こえる。
急いで扉を開けて中に入っていった。
「うわっ!!??」
「うお!!!」
中にはAさんと、……Aさん?
「ちょっとパシリさん!?何っすかコレ!!??」
「わかんねーよ!」
そこにはAさんと姿形のよく似た人物がいた。しかし、どこか作り物のような固い印象。
呼吸をしない無機物のようだ。そこに置いてある物。微動だにしない。
「わ!?」
「おお!?」
その何かはあっけにとられている僕たちに気付いたかのように、ゆっくりとぼやけ、消えた。
「何だよ、訳が分からん」
パシリさんの呟きで僕も我に返った。
「僕もあんなにいきなり出るなんて。心の準備が」
「あ、やっぱりお化け?そんなにリアクションが大きいとちょっと嬉しいわね」
「何、落ち着いてるんだっ!?」
「いやだって良く見るし。アレが問題の。恥ずかしいけどね」
「はあ。……慣れって怖いな。流石に俺もビビったぞ」

Aさんが改めてコーヒーを出してくれた。このマンションに入ってからようやく落ち着けそうだ。
「ねえAさん?あんなもの見て、何でそんなに落ち着いてるの?」
「え?だって見たでしょ?私そっくりじゃない。自分の姿だからそこまでビックリできないよ。ちょっと薄気味悪いけどね」
どうやらAさんは、気味悪がる程度で恐怖は感じていないようだ。
ともあれ、何かが出ると言うことは確認できた。Aさんが病気の類ではないことは分かった。
または、Aさんと僕たちの全員が病気であることが。
だからと言ってどうにか出来ないことには変わらない。

一ヵ月後。
僕は店長にどやされていた。Aさんに営業をかけろとしつこいのだ。
しぶしぶAさんにメールする。
メールをしたその日のうちにAさんは店に来た。
「どうなってんのよ!?だんだん出る回数が多くなってる!アイツなんとかしてよ。帰り道、一人で帰るのが怖い。
 外でも中でも、ずっと誰かに狙われてる!」
「そんなこと言っても……」
「何にも出来ないんなら頼むんじゃなかったわ!」
店中の注目を集めた騒ぎだった。
Aさんはそれでも憂さ晴らしなのかさんざん騒ぎ、またもや短い時間で大量のお金を吐き出した。
店長は嬉しそうだが、急かされているようで気持ちが沈む。
少なくとも、アレに対してAさんが恐怖を抱き始めていることは分かった。間違いなく状況は悪くなっている。

パシリさんに連絡を取る。少し機嫌が悪い。
Aさん絡みの件をもう一度頼む。パシリさんは嫌々ながらも承知してくれた。自分の力不足を恥じているようでもある。

Aさん宅に行く。
中からバタバタと物音が聞こえる。
「またか!」
あの冷たい印象のあるAさんの形をした何かが、Aさんに覆いかぶさっている。
僕たちがそれを引っぺがそうとすると、消えた。
「何なのよ!?私が一体何したっていうの!?」
Aさんはかなり動揺しているようだが、悪態は相変わらずだ。
触ることも出来ない。他の解決策も分からない。いつ出るのかも、どうしたら出るのかも。八方ふさがり。
「もうムリだろこれ訳分からん」
つぶやくパシリさんの声が聞こえた。
……僕も同感だ。

「で、俺に泣きついてきたわけね」
「先輩、もうどうすりゃいいのか分かんないです」
僕は事態を何とかしたくて、馬鹿にされるのも構わず、先輩に助けを求めた。
案の定馬鹿にされたが、意外にも先輩は真剣に考えてくれた。
僕は出来るだけ細かく状況を話した。

「ちょっと待て」
話が終わり、何か思いついたのか先輩が僕に質問する。
「何でその客の女は、そんな訳の分からん物体をストーカーなんて言うんだ?」
「え?話聞いてましたか?パシリさんと二人でつけた時に、Aさんの後ろにくっついてたの見たんですよ」
「じゃあ、何でお前らは女の部屋でそのニセモン見た時、そんなに驚いたんだ?
 もう見てるはずなんだから、そんなに驚かなくてもいいだろうが」
「……」
「女のストーカーもいるかもしれないが。一般的には女へのストーカーは男だろう。
 夜道とはいえ、男と女を見間違うほどお前らの目は節穴なのか? ん?」
確かに。何故あの時気がつかなかったのか。
Aさんをつけていた人物とAさんの形をした何かが、同一人物かどうかは確認していない。Aさんは確認したのだろうか。
「ニセモンは家の中にしか出てねえな。さっきの話で引っかかったのはそこだ。外にいた例は話聞いた限りじゃ、無い」
「え?でも、外でもつきまとわれてるっぽいこと言ってましたよ」
「ああ、もうじれったいなあ。既にそれが思い込みから来るミスリードなんだよ。ホント、岡目八目ってヤツか」
「はっきり言ってくださいよ!」
「……ストーカー。ホントにいるんじゃねえの?」

「前にも言ったけど、私、警察に行くほどじゃないと思ってるのよ」
先輩と話した次の日に、早速Aさんに連絡を取った。コトがコトだけに、直接会い、伝える。
Aさんは乗り気ではないようだ。
「じゃあ、探偵は?盗聴器の調査とか張り込みとか、ストーカー対策やっているところあるって聞くけど」
「リョウ。……アンタは何にもしてくれないの?」
「いや、本当にストーカーっぽいんだよ。僕が一人でウロチョロするより、絶対上手くいくよ。
 もしいなかったら、僕がその費用出してもいい」
「はぁ。分かったわ。いいわよもう」

プロの探偵の仕事は素晴らしかった。僕が一人でごちゃごちゃ考えている間にほとんどのことを解決してしまった。
驚くべきことに本当にストーカーはいた。彼のしたことは主に盗聴と窃盗、そして尾行程度のつきまといらしい。
「被害が少なくて良かった」とAさんは言う。
少ないのかどうかは良く分からない。だが、本人がそう言うのならばそうなんだろう。
警察には突き出さない代わりに、一筆書かせるという。
「その付き添いに来て欲しい」と頼まれた。
本音を言うと嫌だ。しかし、言いだしっぺは僕だ。
そして、後々のバイトのことも考える。ここで恩を売るのもいいだろう。
ずるい考えかもしれないが、承諾した。

法律についての説明がしばらく続いた。
しんこくざいのため~とか、せいしんてき~とか、二条二項のつきまとい~がどうとか。
ストーカーである犯人の男と向こうの親御さん。僕たちと探偵会社の方々。
スーツを着ていないのは僕だけだった。場違いこの上ない。
直接犯人を見ることはAさんも初めてだったらしい。不思議なことに、向こうも似たような感じに見えた。
「このたびはウチの息子がとんでもないことを仕出かして、誠に――」
犯人は普通の勤め人だった。
年齢は34歳。身長は低め。年齢の割には幼く見えた。しきりに頭をかいている。
ちらちらとAさんの方を見る。しかしそれは、反省している目と言うより、観察しているような目だった。
何度も見て、ガリガリと頭をかく。「ちがうちがう」とブツブツ呟いていた。
探偵会社からたしなめられ、大人しくなったと思ったすぐそばからまた、「ちがうちがう」とブツブツ呟く。
当事者ではないが、鬱陶しいことこの上ない。
何も違わない。ストーカーはれっきとした犯罪だ。
一方からの押し付けがましい気持ちは、愛情だろうが何だろうが過激な時には問題になる。
正当性は裁判で訴えて欲しい。だが、内密な示談を望んだのはそちらだろう。
誰もあえて明言はしていないが、ストーカー行為のときにそれ以外の刑法に触れている。
行為そのものが法令違反となっているケース。
むしろこれくらいで済んで良かったどころか、甘いのではないかと個人的には思う。
一方で、Aさんの温度差も奇妙なものだった。
Aさんはいつもと違い罵倒するようなことはしなかった。
二度とこんなことはして欲しくない、と言う旨を静かに伝えただけだ。
ショックは受けていないように見える。
彼女もこの事態に順応していないようだった。
それはそうだろう。元々ストーカーの男がいるとは思っていなかったのだから。

半ば親御さんからの強制で、犯人の男は探偵会社の用意した念書に署名した。
彼は外回りの営業のサラリーマンで、勤務時間中は時間の融通が利くほうだという。
その時間を盗聴や窃盗の犯行に当てたらしい。
昼間に犯行、会社に戻り、通常業務。その後帰り道のAさんをつける。
言質の取れたスケジュールを見たが、何とも規則正しい。
これでノルマが取れているのだから驚きだ。普通に仕事をすればものすごい勢いで出世しそうだ。
盗まれたのは下着やストッキングなどの衣料品、歯ブラシやコップなどの小物。
生活に支障をきたすほどの量ではなかった模様。今まで犯行がばれなかったのはこのためだろう。
勤務時間中に犯罪を犯していたので、会社にばれると大変だ。そういう意味でも、この一筆は効力を発揮するだろう。
「ちがう!!」
署名したあとに、Aさんに向かって男はこりもせず叫んだ。
しかし、すぐさま親御さんに押さえつけられる。
親御さんはさらに平身低頭になった。息子の社会的立場や自分たちの保身。親御さんたちは必死だ。
この中で最も可哀相なのは、間違いなくこの親御さんたちだろう。
不思議なことに、加害者のみならず被害者すら被害をあまり意識していない。
僕たちを含め、周りが騒いで発覚した事件だった。

「良く分からんな。どういうことなんだ。その終わり方は?」
その日の夜、先輩とパシリさんにコトの顛末を伝えた。
二人とも理解も納得もしていないようだった。だが、言葉とは裏腹に二人の表情は緩かった。
「いや、僕にも良く分かんないです」
「お化けだか妖怪のこと調べてたら、ストーカーを捕まえるって馬鹿な話だよな」
「しかも、そのストーカー。パンツと盗み聞きが好きなヘンタイだと」
「念書も取ったし、Aさんも気にしていないからいいんじゃないですか?」
「しかし、Aみたいな女のどこがいいんだろな?女はもっとムチっとしたのがいいだろ」
「何?Aってスリムなの?俺好きだぞ、そういうの」
「ありゃ痩せすぎだ。ガリガリだぞ?」
「まあまあ、人それぞれですよ」
「それにしてもなんか気持ち悪いな。中途半端に解決しちまって」
「まあ確かに」
「釈然としないなあ」
「ですね」

日曜の夕方。
僕は一人運転していた。Aさんの家に行くためだ。
一件の侘び。そして、僕には霊能力や問題解決のスキルがないことを謝るために。
ストーカー事件は終わったが、あのAさんモドキの件は解決していない。そして僕には解決出来そうもない。
ウワサを鵜呑みにしたとはいえ、積極的に否定しない僕にも責任はある。
休日ならばいるだろうと、無茶な考えの下の行動だ。
慇懃無礼とはこのことだ。今では考えられない。

アポ無しにも関わらず、Aさんは快く招き入れてくれた。
久しぶりにAさんに会ってその顔を見た時、僕はかなり動揺した。
本人なのか我が目を疑う。目の前にいるのはAさんだ。Aさんなのだが、別人のようだ。
スッピンに見えるが頬がうっすらピンクに染まっている。血色がいい。
あの落ち窪んだような影がなくなっている。骸骨のようなあの生気のなさは微塵も感じられない。
肌理の細やかな健康そうな肌、シミ一つ無い。
ストーカー事件が一段落してストレスがなくなったためなのか。
それにしても、この人。美人だったんだな。

一通りの雑談の後に本題に入った。
「あの、例の件だけど」
「レイの件?」
「うん。ドッペルゲンガーの」
「ドッペ?何のこと?」
小首をかしげる。
そうだった。ドッペルゲンガー云々は僕たちが勝手に言っていただけで、Aさんは知らなかったはずだ。
Aさんは美しい笑顔を見せる。
ちょうどその時、先輩からの着信音が部屋に鳴り響く。
むきだしのうちっ放しコンクリートは音をよく反響するようだ。
Aさんは「どうぞ」と言って携帯を取ることを促す。
席を立ち、小声で電話先の相手と会話する。相手は僕がどこにいようとお構いなしだ。
「もしもし先輩。今ちょっと出先なんです」
『そうか。それよりこの前のあのストーカーの件。ちょっと考えたんだが、やっぱり何かおかしいぞ』
「今、その件の侘びに――」
『Aって女は昼間の仕事してるんだよな?盗まれたのは、小さいバッグにも入る程度のものだよな?』
「そうみたいですね」
『それぐらいの量なら数回、へたすりゃ一回で済む。じゃあ、ストーカー野郎は他の時間を何に使ってたんだ?』
「え?そりゃ盗聴じゃないんですか」
『昼間。誰も居ない家。ストーカー野郎は何をずうっと聞いていたんだ?』
……その通りだ。誰も居ない家を盗聴して一体何になるというのだ。何を聞いていたのだ。
ちがう!!
男の叫びを思い出す。違うのは何だ?
得体の知れない恐怖。
犯人の狂気からのものか。それとも――

後で連絡する旨と感謝の意を伝え、電話を切る。
会話の途中で電話に出たことを謝りつつ、ゆっくりと席に戻った。
「ごめん。いや、ストーカーの件だけど」
「ああ、そんなこともあったわね」
Aさんは美しい笑顔を見せる。肩からさらりと栗色の髪が流れる。
「そんなこと、って……」
「もういいのよ」
Aさんは美しい笑顔を見せる。
西日が彼女の背後から注がれる。
「え?」
「もう全部済んだから」
Aさんは美しい笑顔を見せる。
Aさんはこんなに穏やかな人だっただろうか。
「モウゼンブ、スンダカラ」
Aさんは美しい笑顔を見せる。
僕はその笑顔が冷たいマネキンに見えた。










先輩と、その幼馴染との話を。

僕にはアルバイトの斡旋をしてくれた先輩がいる。
そしてその先輩には幼馴染がいる。笑うとえくぼの出来る可愛い女の子で、昔結婚の約束をしていた。
……とかだったら、心躍る話だ。
残念ながら、彼らにそんな関係は皆無だ。
彼は『広域に指定される粗暴な団体の方々』の使い走りをしていた。便宜上、彼を『パシリ』と呼ぶことにする。
彼は先輩の幼馴染と言うだけあって、性格もとても良く似ていた。
いわれの無いバトルに何度も巻き込まれた。
「第一回チキチキどっちが痛いでショー」
「は?何すか?」
ばちこん!デコピンとは思えない音。頭蓋骨に伝わる衝撃波。
首が?何で首が痛い!
「いった!何すんすか!?」
「じゃあ次オレー」
がっつん!
何こいつら?ホントに人間?
あ、ミキって音なった。絶対穴あいた。もれる。僕の数少ない貴重な脳みそが。
彼らのデコピンはボールペンをへし折る威力だ。僕なんか両手じゃないとムリだ。
いやいや、ボールペンは折るもんじゃない。
結局、『第一回チキチキどっちのデコピンが痛いでショー』は、僕が土下座することによって平和的解決を迎えた。

いつの世も 弱者が被る 罪と罰

心の俳句でも詠まなきゃやってられない。

話がそれまくってしまった。
申し訳ない、本題に戻す。
それはあるファミレスでご飯を食べていた時の話だ。
「オレ霊感あんだよ」
パシリさんが自慢げに話しだした。
ちょっと待って!先輩の前で霊感なんてオカルティックなこと言わないで!
「そうなんすか?僕そういうの良く分かんないです」
「幽霊とかすっげえくっきり見えんのよ」
「へえ。それより先輩、クルマそろそろ車検やばくないっすか?」
話を逸らすのに必死になる。
先輩は超がつくほどのリアリストだ。幽霊の存在など絶対に認めない。
幽霊が見えるのは病気かイケナイお薬のせいだと言って憚らない。
パシリさん、せめて僕がいないときにしてくれ。
「何?幽霊信じてるのお前?」
やばい。しっかり火がついてる。
戦争だ。大怪獣二匹による戦争が始まる。逃げろ!
しかし回りこまれてしまった!
「おお、お前興味あんの?」
「ガキじゃねーんだから、いつまでもそんなこと言ってんじゃねーよ」
「見えねえヤツにはこの辛さが分からねえんだよなあ」
「全然辛そうに見えねえっての。何?金縛りとかあっちゃうわけ?」
「ばっか。そんなんフツーだって。一週間前なんて、落ち武者の霊に殺されかけたもん、ほらこの傷」
そう言ってパシリさんは、腕にうっすらと出来た傷というよりミミズ腫れを見せる。
言っちゃ悪いが、幽霊による傷とは思えない。
「これ、刀傷なんすか?」
「刀じゃなくて槍だったな。馬に乗ってた」
「あのさあ、じゃあ馬の幽霊も一緒だったってこと?」
「知らねーよ。そうなんじゃないの?いやあ、ギリカウンターが入らなかったらやられてたね」
「お前、幽霊殴れんのかよ」
「殴れねーなら、どうやって退治すんだよ」
もう、お互い何を言っているのか分かっていないんだろう。
端から見てると頭がおかしい人たちみたいだ。僕たちが頭がおかしくないとは言えないが。
「じゃあ聞くけど、お前、エネルギーって言葉、知ってるか?
 その落ち武者とやらがいたとして、何百年前の人間だ?
 その幽霊とやらが本当にいたとして、そいつのガソリンは一体何だ?
 エネルギーが切れたら、どんな生物も動くことはできねえんだよ。
 ほとんどの生き物は、タンパク質か糖分で外殻が構成されてるんだけど、幽霊の構成物質はなんなんだよ。
 言ってみろよ。主成分をよ。
 あ、幽霊は動けるのに動物じゃねえのか。わりいわりい。
 もし幽霊なんてモンが本当にいたとしたら、ノーベル賞物だよ。
 だってほぼ永久機関だろ。何百年前の人間の思念がその形態を変えず、未だに存在し続ける。
 しかも、しかもだ。お前に傷を負わせるんだもんなあ。物理的な干渉が可能なわけだ。
 電力会社にでも売り込めば、億万長者間違いないぞ。原子力エネルギーなんかよりよっぽどクリーンだ。
 国中、いや、世界中の環境保護団体が、お前を支援してくれるぞ。よかったな。
 ホントにいるなら何で誰も研究しねえんだろうなあ。幽霊信じていない俺にはさっぱりワカンネエヨ」
「はいはい。大学生は賢う御座いますね。だがな、誰がそんな言葉で納得するかよ。
 あのな、幽霊がいないって言ってるヤツは根本が間違ってる。メリットだけを探そうとしてんだ。
 こんな話知ってるか?
 死後の世界が『ある』か『ない』かを、ギャンブラーが賭けたんだとよ。
 そいつは『ない』方に賭けた。
 だけどな、『ある』方にかけた方が、『ない』方にかけた方よりはるかに得なんだ。
 なんでか?
 それは、『ある』方に賭けて外れても失うものがない。ただ死ぬだけだ。
 だが、『ない』方に賭けてみろよ。『ある』場合は負けて、『ない』場合もただ死ぬだけなんだ。
 元々得るものがゼロなら、マイナスが少ない方がハッピーなんだよ。お前の大好きなリスクヘッジってヤツだ。
 また一つ賢くなったな。おめでとよ。
 もちろんメリットもある。
 いつか昔に死んだ人間に会えるかもしれない、という希望があるだろ?希望が生活に必要ないのか?
 いるならハッピー、それでいいじゃねえか。
 人間に生まれたくせに、感傷をムシすることがそもそも間違ってんだよ。
 幽霊を信じることが悪いって意見のほとんどは、詐欺とかの霊感商法だろ?それは騙す方が悪いんだ。
 だが、幽霊そのものが悪いって否定し切れてねえんだよ。
 それともアレか?殺人事件に使われた包丁。それを作った会社も、訴えられなくちゃいけねえってのか?」
「「おい、マサシ。どっちが正しい?」」
うーん。
よくペラペラと口が回るものだな。
この人たちに見つめられて言われる状況。
支離滅裂なことなのに、どちらもそれっぽいことを言っているように聞こえる。
そして、どちらか一方に肩入れすることは死を意味する。もちろん僕の死だ。
「そうですね。でも正直、いてもいなくてもどっちでもいいじゃないですか」
「そういう問題じゃねえ!」
「こいつムカつくんだよ!」
ああ、ケンカしたいだけなんですね。わかります。
「そんじゃ俺たちも賭けるか?」
そう言って先輩は、とある名称を口にする。この界隈では結構有名な『お風呂』屋だ。
「そこの子、知り合いなんだわ」
「やりますね。ナンパですか?」
「ナンパじゃない。この前、俺警察呼ばれたろ?」
「ああ、ホームレスのっすか?」
「そう。ギャラリーの中で一番最初に警察に連絡してくれたのがその子。風俗嬢って何か優しいよな。
 で、そのきっかけで仲良くなった」
「話が見えねえ」
「その子、自称見える女なんだよ。で、お前の言う零能力?霊能力?それで幽霊の特徴を当てようぜ。
 お互いが同じこと言ったら、キャバクラでも何でもおごってやるよ」
「おお。のった。オレの力見せてやるよ。クリュグ出す店知ってんだわ。預金残高確認しとけや」
意外なことにパシリさんは乗り気だった。
こういう自称見える人は、他の見える人との接触を嫌うものだと思っていたからだ。
それでその話は一応の決着となった。
こういうノリだけのケンカというのは、得てして自然消滅するものである。
大体一晩たつとケンカの存在自体が無かったことになることしばしだ。
僕はそう思っていた。

二週間も経ってから、先輩から呼び出しをもらう。
非常に珍しいことに、その電話は昼にあった。
『おう。あれやるぞ。幽霊の賭け』
「ああ、あれっすか。ホントにやるんですか?僕今日バイトですよ」
「何か今日じゃないといけないんだと。ツキがどうとか。
 クルマが電気で走る時代に何言ってんだよな。運に左右される現象って何なんだよ』
「あー、僕も行かなきゃダメですか?」
『別に来なくても良いけど?』
「すみません。バイト当日休みは罰金なんで、今日パスで」
『……ベツニコナクテモイイケド?』
「楽しみだなぁ……何時でしょうか……はぁ……」
『七時だとよ。もし遅れたら罰金な』
この催しも罰金で済ませてくれるのならば、全く問題なく休むのだが。

七時。15分も前に来たのに、結局遅く来たのは先輩たちだった。彼ら三人は連れ立って集合場所に来た。
「こんばんわぁサオリでーす」
先輩の隣にいる小柄な女の人が『自称』見える人なのだろう。オカルトのオの字も連想できない。
非常に露出が多いパステルな夏服を着た女の人だった。スカートの裾がヒラヒラと心許ない。
僕とサオリさんで、自己紹介と自己アピールを済ませる。
見える人が二人もいるという状況は初めての経験だ。
「それでこれからどうするんですか?」
「ああ、何か二人の話聞くと、必ずユーレイが出る場所ってのは案外少ないんだと。
 だから、こっちがユーレイ呼び出すってのが一番確実なんだとよ。
 つーわけで、今からお前の家まで行くぞ」
「は?僕の家!?」
「だって、俺とパシリの家だと、どっちかが細工出来るだろ?女の家に野郎三人行くわけにもいかないし。
 で、お前の家に決定」
最悪だ。だから僕を呼んだのか。
「だったら僕、家で待ってたほうが良かったじゃないですか?」
「お前の面白いリアクション見たいからに決まってんだろ?なぁ?」
「……お前。分かってんなぁ」
くそ。こんな時だけ息ピッタリだ。

結局逆らえるはずもなく、一行は一路僕のマンションへ。
「何この水槽。お前魚飼ってんのかよ。何これ?エビ?食いごたえのねぇサイズだな」
「食べないですよ。魚はいません。孵化したばかりとか脱皮後に、エビ食べちゃうんですよ」
「……生き物いるのか。まあそんぐらいなら大丈夫かな」
「何かまずいんですか?」
「大丈夫、大丈夫」
「で?これからどうすんだ?」
「えっと、パシリさん、何か呼び出す方法知ってる?」
「サオリちゃんは、こっくりさん以外で何か知ってんのあんの?」
「や、知らないけど」
「じゃあこっくりさんでいんじゃない?」
こっくりさんのやり方は今更書くまでもないだろう。
筆や墨汁など持っていないので、筆ペンとロウソクを買いにコンビニまで走る。
帰る途中に言ってくれると非常に助かるのだが。
また家から出るのは嫌なので、ついでにA4サイズのコピー用用紙を三枚貰う。

家に帰ると、先輩とパシリさんが喧嘩をしていた。
「アイス食ったぐらいでガタガタ言ってんじゃねーよ」
見ると、僕の家の食料や飲み物がテーブルの上に散乱していた。
ああ、僕のハーゲンダッツ・抹茶クリスピーサンドが……。
「二人ともやめなよぉ。ほらマサシ君帰ってきたよ」
そう言うサオリさんの言葉を聞く二人。
僕の方を血走った目で見るパシリさん。
一方、しらけた目で僕を見る先輩が僕に言う。
「おい、マサシやめだ。こんなの賭けにならねえ。何が幽霊だバカバカしい」
「なんだそりゃ?負けを認めんのか?」
「ああ、もうそれでいいよ。ちょっとでも期待した俺がバカだったわ」
「これなーんだ」
そう言うとパシリさんが、超人気格闘技(?)戦のチケットをヒラヒラと見せびらかす。
「こっちが負けたときのこと言わなかったじゃん。オレが負けたらコレやるよ」
パシリさんがそう言うと先輩は大人しくなり、てきぱきとテーブルの上を片付け始めた。
何なんだ。あんた、格闘技ファンだったのかよ。

賭けの内容は以下のようなものだ。
こっくりさんで霊を呼び出す。
→霊が来たと二人が認める。
→その霊の情報を、自分の見える範囲内で出来るだけ細かく書く。
→先輩と僕が答え合わせ。

ルール。二人が諦めるまで。
笑えねえよ……勘弁してくれ。
配置は中央にテーブル。僕の右隣にパシリさん、正面がサオリさん、左隣に先輩。
最初のターン。
こっくりさんこっくりさん。
「何か白々しいな。この歳でこっくりさんとか」
「懐かしいですよね」
「アタシ昔、好きな男子の名前ばらされたよ。コレで」
「おい、真面目にやれよ」
「その顔でクラス委員長みたいなこと言うなよ」
もちろん数回で何かが出るわけがない。
何度も仕切り直してこっくりさんと唱え続ける。
「ちょっとトイレ行って来るわ」
パシリさんがそう言って、部屋の電気を点けて一時休憩をとった。
ロウソクは細いものなので、燃え尽きそうだった。
新しいものに交換し、パシリさんを待つ。
「そうそう簡単に幽霊なんて呼べないよぉ」
「それはそうっすね」
「もういんじゃねーの?飽きてきたわ」
「まあまあ、もうちょっとやりましょうよ」
「そーだよ。もうちょっとしよーよ」




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僕が学生の時の話。
当時僕は女性を相手にするアルバイトをしていた。
春を売るような違法なバイトではない。あまり褒められたものではないことも確かだけれど。

ある夏。
『急遽店の改修のため、スタッフは休み、キャストは系列他店ヘルプ追って指示』
そっけないメールを店長から貰った。
完全なスタッフ要員と、ヘルプや雑用などの間接的に売上に貢献しているのを総称してスタッフ。
売上に直接貢献していていて、さらに売上トップ5人がキャスト。
間接工、直接工みたいな感じ。
もっと簡単に言うと、スタッフはバイト、キャストはプロみたいなわけ方。
僕はスタッフ。ペーペーだ。
お休み確定。
メールを貰った時は正直、急すぎるだろと思った。
が、なにぶん水商売と言うくらいだから、色々しがらみやらなにやらあるのだろう。
聞いたらいけないようなこともあるのだろう。

休み三日目の夜、バイトを斡旋してくれた先輩からメールが届いた。
『お前店工事でヒマだろ?バイトやるから●●に集合。一時間以内に来いよ』
先輩よぉ!!今何時だと思ってるんすか!?常識考えてくださいよ!!
……とかは絶対言えないので、光の速さで準備。
結構、いや相当粗暴なお方なので、僕は恐々としながらも現地に向かう。

二分遅刻した大罪で、腿に挨拶という名のキックをいただく。
「今からドライブ。お前このクルマ使え。俺はこっちで行くから」
バイクを指差しながら彼は僕に伝えた。
クルマはフルスモークの黒いレガシー。
同乗しない意味が分からない。しかし、免許を取っったばかりの僕は、深く考えもせずに了解した。
そのクルマの後部座席はガッツリと倒され、大きな荷物があった。
青いビニールシートがかけられて中は見えない。
僕はそのクルマで、彼は当時流行っていたマジェスティというビックスクーター。
そんな不思議な組み合わせでドライブ&ツーリングに行くことになった。
ハンドルは鬼のように硬い。なんかくさい。車高は低すぎてぎゃりぎゃりうるさい。
エンジンいかれてんじゃないか位のエンスト率。クーラーはギンギンに冷えていて温度調節できない。
散々なクルマだったが、ある程度慣れてくるとそれなりに楽しいドライブだ。
タバコ吸ったり、コーヒー飲みながらの運転がカッコイイと思っていたお年頃。まさにペーパードライバー丸出し。
結構な距離なのに下の道ばかりで、少々時間が掛かった。
信号で止まるたびに、ヘーフヘーフとエンジンが悲鳴を上げるのには参った。
目的地は山だった。先導する先輩について行っただけなので、正確な場所や名前は分からない。
勿論、カーナビなんていうご大層なものはついていない。
ただ、途中から国道20号をメインに進んでいたので、大体想像できる。が、申し訳ないが伏せることにする。

大きな道から、農家の方々が使う専用の道路のような、簡単に踏み固められて舗装されているだけの道路に入る。
僕はとにかく、二輪の先輩は大丈夫なのか心配していたのを覚えている。
20分くらいその道路で走っていたとき、急に先輩のバイクが止まり、携帯電話でどこかに連絡を始めた。
「~~~、~~~」
何かを話しているのが分かるくらいで、聞き取れない。
あの先輩が電話だというのに口元に手を当て、腰を低くして話している。
多分、目上の方との会話だろうという印象を受けた。
彼はバイクをその場に置き、クルマに乗り込み、ナビをし始めた。
相当な徐行移動だったので、100mくらいの距離を進んだくらいなのだろう。
「この辺だと……」と先輩は言いながら、暗い夜道の中何かを探す。
「おお、あった」
先輩が指差す。
そこには黄色い水、いや、ペンキみたいな物が入ったペットボトルが、木に吊るされていた。
先輩はクルマを降り、トランクを開け、荷物にかぶせてあるビニールシートを剥がす。
「おい、手伝え」
先輩が引きずり出したのは、木で出来た箱だった。
何の装飾もされていない蓋が、ぴっちりと釘付けされている。
長さは2mないくらい、幅はその三分の一くらい。長細い大きい箱。
さらに、僕に探検隊やレスキュー隊が頭につけるヘッドライトを渡す。お互いがそれを頭につけた。
「おい、そっち持て」
先輩に言われたとおり、その箱を二人がかりで持つ。
ペットボトルのあるところから道に外れ歩く。
ペットボトルは50mくらいの等間隔でポツポツと見えた。僕たちはそれに沿ってしばらく歩いた。
スズムシとかカエルとか、夜の合唱団が盛大に鳴いていた。
カエルがいるということは、田んぼでもあるのだろうか。
ただ不思議と懐かしい気持ちになった。あれがエトスというモノなのだろうか?日本人の習性。不思議な気持ちだ。
ノスタルジーに浸るより、手の痺れがきつくなってきた。
箱はかなりの重量で、しかも取っ手もついていない木製。つるつると滑る。もの凄く持ちづらい。
疲れた。暑い。
エトス?なにそれおいしいの?
どれほど歩いたのか気にするよりも、早く着かないかなぁと思っていた。

もう腕が限界に近づいたころ、三人の男たちがいた。
見た目はごく普通の人のように見える。Tシャツにジーパンまたはスラックス姿。
木製の重たい箱を地面に置いて彼らに合流。
先輩が一言二言彼らに挨拶をし、僕の方に目を向ける。
その中で一番年長者の方に、ガツリと音が聞こえそうなくらい強く頭を叩かれた。
そしてなぜか謝りながら僕の方に向かって言った。
「悪い。今からちょっとやることあるから、クルマで待ってろ」
僕は彼らにお辞儀をし、クルマの方に向かった。
後方のスペースを存分に使っていた荷物は先ほど降ろした。やけに後ろが寂しい気がする。
先輩がどれくらいで帰ってくるかとか、何やっているんだろうとか、そういう疑問はあった。
が、正直ヒマでしょうがなかった。
壊れたクーラーのおかげでキンキンに冷えた車。手足が痺れるほど寒い。
今は夜だが、真夏だ。蚊が入るから窓を開けることは出来ない。
サウナと冷蔵庫、どちらに入る?そう問われたらアナタはどちらに入るだろうか。
僕は冷蔵庫に入るのを選んだだけだ。
閉じ切った車内、ケータイアプリのドラクエをやっていた。

コンコン
その物音にはかなりビックリした。
先輩が帰ってきたのだと思い、ドアを開けて表に出た。
外には誰もいない。
森の中の暗闇は普通の夜道と違い、月明かりや星が見えづらいため、ほぼ全くと言っていいほど視界がない。
僕はホラーとか心霊現象とか、そういった物は否定派なのだが、さすがにこれほどの暗さは単純に怖い。
向こうから何かが襲ってくるような怖さが暗闇にはある。動物的な本能なんだろうか、アレは。
誰も居ないのに物音がする。良くあることだろう。うん。
まあいいやと思い、僕はクルマに乗り、冒険の世界に戻った。

コンコン
しばらくするとまたノックする音が鳴った。
今度もちょっとビビリつつ表に出た。
二回目だとさすがに何かが偶然当たったとも言いがたいので、クルマの周りをぐるっと確認。
他に物音を発していそうな物は見当たらん。周りの木が当たるにしては距離がある。
もう丑三つ時近く。草木も眠ってるだろ。静かすぎて耳鳴りがするなあ。
まさかイノシシとかクマ。それだったら怖すぎ。
いや、ここで一番会いたくないのはむしろ地主だな。言い訳できない。
『なんでこんな所にクルマ止めてるの?』『わかりません!』→不審者→通報
笑えねえって。
あ、今、免許不携帯。先輩急に言うんだもんなあ。
……など、もんもんと考えながらクルマに戻った。

こんこん
おお、またか。そう思いながらも、もし先輩だったら後が怖いので一応外に出て確認。
……やっぱりいない。なんなんだ?
つーかドラクエの世界って、本当に魔王に苦しめられてるのか?
王様ももっと支援してよ。経費が自費で武器は現地調達。マスターキートンかっての。
一人で魔王倒すとか、それ勇者じゃなくて暗殺者だろ。単なる殺し屋じゃね。
など、三回目ともなると多少の余裕が出来る。
ドラクエの理不尽さを考える方に比重が高くなってきた。
昔から通信簿には集中力が散漫と書かれていたものだ。自覚はしている。
だが、それだけだ。

こんこん
四度目ともなると、もういいよ、などと思った。
もし先輩だったとしても謝ればよくね?という邪な考え。脳内会議では満場一致の賛成。
ノックは無視して、『太陽の石』を入手するほうを優先した。
こんこん
何なんだよコレ。しつけーって。ってか何の音だよ?
こんこん
……何の音?
こんこん
音?
そういえば、ノスタルジックなカエルさんたちの大合唱がさっきから聞こえない。
なんでこんなに静かなんだ?
そのことに気付き、心拍数が跳ね上がる。
多分もっと賢い人なら、一回目のノックの音で気付いたと思う。
ノックは明らかにクルマのドアを叩くような音ではなかった。
普通、クルマを叩くとしたら、二種類の音が鳴ると思う。
一つはドアの金属部分を叩く音。普通の日本車なら、アルミとスチールの薄い合板を使っている。
手のひらや拳で叩くとドンドン。指ならトントン。そんな低音で車中に響く。
そしてもう一種類はウインドウを叩く場合。
車のガラス部分は強化ガラスで、一般の家にあるようなガラスと違い厚い。叩いてもコツコツみたいな音しかしないはず。
僕には絶対音感なんて大層なものはないから、ドのシャープの音がするとかそういった種類は分からない。
だが、クルマのどの部分を叩いても、『こんこん』といった軽い音はしない。
しかし先ほどからの音は、音が発する時の空気の振るえ、それと共に、明らかに近くから聞こえてきている。
軽い音。
……あれだ。木の箱。
こんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこん
僕がその事実に気付いたことを喜ぶかのように、音が座席の後ろから何度も何度も聞こえてくる。
こんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこん
こんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこん
怖い。一体何なんだ。
こんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこん
こんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこん
やめてくれ。もう許してくれよ。
ちらりと目線だけでバックミラーを覗きこんだ瞬間、後悔した。ぶわりと汗が噴出し体が急激に冷える。
木の箱が後部座席にあったからだ。
なんであるんだよ?さっきせんぱいたちが、もっていった、はずじゃ…
音が響く。
僕は箱から目を逸らすことができない。座席から動くことも出来ない。
あんなにしっかりと釘付けされていたはずなのに、木の箱が音もなく開き始める。
障害もないようにゆっくりと。ただ蓋がスライドしただけに見える。
完全に開いた箱のヘリに内側から手が掛かる。爪がはがれた、ささくれ立った指が四本。
何かが出てこようとしていることぐらい、分かる。
ああ、そのままそこにいてくれ。お願いだから。
こんこん、と音が鳴り続ける。
中から女がゆっくりと這い出てくる。
顔を鏡越しに僕に向ける。楽しそうに口だけで嫌な笑いを見せる。
見るだけで分かる。悪意のある笑い。
服を着ていない。胸がしわしわ。
首に青黒い線のような痣。乱れた髪が目を隠している。箱に乗せた腕には、痣とたくさんの注射跡。
体中にも痣。手の指も足の指にも爪がない。
こんこん、という断続的に鳴る音以外は聞こえない。
女は大きく裂けるほどに口を開き、笑っている。
だがその声は聞こえない。いや、聞こえなくていい。聞きたくない。
歯がない。また一つおぞましいことに気付いてしまった。よだれが口の端を伝う。
笑いながら何かを叫んでいる。こんこんという音で何も聞こえない。
何を言っているのかなんて知りたくもない。
裏腹に、鏡越しの女から目が離せない。
僕と女の距離は1mもない。手を伸ばせば届く。
嫌だ、絶対に伸ばしたくない。
女が僕に手を伸ばす。
妙に艶かしく体をひねりながら僕に体ごと向かってくる。
爪のない、枯れ枝のような手が僕へと――
はーっくしょん!!!
そのとき、クーラーを効かせすぎたせいか、場違いなことにくしゃみをしてしまった。
……あれ?いねえ。
なんで!?
倒した!!!
くしゃみで幽霊倒した!!???
くしゃみをすると嫌でも目を瞑る。
笑えることに、目を開けたときには音も鏡に映った女も木箱も消えていた。
残っていたのは木箱にかぶせてあったシートだけ。
何とも下らない助かり方だが、どちらにせよ脅威は去った。
先ほどまで聞こえていなかったカエルの大合唱が聞こえる。彼らの声がこんなにも暖かいと思うとは。
安心した僕はテンション高めにギャアギャア叫んだ。発情期のサルのように。
無理してでもそうしないと今の恐怖を拭えない、そう思ったからでもある。
手の震えだけが、今起きた恐怖を隠しきれていなかった。

それからしばらくして先輩が一人で帰ってきた。
今起きた話をバイクの所に戻る道すがらしたが、まともに取り合ってくれない。
「何でこんな暗いのにババアが見えんだよ。気のせいだっつってんだろバカ」
「え?ババア?」
「あぁ?ババアが見えたっつったろが?今」
「女って言ったんですよ」
「……うるせえ」
機嫌が悪くなったのがありありと分かった。
結局、それ以上は怖くて聞けなかった。

あの大きな箱が何だったのか。
未だにそれは分からない。









車で旅行に行った話。

僕にバイトを斡旋してくれた先輩と夏休み旅行に行った。
当時、念願のクルマを購入した僕は、ドライブに行きたくてしょうがなかった。
「じゃあ俺の実家行くか?」
そう言った先輩に僕は二つ返事で飛びついた。
道中は特に何もない。ただ、移動距離が飛行機クラスだった。
夜の11時に出発して、着いたのが朝過ぎ。もうアホかと。
先輩の家族はものすごく良い人たちだった。
先輩はきっと拾われた子なんだろう。または遺伝子操作で生まれたんだろう。
受験生の妹もいた。先輩の妹だけあって凄く可愛かった。どうやら兄・先輩・妹の三兄弟らしい。
「手を出したら殺す」と、半ば本気で言われる。
「先輩がシスコンとは意外でした」と言ったら、みぞおちに蹴りをいただいた。ナイスキック。

ここから本題だ。
状況はたったの二文字で表すことができる。『迷子』だ。道に迷った。

事の発端は、滞在二日目に先輩が「良い所教えてやるから行くぞ」と言ったことだ。
妹ちゃんともっとお話していたかった。だが、僕が妹ちゃんにべったりなのでやきもちを妬いたのか。
先輩の気持ちは分からないが、僕を外に連れ出した。

囲炉裏のある温泉宿みたいなところに連れて行ってもらう。
そこで昼食の他に、蜂の子(?)と、ツグミ(?)を食べさせてもらった。
どちらも凄く珍しいものと聞いたのだが、グロテスクすぎて食べるのに勇気がいる。
思い出としては懐かしいが、今出されて食べる自信はない。
そこは先輩の古くからの知り合いの店だったようだ。
先輩のことを「タクちゃん」と親しげに呼んでいた。

温泉にも入り、囲炉裏でタバコを吸いながらまったりしていた。
先輩が「サトさん」と、入ってきた人に声を掛ける。
「おお。お前久しぶりだな、こんな所に何の用だよ」
「サトさんご無沙汰です。今、後輩を連れて帰省中なんです」
「もっと顔出せよ、まあいいや。親父さん元気か?」
「元気ですよ。あ、コイツ後輩のマサシです」
「こんにちは。先輩にはいつもお世話になっています」
「嘘つけよ。お世話してんだろ?」
「……はい」
その後、サトさんを含めて三人で雑談。
サトさんは長身でスラリとしていて、声が太く、口が悪い人だった。
だが、凄く感じのいい人だ。先輩が懐くのも分かる。
面倒見の良い渋いイケメンとでも言えばいいのだろうか。
建築関係のリース業をやっていると言っていた。実は当時は良く分かっていなかった。
その日は休みだから釣りに来た模様。
「先輩、僕たちも行きましょうよ」
「明日な、今からじゃ遅いわ」
サトさんにそのポイントを教えてもらう。

次の日の早朝から家を出た。
そして、お待ちかねの帰り道。道に迷う。
先輩が調子に乗って、上流へ上流へと登って行く。
さあ帰ろうと言う時に、現在位置が分からなくなった。
先輩の地元とはいえ山奥。道順など知らないだろう。
もちろん、山を甘く見た僕たちがGPSなど持って行っている訳がない。
「ここどこですか?」
「分からん、ヤバイな」
「まあ道路ありますから、まっすぐ行けばどっかに当たりますよ」
「だな」
道路に上がり歩いた。
しかし、相当な時間歩いてもどこにも着かない。それどころか、看板すら見えない。
段々暗くなってきた。
休憩と称して、ガードレールに腰掛ける。
タバコに火をつけながらふと有名な怪談を思い出す。
「そういえば、オイテケ掘りとかありましたね」
「ああ、なんかの昔話だろ?」
「今の状況それじゃないっすか?」
「荷物になるし、置いてくか」
「オイテケ掘りだけに?」
「オイテケ掘りだけに」
ナイロン製の魚の入った魚篭やえさ箱を道路の脇に置き、釣竿やタモなどの小道具もそこに置いていった。
一応、電話番号と名前と後日取りに来る旨を書いた物を添えて。
オイテケ掘り云々よりもかさばって歩き辛かったのがメインの理由。
持って行かれてもいいや、そんな気持ちだったのは内緒だ。借り物なのに。

それから更に歩いた。
幸いなことに疲れもほとんど感じない。
緩い下り道が続いていたので、何も考えずに歩いた。何とも無計画な行為。
クルマが来たら乗せてもらおうと思っていたのだが、それも叶わず。

三時くらいに道に迷ったのを先輩が認め、今が夜の八時。五時間以上も道を歩いていることになる。
時速5キロで歩いているとしても、距離にして25キロ。
いくらなんでも、看板やクルマの往来のある道路に出てもいいはずだ。
しかも、ここはちゃんと舗装されている道路。山の中で迷っているのとはわけが違う。
月明かりがあるので周りが分かるくらいの光はあるが、辺りは真っ暗。街灯はほとんどない。
「先輩。これ、本格的にやばくないっすか?」
「俺も思った」
「いや、遭難ですよこれ」
「そうなん、ですか」
コイツ、ダメだ。
「電波あります?」
「おお。バリバリ。電話するわ」
「もっと早くしてくださいよ」
「そう、そう。うん。じゃあ迎えに来てって言って。
 え?いや、分かんない。●●川の上流沿いの道路にいるんだけど、場所はちょっと分かんないや。
 そう、近くに来たら教えて。はい、じゃあね」
「先輩。妹ちゃんですか?」
「おお、何で分かった?」
「シスコン」
「うっせ」
「どうする?待つか?それとももうちょっと歩くか?」
「まあ、こんな所で待つのもカッコ悪いし、歩きますか」
「だな」

しばらく歩く。
多分30分くらい。時間の感覚など既にない。
「おい。あれ見ろ」
先輩が小声で僕に囁く。
道路下の川を指差している。
「何かいますか?」
「何だあれ?」
カカシ?木にしては妙に白い。
「何ですかね?流木が岩に引っかかってるんじゃないですか?」
「動いてるぞ。生き物だろ?人か?」
「ちょっと細すぎないすか?人にしては」
「おい、あっちにも居るぞ」
先輩の言うとおり、川の中にその白く細いものが何匹か立っていた。
どうやら川の中から出てきているようだ。
「ちょっと幻想的ですね」
「ああ、なんかキレイだな」
そんなことを二人で言いながら、段々増えてくるその白いのを見ながらタバコを吸っていた。

ppp先輩の電話が鳴る。
「うん、今どこ?え?置いたけど、そうそう、いや、今ちょっと面白いのが見えてるからそれ見てる。
 え?クルマ通らなかったぞ?じゃあ下ってきて」
「どうしました?」
「釣竿とかは見つけたけど、場所分からないんだとさ」
「そうなんすか」
「一本道なんだがなぁ」

二人でその白いのが静かに増えるのを見ていた。今ではそこかしこにいる。
川の中に溢れるほどの大群。ゆっくりゆっくり下流に向かっているようだ。
「なあ、もうちょっと近くで見ねえ?」
「僕もそれ言おうと思ってたんですよ」
美しい。そういう風に覚えている。
月の光かどうかは分からない。その白いのに埋め尽くされて、川全体が発光しているようにも見えた。
吸い込まれていきそうな魅力がそこにあった。

pppppまただ、急な電話の音は頭にくる。
「はい、え?おお、サトさん。いやいや酔ってないです。今ですか?道に迷っちゃって、ちょっと面白いの見てるんですよ。
 それです!そうです。川の中にしろい…」
『それを見るなっ!!!』
ケータイを通して僕にも声が聞こえた。
『おい!今どこだ!?』
「わかんないです。道に迷ってんですって」
『じゃあ、その白いのはどっちに向かってる!?』
「ああ、下流方向~?ですね」
『じゃあ上に向かえ!いいか!?道を登れ!!』
「街とは反対ですよ、それだと」
『いいから言うこと聞け!!ぶっ殺すぞ!!!』
「どうしたんすか?なんかサトさん怒ってません?」
「わかんね、すっげえ怒ってる」
『お前、言うこときかねえんだったら、妹ちゃんにアノことばらすぞっ!?』
「何すか先輩?アノことって?聞きたいっす!」
「おい、上行くぞ」
先輩の目つきが変わった。
「えええ、登るんですかぁ、疲れますよ~」
足をどかりと蹴られた。登山用のブーツで攻撃力も倍増だ。
「うるせぇ、行くぞ」

五分も歩くと、上から先輩の親父さんの運転するクルマがやってきた。
後少し待てば来たじゃないか、とブツクサ思っていた。
川を見ても白いのはもう居なくなっていた。普通の山道の川だ。

僕は車に乗り込むと、もの凄い疲れを感じた。
先輩も同じだったようだ。家に着いたら風呂にも入らずそのまま寝てしまった。

翌日の早朝、先輩に叩き起こされた。
サトさんが出社前に僕たちを訪ねてきたという。
「お。無事だったか」
サトさんは昨日の電話越しとは違って、とても優しく笑う。
「いや、本当にすいません。昨日帰った後寝てしまって、着信気付きませんでした」
「気にすんな。あれ見たら最低でも二,三日寝込むらしいからな。若いってのは偉大だ」
「何なんですか?あれ?」
「ああ、なんか白ヤマメとか言われてるな」
「結構有名なんですか?」
「地元でそこそこ山に入るやつなら、一回は聞いたことがあると思うぞ」
「キレイでしたけどね」
「……お前。まあ、いいか」
「何ですか?気になりますよ」
「……本当に、キレイだったのか?」
川の中に立つ白いカカシ。
細すぎるけど人間っぽい形はしてた。足はぴっちり閉じてたな。ってかゆっくり跳ねながら進んでた。
良く分からないけど、手?妙に細い腕はあったな。プラプラ揺れてた。
目と口の部分に空洞。空洞?ごとりと落ち窪んだ穴。
長くて白い髪?ボサボサの。枯れたリュウノヒゲみたいな。
もちろん服は着てない。
骨ばっているというより木の皮みたいな肌。
それが川を埋め尽くすほど大量に。わさわさと溢れんばかりに。
何だこれ?何がキレイなんだ?
「なあ、本当にキレイだったか?」
「……いえ、今思い出すと、……気持ち、悪いです」
「まあ神隠しの一種なんだろ。変な所に入り込んじまうんだ。お前のテンションもわけ分からなかったからな」
「すみません。無礼でした」
「だから気にすんなよ。誰でも一時的にちょっと気が狂うもんらしいんだ」
そういえば、あんなに長い間歩いてた割には、二人とも異常に楽観的だった。
先輩の性格なら、自分が遭難の原因だろうと絶対僕に当り散らす。迷ってから一発も殴られなかった。
何よりいくら下りとはいえ、何時間も歩いていて疲れないわけがない。休憩にしたって、タバコを吸うぐらいだ。
何より飲み物もないのに、のども渇かなかった。
気が狂う、か。そういえば先輩優しかったなぁ。
「無事ならいいんだ。あんまり無茶すんな」
サトさんは、時計を見ながら僕たちに言った。時間が迫ってきているようだ。
「じゃあ最後に一つ」
「おお、何でも聞け」
「何であんなのがヤマメなんですか?魚ってよりもカカシですよ?」
「ヤマメは漢字で、『山女』って書くんだよ」
ぞくり。背中に汗が線を描いた。







バイト先の仲間及び上司と肝試しをすることになった。
常連のお客様一人とそのご友人二人。僕とユウキ(源氏名)、そしてガクト(仮)さん。
女二人、真ん中の人一人、男三人、計六人。
名目上は、お客様へのアフターサービスと新しい顧客開拓の準備行為。
売上が急激に下がったのが、このようなサービス残業をする理由だ。
不況を理由には出来ない。その時期にゴソっとお客様が来なくなったのだ。サービス低下の証拠だろう。
潜在的な顧客を含めても、お客様三人に僕たち三人を当てるのは少々過剰だと思う。
だが常連のお客様は、指名料ダントツのガクトさんを二時間以上拘束できる相当な太客。
なので、そのご友人にも期待をこめての放出なのだろう。
しかし正直言うと、ナンバー1であるガクトさんへの接待色が強い。お客様三人も「あれ」が目的だ。
つまらない話だろうが、大声で笑う。自慢話は褒め称える。わざとらしく、大袈裟ぐらいが丁度いい。
外面、男女が六人で和気藹々。内面、各人の思惑で虎視眈々。

「おい、リョウ。それお姉ちゃんマンションだろ?」
焚き火越しに、ガクトさんが僕の源氏名を呼ぶ。照り返しで元々深い彫りの顔立ちがまるでマネキンのようだ。
「流石!これ、僕の地元の話だから勝算あったんですけど。マジ何でも知ってますね」
「お、そうなのか。何度塗りなおしても赤い文字で浮かび上がるんだってな。TVで見た」
「なにそれ~。怖~い」
男ではないお客様予定の一人が黄色い声をあげる。全く怖がっているようには見えない。
食虫植物のような凶悪なマスカラに彩られた目で、ガクトさんを見つめる。
どうやら既にガクトさんのことを気に入ったようだ。言い忘れたが、女でもない。
ユウキが次の話に移る。
「じゃあ、ガクトさん、四角い部屋は?」
「あ。あーし、聞いたことあるかもぉ。四人が遭難して寝ないようにして、助かるのでしょ」
アピールするのはかまわないが、それではただの良い話だ。
「山岳部とかワンダーフォーゲル部だかの奴らが、遭難から命からがら帰還。
 実は、その生き残った方法に重大な欠陥があることに後で気づく、ってヤツか。有名な話。基本だな」
「知ってますねえ。なんでそんなに詳しいんですか?」よいしょ、よいしょ。
僕の言葉にユウキが被せる。
「違います、そっちじゃないです。
 マンションとかホテルのペントハウス、エレベーターから直結する部屋あるじゃないですか。
 あんな感じで、エレベーターで四角い部屋に直結するらしいんす。聞いたことありますよね?」
「はあ?部屋なんて大概四角だろ?」
「俺も詳しくは分かんないんすけど、その部屋は完全に四角なんですって。やっぱり知らないんすか。…俺1点ゲットですね」
「何だよ、その完全な四角って。意味わかんねえよ」
確かに意味が分からない。ただ四角い部屋に行くのが何故怖い話なのか。
恐らくは、元々意味のないものに意味を与える行為を楽しむ類の怪談なんだろう。
「じゃあ次、私の番ね。友達から聞いた話なんだけど――」
浜辺で一斗缶の焚き火を囲みながら話していた。
百物語のあとに心霊スポットに行くのが肝試しの王道だ、とガクトさんの案。逆らう理由も力もない。
最初は百物語のつもりで話していたのだが、思いの他ガクトさんが怖い話を知っているため、
徐々に趣旨が変わり、ガクトさんの知らない怪談を探すゲームになっていた。
今のところユウキの話以外は知っているようだ。
「あぁ、それ知ってる。足つかまれるオチ?」
「何で知ってるの、私もうないよ。ホントにガクト物知りだね」
百物語と言っても、百話も話すつもりがないのは全員理解している。
適当なところで心霊スポットの探索に行く予定だ。
本当にやるとしたら、六人で百話、一人当たり16,7話用意しなくてはならない。
普通なら知っている話など2,3話がいいところだ。相当難しい。
百物語を終えた後には怪異が起こるというのも、こういった理由からなんだろう。
肝試しは仲間内での遊びだ。
肝試しをするのに集まる仲間など、多くても十人いないくらいだろう。
一人10話も話せないから、百話も話せない。結局、百物語は終われない。
秒速で落下する流れ星に三回も願い事を唱えられないのと同じだ。
肝試し用の心霊スポットは、随分前から放置されている廃ホテルだった。
経営苦で自殺した社長が出るそうだが、
恐ろしいのはむしろ、壁に落書きに来る暴走族や、風雨に晒されたビルの耐久性だろう。
いっそう仲良くなった様子のガクトさんとお客様たちを、彼のマンションに送る。
どうか明日からウチの店に通ってくれますように×3。
流れ星ではないが、一応願っておく。念のため。

僕たちも帰路に向かっているときに、ユウキが切り出した。
「なあ。さっきの四角い部屋の話なんだけど」
「ああ、あれは良くねえな。何なのお前、空気読めよ。分かってるだろ?」
「いや、ガクトさんなら大丈夫かと思ったんだよ。ダメだったけど。
 で、四角い部屋の謎解きに攻め込もうぜ、今から。チャレンジだ!リベンジだ!」
あっついなあ。リベンジって意味分かってるのだろうか?
「何お前、マジネタなのかよ?ガキじゃねえんだからさ」
「マジネタも何も。まさかお前も?四角い部屋知ってるだろ?」
「ガクトさんが知らないネタ、僕が知ってるわけないだろ。有名なのかそれ」

ユウキが話した四角い部屋のルールはこうだった。
エレベーターで直結部屋に行った者しか『完全な四角』の意味は分からないのだが、
『完全』の意味が分かると意味が分からなくなる。
四角い部屋に行くことは誰でも出来るのだが、エレベーターの最大積載量を越えることは出来ない。
必ず一階からスタート。
エレベーターのボタンを下から上まで順に押す。
点灯を確認して、その後上に向かう。
止まる直前に非常ボタンを押す、そうするとランプが点灯したまま次の階に向かう。
それを最上階まで繰り返す。全てのボタンが点灯した状態で最上階へ。
最上階まで行けると、そこは『完全な四角い部屋』だという。
途中で人が乗るなどの邪魔が入ったり、階数のランプが全て光っていなければ失敗らしい。

「エレベーターに非常ボタンなんてあるの?」
「ははっ、俺も似たようなこと聞いたわ。
 非常ボタンってよりも非常マイクって言った方がよかったな。あれで管理人に繋がるんだよ」
「ああ、あれのことか。緊急停止用のボタンかと思った」
「エレベーター緊急停止して何の得があるんだよ。むしろ何かあったら急ぐだろ。面白いこと言うな」
非常ボタンを押すと、外部のメンテナンス会社に繋がるものと、ビル内の管理人に繋がるものがある。
今回行くビルは、管理人に繋がるタイプのものらしい。やけに詳しい。こいつ。
「お前、既に下見済みかよ」
「まあ、そんな感じ。途中で帰ってきたけどな」

路上に駐車し、歩くこと五分。
「着いた。ここ」
「え?コレ?全然普通のビルじゃん。死ぬほどぼろいけど。電気は点いてるけど、ホントに人住んでるのか」
「あの潰れたホテルよりはマシだ」
ユウキは先導して入り口へとずんずん進む。見たところ十階程度のマンションだ。
外灯からの距離が離れているせいか、建物の壁面が薄汚れた灰色をしているせいか、
マンション管理会社が電気代をケチっているせいなのか分からないが、いやに暗い。
「これがそのエレベーター」
ボタンを押すと、チンという音が鳴り、すぐさま扉が開いた。
しばらく誰も乗らなかったのか、中にある蛍光灯がチカチカと瞬きながら点く。
「あっそ。んで、どうするの?」
「まずは、一階から十階までの階数を全部押す」
何度やっても全部は点かない。
若干飽きてきている僕とは正反対にユウキは必死だ。
当たり前だ。今一階に止まっているのだから、一階のランプなんて点かない。
「なあ、謎解きしたいんだろ?取り合えず一番上行こうぜ。それで解決するかもだろ?」
ユウキは僕の言葉を聞き、口をポカンと開け、呆けた。
「お前、頭良いな」
誰でも考え付きそうなものだが、お馬鹿なユウキ君は考え付かなかったようだ。
こいつジャニーズの高学歴アイドルに似てるのに天然だったのか、知らなかった。
しかし、頭が良いと言われてちょっと嬉しくなる僕もまた、頭が悪いのだろう。

最上階に着く。居住用の部屋のドアが通路の壁に均等に並んでいるだけだ。
天井の蛍光灯がパチパチ音を立て切れかけているのが少し怖い。
だが、通路が四角くもなければ、トワイライトゾーンに繋がっているわけでもない。
きっとこのエレベーターの怪談を知る者は、一階のエレベーターで悪戦苦闘して先に進めず……。
そうか、何となく分かった。

「なあユウキ。俺、分かっちゃったんだけど」
一階に戻り、小学生のようにエレベーターのボタンを連打するユウキ。見ていて滑稽だ。
「うるさい。今忙しい」
イライラが伝染する。冷たく言う一言に、カチンと来る。
「ねえもう帰っていい?僕疲れちゃったよ。主に精神面で」
「はあ!?ふざけんな!俺と一緒に謎解くって言ったじゃねーか!」
いや言ってないし。何熱くなってんだよ。
「もういいよぉ、飽きたよぉ」
「帰るんなら帰れよ!マジむかつくわリョウ。お前ぜってえ後悔させてやるからな」
おお、こわ。それじゃあお言葉に甘えて帰らせていただきます。

クルマに乗り込んだのはいいが、帰りアイツ足どうするんだろ?という素朴な疑問と罪悪感が生まれた。
どうやら先ほどは僕も熱くなっていたらしい。売り言葉に買い言葉だ。ちょっとだけ待ってやるか。
prrrrr
『もし。リョウ今どこだ?』
ガクトさんからだ。
「お疲れ様です!まだ近くにいます。何かありましたか?」
『ちょっとお客さんの相手してくれね?俺もう寝たい』
「了解です!すぐそっち行きます」
『ユウキもいるか?』
「今ちょっといないですけど、連れて行きます」
『頼む。早めにな』
先ほどのクサクサした気分とは一転、楽しくなってきた。
早くユウキを連れてピンク色のパーティーへと行こう、そんなことを考えながらユウキへと電話する。
「もしもーし、まだやってるのか?ガクトさんからお呼び出しだ、行くぞ」
『……マジかよ、分かった。……あ!点いた!』
「え?点いたの?でももうダメ。ガクトさんの言うことに逆らうなんて、健全な男子の僕には出来ないわ」
『あとちょっとだけ待っててくれ。頼む』
「ムリ。早くこっち来い」
『ちょっとだから、すぐに終わる』
「あのさあ、言いたくないけど、それお前ハメられてんだよ。元々成功するはずないんだ。その怪談は――」
僕はその怪談のカラクリを教えてやった。
一階のボタンが点灯した理由は分からないが、普通は到着階に着いたエレベーターのボタンの点灯は消える。
それが到着した合図だから、むしろエレベーターの設計上そうならなければならない。
全てが点灯した状態でどこかの階になどいけない。
少なくとも一つはボタンの光は消えている状態になっている。
動いている最中に押せば出来るが、それだと怪談のルールを破るし、そもそも降りるべき最上階に着いたら消えてしまう。
だから、最初から出来ないことを前提とした怪談で、出来たら不思議な何かがあるかもっていうオチ。
『…不思議な何かって何だよ』
「知らないし。何かがあるっていうのを考える怪談なんだから、答えはないんだよ」
『じゃあ、シュンさんはどこに行ったんだよ!?』
「誰だよ。ほら、ガクトさん待たせてんだから早く」
『っざけんな!何で誰も覚えてねえんだよ!?ナンバー2のシュンさんだよ!俺の派閥の親だよ!!』
「はぁ?何言ってんだ?ナンバー2はマキさんだろ?結構前から」
尋常でない取り乱し方に、僕はマンションに向かう。電話は繋がったままだ。
『大体、お前らに四角い部屋の話をしたのも、シュンさんだろぉが!?
 四月に、ガクトさん派とマキさん派とフリーのお前を含めて、ノルマ持ち合いの会議しただろ!?
 その席の雑談で、四角い部屋の話しただろ?』
「おいおい、落ち着けって。何の話か分からないぞ。四角い部屋は今日初めて聞いたぞ」
確かに四月に会議をした記憶はある。
派閥間でノルマを分配し合うことにより、ノルマを達成できないという給金に影響を与えるリスクを減らすのだ。
もちろん、提供できる余裕ノルマがある派閥の発言力が強い。そしてそれは、大体の場面でガクト派だったりする。
派閥間ではこれで貸しを作ったりする。派閥の親は、派閥管理のためにも使う。
季節的理由で避けられない人員変動や、予見できない急な用事の時が重なった時に役に立つ。
『じゃあ何で今日俺がガクトさんと一緒にいたのか、説明できるか?』
「それはお前……」
何でだ?そういえば何でユウキはガクトさん派になったんだ?揉め事起こしたわけでも、拾われたわけでもない。
俺は良い。各派閥に影響力のある強力なコネを持っているから、基本的に派閥間移動はフリーだ。
ちょっかい出してくるヤツは表立ってはいない。今日のような催しも招待される。
しかし、ガクトさんの派閥に入って日が浅いはずのコネもないユウキが、
何故プライベートに近いこんなイベントに参加できるのか。
確か、確か、確か。
『答えられないのか?教えてやるよ。それが四角い部屋の謎だ。
 俺はガクト派になった覚えはねえ。入店してからずっとシュンさん派だ。
 だけど、今の俺は何故かガクト派だ。説明できる理由がねえ。それを誰も不思議に思わねえ。
 矛盾だらけなんだよ。シュンさんが四角い部屋に向かってから。
 だから俺も行く。行って四角い部屋の謎を解く。
 おい、聞いてるか?リョウ?今八階だ。もうすぐシュンさんを助けられる。よっと、これであと一階』
「待て、言ってる意味が分からない。取り合えず戻れ、もっとちゃんと説明してくれないと分からない。
 シュンって誰だ?何でその人が四角い部屋に行くことになったんだ?
 何でシュンって人が四角い部屋に行ったこと知ってるんだ?」
『もうちょっと待ってろ、もう着く。よし』
「おい!?止めろ!!」
『……くそ、完全ってこういうことかよ。確かにカンゼ――』
「おい!?返事しろ!冗談にしてはタチがわりぃぞ!!!」
ユウキの電話が切れた。いや、切れていない。
電話を掛けてすらいない。音がなくなっただけだ。
通信が切れた後の音や、通話時間を示すものもない。ただの待ち受け画面になっている。
リダイヤルのページを開いても、僕が最後に電話を掛けたのはガクトさんになっている。掛かってきたのもガクトさん。
電話帳にもメール受信・送信欄にもユウキの名前はなかった。
何だこれは。

マンションに到着する。急いでボタンを押す。
チンと音を立てドアが開くと、中の蛍光灯が点いた。エレベーターには誰も乗っていなかった。
prr
ガクトさんだ。
「はい」
『おう、ついでに箱ティッシュとペリエ買ってきてよ』
「すいません。ユウキと連絡が取れなくなってしまって」
『ん?ユウキ?誰?』
「え……。いや、今日一緒に……」
『何?遅いと思ってたら知り合いにでも会ったのか。いーよいーよ。友達は大切にしな。
 だけど上司にもちょっぴり優しくしてくれると、睡眠時間と共に君への感謝が増える』
「ガクトさん、あの、シュンって人知ってますか?」
『誰?同業?』
「いや、知らないならいいです」
『じゃ、頼んだ』
「すいません!あと一つ!四角い部屋って知ってますかっ!?」
『おいうるせぇって。眠いんだから耳元で叫ばないでくれよ。
 四角い部屋?はあ?部屋なんて大概四角だろ?なぞなぞ?』
「いや、完全に四角い部屋です」
『何だよ、その完全な四角って。意味わかんねえ。いいから早く来いよ、お待ちかねだぞお姉さま方』
その声と共に、リョウちゃ~ん、と甘い声が複数響く。
しかし心は躍らなかった。







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