カテゴリ: くらげシリーズ
【くらげシリーズ系】河童の出る池
私が中学生だった頃の話だ。
自分がその日の記憶をいくらか失っていることに気付いたのは、私を轢いた車が、その場から去っていくのを見送った後のことだった。
川沿いの道から、自宅がある住宅街に入ろうとした瞬間。十字路。田舎道で、見晴らしが悪いわけでもなかったが、左右の確認もせずそのまま十字路を横断しようとした時、丁度右から来た車とぶつかったのだ。
ボンネットに叩きつけられ、気づいた時には道路脇に転がっていた。
私と衝突したのは青色のハイエースで、作業着を着た若い男が慌てた様子で車から降りてきた。
車に轢かれた混乱と、妙な気恥しさが手伝って、私は急いで立ち上がった。
結局、警察も救急車も呼ばれることは無かった。それは相手の非ではなく、私が頑なに、「大丈夫です」 を繰り返したせいだ。
しばらく押し問答があった後、男を乗せた青いハイエースは去り、私の手には無理矢理渡された一万円札と連絡先が書かれたメモが握られていた。
頭と体の熱が冷めるまで、少しばかり時間がかかった。見ると、右半分の肘と脛の部分に擦り傷が出来ていて、微かに熱を持っていた。
身体の状態を一通り確認してから、倒れた自転車の元に向かった。荷物籠と前輪が少しゆがんでいたが何とか走れそうだ。幾分ほっとしながら自転車を起こし、跨った。
その時だった。
あれ、と思った。ペダルに足を乗せたまま、私は固まっていた。
自転車に乗ったはいいが、行先が分からないのだ。
私は、どこへ行こうとしていたのか。どこからどこへ向かう途中だったのか。そもそも、私は今日何をしていたのか。
思い出せない。
記憶が無い。車に轢かれる前のことが、思い出せない。
自覚した瞬間、言いようのない不安がどっと押し寄せてきた。衝動的に自分の名前を何度もつぶやく。名前は言える。自分が誰かもわかる。今日が休日だということも、ここが何処かも知っている。
幸い、全てを忘れてしまったわけではないようだ。私は次第に落ち着きを取り戻していった。
一つ、息を吐いた。事故に遭ってから、初めて呼吸をしたような気がする。
初夏の空はまだ十分青いが、太陽は大分西に傾いていた。時計の類は持っていない。五時過ぎ頃だろうか。とすれば、私は今日どこかに出掛け、家に帰る途中だったのか。
自転車に跨ったまま、十字路を見やる。当然、道は四方向に分かれているが、自分がどの方向からやって来たのかは何となく分かった。東に延びる道、街の中心へと向かう道だ。
不意に、一つの映像が頭に浮かんだ。橋だ。コンクリートで固められた川に架かる、赤い橋。街の中心を流れる川には所々橋が掛かっているが、赤い色をしているのは一本だけだ。地蔵橋。それが橋の名前だった。そうして、地蔵橋は東へ伸びる道の先にある。
思い出したのはそれだけだった。
不安はいつの間にか小さくなり、代わりに、奇妙な好奇心が頭をもたげていた。
私は手の一万円札とメモ用紙をポケットにねじ込むと、サドルの上の腰の位置を据え直した。足と頭の奥に微かな痛みを感じたが、無視した。ペダルを踏み込む。手負いの自転車はギコギコと軋むような音と共に、ぎこちなく前に進みだした。自宅に向かって、ではなく、地蔵橋へ。橋を見ればまた何か思い出すかもしれない、そう考えたのだ。
人に話したら呆れられただろう。
車に轢かれたというのに。自転車がひん曲がったというのに。記憶の一部を失ったというのに。私はその時、少しだけわくわくしていた。
私が中学生だった頃の話だ。
六月中旬。週末。朝から快晴。学校は休み。所謂、絶好の探検日和だ。自宅で昼食を食べてから、私は自転車に跨り街の中心に架かる地蔵橋へと向かった。
橋に着くと友人が一人、橋上で川を眺めていた。「よ、」 と声を掛けると、彼はこちらをちらりと振り向いて、返事の代わりに軽く片手を上げた。
彼はくらげ。もちろん、あだ名だ。
『自称、見えるヒト』
彼の特徴を端的に書くと、そういうことになる。加えて、彼がその奇妙なあだ名を賜ることになった原因もそこにある。
「んじゃ、行くか」
私の言葉に、くらげは小さく頷いて、自分の自転車に跨った。
二人並んで自転車を漕ぎだす。目的地は事前に伝えてあった。
隣町に、河童が出るという噂の池があるらしい。所謂、ご当地オカルトスポットだ。河童ではなく、遥か昔、その池に沈められ死んだ男の幽霊が出る、という話もあった。ともかくその池には何かが出るらしい。
心地よい風を肩で切りながら、私は隣の友人に訊いてみた。
「くらげはさー、河童とか見たことある?」
「無いよ」
短く答えてから、彼は前を向いたまま、「たぶん」 と付け足した。
「そう言えばさ、河童って頭の皿が乾くと死ぬって言うじゃん。あれ、死因は何なんだろうな。脱水症状?」
彼が一度こちらを見やってから、視線を空にやった。真面目に考えているようにも、ただ単に呆れているようにも見える。
「……脳漿かもね」
少し間を置いて、ぽつりと呟いた。
「のうしょうって何だっけ?」
「頭の中に溜まっている水のこと」
頭蓋骨の中には水があり、脳はその中に浮かんでいる。それは私も知っていた。ただ、河童の皿の水がその脳漿であるなら、その脳天には常時穴が開いていることになる。私は脳漿が乾ききった、頭蓋に穴の開いた河童の死骸を想像して、多少鼻白んだ。
「……何だよ、怖いこと言うなよ」
「ごめん」
それからくらげは明後日の方向を見やった。
「そう言えば、昔、おばあちゃんに聞いた気がする」
「何を?」
「河童の皿について、だったと思う」
「どんな話?」
しばらく、沈黙があった。
「よく覚えてない」
「……だったら言うなよ。気になるだろ」
「ごめん。思い出したら、言うよ」
そんな取り留めもない話をしながら、太陽の下、私たちは隣町を目指して自転車を走らせた。
夕刻。
私の記憶通り、地蔵橋は街の北半分と南半分を繋ぐ形で掛かっていた。
橋の袂で自転車を停める。
遠くの方で車の音がするだけで、辺りに人の姿はない。行きがけの小さな公園にあった時計は午後五時半をいくらか過ぎていた。
実際に橋を目にしても、失った記憶は戻って来なかった。ただ、もし私がこの赤い橋を目指していたというのなら、理由は一つしかない。友人と待ち合わせをしていたのだ。そうして、私が地蔵橋で落ち合う友人は一人しかいない。
彼はくらげ。もちろん、あだ名だ。
その友人は、自分のことを病気だと言う。死んだはずの人間。存在しないはずの何か。自宅の風呂に浮かぶくらげの群れ。そういったモノが見えてしまう病気なのだと。さらに、彼の言う病気は感染症であり、稀に他人に感染ることがあるとも。
自転車を降り、スタンドがひん曲がったそれを欄干に立てかける。疲れているのか、たったそれだけの動作に少し手間取った。
一息ついてから、いつもくらげがそうしているように。欄干に手を置いて川を見やった。コンクリートで両岸を固められた川は、しばらくまっすぐに伸び、途中から遠方の山を迂回するように大きく弧を描いている。
橋の下から、微かに川の流れる音がする。右のこめかみに微かな痛みを感じて、私は目を閉じた。
――よ、――
瞼の裏の暗闇の中で、誰かが誰かを呼ぶ声がした。思わず目をむき、振り返る。
橋の周りには、私以外誰も居ない。それでも確かに聞こえた。聞き覚えの有る声。当たり前だ。あれは、私の声だった。
一つ、思い出していた。
河童の出る池。
以前から、噂は聞いていたのだ。そこには河童か幽霊か、もしくは得体のしれない何かが出ると。地図で場所を調べ、くらげを誘ったのが数日前。不思議な体験をしたいなら、彼と一緒の方がいいからだ。
直前で私の気が変わったり、くらげに止められたりしたのでなければ、私たちは今日、隣町にある池に向かったはずだ。
ただ思い出せたのはそこまでだった。河童の出る池に向かったとして、河童は居たのか。私は何か見たのか。くらげには見えたのか。それらは未だ空白のままだ。
どこかでカラスが鳴いた。隣町まで、この自転車だと四十分といったところだろうか。
そろそろ日も暮れるだろう。私は再び自転車に跨った。帰るか、進むか。考えるまでもなく答えは決まっていた。
川沿いの道に、太陽を背にした私の影が長く伸びている。昼、この道を走った時、影は真下にあったはずだ。覚えていない。道中何を話したかも覚えていない。河童の話でもしていたのか。
相変わらず歯切れの悪い自転車を漕ぎだす。そう言えば、河童は頭の皿が乾くと死ぬと言うが、死因は一体何だろう。そんなことを、ふと思った。
地蔵橋から県道を東へしばらく走ったところで、隣町に入ったと標識が知らせてくれた。天気は良く、風は心地よく、格好の自転車日和だ。とびっきりの日差しの中、私は何度か意味もなく立ち漕ぎをし、その都度くらげは追いつくのに難儀しているようだった。
隣町は私たちの住む街と同じくらい田舎で、同じくらい山に囲まれた、同じくらい小さな町だ。
目的の池は、街はずれの森の中にあるという話だった。大体の場所は頭にあったが、一応、通りすがりに出会った老人に詳しい場所を訊いて、情報通り、とある地区の集会所に向かった。
集会所に着くと、建物の脇には森へと続く藪道があった。あまり人は通らないのか、まだ伸びきってはいないが、カヤや、猫じゃらしに良く似たエノコロ草がわっと生えてあって、自転車はここまでだろう。
集会所の横に自転車を置いて歩き出す。藪道はここらでは、『かまち』 と呼ばれる農業用水路に沿って続いていた。
雑草を踏み越えながら少し歩くと、前方に荒いコンクリートの壁が現れた。壁の上には傾斜の急な道が山を駆け上るように走り、集会所のあるこちら側と池がある森を分断している。
山道の下にはトンネルが一本通っていた。
奥行は五十メートル程。広さは大型乗用車がギリギリ一台通れるくらい。中に電灯は無く、壁はあちらこちら凸凹していて、トンネルというよりは隧道と言った方がしっくりくるかもしれない。
トンネルの先はもう森の中のようだった。半月状にくりぬかれた出口の向こうで、木漏れ日が微かに揺れている。
足を踏み入れると、空気がさっと冷たくなった。私とくらげ、二人分の足音が響く。夜にでも来れば良い肝試しになるだろう。
「……さっきの河童の話だけど」
トンネルを半分ほど過ぎた頃だった。隣に顔を向けると、くらげも私の方を見やり、「思い出したから」 と言った。どうやら今までずっと、記憶を辿っていたらしい。
「おばあちゃんじゃなくて、別の人から聞いた話だったけど」
彼が語り出す。
それは、河童の皿で酒を飲んだ男に関する話だった。
その村には、河童を水の神として祭るという風習があったそうだ。村の神社には、河童の頭の皿が奉納されており、皿に水を満たして飲むと、河童の知恵、つまり水の神の知恵が授けられ、その年の水害やまたは干害が予知できる、とされていた。
通常は祭事などで年に一度使われるだけだったが、ある日の夜のこと。神主の息子が勝手に皿を外へと持ち出した。息子は神仏を信じておらず、その日は仲間と酒盛りをしており、酔いも手伝っていたのだろう。
そうして彼は、持ち出した河童の皿で酒を飲みだした。
一緒に飲んでいた仲間の話によると、しばらくは何事もなかったそうだが、酒が進むうちに、次第に彼は自分を河童だと言い始めた。そうして、面白がる仲間たちに、今年の雨の降り方や河での泳ぎ方を語り出したという。
酒も尽きかけると、神主の息子は、「そろそろ戻る」 と言い残し姿を消した。それっきり彼は姿をけし、翌日川の縁に脱ぎ捨てられた着物と履物と、二つに割れた河童の皿が見つかった。
酔って川に入り溺れたのだろうと誰もが思った。ただ遺体は上がらず、代わりに、その川にはしばしば河童が現れるようになった。
目撃された河童は、神主の息子によく似ていたそうだ。
「つまり、酔っぱらいが一人で溺れただけだろ」
私が素直な感想を漏らすと、彼は小さく苦笑し、「そうなんだろうね」 と言った。
トンネルを抜けると、木々がうっそうと茂る森の中だった。足元には、おそらく先程の水路に繋がっているのだろう、天然の沢が流れ、小魚が泳ぎ沢蟹が水底を歩いている。
沢沿いにしばらく歩くと、古ぼけた鳥居が見えてきた。奥には掘っ建て小屋のような社がぽつりと建っている。
目的の池はその神社の脇にあった。直径七、八メートルほどの円状の池で、全体的に苔むした岩が周りを囲んでいる。水深は一番深いところで一メートルもないだろうか。
残念ながら、河童が住めるような池には見えない。ただ見た目には、まるで河童の皿のような池ではあった。
少し肌寒くなった風と茜色の風景の中、県道を東へ走り隣町にたどり着いた。
農作業の帰りらしい老人に道を尋ねると、老人は何故か怪訝な顔をして私を見やった。私は昼間にも同じように老人に声を掛け、河童の出る池までの道を訊いたのだと言う。
「双子なんです」
まさか車に轢かれて記憶を失ったと言うわけにもいかない。とっさに口から出た嘘だったが、老人はあっさり信じたようで、「そう言われりゃぁ、ちぃと顔が違うかよ」 と一人頷くと、再び池までの道を私に教えてくれた。
老人に教わった道を行き、小さな集会所の脇に壊れかけた自転車を停める。この先は徒歩だ。
太陽はすでに山の向こうに隠れてしまい、夕焼けの名残もそろそろ消えようとしている。身体がやけに重い。
雑草が生い茂る藪道に風が吹き、まるで道自体がうねうねと揺れ動いたような気がした。記憶の中の景色と違う。まだ全てを思い出してもいないのに、そんなことを思う。
藪道を進むと、目の前にぽっかりと穴が現れた。山道の下に抜かれたトンネル。中に明かりは無く、目を凝らすと、暗闇の向こう側に辛うじて出口が見えた。
穴の入り口の前で、ふと足を止める。ここをくぐれば河童の出る池に着くはずだ。ただ、薄暗い空にはもう一番星が輝き始めている。そうして、私は懐中電灯の類を持っていなかった。もし森の中で完全に夜になれば、何も見えなくなるだろう。
ここらが潮時だった。もちろん消化不良ではあったが、無くした記憶の分は、また明日にでもくらげに訊けばいい。
そんなことを考えながら、私はぼんやりと目の前の暗闇を眺めていた。何か、頭の中に熱があった。小さな火が、消えるでもなく燃え広がるでもなく燻っているような、そんな感覚。
唐突に、声がした。話し声。トンネルの中から聞こえてくる。加えて足音。一人ではなく、二人分。それらの音は微かに反響しながら、確かに、目の前の穴の中から聞こえてきていた。
歩きながら、一人がもう一人に向かって話をしているらしい。
語られているのは昔話のようだった。
河童の皿で酒を飲んだ男の話。
話し声は、子供が歩くくらいの速度で、まるで私から遠ざかるようにトンネルの奥へと向かっていく。気付けば、私はその声を追いかけるように、黒々とした穴の中に足を踏み入れていた。
数メートルも進むと自分の靴も見えなくなり、半分まで来ると、地面も壁も境界を失い、まるで光の無い巨大な空間に一人放り出されたような気分になった。それでも、怖いと思わなかったのは、先導する声があったからだ。
河童の皿で酒を飲んだ男は、河童の記憶を飲み過ぎ、最終的にはその記憶に喰われ、自ら河童となってしまった。昔話はそう物語っているように、私には聞こえた。
――つまり、酔っ払いが一人で溺れただけだろ――
すぐ目の前で、誰かの声がした。
――そうなんだろうね――
隣の誰かが言った。
出口から洩れる微かな明かりの中で、並んで歩く二人分の影がおぼろげに浮かんでいる。
私と、くらげだ。
記憶の中の光景。私はそれを、第三者の視点から眺めていた。
穴を抜けると、影は消えていた。トンネル内程ではないが、鬱蒼と茂る森の中は十二分に暗く、辛うじて道は分かるが、すぐ足元を流れる沢は細かな流れの筋が微かに見えるだけだった。
頭の中の熱はまだ消えずそこにあった。疲れもあったが、その熱が力となって私の足を動かした。すでに引き返すという選択肢は頭になかった。
私はできるだけ足元に気を付けながら、森の奥へ、河童の出る池へと向かった。
木々の隙間から光が漏れている。
青々とした新緑の森の中。賽銭箱の前の階段に腰を降ろし、しばらく二人で池を眺めた。
座る際に、邪魔だったのだろう、くらげは尻のポケットから手のひらサイズの小さな懐中電灯を取り出して、自分の傍に転がした。
「そんなもん持って来てたのか」
「森に行く、って言ってたから」
河童の出る池に行くとは伝えたが、森の中にあることまで話しただろうか。ふと浮かんだ疑問は、すぐに薄れて消えていった。
池には名前の知らない細長い水草と、蓮の葉が浮かんでいる。水中を泳ぐ小魚の影も見えた。河童は居ない。幽霊の姿も、私には見えない。
「おい、何か見えるか?」
私の問いに彼は池を見やり、
「魚がいるね」
と答えた。
私は両手を突き上げ、伸びをした。まだ可能性が無くなったわけじゃない。そんなことを考えながら、背後の賽銭箱にもたれかかる。
気温は暑くもなく寒くもなく、木漏れ日とそよ風と。昼寝をするにはもってこいだが、さすがに昼寝をするためにここに来たのではない。
隣を見やると、くらげは先程と全く変わらない姿勢でじっと池を見つめていた。瞬きもしてないのではないだろうか。すると、彼が私の視線に気が付いて、「何?」 とでも言うように目を瞬かせた。
「あのさ、くらげの覚えてる中で一番古い記憶って何?」
何時ものように、その場で思いついたことを訊いてみる。彼の視線はしばらく私の顔に留まり、それから数秒宙を彷徨い、最後に目の前の池に落ち着いた。
彼は、「自分でも、本当かどうかよく分からないけど……」 と前置きしてから、
「水の中に、浮かんでる記憶」
その言い方に、私は微かな引っ掛かりを覚えた。
「……それって、何時の?」
「覚えてないけど。たぶん、赤ん坊の頃じゃないかな」
「浮かんでるって、風呂?」
私が訊くと、くらげは首を傾げて、「そうだと思うけど」 と言った。果たして、赤ん坊というものは水に浮かぶのだろうか。ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
「誰かに、風呂に入れてもらってたんだな」
するとくらげは首を小さく横に振り、おもむろに、傍に落ちていた白い石ころを池の中に放り投げた。石は、小さな水しぶきを上げて、あっと言う間に底へと沈んでいった。そうして、彼は石を見やりながら、再び、今度はゆっくりとその言葉を口にした。
「水の中に、浮かんでたんだ」
水底に転がる白い石。水面ではなく、水の中。幾分時間をかけて、その言葉を呑み込む。
「……それって、息できないじゃん」
「そうだね」
彼の口調はまるで平然としていた。
もしもその記憶が真実なら、それは浮かんでいる記憶ではなく、沈んでいる記憶ではないのか。もしくは、沈められた記憶。危うく口が滑りそうになったが、さすがに不謹慎すぎて、思わず私は自分の頬を一発ひっぱたいた。
そうやって気を取り直してから、私は言った。
「……お前、実は河童の生まれ変わりなんじゃね?」
怪訝そうにこちらを見ていたくらげが、一度二度瞬きをした。それからまた池の方を見やり、小さく笑った。
「そうかもしれないね」
笑いながら、彼が呟くように言った。
その後、二時間ほど粘ってみたが、池では特に何も起きなかった。唯一妙だったと言えば、珍しくくらげから話題を振られたと思えば、。
退屈が限度を超えたあたりで、私たちは帰ることにした。
「そう言えば、来月、夏祭りあるよな」
行きにも通ったトンネルを歩いていた時のことだ。
私たちの街では毎年、盆の始まりと終わりに二度祭りを行う。どちらも仮装した行列が町と海とを往復するというものなのだが、その祭りのやり方にも起源にも、色々と面白そうなところがあった。
「一緒に行こうぜ」
くらげがふと立ち止まった。そうして何かに気を取られたように、後ろを振り返った。何見てんだ。そう訊こうとして、私は口をつぐんだ。彼の視線の先には、私たちが歩いてきたトンネルがあるだけだった。
「やめとくよ」
彼が言った。
真っ先に感じたのは、何故という疑問ではなく新鮮な驚きだった。彼が何かをはっきり断るのを、私はその時初めて聞いた気がした。それから彼は、どこか弁解するような口調で、「ほら、そろそろ、受験も近いし」 そう付け足した。
一日くらい大丈夫だろ。そんな言葉が頭に浮かんだが、言えなかった。
出会った当初から、彼は忠告してくれていた。彼が抱える病気。私が感染した病気。見える、ということ。彼にしてみれば、長すぎる程だったのかもしれない。
何か、夏休みの宿題に一切手を付けないまま残り数日を迎えたような、そんな感覚を覚えた。あの時も、まだ大丈夫だと思っていたのは私だけだった。
「そっか、分かった」
その言葉は、以外にあっさりと出てきた。目の前の彼が、少しだけ笑ったような気がした。
トンネルを抜けると、日差しが眩しく感じた。私たちは再び自転車を漕いで地蔵橋まで戻り、そこで別れた。
別れ際。ふと、何か彼に言い忘れていたことがあったような、そんな感覚を覚えた。自転車を停めて振り返ったが、すでに彼の背中は遠く小さくなっていた。大声を出そうとして、止めた。頭の中は空っぽで、何の言葉も無かったからだ。
ただ、何かを言い忘れたという、感覚だけが残っていた。
あの時、私は、何を言おうとしたのか。
帰り道、自転車を漕ぎながら、私はそのことばかりを考えていた。
トンネルを抜けた後は、ほとんど手探りで歩かなければならなかった。
暗闇の中、鳥居を抜けた先に神社を見つけた。頭上の木々の間から降り注ぐ星明りが、境内をうっすらと照らしている。
社の隣に小さな池を見つけた。これが、目的の池のはずだった。落ちないよう覗き込むと、黒々とした水面に数粒の星が映って見えた。
池は静まり返っていた。生き物は住んでいるのか。深いのか、浅いのか。それすら分からない。相変わらず、頭には少しの熱と痛みがある。
ふと、社に据えてある賽銭箱の前に、何か黒いものが転がっていることに気が付いた。近づいて拾い上げると、それは手のひらに収まる程の、小さなライトだった。
スイッチを入れると、はっきりとした細い光の筋が伸びた。その瞬間、私はこのライトが友人の物であることを思い出していた。
水面に、蓮の葉が浮かんでいる。池を囲む苔むした岩。古ぼけた社。ライトが照らす僅かな範囲だけ色がつく。そうして色がついた分だけ、記憶が蘇ってくる。
まるで空っぽの頭蓋に水が流れ込んできたようだった。池に河童はおらず、何も起きなかった。私はここでくらげと他愛もない話をしただけだ。
頭の中にあった熱が消える感覚があり、代わりに頭痛がひどくなってきた。
後頭部から頭頂にかけて手でなぞると、何か細かなものがぼろぼろと剥がれ落ちた。ライトで照らしてみると、指先に小さな血の塊がこびりついている。どうやら、怪我は腕と脚だけでは無かったようだ。
光を池に向ける。木の葉でも落ちたのだろうか、水面に微かな波紋が広がって、消えた。
夜虫の鳴き声。木々の擦れる音。
帰ろう、そう思った。時刻はもう七時をとうに過ぎているはずだ。夜の森の中で一人。加えて頭には傷があり身体は疲れ切って重たい。改めて確認するまでもなく、異常な状況であることは間違いなかった。
戻る前に、私はポケットの中にあった一万円札を、諸々の不安と一緒に賽銭箱の中に突っ込んだ。それで、気持ちはいくらか楽になった。
ライトで確認しながら、来た道を辿る。地面は木の根や石が散らばっていて、見えているにも関わらず、二度ほど躓いて転びそうになった。
そうやって、トンネルのある場所まで戻ってきた。今日ここをくぐるのは四度目になるのか、そんなことを改めて思う。
ライトを中に向けると、まるで当然のごとく、見覚えのある二人の背中が見えた。何か話しながら、歩いている。後頭部がずきずきと痛んだ。光を逸らせば、二人の姿は見えなくなる。声も聞こえなくなる。
まだ全てを思い出したわけではない。私は自らの記憶を照らしながら、彼らの背中を追った。
トンネルの中ほどまで来た頃、前を行く二人の内の、私だ。私が、思い出したように言った。
――そう言えば、来月、夏祭りあるよな――
そう言えば、そうだ。私たちの街では毎年、盆の始まりと終わりに二度祭りを行う。どちらも仮装した行列が町と海とを往復するというものなのだが、その祭りのやり方にも起源にも、色々と面白そうなところがあった。
――一緒に行こうぜ――
私の言葉に、隣のくらげがふと足を止めた。後ろを行く私も、記憶の中の私も立ち止まる。
不意に彼がこちらを振り返った。私が持つライトの光が、その病人のように白い顔を浮かび上がらせる。光の先、記憶の中の彼の目。見間違いでも記憶違いでもない。確かに、視線が合った。
これは果たして現実だろうか、とふと思った。もしかしたら、私はあの時、車に轢かれたまま死んだのかもしれない。
彼は何も答えず無言のまま、あちらの私に背を向け、こちらの私を見やっている。
何かが違う、そう感じた。
後頭部に、今までで一番ひどい、刺すような痛みが走った。思わず体を丸めて目を閉じる。痛みはすぐに去った。はっとして、再び前方に光を向ける。
くらげは相変わらずそこに立っていた。光から目を庇うように、片手をかざしている。
「……眩しい」
かざした指の隙間から覗き込むようにして、彼が言った。抗議の響きは無かったが、私がゆっくりと光を逸らすと、彼も手を下ろした。
二人とも、無言だった。目の前の彼が幻覚でもフラッシュバックでもなく、現実にここに存在していると実感するまで、随分と時間が掛かった。
「……何してんだよ。こんな時間に」
先に、私が口火を切った。ただ、もし彼が先だった場合でも、きっと同じ質問が出ただろう。
「忘れ物を取りに来ただけだよ」
そう言って、くらげは私の持っているライトを指差した。
「……明かりも持たずに来たのかよ」
「そうだね」 彼が言った。「忘れて来たから」
何かひどくおかしい会話のような気がしたが、何がおかしいのかはよく分からなかった。身体も頭もずしりと重たい。ただ、今までこびりついていたはずの頭痛は徐々に引いていた。
「君の方は?」
何故ここに居るのか、とくらげが訊き返す。思わず私が上げた小さな笑い声が、トンネルの中にこだました。
「歩きながら話す。とにかく、出ようぜ」
それから私は、今日、地蔵橋で彼と別れた後のことをくらげに語って聞かせた。
あの後すぐに車に轢かれて、数時間分の記憶を失ったこと。その後、好奇心に駆られて再び河童池を目指したこと。池で何も無かったことを再確認したこと。話していると、三たび、その時間を通りすぎているような、誰かが後ろから私たちを追いかけているような、そんな気分になった。
くらげとトンネルではち合せた場面で、私の話は終わった。
隣のくらげは、横やりも相槌も何一つ挟むことなく、ただ黙って私の話を聞いてくれていた。
藪道を抜け、集会所にたどり着く。
「……そう言えばさ、来月、夏まつりだよな」
くらげが私を見やる。
私の記憶が確かなら、数時間前にも同じ質問をしたはずだった。ただ、私は何もかも忘れたふりをした。何故そうしたのかは、自分でも分からない。
「一緒に、行こうぜ」
その質問の答えは、未だどうしても思い出せない、最後の断片だった。
しばらく、彼は突っ立ったまま動かなかった。ライトはすでに彼のポケットの中で、近くには外灯もなく、星明りだけでは、どんな顔をしているのかもよく分からない。
「そうだね」
目の前の影が、ぽつりと呟いた。
「行こうか」
その瞬間、私は事故で失った全ての記憶を取り戻していた。
しばらくの間、言葉が出てこなかった。
「……そっか、分かった」
やっと出てきた言葉は、自分でも驚くほどあっさりしていた。
やはり理由を訊くことはできなかった。訊けば、せっかく繋がった何かがまた切れてしまうような気がした。ただもしかしたら、数時間前に私が感じたように、彼もまた、『一日くらいなら』 とでも考えたのかもしれない。
その後、私たちは自転車を漕いで地蔵橋まで戻り、そこで別れた。
別れ際、「また明日な」 と私が言うと、暗がりの中、彼はこちらを見やり、小さく頷いた。
帰り道。事故に遭った十字路を通り過ぎる。夜道のうえに自転車のライトは壊れて点かなくなっていたが、今度は轢かれて記憶を失うようなこともなく、無事家にたどり着くことができた。
あの日以来、河童の出る池には行っていない。
結局、私の怪我は大したこともなく、自転車の方がよっぽど重症だった。ただ、つむじの近くに出来た傷だけが完全には治らず、小さな禿として今でも残っている。
【くらげシリーズ系】水を撒く
私が中学生だった頃の話だ。
二月の平日。その日の朝、いつもより随分早く家を出た私は、中学校とは逆方向のとある友人の家へと向かっていた。
冬の空気は澄んでいて、自転車を漕いで火照った体に冷たい風が心地いい。空は薄曇りだが、降ってきそうな程ではなく、そう言えば一年前は雪が降っていたんだよな、と、そんなことをふと思う。
友人の家は、街の南側にある山を少し登った場所に建っている。家の周りを囲う塀に自転車を立て掛け門をくぐると、当の友人が一人、玄関先に手桶と柄杓で水を撒いていた。
私に気付いたようで、その手が止まる。訪ねることは事前に伝えてあったので、驚いている様子ではない。
「よ」
軽く手を上げると、彼も手にした柄杓を微かに上げて見せた。
彼はくらげ、もちろんあだ名だ。小学時代からの友人で、所謂、『自称、見えるヒト』 でもある。
傍らに歩み寄ると、くらげがちょいと後ろを振り返った。玄関の戸は少し開いていて、隙間から妙に薄暗い玄関と廊下が見えた。
今日は、くらげの祖母の一回忌に当たる。彼は私服姿で、忌引き扱いにはならないはずだが、今日は学校を休むようだ。
「何してんだ?」
「水を、撒いてるんだけど」
「そりゃあ、見りゃわかる」
この寒さだ。ただの打ち水でないことも、分かる。
すると彼は手桶の中の水に視線を落とし、「今日はそういう日だから」 と言った。
聞けば、彼の家では亡くなった人の魂を迎える際と送る際、家の周囲に水を撒くのだという。
そういう風習があることを、私は知らなかった。「うちは元々やってなかったみたいだけど……」 彼が言った。
「おばあちゃんの方の家では、そうしてたらしいから」
一人でやってるのか。
言いかけて、止めた。
「上がってもいいか?」
代わりにそう尋ねると、彼はもう一度後ろを振り返ってから、小さく頷いた。
玄関を抜けてすぐ左が居間になる。くらげの後について部屋に入る。室内には誰の姿もなかった。
丁度一年前、葬儀を行ったのもこの部屋だった。
神棚には供え物と一緒に一枚の遺影が立て掛けてあり、当たり前の話だが、写真の中の彼女は一年前に見た時と全く同じ表情をしている。
隣を見やると、彼もまた普段となんら変わらず、表情は乏しい。
霊前に進み、二礼二拍手一礼。頭を下げ手を合わせ、目を閉じる。
彼女とはこの家で何度か会って、何度か話もした。最初の印象は、しわだらけで、まるで童話に出て来る魔女のようなおばあさんだったのだが、その性格は至って穏やかで、いつか、私が孫のことをくらげと呼んでいることを知ると、ひどく嬉しそうな顔で、「うふ、うふ」 と笑っていた。
目を開く。霊前、写真の中の祖母の表情が変わっている、といったこともなく、彼女はやはりあの皺だらけの笑顔で私のことを見やっていた。
一年前、私はここで不思議な光景を見たのだが、今回は、例えば霊前に無数の光るくらげが浮いている、といったことも無かった。
「ありがとう」
お参りを済まして振り返ると、戸口の辺りで突っ立っていたくらげに礼を言われた。「何が?」 と訊き返すと、彼は小さく首を傾げて、
「……何だろう?」
「何だそりゃ」
「ごめん」
そうして彼は、何故か困ったように、少しだけ笑った。
二人で外に出る。空模様もここに来た時と何も変わらない。くらげが玄関わきに置いてあった柄杓と桶を拾い上げる。また水を撒くのか。
予定では、お参りが済んだらすぐに学校に向かうつもりだったのだが。何となくそんな気にならず、私は玄関横の壁に背中を預けた。
「そもそもさ、何で水を撒く習慣が出来たんだろうな」
私の言葉に、くらげは一度自分の足元に水を撒いてから、「……おばあちゃんから聞いた話だけど」 と言った。
「こういう日、お盆とか、一回忌とか。昔は、海からここまで大勢で水を撒きながら帰って来たって」
私たちが現在居る家から山一つ越えれば、そこはもう太平洋だ。
「目印だったんじゃないかな」
それ以上、くらげは何も言わなかった。目印。私は思う。もし海から水を撒いて戻る行為が目印を残すためだとすれば。それはもちろん、生きた人間のためではなく、そうでないモノたちが、迷わず帰ってくるためのものなのだろう。
何故か、 童話、『ヘンゼルとグレーテル』 で兄妹が落としていったパンくずを思い出した。ただあのパンくずは確か小鳥に食べられてしまうのだったか。
何にせよ、昔の人たちは、水を撒くことによって海から死者を招こうとしたのだろう。
「……戻ってきた人、見たことあるか?」
訊くと、彼は桶の中の水に目を落として、「無いよ」 と言った。そうして再びぱしゃりと水を撒いた。
見たことないのに、やってるのか。言いかけて、止めた。今日はこんなことばかりしている気がする。
「じゃあそれって、海の水?」
代わりにそう尋ねながら、桶を覗きこむ。三分の一ほどに減った水面にぷつぷつと泡が浮いている。やはり海水のようだ。
その時、ふと水面の泡に混じって、何か別の小さなものが浮かんでいることに気が付いた。何だろうか、丸くて小さな何か。
目を細めていると、くらげも同じように桶を覗きこんできた。
「……くらげが居るね」
くらげが言った。
桶の中には、小指の先程の小さなくらげが一匹、ゆらゆらと揺れていた。もし私の目が良くなければ、見逃していただろう。
「これ、お前にも見えてるんだよな」
分かりきったことを訊いてみると、彼はこくりと頷いた。
「庭に撒くところだった」
くらげがこぼす。そうして小さく二度、笑った。血が繋がっているのだから当たり前だが、何となく彼の祖母の笑い方と、少しだけ似ているような気がした。
その後、くらげと二人で裏の山を越えて海へ向かった。
くらげは頑なについて来るなと言っていたのだが、結局、彼の家の電話を借り、身体の弱い母が体調を崩していると嘘をついて、学校はサボることにした。実際、過去にそういう理由で休んだことが何度かあるので、先生も疑問に思わなかったようだ。
くらげが桶の水をこぼさないようにゆっくり歩くので、峠を越え海が見えた頃には、曇り空の向こうの陽もかなり高くに上がって来ており、結局海に着いたのが昼前だった。
小さな漁港は閑散としていて人影はなく、冬の海はどこか色が暗く静かだった。
くらげが堤防の縁に立ち、桶の中の水をゆっくりと海に撒いた。海面が一瞬だけ白く粟立つ。いくら目の良い私でも、さすがに海にまかれた小さなくらげの姿は確認できなかった。
隣のくらげは、しばらく今しがた自分が水を撒いた海面を見やっていたが、その内、防波堤の縁に腰を降ろして、水平線の方に視線を向けたまま動かなくなった。山越えで疲れたのだろう。少し、休んでいくつもりらしい。
「なあ、くらげさ」
彼の横で立ったまま、尋ねる。
「海に出るくらげって、毎年お盆を過ぎたら出て来るって言うだろ」
「うん」
「あれ、何でだろうな」
隣のくらげが座ったままこちらを見上げた。
「さあ?」
「くらげのくせに、知らねーのかよ」
「……何それ」
その不服そうな呟きに、私は水平線に向かって軽く吹き出し、くらげはそんな私を見て呆れたように小さく息を吐いていた。
くらげが再び桶いっぱいに海水を汲んだため、帰りも行きと同じくらいの時間がかかった。訊けば、明日の朝の分だという。海水で一杯の桶は結構重いらしく、よろよろしながら歩いていた。
山道を登って下りて、ようやく彼の家にたどり着いた。くらげはもう疲労困憊といった有様で、とりあえず今から少し寝ると言う。どうしようかと迷ったが、学校をサボった手前家にも帰り辛いし、さすがに私も少し疲れていたので、一緒に昼寝をさせてもらうことにした。
私もいいかと訊くと、彼はどことなく迷惑そうな顔をしたが、追い出すのも億劫だったのか、「夕方になったら人が来るから、それまでなら」 と言った。
やはり相当疲れているらしく、二階の自室まで上がる気力も無いようで、玄関を上がるとそのまま大広間に入り、押し入れから敷布団を一枚と掛布団を二枚引っ張り出すと、自分はその内の掛布団一枚にくるまるように、畳の上に転がった。私も習って同じようにミノムシになる。
布団からは少し、古くくすんだ匂いがした。
目を閉じたが、ふと、誰かに見られている気がして、布団から頭を出した。くらげは身体を丸めて、頭まで布団の中にすっぽりと隠れてしまっている。逆の方に目をやると、神棚の一番上で祖母の遺影がこちらを見つめていた。
しばらく視線を交わしてから、目を逸らした。
「最初の海の水もさ、くらげが汲んできたのか」
隣の彼に尋ねると、「……朝は、父さんが」 とだけ返って来た。あまりに眠たそうな声だったので、それ以上何かを訊くことは止めにした。
仰向けになり天井を見上げると、寝転がっているからか、ただでさえ広い居間が余計にだだっ広く感じられた。
そうやって畳の上でごろごろしていると、徐々に深くなる眠気と共に、一年前のことがぼんやりと浮かんできた。
葬式。
私だけに見えた霊前に浮かぶ無数のくらげ。
遺体が火葬場で焼かれている間、外で待っていた時の寒さ。
そう言えば、ヘンゼルとグレーテルの魔女も、最終的にはかまどで焼かれるんだったか。
くらげの兄と父親、亡くなった祖母。異様なほど黒い外観に住んでいる、住んでいた人々のこと。
やっぱり、おかしな家だよな。
取り留めのない記憶や考えが、ふらふらと頭をよぎる。
その内、私は眠りに落ちた。
どれくらい眠っただろうか。ふと気が付けば、寝ている私たちの周りに大勢の誰かが立っていて、私とくらげをじっと見下ろしている。
そういう夢を、見た。
【くらげシリーズ系】祖父の川
私が中学生だった頃の話だ。
八月中旬、学校は夏休み。生来身体の弱い母が検査入院という形で幾日か家を空けることになり、加えて消防署に務めている父の仕事の都合もあって、数日の間、私一人で母方の祖母の家に泊まりに行くことになった。
別に一人で留守番していても良かったのだが、事情を知った祖母が電話の向こうからこっちに来いとうるさいのと、行けば面倒くさい家事をしなくても良い、という事実につられて、行くことにした。
祖母の家までは電車で一時間半ほど。県境の山奥へと線路は谷間を縫うように進み、駅に着いたのは正午前だった。
冷房の効いた車内から、ホームに降り立つ。ドアが開いた瞬間、むっとした外気と緑の匂いがまとわりついてきた。周囲は勾配のきつい山とその谷底を流れる川と青い空と青い茶畑が大部分、あとは国道沿いにぽつりぽつりと家が建っている。
随分昔、いくつかの小さな集落が集まって出来た、それでもやはり小さな町。ここが祖母の住む町であり、私の母の生まれ故郷でもある。正月から数えて数か月ぶりの訪問だったが、一人で来たのはいつ以来だっただろうか。幼いころには、こういったことがもっと頻繁にあったように思う。
駅から坂道を下り、川に掛かった沈下橋を渡る。日差しは肌を射すようで、あちらこちらから聞こえるセミの鳴き声がやかましい。橋の丁度真ん中あたりで立ち止まり、欄干も無い石橋の縁から下を覗き込んでみる。水は澄んでいて、川底まではっきりと見通せた。
しばらくじっと川を見やる。
町と同じ名前であるこの川は、水が綺麗なことで知られる県下でも有数の清流だった。そうして私が泳ぎを覚え、生まれて初めて溺れた川でもある。
よくは覚えていないのだが、幼い私は、まだ満足に泳げないくせに深みに入ってしまい、溺れているところを傍に居た祖父に引き上げられたそうだ。その後、河原でひとしきり泣いた私は、呑んでしまった分の水を両目から出し切ると、またけろりとして水に入って行ったという。
こうして聞くと完全に阿呆だが、祖父はそんな孫の行動を、「俺の血じゃ」 と言ってえらく喜んでいたらしい。
川に遊びに行く際、私のお守り役はいつも祖父だった。当時の記憶は飛び飛びの途切れ途切れだが、河原から孫を見守るだけで泳ぎも釣りもしない祖父に対し、一緒に遊んでくれればいいのに、と少々不満だったことは覚えている。
昼食を食べたらひと泳ぎしようか。青々とした流れを横目に私はまた歩き出した。
祖父母の家は、橋を渡って川沿いの坂道を少し上った場所に建っている。一見木造の平屋だが、よくよく近づいてみていると実は二階建てで、何だか普通の二階建ての日本家屋を、大きな掌で上から押しつぶしたような、少々不格好な家だ。
祖母は、家から道路を挟んだ斜面に沿った畑で、何やら作業をしていた。どうやら畑周りの雑草を刈っているようだ。
「おーい、ばあちゃん」
呼ぶと、彼女は腰を曲げたまま顔だけこちらに向けた。日差しから首筋まで守れる農作業用の帽子をちょいと上げ数秒、ようやく私だと分かったようだった。
「おーおー、来たかよ」
言いながら、祖母は鎌と器用に束ねたカヤの束を両手に、もはや斜面というより崖に近い段々畑を軽々と降りてきた。歳は七十に近いはずだが、足腰はまだまだ達者なようだ。
「時間を言うたら駅まで迎えに行ったんに」
少々口惜しそうに祖母は言った。そう言えば、小さい頃ここに来たときには、必ず祖父母そろってホームで待っていたことを思い出す。もちろん二人とも入場券など買わず、改札は顔パスだ。良くも悪くもこの町は狭く、住む人々の結びつきは強い。
「そんなんいいって。それより、腹減ってるんだけど」
「おうおう、もうそんな時間かよ。そうしたら急いで作るきよ、先におじいちゃんに挨拶しとき」
「それ、後じゃいかんの?」
「あこぎなこと言うとらんと、さっさと会うて来んさい」
親子だから当然なのだが、こういった物言いは母とそっくりだ。足腰だけじゃなく、まだまだ口も達者らしい。
玄関に荷物だけ置き、そのまま家の裏手に回る。先祖の骨が収められている納骨堂は、河原へと降りる道の傍にあった。お堂の周囲には、古い墓石がいくつか並べてある。元々はすぐそばの山を少し上がったところに墓地があったのだが、管理しやすいようにと、祖父の死の際に骨と墓石を降ろしたのだった。
墓前に立つ。
祖父が死んだのは、私が小学校低学年だった頃のことだ。
突然畑で倒れ、病院に運ばれた時には医者も呆れる程全身癌だらけだったらしい。それから一ヶ月もしないうちに祖父は亡くなった。入院中、痛いとも辛いとも、泣き言や弱音は一切吐かなかったそうだ。
祖父の入院中、一度だけ私は父と二人で見舞いに行った。しばらく見ない間に、祖父は随分と痩せてしまっていた。
祖父はベッドに横たわったまま、私を傍に呼ぶと、自分の子供時代のことを語り始めた。それはもっぱら川についての話だった。生まれ育った故郷を流れる川。私が泳ぎを覚えたように、祖父もこの川で泳ぎを覚え、モリ突きを覚え、投網のやり方を覚えた。
当時の川がどれほど綺麗だったか、どれだけ多くの魚が居たか、どのくらいの水量があったか、祖父は語った。
ただ、それらはすでに何度も聞いたことのある話で、退屈を持て余した私は、祖父の話よりも病室内の観察ばかりしていた。しばらくすると、語りつかれたのか祖父は寝息を立て始め、病室から出た私は脳天に父の無言の拳骨を食らった。
それから幾日か過ぎた後、祖父は死んだ。その日はひどい雨で、最後の言葉は、「川の様子を見てくる」 だったそうだ。
手を合わしながら、私は、そんなことを思い出していた。
墓参りが済むと、祖母と二人で昼食をとった。御多分に漏れず、「もっと食いんさい」 が口癖の祖母であるが、大皿いっぱいの芋の天ぷらには正直まいった。
「そのくらげ君っていうあだ名は、あんたが付けたんかよ」
「そう。小学六年の時からそう呼んでる」
二人で山盛りの料理をつつきながら、話題は私の同級生である一人の友人についてだった。
私にはくらげという友人が居る。もちろん、あだ名だ。
くらげは所謂、『自称、見えるヒト』 だ。
例えば、彼の自宅の風呂にはくらげが湧くらしい。だから、くらげ。また、彼はそうした自身の特徴について、「僕は病気だから」 と言う。見えてしまう病気。しかもそれは、稀に他人に感染ることがあるとも。
ただ、私が祖母に話した事柄は、自分にはくらげというあだ名の一風変わった友人が居て、彼には一般的に幽霊の呼ばれるようなものが見えるらしい、ということだけだ。
しかし何故か、祖母はそのくらげ君のことがいたく気に入ってしまったらしい。
「今度うちに連れて来んさい」
祖母が言った。最初は軽い冗談かと思ったが、それから何度も、「会ってみたい」 や、「連れて来い」 を繰り返すのを見ると、どうやら本気らしかった。
「あのさ……、誰が好き好んで他人のばあちゃんちに行きたいと思うんだよ」
「そんなもん聞いてみんと分からん。来たい言うかもしれん」
祖母は、何故か自信満々だった。
「大体さ、何て言って呼ぶんだよ」
「『家の前の川に死んだおじいちゃんが出るらしいから、見てくれんか』 って言うたらええが」
どうやら私の言葉を予想していたようで、祖母は間髪入れずに答えた。
そうきたか。
亡くなったはずの祖父を川で見た、という話が出てきたのは、祖父の葬式が済んでから半年ほど経った頃のことだったそうだ。
最初に目撃したのは、同じ集落に住むご近所さんで、朝の散歩の途中、川に架かる沈下橋を渡っている際に見たのだという。なんでも死んだはずの祖父が上半身裸で腰まで川に浸かり、モリで魚を突いていたのだとか。
それからというもの、同じように祖父の姿を川で見た、という人間は徐々に増えていった。祖父が出る場所は、きまって家の裏手を降りたところの川だった。泳いでいたり、縁に立ってただ川を眺めていたり、投網をしていたりと、バリエーションは様々で、時には複数人が同時に見たということもあったらしい。
ただそんな中、祖母自身は未だそうした夫の姿を見てはいない。が、だからといって、信じていないわけでもないらしい。
しかし、もし祖父の霊が居ると仮定して、くらげに見てもらって、その後どうするつもりなのだろうか。
「……あいつ、たぶんお祓いとかは出来んと思うけど」
私が呟くと、彼女は一瞬きょとんとした表情になって、それから小さく噴き出した。
「別に、そんな気はないけんど」
そうして祖母は、その顔に、まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべ、
「ただ単に、見てもらいたいんよ」
そう言って、芋の天ぷらを一口、旨そうに齧った。
昼食が終わると、私は膨らんだ腹と釣り具をひっさげ家の裏手の川へと向かった。納骨堂の横を通り過ぎ、河原へと続く階段を下る。空は青く雲は白く日差しは依然ぎらりとしている。
そこら中に葦やカヤやイタドリといった背の高い草、河原には大きさの様々な石がごろごろしており、その向こうには深い青色をした水の塊がころころ流れている。
川岸にて、大きな一枚岩の上に釣り具とサンダルを放り出す。そうして私は助走をつけて走り出し、服のまま川に跳び込んだ。
小魚が数匹、いきなり現れた私に驚き茶色く苔むした岩の下へと逃げていく。水はきんと冷えていて、実に気持ちが良かった。
水中は、ゴーグル等をつけなくてもかなり遠くまで見通せる。昔に比べて足の届く範囲は広がったが、それでも一番深いところでは三メートル弱ほどの水深があり、流れもある。一人で遊ぶには十分な空間だった。
しばらく好き勝手に泳ぎ回り、気が済んだところで河原に上がった。釣竿を置いた岩の縁、微かに丸く窪んでいる箇所に腰を降ろす。跳び込んだ際に冷たい水が気持ちよかったように、今は照りつける日差しが心地いい。少しの間、釣竿も手に取らず、足をぶらぶらさせながら、ただぼんやりと目の前の川を眺めた。
幼い頃、祖父も同じようにこの場所に座り、川で遊ぶ私の姿を眺めていた。
私の記憶の中では、釣りも突きもせず、決して川に入ろうとしなかった祖父だが、若いころは一年中毎日のように川に関わっていたそうだ。
聞くところによると、モリ突きの腕は確かだったようで、息が長く、一度の潜水で五匹のアユを突いてきたこともあったという。投網も上手く、台風で憎水した日でも漁をしに川へ行き、祖母や母を心底心配かつ呆れさせたこともあったらしい。夏も始まらないうちから泳ぎ始め、秋になり、見ている方が寒くなってくる時期でも平然と川に入って行ったそうだ。
私がそうした祖父の姿を知ったのは、亡くなった後のことだった。
ふと、誰かに名前を呼ばれたような気がして、私は辺りを見回した。近くに人の姿は無い。聞き違いだろうかと思った瞬間、クラクションの音と共に今度ははっきりと誰かが私を呼んだ。
見ると、流れの上流、午前中に渡って来た沈下橋の上に一台の軽トラックが止まっていた。材木を運んでいるらしく、荷台の尻から丸太が付き出ている。運転席に居るのは、白いタオルを頭に巻いた若い兄ちゃんだ。開けた窓からこちらに片手を上げている。
私が手を振りかえすと、彼は橋の袂にトラックを止め河原に降りてきた。
「おー、こっち来とったんか」
「イチ兄、久しぶり」
イチ兄は私の又従兄弟にあたる人物だ。歳は十ほど離れているが、何故かうちの父とウマが合うようで、私も幼い頃からよく遊んでもらっていた。高校を卒業してから山師として働いていたが、数年前に辞め今はこの町で農業をしている。
「一人で来たんかよ?」
「うんそう。二、三日泊まってくつもり」
それからお互い近況報告のような会話を少し続けた後。橋の方を振り返りながら、イチ兄が言った。
「いやー、最近この辺りで泳ぐ奴とか滅多におらんからよ。またお前んとこのじいさんが出てきたんかと思ったわ」
それについては、つい先程の祖母と話したこともあって、私は二割増しほど驚いた。
「イチ兄、見たことあんの?」
「ん。一回こっきりやけどな。お前を見つけたように、向こうの橋の上からよ。俺が見た時には、モリ片手にそのへんを泳いどったな」
イチ兄がそれを見たのは、去年の夏のことだったらしい。
「見間違いとか、人違いじゃなくて?」
イチ兄は、私の無遠慮な質問にもあっけらかんとしたもので、「あー、そう言われると何とも言えんなぁ」 と、頭頂部あたりを指で掻きながら言った。
「けんど、この辺りでモリ突きやるのは、あのじいさんくらいやったしなぁ。……しっかしまあ確かにな。あれがお前んとこのじいさんやったら、死人のくせにえらい活き活きと泳ぎよったもんだ。こう腰にアユ何匹もぶら下げてな」
そうしてイチ兄はからからと笑いながら、ふと川の方を見やった。釣られるように、私もつい先ほど泳ぎ回った水の流れに目をやる。
「……まあ、心残りもあったんやろうな。あのじいさんも色々あったしよ」
イチ兄の視線が川を上流に辿っていく。
この川の上流にダムが出来たのは、三十年以上昔、この町がまだいくつかの小さな集落に分かれていた頃のことだったそうだ。
ダムの着工に当たる際、電力会社は地元の地理や人間関係に明るい人物をほしがった。そうして白羽の矢が立てられたのが、祖父だった。
祖父は当初、ダムの設置には反対していたそうだ。ただ、着工が決まってからは一言も口を挟まず、電力会社の求めにも、周囲の人間が意外に思う程あっさりと首を縦に振ったという。
ただその日以来、祖父は川に入ることをしなくなり、魚も一切捕らなくなった。
「お前のじいさんから聞いたけどよ、昔、ここの辺りは流れが早すぎて、川底に苔もつかんかったらしいからな。今は、水も魚も随分減ったとよ」
その話は私もよく聞かされた。晴れた日には、太陽の光が川底に反射して、赤や緑や白といった色の石がきらりきらりと輝くのだ。当時の川は、まるでビードロを溶かしたようだった、と、病室で私の頭をなでつつ、祖父は言った。ろくに話は聞いていなかったが、その言葉だけはよく覚えている。
私の知らない、祖父の記憶の中にある川。
「お前のじいさん見た時な」
イチ兄が言った。
「そん時だけよ、川がえらい澄んで見えたわ」
私はその髭面を見上げる。イチ兄は、強烈な陽の光に目を細めながら、ダムのある方角を見やっていた。
目の前の川に視線を戻す。私が初めて泳ぎ、溺れた川。
「今でも十分キレイと思うけどなー……」
呟くと、隣でイチ兄がからからと笑った。
それからしばらく話をして、イチ兄は畑に杭をたてる仕事があるということで、車に戻って行った。
「二、三日泊まってくなら一度くらい飯食いに来な。嫁さんもチビすけも喜ぶけぇよ」
車の中から、イチ兄はそんなことを言った。彼はつい近年結婚し、子供も生まれたばかりだった。トマトのような頬をした女の子で、一度抱っこしてみろと押し付けられた時に大泣きをされ、皆に笑われた苦い思い出がある。
「あー、気が向いたら、行く」
私がそう返事をすると、イチ兄が笑って片手を上げた。軽トラは緩やかな坂道を上りすぐ見えなくなった。
その後、私は持ってきた道具を広げ、釣りを始めた。二時間ほど粘ったが釣果は芳しくなく。釣れたのは痩せたアメゴが一匹だけだった。
そう言えば、祖父は突きも投網もやったが、釣りだけはしなかったそうだ。そう話してくれたのは祖母で、理由を訊くと、「あの人にゃあ、川に入ってばちゃばちゃやる方が性にあっちょったんよ」 と、可笑しそうに笑っていた。
今日はこれ以上続けても無駄だろう。服もすっかり乾き、大分腹もこなれてきた私は、一匹だけアメゴの入ったバケツを手に祖母の家に戻ることにした。
そうして、河原から家へと続く階段を上ろうとした時だった。背後からまた誰かに名前を呼ばれた気がして、私は振り返った。
そこには誰もおらず、ただ同じように川が流れていた。
もう一度名前を呼ばれた。見上げると、階段を上りきったところに祖母が居て、私が上ってくるのを待っているようだった。
私はもう一度だけ後ろを振り返り、それが確かに気のせいだったことを確認してから、再び石段を上りだした。
「じいさんはおったかよ」
途中、上から祖母が言った。私は首を横に振って、「おらーん」 と答える。そうしながら、ふと、もしくらげを連れて来たとしたら彼には見えるのだろうか、と、そんな想像が頭をよぎった。
イチ兄が見たという祖父の姿。そうして、まるでビー玉を溶かしたようだという、祖父の川。
気が付くと、いたずらっ子のような笑みを浮かべた祖母が、私を見やっていた。
「何だよ」
すると彼女は、まるで私の考えなどお見通しだでもというように、こう言った。
「次はくらげ君と来んさい」
私は祖母を見やり、手のバケツを見やり、その中のアメゴを見やり、息を吐いた。
「……気が向いたらなー」
祖母が笑った。
そうして、「じいさん聞いたかよー」 と、私の背後に向かって大きな声を響かせた。
【くらげシリーズ系】桜の木の下には
私が小学校を卒業し、中学生になろうかといった頃の話だ。
三月下旬。その日は地区の子供会が毎年行っている花見の行事があり、私は昼ごろから、母を連れて、大きな枝垂桜がある花見会場へと向かっていた。
昨晩ぱらついた小雨は明け方には止んでおり、他の山桜の様子を見ても心配していたほど散ってはいないようだ。
目的の桜は町の南に位置する山の中ごろにあった。昔は名士の家だったそうだが、今は改築され、公民館として使われている屋敷の庭の隅に、その立派な根を張っている。
私たちが着いた時にはもう花見は始まっていた。庭にはゴザと長机が準備され、子供用のジュースにお菓子、大人用の酒とつまみが並べてあった。見れば、大人たちの半分以上は早くも出来上がっており、子供たちは菓子をつまみにおしゃべりをしたり、木の枝や丸めた新聞紙でチャンバラをしたりと、それぞれ好き勝手に遊んでいる。
今日の私の仕事は、体の弱い母をここまで連れて来ることと、酔った母を無事家まで連れて帰ることだった。
すでに仕事の半分を終えた私は、母を酔っ払いの輪に放り込み、仲の良い友達が来ていないかと辺りを見回した。けれども、はっきりそうだと言える人物は居なかった。卒業生は入学準備で忙しい時期だし、それにそろそろ地域の活動とやらが疎ましく思えてくる年頃だ。私だって、母が行きたいと駄々をこねなければ来なかっただろう。
手持ち無沙汰な私は、とりあえず桜を眺めることにした。
樹齢は四百年とか五百年だとかで、幹は太く樹高は高い。今は七分咲きほどだろうか。どの方角にもまんべんなく枝を伸ばし、名前の通り、枝先に行くほど地面に向かってしな垂れるその姿は、まるで一本の巨大な傘を思わせた。
その幹に触れようと、桜の木に近づいた時だった。
身体がびくりと硬直する。見上げてばかりいたので気付かなかった。私のすぐ足元、桜の根の近くに蛇が居たのだ。小さな蛇だった。
片足を宙に浮かせたまま数秒。一つ息を吐いて、足を地面に降ろした。その蛇は死んでいた。誰かに踏まれたのか頭の部分が潰れていて、前日の雨で微かにぬかるんだ地面に、半分埋まるように横たわっていた。冬眠から覚めるにはまだ少し早い時期だが、近ごろの陽気につられて出て来たか、もしかしたら私達が起こしてしまったのかもしれない。
私はしばらくの間その蛇の死骸を見下ろしていた。すぐ目の前には満開の桜。後ろの方では酔った大人たちがくだを巻き、子供たちは元気にはしゃいでいる。そんな中、ひっそりと蹲る頭の潰れた小さな蛇の死骸は、ひどく場違いなものに思えた。
その内、私は靴のつま先で地面に穴を掘りだした。
別に、可哀想だから埋葬してあげよう、などと思ったわけではない。どちらかと言えば、見られたくないものをこっそりと隠すような、そんな感覚だった。
完成した穴の中に蛇の死骸を蹴り入れ土を被せる。しばらくの内に、その姿はすっかり隠れてしまい、私は何か一仕事終えたような気分になっていた。
ぱこん。
小気味良い音と共に、脳天に軽い衝撃があった。
驚いて振り返ると、そこには、新聞紙の刀を持ったチビすけが私に向かって満面の笑みを浮かべていた。
どうやら私は一本取られてしまったらしい。
ぐっとこらえつつ、こちらも満面の笑みで両頬をつねり上げてやると、その子はやめろやめろ痛い痛いと泣き笑いながら逃げて行った。
周りを見渡す。花より何とやらとは言うが、大人も子供も、私も含めて、桜をじっくり見てやろうという者は少ないようだった。
さてどうしようか、と思う。何となくこの場に居るのが億劫になっていた私は、母に一言だけ告げると、丁度この近くに住んでいる一人の友人の家へと向かうことにした。
彼の家は、宴会をしている公民館から山の斜面をいくらか上った場所にある。
坂道をぶらぶら歩きながら、私はふと、『桜の木の下には死体が埋まっている』 という、どこかで聞いたことのあるようなフレーズを思い出していた。
人間の死体ではないが、あの大きな枝垂桜の下にも死骸が埋まっている。私にとって、あの桜は桜であると同時に、一匹の蛇の墓標であるとも言えた。そうして、そういう見方をしているのが自分一人だけだという事実は、私を何とも言えない妙な気分にさせた。
それにしても、『桜の木の下には死体が埋まっている』 なんて、一体誰が最初に言い出したのだろう。
そんなことをつらつら考えていると、いつの間にか友人の家の前に着いていた。
屋根つきの立派な門をくぐって、広い庭を抜け玄関のチャイムを押す。誰も居ないのかと思わせる静寂がしばらく続いた後、扉越しに人の気配がした。扉が開き、顔を覗かせたのは友人の祖母だった。
「あ、どうも」
軽く頭を下げる。私とみとめると、彼女は、「うふ、うふ」 と笑った。
「部屋におるよ。呼んでこようかねぇ」
友人は居ますかと聞く必要はなく、彼女家の奥へと消えていった。その後すぐに友人が現れた。連絡も無しに来たせいか、ほんの少し面喰っているような、そんな風にも見える。
彼はくらげ。もちろん、あだ名だ。
その妙なあだ名は、彼が所謂、『自称、見えるヒト』 であるところから来ている。
彼の目には常人には見えざるモノが映る。それは、一般に幽霊と呼ばれる存在であったり、神様と呼ばれるような何かであったり、風呂の中に浮かぶ無数のくらげの姿だったりする。
以前、そういった他人には見えないモノが見えることについて私が尋ねると、彼は、「僕は病気だから」 と言った。見えてしまう、という病気。そうして、その病気は感染症だとも言った。
普通の人であれば、到底信じられないような話だ。けれども私は、少なくとも彼がただの嘘つきではないことを知っている。
「よ」
と片手を上げると、くらげは玄関まで下りてきて私の前に立ち、一言、
「……どうしたの?」
と言った。その言い草は、まるで私が悪いニュースを運んできたと思い込んでいるようだった。とはいえ、どうして来たのかと訊かれると、私にも明確な答えがあったわけではない。何となく暇だったから来た、というのが本音だが、それをそのまま言ってしまうのも味気ない。
数秒考えてから、私はこう言った。
「今日は天気もいいしさ、花見でもしようぜ」
しばらく無言のまま私の顔を見やっていたくらげは、その表情を変えないまま、「……いいけど」 と言った。
私にとって本日二度目の花見は、そういう経緯で始まった。その際くらげから、少し降りたところに有名な枝垂桜があると提案があったのだが、それは私の個人的な理由でNGとした。それに、その枝垂桜には及ばないが、彼の家の庭にも一本だけ桜の木が植えてあった。
二人で縁側に腰掛け、彼の祖母に持ってきてもらった緑茶と煎餅でもって、桜を眺める。
しばらくは、互いに何もしゃべらなかった。煎餅と茶で口がふさがっていたのもあったが、先ほどの乱雑な花見の後だったので、私としては、こうやってゆっくりと桜を眺められるのも良いもんだ、と素直に思えた。
桜の木は、家を囲む白い塀の傍に植えられていた。品種はよく分からないが、高さは一階の屋根に届くかといったところで、あまり大きくはなく、花弁の量もそれほど多いわけではない。ただ、まるで子供が塀の内から外を覗き見ようとしているようなその外観は、見ていて面白いものだった。
何か話そうとして、私は隣の友人を見やる。けれど、言おうとしていた言葉は出てこなかった。
くらげは桜を見てはいなかった。その俯き加減の視線を辿ってみると、彼はどうやら、丁度私達と桜の木の間にある水たまりを見ているようだった。
私の視線に気づいたらしく、ふと目が合った。何見てたんだ。そう訊こうとして、やめた。代わりに、私はへらっと笑ってから、
「なあ、くらげさ、『桜の木の下には死体が埋まっている』 って聞いたことあるか?」
と訊いてみた。
予期してない質問だったのだろう。彼は目を瞬かせていた。どこか驚いているようにも見える。そうして一つ小さく首を傾げてから、彼の目が、何かを思い出すかのように宙を泳いだ。
「カジイモトジロウ?」
その口から、聞きなれない単語が出て来る。「何だそれ?」 と私が訊くと、「それじゃなくて、人だよ。梶井、基次郎」 と彼は言った。
「昔の……、確か大正時代か明治時代くらいの作家。その人が書いた、『桜の木の下には』 っていう話に、そういう言葉が出て来る」
「……お前何でそんなこと知ってんの?」
当然の疑問をぶつけてみると、「本を読んだことあるから」 と如何にもあっさりとした答えが返って来た。
「僕の部屋にあるけど、読んでみる?」
私は以前訪れた彼の部屋を思い出す。以前は祖父の書斎だったというその部屋には、題名を読んだだけで胸やけをおこしそうな字面の書物がたくさんあった。
「小難しそうだから、いい」
私の返答にくらげは、「そう」 とそれだけ言った。ちなみに梶井基次郎については数年後、現代文の授業で有名な、『檸檬』 を知り、その作風に興味を覚えるのだが、それはまた別の話だ。
くらげはまた桜の木がある方向に目をやったが、彼が見ているのは相変わらず桜ではなく、その手前の、土の露出した部分にできた水たまりだった。もしかしたら、水面に映る桜を見ているのかもしれない。それならそれでややこしいことをするもんだ、と私は思った。
「……昔、うちで犬を飼ってたんだ」
突然、くらげが言った。あまりに脈絡のない話に、今度は私が目を白黒させた。
「犬?」
「うん。雑種の子犬。僕が小さかった頃、兄さんが拾ってきたんだけど……」
視線を水たまりに固定したまま、彼は続けた。
「さくらっていう名前も、兄さんが付けた」
私は思わず庭に生えた桜の木を見やった。その話自体は別に何でもない。彼の家では以前桜という名前の犬を飼っていて、その犬は彼の兄が拾ってきた。それだけの話だ。
しかし、どうしてくらげは突然そんな話を始めたのだろうか。
じわりと、嫌な予感がした。
――桜の下には死体が埋まっている――
つい先ほど自分が口にした言葉が頭をよぎる。ただ、彼はそれからしばらくの間口を閉じ、じっと黙りこんでしまった。
どうしてそんな話をしたのか。あの桜の木の下には何かが埋まっているのか。犬はどうなったのか。くらげには兄が二人いるが、犬を拾ってきたのはどちらか。訊きたいことは山ほどあったが、私も同じようにじっと黙っていた。訊けばきっと彼は教えてくれただろうが、そうすれば、彼自身の話がそこで途切れてしまうような気がしたのだ。
桜の木を見やりながら、彼が再び話し出すのを待つ。いつの間にか、私の視線も桜の花から枝を伝い根もと、地面近くへと降りて来ていた。
「……手を噛まれたんだ」
水たまりを見やったまま、くらげが言った。
「一緒に遊ぼうと思ったんだけど、嫌だったんだろうね……。元々、僕にはあまりなついてなかったから」
言いながら、噛まれた箇所を思い出しているのか、彼は視線の先に右手をそっとかざした。
「でも、その日から、さくらは犬小屋から出て来なくなって。誰が呼んでも怯えるようになって。ご飯も食べなくなって。……気が付いたら、死んでた」
彼の話ぶりは、まるでそれが他人事であるかのように、あくまでも淡々としていた。
私は彼を見やる。
くらげの話はまるで、彼が手を噛まれたせいで犬が死んだのだと、そう言っているように聞こえた。しかし私には、そんなことは有り得ないと言い切ることができなかった。
くらげが以前口にした言葉が頭をよぎる。
見えてしまう、という病気。そうしてその、『病気』 が感染症であるということ。
いくつもの言葉がのどから出かかって、口の中でぐるぐる回っては引っ込んでいく。そうして結局、私は何も言うことができず、彼から視線を外し、無言のまま桜の木を見やった。
時間だけが過ぎる。
そうした中、くらげがぽつりと、呟くように言った。
「ハナイカダ」
再び彼の方を見やる。一体何事かと思った。
「そう、花筏。やっと思い出した」
淡々とした口調はまるで変わっていない。けれど私には、その声が先ほどとはどこか違って聞こえた。一方、彼の発した言葉はまるで意味不明だった。
「……何だそれ?」
思わず尋ねると、彼は黙って自分が見ていた水たまりを指差した。
「あそこに一枚だけ桜の花びらが浮いてるんだけど……。あれのこと」
目を凝らすと、くらげの言う通り、水たまりには一片の花びらが浮かんでいた。花筏。なるほど確かに、その姿は湖に浮かぶイカダのようにも見える。しかしそれは、改めて言われてみなければ分からないほど、ほんの小さな景色だった。
「……お前何でそんなことばっか知ってんの?」
再び訊いてみると、「おばあちゃんから聞いた」 とまた如何にもありきたりな答えが返って来た。数秒後、私は何故か吹き出してしまった。理由は分からない。くらげはそんな私を見て、少しだけ不思議そうに首を傾げた。
それからしばらく、茶を飲んだり煎餅を齧ったりくらげと適当な会話を続けたりしていたが、時間も経ち、そろそろ母のことも気になって来たので、おいとますることにした。
くらげは玄関まで見送りに来ていた。
結局、彼が口にした、さくらという名の犬と庭の桜の木について、山のように浮かんだ疑問は未だ山のようにそこにあり、ほとんど何一つはっきりとはしないままだった。それは私が彼にくわしく訊かなかったせいでもあるのだが、急ぐ必要はなかった。何故なら、私たちは同じ中学に通うのだから。
「なあ、くらげさ」
帰り際、玄関で靴紐を結びながら、私は彼に背を向けたまま声を掛ける。
「この家の下の方にさ、大きな枝垂桜があるだろ」
後ろでくらげが、「うん」 と言った。靴を履き終えた私は立ちあがり、振り返って彼の方を見やった。
「今日ここに来る前さ、あの木の下に蛇の死体を埋めたんだ」
「……え、」
「そんだけ」
ぽかんとしているらしい友人を尻目に、「じゃ」 と片手を上げ、彼の家を後にした。
砂利の敷き詰められた庭を過ぎ、門を出て少し歩いたところで私は立ち止まった。振り向くと、塀の向こうから一本の桜の木が顔を覗かせ、こちらを伺っていた。
――桜の木の下には死体が埋まっている――
私は思う。
その言葉が確かな事実となった人間が、一体この世にどれだけいるのか。多くはないかもしれない。しかし少なくとも、それは自分一人だけじゃないはずだ。そうした想像は、やはり私を妙な気分にさせた。
桜に背を向け、またぶらぶらと歩きだす。
下の花見会場では、久しぶりに飲みすぎたらしい母が、桜の木の下で死体のようになっていた。
【くらげシリーズ系】小舟
私が中学生だった頃、一人の友人から聞いた話だ。
彼がまだ十歳になる前のことだったそうだ。
季節は夏。彼は当時、生まれ故郷の町から山を一つ越えた海沿いの小さな集落、そこに住む親戚の家に世話になっていた。
友人と私は同じ町の生まれなのだが、彼には小学校に上がってから数年間、各地の親戚の家を転々とした時期があった。
その日の午後、学校の授業を終えた彼はまっすぐ家には帰らず、道の途中、集落のはずれにある浜辺に座り一人海を眺めていた。
ごつごつした岩山に囲まれた浜辺は狭く、辺りに人影はない。足元には満潮時に打ち上げられた木くずやブイや発泡スチロールなどの漂着ゴミが行儀よく一列に並んでいる。
そこは、地元の人間にも忘れられたような、静かな海岸だった。
学校が終わり日暮れまでの数時間。彼はその海岸でよく、他に何をするでもなく海を見て過ごしていた。
彼がそれを見つけたのは太陽が幾分西に傾き、そろそろ夕方になろうかという頃だった。
白波が引いた波打ち際に、何かが転がっていた。沖から運ばれて来たのだろうか。陽の光を反射して、ちりちりと光っている。
ふと興味を覚えた彼は腰を上げて近寄り、次の波が来る前に拾い上げてみた。
その物体については最初、貝殻かと思ったそうだ。
それは、一対の皿を向い合せてぴたりと重ね合せたような、二枚の半球状のパーツからなっていた。形はどら焼きに近く、大きさは手のひら大。色はミルク色。表面にはエナメル質のような光沢に加え、縁の辺りに針で開けたような小さな穴がいくつも開いていた。
貝殻だと思って手に取ってみたものの、そのような特徴を持つ貝類を彼は知らなかった。それに、もしそれが二枚貝だとしたら、蝶番がどこにも見当たらないのも妙な点だ。
指先で叩いてみると、乾いた金属音がした。中は空洞になっているようだが、軽く振ってみても音はしない。
果たしてこれは貝なのか、それともまた違う別のものだろうか。
いくら眺めてみても正体は分からず、彼はそれをランドセルの中に仕舞い込み、持ち帰ってから改めて調べることにした。
当時世話になっていた親戚の家は、浜辺からそう遠くない海沿いの地にあった。
帰宅後、居間にいた叔母に帰ったことを告げてから、彼は自分にあてがわれた二階の部屋と向かった。机に腰を下ろし、鞄をひっくり返し中身を机の上に広げる。そうして本棚から海の生き物に関する図鑑を取り出した。
貝類の項目を中心に調べてみたが、該当しそうな生物は見当たらなかった。
表面にあいた無数の穴は呼吸孔のように見えたが、それは、アワビのような一枚貝に多くみられる特徴らしく。やはり単純な二枚貝ではないのかもしれない。
その内、階下から夕食が出来たと呼ぶ声がした。返事をして、開いた図鑑の上に貝殻を乗せたまま、部屋を後にする。
一階に降りると、居間にはやはり叔母だけが居た。漁師という職業柄か、彼はまだ叔父と一緒に夕食をとったことが無かった。
叔母は彼に背を向け台所で何か用事をしており、電源の入ったTVだけが楽しげに喋っている。
食事の際、叔母は一度だけ彼の方を振り向き、「おかわりは?」 と訊いた。彼が首を横に振ると、少しだけ笑みを浮かべ、「そう」 と言った。
夕食を終え、二階の自分の部屋へと戻る。室内の明かりをつけ、彼はふと動きを止めた。
部屋の中、何かが違っている。見ると、図鑑の上に置いたはずの貝殻が床に落ちていた。風でも吹いたのかと思い、窓の方を見やる。
窓の外はとっくに暗くなっていた。ガラスの向こうには、黄色い月がぽつりと浮かんでいる。辺りはしんとしていて、外の虫たちの鳴き声が、やけにはっきりと聞こえた。
そのまましばらくの間、彼は閉じた窓の向こう側を眺めていた。そうして机に座ると、拾い上げた貝殻を図鑑の脇に置き、調べ物を再開した。
その日の夜、彼は夢を見た。
彼は一人、緩やかな坂道を上っていた。時刻の感覚は無かったが、辺りの暗さから見て、真夜中のようであった。
歩いているのは、見覚えのない道だった。閑散とした林の中をまっすぐに伸びている。路肩には所々等間隔に腰の曲がった古びた外灯が立っていて、舗装されてない道を照らしていた。
歩みながら振り返ると、はるか後方までずっと同じ景色。違いはそれが上りか下りかだけだ。
彼は寝巻のままだった。明かりの類は何も持っておらず、代わりに何故か今日海辺で拾ったあの貝殻を手にしていた。
背後から吹き上がって来た風に、辺りの木々たちが無言で身じろぎをする。
夢の中で、彼はそれが夢であることに気が付いていた。とはいえ、明晰夢と呼べるほどはっきり意識できたわけではなく、ただぼんやり、そうなんだろうな、と思ったのだった。
また彼は、全く知らない道であるにも関わらず、この坂道がどこへ続いているのか、自分がどこへ向かっているのかを理解していた。
海だ。この坂道を上りきれば、海が見える。
ただ同時に、漠然とした疑問もあった。それは海へと向かう理由だった。
この道は海へと続いている。それは分かる。ではどうして、自分は海を目指して歩いているのだろう。
ぼんやりとした思考がそこに行きついた時だった。
足の裏に微かな痛みを感じた。
その瞬間に夢は覚め、気付けば彼は現実の中に佇んでいた。
あまりの唐突さに、まだ夢の中に居るのではと錯覚しかけたが、道を照らしていたはずの外灯と月は消え、代わりに目の前には、見渡す限りの暗闇が広がっていた。
夜風が身体を撫でていく。かすかに葉がすれる音と、夜鳥の鳴き声がした。
目が慣れてくるにつれ、彼は、そこが叔父の家から十数メートルほど離れた場所であることを知った。彼が立っていた場所のすぐ後方に家があった。玄関の戸が開いていて、明かりの消えた家の中は、周囲の闇よりさらに濃く暗い。
彼には、部屋の戸を開けた記憶も、階段を下りた記憶も、玄関をくぐった記憶もなかった。
無意識のうちに、ここまで歩いてきたのだろうか。
再び、足の裏に痛みを感じる。見ると彼は靴を履いておらず、どうやらかかとに小石か何かが食い込んでいるようだった。
地面に座り込んで傷の確認をしようとした時、乾いた音とたてて、彼の右手から何かが滑り落ちた。何か手に持っていたらしい。しゃがみ込み再び拾う。
暗闇の中、目を凝らす。それは浜辺で拾った貝殻だった。そういえば、夢の中でも彼はそれを手にしていた。
貝殻を持ったまま、彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。しかし、考えたところで何かが分かるはずもなかった。
その内、小さく首を横に振ると、彼は足の裏の皮が破けていることを確認してから、家へと戻った。寝ている者を起こさないよう、慎重に汚れた床と足を洗い、二階へと上がり、布団にもぐりこむ。
間もなく彼は二度目の眠りに落ちた。今度は勝手に起き上がるようなことは無く、夢も見なかった。
次の日は学校が休みだった。幾分朝早く起きた彼は、朝食を食べ終わると、叔母に麦茶入りの水筒を用意してもらい、家から少し歩いたところにある小さな漁港へと向かった。
昨夜のことは、二人には話さなかった。話したところで余計な心配をさせるだけと考えたからだ。
晴れやかな日だった。朝の漁港はしんとしており、穏やかな波の上ではロープで繋がれた小型の漁船が何隻か、舳先にとまる海鳥と共に揺れていた。
松林の脇を通り抜け、途中で、『く』 の字に折れた防波堤を進む。
防波堤の先端では、一人の老人が釣り糸を垂らしていた。木で出来た釣り具箱を椅子にして、眼前の海をぼんやりと見つめている。
彼は老人に近づき、その隣に腰を降ろした。老人が、ちらりと彼を見やった。しかし言葉はなく、その視線はまた海へと向けられた。そのまましばらく二人で海を眺めた。
彼らの背後、どこかで遠くの方で鳥が鳴いた。
「……また家を追ん出されて来たか」
老人が言った。
「違うよ」
彼が言った。
またしばらく、無言が続いた。ささくれた麦わら帽子を頭に乗せ、身体は日に焼けて黒く、対照的に伸び放題の髭や眉ははっきり白い。
老人は彼にとって、この集落にやって来てから出来た唯一の友人だった。
「釣れた?」
少し声を大きくして尋ねる。
「釣れん」
短く呟くように、老人は答えた。確かに、すぐ足元に置いてある魚籠は空っぽだった。
老人は、その集落ではそれなりに有名な人物であり、またそれなりに避けられてもいた。
死体を釣る男。老人はそう呼ばれていた。
この漁港で、老人が釣り上げた水死体は数十体にも上る。その噂は、僅かに誇張された分を除けば、真実だった。
「ねえ、みちさん」
名前を呼ぶと、老人はゆっくりと彼を見やった。
「みちさんは、これ、何だと思う?」
彼はそう言うと、昨日拾った貝殻をポケットから取り出し、老人に見せた。老人はゆっくりとその奇妙な物体を見やった。帽子の下の目がすっと細まり、日に焼けた染みと皺だらけの手が伸びて来て、貝殻をつまみ上げた。
彼は老人に向かって、それを拾った経緯と、昨日の夜の出来事を短く話した。老人は、貝殻を眼前にかざし、しげしげと見つめながら、彼の話を聞いているようでもあり、全く聞いていないようでもあった。
「……中に、何かおるな」
ぼそりと、老人が言った。
「声がしよる」
老人の言葉に、彼は何度か目を瞬かせた。
貝殻を返してもらい、自分の耳に貝殻を当ててみる。目を閉じ、耳をすます。しかし何も聞こえなかった。鼓膜に意識を集中させる。風に木の葉がこすれる音、コンクリートを叩く波の音、セミと海鳥の鳴き声。やはり、貝殻からは何も聞こえてこない。
「僕には、聞こえない」
そう彼は呟いた。しかし反応はない。老人は少しだけ耳が悪かった。
「みちさんは、これを、何だと思う?」
声を大きくして、同じ質問をする。老人は、先ほどからピクリともしない浮きを眺めながら、「……分からん」 とだけ言った。
それから昼になるまで、彼と老人は二人で海を眺めていた。その間老人の竿は一度も反応せず、魚一匹もしくは誰一人、釣り上げることはなかった。
それは、昨晩とまるで同じ夢だった。
彼は一人、夜の道を海へと向かって歩いていた。
どこまでもまっすぐな、代わり映えの無い緩やかな坂道。点在する外灯。道の両脇に生える雑草と木々。寝巻のまま、手の中にはあの貝殻がある。
全てがまるで同じだった。ただ彼は、自分が昨晩よりも目的地の海へと近づいていることに気が付いていた。
彼は歩いた。相変わらず、何故自分が海へと向かっているのかは分からないまま、それでも彼は、はっきりとした足取りで坂道を上り続けた。
前方、坂道が途切れているのが、うっすらと見えた。峠だ。あと少しで海が見える。
不意に目が覚めた。
いきなり世界が切り替わる感覚に、彼は危うく転びかけた。
闇夜の中、彼は幾分時間をかけて辺りを見回し、自らが置かれた状況を理解した。
家から学校へと続く道の途中に、彼は居た。家を出て昨晩よりもずっと長い距離を歩いてきたようだ。
自分の右手をそっと見やる。彼は貝殻を握っていた。それは、つい今まで見ていた夢がそうであったように、昨晩とまるで同じ状況だった。
夢遊病、という言葉が漠然と頭をよぎる。その言葉が意味する症状も知識としてある。
自分は病気なのだろうか。自覚はまるで無く、少なくとも今まで同じような経験をしたことは無いはずだった。しかし現実に今こうしてここに立っている。しばらく経って彼が出した答えは、そうなのかもしれない、というひどく曖昧なものだった。
その内、思い出したように足がひどく痛みだした。外灯の下に行き照らしてみると、昨日けがをした場所が再び破けており、さらにどこかにぶつけたのか、片足の小指の爪が割れて血がにじみ出していた。小さな切り傷や擦り傷もいくつかある。
痛みをこらえながら戻ると、家には明かりが灯っていた。玄関へと近づくと、叔母の声が聞こえた。電話だろうか、誰かと話をしているらしい。その声からして、彼女は明らかに気が動転しているようだった。
不意に、懐中電灯の光が彼を照らした。見やると、山の方へと向かう道から、叔父がやって来ていた。彼を見つけると、飛ぶように走ってきた。一体何をしていたんだと怒鳴り、彼に向かって手を振り上げた。
しかし、その手が彼を叩くことはなかった。
叔父は振り上げた姿勢のまま、唖然とした表情で、彼の血だらけの素足を見やっていた。
家の中から叔母が出てきた。彼女もまた、彼を見やると、言葉もなくただ呆然とその場に立ち尽くした。
「ごめんなさい」
二人に向かって、彼はそう言った。
先に我に返った叔父が上げていた手を降ろし、無言で家に入るよう促した。どこに行っていたのか等は聞かれず、怪我の処置をしてもらった後、その日は朝まで一階の居間で眠るように言われた。
居間に布団を敷き、ぎこちのないまどろみの中、部屋の外で二人が話している声がぼんやりと聞こえた。「もし、こういうことが続いたら……」 叔母の声だった。 「声が大きい」 叔父が言った。それ以上は何も聞こえなかった。
彼は、薄い掛布団の中に頭までもぐりこんで、眠った。
次の日、昼過ぎに家を出た彼は、その日も漁港に居るはずの友人の元へと向かった。朝、叔父と叔母は彼を病院へ連れて行くかどうかを話し合っていたが、結局もう少し様子を見ることにしたようだった。
防波堤の先、昨日と全く同じ場所に老人は居た。その服装も、釣り糸を垂らす位置も前日と全く変わらず、夜通し釣りをしていたと言われても信じることが出来そうだった。
隣に座ると、老人が彼を見やった。
「……また家を追ん出されて来たか」
いつものように、老人が言った。
「違うよ」
同じく、いつものように返事をする。老人は、いつもよりほんの少し長く彼を見やってから、再び海に視線を向けた。
「釣れた?」
今度は彼が尋ねる。老人は無言だった。おそらく聞こえなかったのだろう。彼はちらりと魚籠の方を見やった。すると、いつも空っぽの魚籠の中に、青い色をした何かが入っている。
首を伸ばして魚籠を覗き込む。妙な色形の魚かと思ったら、それはただの青いゴム手袋だった。これが今日の釣果ということらしい。
彼はその手袋に触れようとした。
「……触らん方がええぞ」
唐突に、老人が言った。
「まだ、指が入っとる」
その言葉に、彼は魚籠の中に伸ばした手をそっと引っ込めた。老人を見やる。どうやら冗談では無いようだった。再び視線を落とすと、その青いゴム手袋には確かに妙に膨らんでいる箇所があった。
彼は老人の異名を思い出していた。
死体を釣る男。
その噂が事実であることは知っていたが、実際に釣り上げたところを見るのは初めてだった。
ゴム手袋ということは、指の持ち主は漁師だったのだろうか。溺れて亡くなり、バラバラになって海を漂っていたところを、老人に釣り上げられたのか。
老人はそれ以上何も言わず、指が答えるわけもない。
彼は老人の横に座り直した。欠けた人間の一部がすぐそばにある。しかし、嫌悪感は無かった。老人が居て、傍の魚籠に人の指がある。それが当たり前であり、ごく自然なことのように思えた。
しばらく、二人とも無言でいた。
海面の浮きに反応はない。空を飛ぶ海鳥の影がすぐ足元を一瞬で横切っていった。昨日よりも照りつける日差しが強く、セミの鳴き声がうるさい。座っているだけでじわりと汗が滲んでくる。
ふと、何かが彼の頭に乗せられた。見やると、それは老人の麦わら帽子だった。
老人は何事もなかったかのように釣りをしている。初めて見る老人の頭は、額が広く、髭と同じ色をした白髪があった。
老人の帽子は大きくつばも広かったので、その陰の下に小さな彼の身体はほとんど隠れてしまった。
ありがとうとは言わなかった。老人も何も言わなかった。しばらくして、彼は持参してきた水筒の蓋にお茶を注ぎ、老人に差し出した。老人はそれを受け取り、一口飲んで彼に返した。やはり、言葉は何もなかった。
そのまま、数時間が経った。辺りはまだ明るいが、陽は大分西の方に傾きかけている。
帰ろうと思い、彼は立ち上がった。老人はまだ釣りを続けている。帽子を脱いで老人の頭の上に戻し、そのまま立ち去ろうとした。
「……船かもしれんなぁ」
老人の言葉に振り返る。意味が分からず、彼は尋ね返した。
「船?」
「中に人がおって、海から来よったんなら、船じゃろう」
老人は、それ以上何も言わなかった。
彼はズボンのポケットに手を当てた。あの貝殻は、今日も持ってきていた。何故かは分からないが手放してはいけないような気がして、捨てる決心もつかず、ポケット入れたまま持ち歩いていたのだった。
船。形こそ彼が知っているものと違ったが、それが船であるという考えは、不思議なほどしっくりと来た。あの夢のことを考える。二日続けて見た、海へと向かう夢。
何か形の無いものが、ぴたりとはまる感覚があった。
自分は今日もあの夢を見るだろう。根拠は何もなかったが、彼ははっきりとそう思った。
しかし、再び家の者に迷惑をかけることは避けたかった。足の怪我だってひどくなるかもしれない。
彼は隣の友人を見やった。老人は釣竿を手に、いつものようにじっと海を眺めていた。どうしたらいいかと尋ねても、老人はきっと、「分からん」 と言うだけだろう。
彼は一人で考え、答えを出した。
着ていた上着を脱ぎ、防波堤の上に広げる。
そうして、再び老人の隣に腰を下ろし、広げた上着の上に寝転がった。横向きに膝を丸めて目を閉じる。
昼間に比べれば、刺すような陽の光は幾分弱まったものの、コンクリートの堤防にはまだ十分熱が残っており、広げた上着を通してそれが伝わってきた。
夜に家で眠るから問題になるのだ。だったら、先にここでひと眠りし、夜は起きていればいい。そうすれば少なくとも、家の者を悩ませたり、足の裏の怪我がひどくなることは無いだろう。
「ねえ……、みちさん」
寝転がったまま、目を閉じたまま、呟くように彼は尋ねた。
「……死んだ人って、どうやって釣るの?」
おそらく聞こえてなかったのだろう。老人は何も言わなかった。答えを待っているうちに、いつの間にか彼は眠りに落ちていた。
あの道を、歩いていた。
二日間見た夢と同じ道。右手にはあの貝殻。ただし、その日の夢の内容はこれまでとは少しだけ違っていた。まだ辺りが暗くなりきっておらず、夢の中の彼は寝巻ではなく靴も履いていた。
峠まであと少しの場所に彼は居た。
歩調を早める。すぐ前方に見える、坂道の終点。その先には、ほのかに暗くなり始めた空が広がっている。三日間かけて、彼はようやくたどり着いた。
峠に立った彼の目に、海が映った。
意外にも、海はすぐ近くにあった。
今まで上ってきた緩やかな坂道とは真逆の急な下り坂が、曲がりくねりながら海へとつながっている。
下り坂の終点。そこには、小高い岩山に囲まれた狭い浜辺があった。
見慣れた風景。学校帰りにいつも寄る、あの貝殻を拾った場所だった。
とはいえ、近くにあるはずの民家や登下校路は見当たらず、見覚えのない景色の中に突如現れたそれは、一枚のジグソーパズルの絵の中に一つだけ全く別のピースがはめ込まれているかのような、ひどくちぐはぐなものだった。
海岸には、大勢の何かがいた。遠目にもそれが分かった。
それらは人の形をしていたが、人とも言い切れない、おぼろげな何かだった。小さな浜辺にひしめき合い、ゆらゆらと揺れている。
彼は坂道を下り始めた。海に近づくにつれ、彼はあの海岸にたたずむ全員が、こちらを見つめていることに気が付いた。まるで、彼が来るのを待っているかのように。
唐突に、罪悪感にも似た感情が湧いてきた。転ばないように注意しながら、小走りで坂を駆け下りる。
その間にも徐々に陽は傾いていく。
急な坂道を下りきり、海岸にたどり着いたころには、山の向こうに落ちる夕日が、海をオレンジ色に染めていた。
海岸に居た大勢の何かは、彼が到着すると、一斉に左右によけ海までの道を開けた。
それらは、人の形をした靄のようでありながら、ちゃんと色がついていた。はっきりとは見えずとも、大まかな服装や年齢、男女の違いくらいは見て取れた。中には、一部体が欠損しているように見えるものもいれば、彼と同じくらいの背丈のものもいた。
それらは、声を発することはしなかった。ただじっとその場に立ち尽くし、彼を見つめていた。
走ってきたせいで乱れた息を整えながら、彼はゆっくりと、彼のために作られた道を海岸まで歩いた。
夢の中で、彼は理解していた。自分がしてしまったこと。そうして、自分がこれからしなければならないこと。
寄せてくる波が、足先に当たった。一瞬躊躇のような感覚を覚えるも、彼はそのまま海の中へと進んだ。そうして太腿が浸かるくらいの場所で、一度後ろを振り返り、彼を見つめる大勢の何かに向かって、頭を下げた。同時に何か言ったはずなのだが、言葉にならなかった。夢の世界には音がないのかもしれない。
そうして彼は、右手に持っていた貝殻を、海の中に離した。
その瞬間、一際大きな波が彼の背中にぶつかった。水しぶきが跳ね、思わず浜の方へよろける。再び見やった時にはもう、あの貝殻はどこにあるのか分からなくなってしまっていた。
ふと、浅瀬に立つ彼の横を、誰かが通り過ぎていった。夕日に染まる沖へ。段々と深くなる浜を、足、腰、肩、頭と水の中に消えていく。一人、二人、それ以降は数えられなかった。大きいものも小さいものも、男のようなものも女のようなものも、腕が無いものも足が無いものも。皆、沖へと向かって進んでいく。
今度は彼がその様子をじっと見やる番だった。
どれほどの時間そうしていたのか。随分と長い時間がかかったようにも感じた。最後の一人が海中へと消え、気が付けば、彼はただ一人浜辺に取り残されていた。
空が赤からに紺色に移り始め、空よりも先に海が黒く沈んでいく。
彼は、腰まで海水に濡れながら、海と空の色が移り変わるさまを、ぼんやりと眺めていた。
「風邪をひくぞ」
後ろで、声がした。
振り向くと、浜辺に老人が立っていた。いつの間にか、彼が下ってきたはずの一本道はなくなっていて、代わりに、そこには普段使う家から学校へとつながる道があった。
どのタイミングで夢から覚めたのか、彼には分からなかった。すでに辺りは十分暗い。老人は釣り道具と一緒に、彼が寝る前に敷布団にしていた上着を肩にかけていた。海から上がると、今更ながら足の傷に海水がしみてちくちく痛んだ。
夢の中で彼が気づいたこと、理解したこと、人のような何かに頭を下げた時に発したはずの言葉。すでにそれらは遠い過去の出来事のようで、普段見る夢がそうであるように、はっきりと思い出すことはできなかった。
あれは本当に船だったのか。だとしたら、誰が乗って来たのか、誰が乗って行ったのか。
老人から上着を受け取る。手に取るとまだ温かく、太陽の匂いがした。
ただ少なくともこれで、家の者に心配をかけることもなくなるだろう。それはやはり根拠のない確信だったが、実際その日以来、彼の夢遊病はぴたりと止んだ。
そうしてもう一つ、彼には確信していることがあった。それは今までがそうであったように、ここでの生活もまた、長くは続かないだろうということだった。
老人が、彼を置いて一人帰ろうとしている。
上着のボタンを止めながら、彼はその背中に声をかけた。
「ねえ、みちさん」
老人は返事をしない。それでも構わず、彼は言った。
「魚って、どうやって釣るの?」
それは彼にとって、死体を釣ることと同じくらい素朴な疑問だった。
老人が立ち止まり、振り返った。聞こえたのか、聞こえていないのか、どちらでも良かった。
彼は小走りで老人に追いつくと、この耳の遠い友人に向かってはっきりと、今度はちゃんと聞こえるように、同じ言葉を繰り返した。
【くらげシリーズ系】水溜め
私が小学校六年生だった頃の話だ。
十一月のある日。学校が終わり、放課後。少しばかり遠い寄り道をするため、自宅の前をそのまま通り過ぎた私は、街のほぼ中心に架かる地蔵橋の辺りまで差し掛かっていた。
その日は同じクラスの友人が一人風邪で学校を休んでおり、私は彼の家にプリントを届けに行く最中だった。
といっても私と友人はご近所同士ではなく、街の北側の住人である私に対し、友人は南側、しかも彼の家は南地区の住宅街を抜けた山の中腹あたりに建っている。ではどうして私がその役目を任されたのかといえば、単純な話、当時クラス内で彼の家の詳しい場所を知っている人間が、担任を除けば私しかいなかったからだ。
友人は、くらげというあだ名のちょっと変わった男だった。
何でも彼の家の風呂にはくらげが湧くらしい。所謂、『自称、見えるヒト』 だ。
風呂に浮かぶくらげの他にも、彼は様々なものを見る。それは形のはっきりしない何かであったり、浮遊する光の筋だったり、随分前に亡くなっていたはずの私の知人だったりもした。
彼曰く、「僕は、そういうのが見える病気だから」 だそうだ。その病気は感染症だとも言った。だから、自分には近寄らない方がいい、とも。
地蔵橋を越えて、南地区に入る。空に広がる薄い雨雲には所々切れ間があって、そこから青い空が顔をのぞかせている。天気予報では朝から雨とのことだったが、今のところ天気はもっていた。
鼻歌など歌いつつ、手に持った傘で、空中にアヒルのコックさんを描きながら歩く。
南地区の住宅街を抜けると道は狭い上り坂になる。急な坂道をしばらく上っていると、前方に友人の家が見えてきた。
周りを白い塀がぐるりと取り囲んでおり、その向こうの、えらく黒ずんだ日本家屋が彼の住む家だった。門柱にインターホンのようなものはなく、私は勝手に門をくぐり中に入った。
広い庭を抜け、玄関のチャイムを押す。しばらくの間があって、ガラリと戸が開き、中から腰の曲がった老婆が出てきた。友人の祖母だった。
「どうも」
軽くお辞儀をすると、彼女はその曲がった腰の先の顔をぐっと近づけて来た。まじまじと私を見やり、そうして顔中のしわと同じくらい目を細めて、「うふ、うふ」 と笑った。
「あの子は今日、風邪をひいて寝とるよ」
「あ、知ってます。それで、学校のプリントを持ってきたんですけど……」
言いながら私が背中の鞄を降ろそうとすると、その動きを制するように、彼女の片手が上がった。
「まあ、お上がんなさい。お茶とお菓子があるけぇよ」
一瞬どうしようかと迷ったが、彼女は返事も待たずに一人家の奥へと消えて行ってしまった。こうなっては仕方が無い。それに正直なところ、ここまで歩いてきて喉も乾いていた。
「……おっじゃましまーす」
小声でつぶやき、傘と靴を玄関に置いて家の中に入る。以前くらげに家中を案内してもらったことがあるので、玄関を上がって左手が客間だということは知っていた。
前に訪問した時と変わらず、一度に大勢がくつろげそうな大広間には、食事用のテーブルが一つだけぽつんと置かれているだけだった。
部屋の入り口辺りに立ったまま、しばらく部屋の様子を眺める。
広いだけでなく天井も高い。友人宅は二階建てなのだが、この部屋だけが吹き抜けになっているようだ。壁には何人かの遺影が掛けてあった。その内の一つと視線が合い、私は慌てて目を逸らした。
その内菓子とお茶が乗った盆を持って、祖母が現れた。
「まあ、まあ。そんなとこに立っとらんで、座りんさい」
言われた通りテーブルに着くと、彼女も私の対面に腰を下ろした。盆の上の菓子はどれも高級そうで、差し出された色の濃いお茶は熱くて少し苦かった。
「部屋の中には、何かおったかえ」
彼女が言った。初めは意味が分からなかったが、数秒、質問の意味と口の中の菓子を呑み込むと、私は急いで首を横に振った。
「うふ、うふ」
彼女が笑う。
言い忘れていたが、彼女もくらげと同じく、『見えるヒト』 なのだそうだ。その目は孫以上に様々なモノを見るという。
それは例えば、形のはっきりしない何かであったり、雨の日に地面から湧き出て、空を埋め尽くす無数のくらげの姿だったり、随分前に亡くなったはずの彼女の夫だったりもする。
以前、この部屋で夕食を御馳走になったことがある。その際、テーブルには一人分多く食事が用意され、彼女は何もない空間に向かって語りかけ、相槌を打ち、たまに楽しそうに笑っていた。
今も、彼女には見えているのだろうか。
しかし、私がそれを尋ねることは無かった。答えがイエスであってもノーであっても、どちらにせよ、私には何も見えないのだ。
代わりに、友人の容態はどうかと訊いてみた。すると彼女は、顔の前で手を振り、
「こたぁないこたぁない、ただの風邪よ」
と言った。その言い草に、私は何故か少しだけほっとしたのを覚えている。
それから二人でしばらく話をした。学校での孫の様子はどうかと訊かれ、私は素直に証言した。授業は真面目に聞いている。休み時間は大抵本を読んでいる。友達はあまりいない。全体的に動きが遅い。ひょろい。白い。
そんな口の悪い私の話を、彼女はじっと微笑みながら聞いてくれた。その際、話の中で私が彼のことを、『くらげ』 と呼んでいることを知ると、何故か妙に嬉しそうに、「うふ、うふ」 と笑っていた。
ひとしきり喋った後、今度は私から尋ねてみた。
「あの、くらげって三人兄弟なんですよね」
彼女は声には出さずゆっくりと頷いた。
「仲、悪いんですか?」
くらげには歳の離れた兄が二人居るということは、以前彼自身から聞いて知っていた。そうして彼がそのどちらからも嫌われているとも。
しかしながら、今考えてみてもぶしつけな質問だったと思う。
さすがに今度は彼女も頷かなかった。ただ否定もしなかった。言葉もなく、その表情も変わらず、ほんの少し微笑みながら私を見やっていた。
しばらく沈黙が続いた。
「えっと……、ごめんなさい」
耐え切れず謝ると、「うふ、うふ」 と彼女が笑った。そうしてふと私から視線を外し、テーブルの上、自分の両手の中の未だ口を付けていない湯呑を見やった。
「あの子が、四歳くらいのころやったかねえ……」
彼女のゆったりとした昔話は、二人しかいないはずの広間によく響いた。
数年前。当時、幼かったくらげは幼稚園にも保育園にも通わず、この家で過ごしていたそうだ。父親は仕事で、医者であった祖父はまだ現役。二人の兄は学校があり、くらげの面倒はほとんど祖母である彼女が見ていた。とはいえ、彼はそれほど手間のかかる子ではなかったという。
「夕方になると、一人で庭に出て行ってねぇ……。玄関に座って、じぃっと二人のお兄が帰って来るのを待つんよ。帰って来たち、お帰りも言わん、遊んでも言わん。やけんど、毎日、毎日ねぇ。そいで、後から帰って来た方の後ろについて、家にもんてくるんよ」
庭に出て兄の帰りを待つ幼いくらげの姿。何となくだがその光景は想像できる。私が知っている彼も、待たすよりは待つ方だ。
けれども、その日は少し様子が違っていたそうだ。
「二人のお兄は帰って来たけんど、あの子の姿が見えんでねぇ。家にもおらん、庭にもおらん。二人に聞いても、どっちも、『見とらん』 言うろうが。あの時は肝が冷えてねぇ……」
それから、彼女と二人の兄でそこら中を探し回ったが、くらげの姿はなかったそうだ。その内、連絡を受けた祖父も帰ってきて一緒に探したが、見つからなかった。
「そろそろ日も落ちてくる。こらぁもういかん警察じゃと言うてな。……そん時よ。下のお兄が、『おった』 言うたんよ」
いつの間にか、私はお茶も飲まず菓子も食べずじっと彼女の話に聞き入っていた。
話を続ける代わりに彼女はふと首を曲げ、ある方向を見やった。私も釣られるように同じ方を見やる。
その視線の先には花の絵をあしらった襖があった。押し入れのようだ。
もしかして、くらげはあの押し入れの中に居たのだろうか。
「この家ん外の、塀の向こうは竹林になっとろうが」
彼女の言葉に私は小さく頷く。確かに、ここに来るときにも見たが、この家の東側には竹林が広がっている。
「あそこは昔畑でねぇ。そこで使われとった水溜め。……そん中に、おったんよ」
そう、彼女は言った。
彼女が言う水溜めとは、随分昔にその竹林が畑であった頃、農業用の貯水槽として使っていたものらしい。
水溜めはコンクリート製で形はほぼ正方形、一辺は大人の背丈程、山の斜面に半ば埋め込むようにして置かれているのだそうだ。昔は山から水を引いて溜めていたのだが、今は蓋がしてあり、中は空だという。
幼いくらげは、その中に居たのだ。
他の三人がそこに駆け付けた時、水溜めの蓋は僅かに開いていた。下の兄に訊くと、見つけた時は完全に閉まっていて、開けようとしたが鉄製の蓋は重たく、少しだけずらすのが精いっぱいだったという。
くらげが水溜めの底から引き揚げられた時、四歳の彼は、泣いてもいなければ、怯えてもいなかったそうだ。
祖父が何故こんなところに居たのかと尋ねると、幼いくらげはこう答えた。
――お兄ちゃんと一緒に入った――
「そう、言うたんよ」
そこで初めて、彼女は自分の茶を飲んだ。
二人の兄は二人とも、「知らない」 と答えたそうだ。
くらげが一人で水溜めに上り、落ちたのではないことははっきりしている。中に入るには鉄製の蓋を外さなければならないし、誤って落ちたのだとすれば、一つの怪我もなかったことが不自然だ。
けれども、くらげは水溜めでの出来事については、それ以上何を訊かれても一切答えなかった。二人の兄の内、どちらがやったのかと訊いても、正直に言いなさいと叱っても、俯いて頑なに口を閉ざし続けた。
そんな弟を、上の兄はまるで興味なさげに、下の兄はまるで理解できないといった風に眺めていたという。
結局原因も理由も犯人も分からないまま、この騒動は幕を閉じることとなった。
ただ、その日以降、くらげが外で兄の帰りを待つことは無くなったそうだ。
語り終えると、彼女は二口目の茶をゆっくりと口に運んだ。
「はよう飲んでしまわんと。茶が冷めようが」
彼女の言葉に、私ははっと我に返った。それは、私のぶしつけな質問に対する長い長い返答だった。
二人の兄のうち、どちらかが彼を閉じ込めたのだろうか。考えるほど嫌な気分になりそうだったので、私は封を開けた菓子を口に放り込むと、残りのお茶を一気に飲み干した。
「悪いんですね。仲」
つまりはそういう事だろう。しかし、彼女は否定も肯定もせずただ、「うふ、うふ」 と笑うだけだった。
その後、いつまでもご馳走になっているわけにもいかないので、私はおいとますることにした。くらげの様子を見て行こうかとも思ったが、何だか恩に着せるような行動に思えて嫌だったのと、風邪がうつると面倒なので止めておくことにした。
「あの子はねぇ、まあ、よう変わっとるけんど……」
玄関にまで行く途中、私の後ろで彼女が言った。しばらく待ってみたが、その続きはなかった。なので私は振り返り、彼女に向かって答えた。
「知ってます」
彼女が私を見やり、「うふ、うふ」 と笑った。私も笑い返す。
私の見解としては、彼はひどく生真面目で、休み時間は大抵本を読んでいて、友達はあまりおらず、全体的に動きが遅く、ひょろく、白く、そしてえらく変わってはいるけれど、少なくとも、まあ、悪い奴では無い。
最後に本日の目的であったはずのプリントを渡し、「ご馳走様でした」 と言って家を出た。空は相変わらず曇っていたが、まだ雨は降っていないようだった。
門を抜け、私はふと、先ほどの話に出てきた東側の竹林を見やった。長く青い幾本もの竹が、ざらざらと、風に吹かれてみな同じように揺れている。
足が向いた、という言葉があるが、あの時の私がまさにそれだった。いつの間にか、私は家を囲む塀に沿って、竹林の方へと向かっていた。
昔は畑だったというその場所には、過去の名残が微かに残っていた。急峻な斜面を段々に削って畑にしていたらしく、崩れかかった石垣が何段も連なっていた。上下の畑をつなぐ道らしき跡もあった。
一瞬躊躇するも、私はその薄暗い竹林の中に足を踏み入れた。
思っていたよりも近く。少しばかり歩き、石垣を数段上った場所にそれはあった。各辺が二メートルほどの、ざらざらした粒の荒いコンクリートの箱。水溜めは、最初からこうだったのか、年月がそうさせたのか、いやに黒っぽかった。
一枚蓋かと思っていたのだが、水溜めは、長方形の薄い二枚の鉄板で蓋がされていた。動かそうとしてみたが、ちょっとやそっとの力ではびくともしない。よくよく見てみると、二枚の蓋は中心が少しだけずれて隙間が空いていた。
そっと中を覗いてみる。
暗い。水溜めの中は、まるで墨を溶かしたような暗闇だった。隙間から差し込む微かな光が、辛うじて湿り気を帯びた内部をほんの少しだけ照らしている。
ふと、暗闇の中に何かの気配を感じた。昆虫か小動物だろうか。何本もの足を持つ生き物が、水溜めの中を這いずりまわっているような。
風もないのに、頭上でざらざらと竹が揺れた。
その瞬間、水溜めの中の、『それ』 が私に向かってぐっと身体を伸ばしてきた。
もちろんそれは想像上の出来事でしかなかったが、私は思わずのけ反り、危うく水溜めの上から転げ落ちそうになった。
蓋の隙間からは何も出てこない。ただ、中を覗いている間、私は自分がほとんど息をしていなかったことに気が付いた。
気が付けば、ここに来るとき自然に足が向いたように、今度も勝手に私の足は竹林の外へと向かっていた。
幼いくらげは、見つけてもらうまでの間ずっとあの中に居たのだ。
私は思う。もしもあの中に閉じ込められたのが、五歳の頃の私だったらどうなっていたか。きっと泣き叫んで、閉じ込めた奴を絶対に許さなかっただろう。
上の兄がやったのか、下の兄がやったのか。二人の共犯ということもあり得る。その時ふと、二人以外の誰かという可能性に思い至った。
祖母の話によれば、くらげは、「お兄ちゃんと一緒に入った」 としか言わなかったのだ。
しばらく考え、匙を投げる。
誰が犯人にせよ、くらげはそれ以上何も話さなかったのだ。そいつを庇っていたのだろうか。彼らしいかなと思う反面、理解はできなかった。
竹林を抜け、家の門の前まで戻って来た時だった。
門前の坂道を、誰かが自転車をついて上ってきていた。知らない顔だったが、見覚えのある高校の制服を着ている。
この家の先には山しかなく、私のように何か用事のある者でなければ、彼はこの家の次男であるはずだった。
似てない。と最初に思ったのはそれだった。背が高く、どこか浮ついた雰囲気がある。
すれ違う際、彼は、『何だこいつ』 とでも言いたげな目でこちらを見やった。むっとした私が同じような目で見返してやると、彼は目を瞬かせ、小さく肩をすくめて門の内へと入って行った。
しばらくの間その背を眺めた後、短く息を吐き、私は歩き出した。
自分だったら、ぶん殴ってる。
雨はまだ降ってはこないようだった。そんな中、私は一歩ごとにわざと大きく足を蹴り上げ、手にした傘で空中に描いた巨大なアヒルのコックさんをバッタバッタと切り伏せながら、下手に見える街並みに向かって急な坂道を下りて行った。
【くらげシリーズ系】雪村君
私が小学校六年生だった頃の話だ。
その年の冬、太平洋に近い街に雪が降り、幾年かぶりに、数十センチ積もった。
朝起きると、窓の外の景色がいつもと違う。例年にない積雪に大人たちは迷惑がっていたが、子供たちはほとんど生まれて初めての真っ白な世界に胸を躍らせ、私を含め、実際小躍りした。その証拠に、私が普段より三十分早く学校に着くと、すでに校庭には多くの生徒の姿があった。
その日、一時間目が体育の授業だったのだが、せっかく雪があるからということで、校庭の雪をかき集めて雪だるまを作ることになり。クラスの総力を挙げた結果、子供たちより背の高い巨大な横綱が完成した。
頭にはちゃんとポリバケツを被せてあり、両腕は木の枝。右手はぼろぼろの軍手で左手は赤い手袋。花は黄色いお菓子の空き箱で、銀色の両目は、空き缶を逆さに埋め込み、さらに口には青色のホイッスルを咥えさせた。吹く穴に細い枝を差し込み、それでもって固定するというやり方だ。胸の三つのボタンは、色の違うペットボトルの蓋で、花の形をした名札も着けた。これもまず木の枝に名札を固定し、取れにくいよう胸のあたりに差し込んだ。
彼は、『雪村君』 と名付けられた。名付け親は忘れたが、雪だるまは名前を付けると溶けにくくなるのだ、と誰かが話していたのは覚えている。
笛と頭のポリバケツと名前以外は、全部裏山やグラウンドの周辺に落ちていたものだったが、皆、その出来栄えには満足げだった。
雪村君は、ここなら日蔭の時間が長く溶けにくいという理由で、校舎とグラウンドの間、花壇の脇に安置された。完成を機に、せっかくということで、先生がカメラを持って来て、雪村君を囲んで皆で記念撮影をした。
昼休み、校庭に遊びに出た際、何気なく雪村君を見やると、銀色の両目玉にそれぞれ赤と青の小さなマグネットがくっつけてあった。誰かが教室の黒板からとって来たのだろう。さらに口元が、チョークの粉だろうか、赤く色付けされていた。にんまりと笑っている。
そう言えば眉毛が無いなと思った私は、足元にあった落ち葉を二枚拾うと、背伸びをして彼の目の上に押し込んだ。離れて眺めてみると、それまでただ笑っていた雪村君が、私のせいで少し困ったような笑みになっていた。
その日の夜の天気予報では雪はもう降らないが、寒気はまだ居座り、最低気温が氷点下の日が何日かあるだろうとのことだった。
翌日登校すると、雪村君がその首にマフラーを巻いていた。親切な誰かが家かお古を持って来たのか。これが昔話だったら、後日その親切な誰かの家には米俵が届けられていたところだ。
「あれ?」
つい先ほど、校門前で一緒になった友達が言った。
「なあなあ、雪村君、ちょっと動いとらん?」
確かによく見ると、昨日彼が立っていた位置と、若干違っているようにも見える。もっと校舎から離れてはいなかったか。今は、ほとんど壁にもたれかかっている格好だ。
ただ今の位置の方が日差しを逃れやすい。親切な誰かが、マフラーを掛けてあげたついでに、より日陰の方へ移動させたのかもしれない。と私が言うと、友達も納得したようだった。
私としては、彼が昨日よりも少し太って見えることの方が気になっていたのだが、頭の重さで横に膨らんだのだと、自分を納得させた。
数日経ち、校舎の周りに積もっていた雪がすっかり溶けてしまった後も、雪村君は元気にずんぐり太っていた。
その頃には、雪村君が日陰を求めて移動するということは周知の事実になっていた。具体的に言えば、東から西へ移動する太陽の動きに合わせて、校舎の陰から出ないように少しずつ身体を移動させるのだ。
ついでに言えば、雪村君が居るのは丁度二階の私たちのクラスの真下であるため、窓か少し顔を出せば、彼の頭頂部を眺めることができる。一度、誰が雪村君を移動させているのか確かめようと思い、窓際の席の友人に頼んで、一日中それとなく監視してもらったのだが、犯人を突き止めるには至らなかった。といってもそんなことを気にしていたのはほとんど私一人で、見張りを頼んだ友人にしても、「たぶん、用務員の人じゃないかな」 と、まるで興味無さげだった。
こんな事件もあった。昼休み中、下級生が悪戯で雪村君の所までホースを伸ばし、水をかけようとしたのだ。教室に居残っていた友達数人がいち早く気づき、事件は未遂に終わった。ただ、彼らが雪村君の危機に気付いた理由は、偶然窓の下を見たから、ではなく、「笛の音がしたから」 というものだった。
もちろん、『ただの木枯らし説』 も有力ではあったが、一応クラス内では、『雪村君が笛で助けを呼んだ説』 で落ち着いた。
そんな雪村君殺人未遂事件があってからというもの、何となくクラスの一部に、ふとした折にはちらと外に居る彼の様子を気遣うような、そんな雰囲気が生まれていた。
また数日が経った。天気予報によれば、寒気の峠は過ぎたとのこと。太陽の光がどことなく暖かく感じられようになっていた。
雪村君に関しては、明らかに一回り小さくなった。顔が傾き、小首をかしげているようにも見える。以前は固く閉まっていた雪も若干ゆるくなり、その日わたしが登校すると、ボタンが一つ外れ、片方の眉が剃られ、目玉の空き缶が数センチ浮き出し、鼻はもげてなくなっていた。
さすがに憐れに思い、顔が崩れないように目玉を押し込み、新たな鼻は花壇にあった石で見繕ってやった。
作業が済むと、ふと、雪村君の目が私を見つめていることに気が付いた。直している最中に偶然そうなったのか。チョークの口紅はほとんど消えていたが、笛を咥えた口元は、まだうっすらと微笑んでいた。
ちなみにその日、用務員さんと話す機会があったので訊いてみたら、自分は雪だるまを動かしたことはない、とのことだった。友人に話してみたところ、「ふーん」 と言われただけだった。
雪村君は相変わらず、陽のあたる場所には出ようとしない。それでもゆっくりと、着実に、彼の体は溶けていた。
さらに追い討ちをかけるように、土曜と日曜、二日続けて雨が降った。これで雪村君の命運も尽きただろう。と誰もが思ったはずだが、月曜になって来てみると、彼は依然そこで生きており。その頭の上には大きなビーチパラソルがさしてあった。
ただ、今回の犯人はすぐに知れた。校長だった。けれども、校長自身も傘をさしたはいいものの、雪村君が週末を乗り切れるとは思っていなかったようだ。
それから数日、彼は生きていた。数えてみれば生後半月を越えていて、南国生まれの雪だるまとしては、驚異的な長寿だろう。
温かく晴れた日の、二時間目、国語の授業中。
窓の外、校舎のすぐ傍で、笛の音がした。
クラス中が何となしに顔を見合わせ、担任もふと板書の手を止めた。まず、窓際の列の生徒たちが、首を伸ばして外を見やった。誰かが、「あ」 と声を上げた。教室内がざわめく。担任も含め、誰もが身を乗り出し、席を立ち、窓の方へと集まって来ていた。
グラウンドに、雪村君が居た。
いつも校舎の陰に隠れていたに彼が、何故、どうやってあそこまで移動したのか、未だ謎のままである。校長が怪しいという話もあったが、謎のままである。
私たちの教室の真下からグラウンドまで、まるでナメクジが這った跡のように、雪の欠片が尾を引いていた。
彼の身体はもはや原形をとどめておらず、直に当たる太陽の熱のせいかほとんど融解しかかっていた。そのほとんど溶けかかった身体の上に、何とか形を保った頭がへばりついている。形としては、目玉焼きに近い。
雪村君は、まっすぐ私たちの教室を見つめていた。片腕が、溶けかかっているにしては不自然な程まっすぐ空に伸びており、何だか別れの挨拶をしているようにも見える。
動機はそれぞれだろうが、気づくと皆、教室を飛び出していた。
グラウンドに着くと、彼の身体はさらに崩れていており、先程空に伸びていた手は力なく倒れていた。鼻と片目とボタン全部とマフラーは移動中に落としたらしく、バケツがまだ頭に乗っかっていることが奇跡的に思える。
クラスの全員がそろったところで、雪村君の残った右目の辺りの雪がごそっと崩れ、空き缶がグラウンドの上に転がった。
担任が何かつぶやき、目を閉じ手を合わせた。クラスの三分の一くらいが、それに倣った。
その後、残りの国語の時間は、雪村君の残骸処理にあてられた。
私がスコップで彼の頭だった部分の雪をすくっていると、雪に埋もれて、小さな茶色の物体が出てきた。
手に取ってみると、クルミだった。顔のパーツに使ったわけではなく、もしかしたら雪村君誕生の際、雪を転がして大きくしている最中に紛れ込んだのかもしれない。
空にかざして眺めていると、一人の友人が傍にやって来て、同じようにクルミの実を見やった。
「頭から、こんなん出てきた」
私が言うと、彼は格別興味もなさそうに、「ふーん」 と呟いてから、
「人の脳に似てるね」
と言った。正直何言ってんだこいつと思ったが、確かに形といいその皺だらけの表面といい、人間の脳に似ていなくもなかった。
グラウンド上の死骸はあっさりと片づけられた。
かつて雪村君だった雪は全て排水溝に流され、ゴミはちゃんと分別して捨てられ、それ以外のパーツは元あった場所に戻された。ただ、彼の名札は教室の後ろにピンでとめられ、私たちが卒業するまで、そこにあった。
雪村君が生まれた日、皆で撮った写真は、卒業アルバムに収録されている。
写真の中の雪村君は、生徒たちと同じように両手でピースサインをしているのだが。
たまに同窓会などで集まると、あの時雪村君にピースをさせたのは誰か、ということが話題になったりする。
もちろん誰も自分ではないと言うし、こればかりは用務員のおじさんでも校長でもないだろうし、未だ犯人は謎のままである。
【くらげシリーズ系】雨乞い
私が中学生だった頃の話だ。
学校からの帰り。街には雨が降り、私は安物の雨合羽を着て自転車で家路を辿っていた。
道中、県道路沿いのバス停に差し掛かった時だ。屋根のついた待合所のベンチに男が一人座っていた。おや、と思ったのは、朝にも同じ場所で、同じ男を見たような気がしたからだ。
バスを待つのに疲れたのだろうか、俯き地面を見つめている。ただ、その時はそれ以上深く考えもしなかった。
次の日も、雨だった。朝、私が学校に向かっていると、バス停に昨日と同じ男が、昨日と同じ格好、昨日と同じ姿勢で座っていた。
思わず二度見する。俯いているため顔はよく見えないが、歳は三十ほどだろうか。くたくたのシャツに、くたくたのスラックスを履いている。鞄の類は持っておらず、ベンチに立てかけた黒い傘が、彼の唯一の持ち物らしかった。
吹き込んでくる雨のせいか、男の両足は靴先から膝まで濡れている。その後、一日の授業を終え、学校から帰る時も同じ男を見た。
次の日は晴天で、バス停は空だった。
再びバス停にて男を目撃したのは、一週間ほど経った後のこと。その日も、雨だった。
気になったので情報を集めてみると、やはり、男はバスを待っているのではなかった。彼は街の人間で、雨の日に限り、ああやって一日中バス停のベンチに座っているのだそうだ。
小さな街なので、噂の回りも早い。数か月前に、男は恋人と死別していた。数名の友達と行った旅先で交通事故。男は旅行に同伴しておらず、最後に彼女を見送ったのが、あのバス停だった。
事故後、男は務めている仕事を休職し、晴れた日は家でぼんやりと、雨の日はバス停でぼんやりとしているという話だった。
その日も、朝から雨が降っていた。前日に天気予報を確認していた私は、朝飯を素早くかき込み、手早く準備を済ませると、いつもより少し早く家を出た。雨合羽に自転車ではなく、傘を持って、徒歩で。
雨の中、バス停まで歩いて行くと、ベンチに男が座っていた。他に人はいない。何気なさを装い傘をたたむと、私も男から一番離れた椅子に座った。
横目でそっと観察する。
男は、前屈みの状態で、俯き、足先から数十センチ前の地面をじっと見つめていた。両肘を膝の上に置き、祈るように組み合わされた両手は、両足の間に力なく垂れ下がっている。髭は伸び放題だったが、三十代よりはもっと若いかもしれない。時折、指を組み直したり、目を閉じたり、口元だけで小さく笑ったりしていた。
バス停には、恋人の幽霊が出るのではないか。そういう噂もあった。男は彼女に会いに来ているのだと。女が彼のすぐ隣に座っているのを見た、という人も居た。
その内、時刻表通りにバスがやって来た。私は、当然のように立ち上がると、男の前を通り過ぎバスに乗り込んだ。その際、彼の隣の席を盗み見たが、もちろん、ただの空席だった。
私が乗り込むと、運転手はすぐにドアを閉めた。そうして、バスは一人の男を置き去りに、雨の中をゆっくりと走り出した。
その後、私は一駅先の中学校前で降りると、そこから駆け足気味に中学校へと向かった。
私と同じクラスに、くらげというあだ名の人物が居た。彼は所謂、『自称、見えるヒト』 だ。私が今日わざわざバス通学をしたのも、男に関する噂を集めたのも、そもそも彼に原因があると言ってもいい。
何時もより早く来たせいか、教室にはくらげ以外まだ誰も居なかった。彼は、自分の席で本を読んでいた。こいつは普段の動作は鈍いくせに、毎日誰よりも早く学校に来るのだ。
荷物を棚に放り投げ、すぐ隣の机の上に腰を降ろすと、彼が読んでいた本から顔を上げ、こちらを見やった。
「見たか?」
単刀直入にそう切り出すと、私を見る目が少しだけ細まった。いつも表情の乏しい彼だが、これは分かる。誰かさんがまた面倒なことを持ち込んできたな、と迷惑がっている顔だ。
「……何を?」
「雨の日のバス停の男」
少し間があって、「ああ、あの人」 と彼が言った。
私と彼の家は同じ校区でも北と南で多少距離が離れているが、彼も通学の際は、あのバス停の前を通るはずだ。
「見たことあるよ」
「死んだ恋人の霊は?」
「……何それ」
今まで集めてきた情報を教えてやると、彼は格別興味もなさそうに、「ふーん」 と呟いた。
「見たか?」
「見てない。……と思う」
はっきりとした確信はないようだ。そもそも、バス停の男のことも目の端に映った程度のことなのだろう。
「じゃあ、まだ可能性はあるな」
私が言うと、次の展開が予想できたのだろう、彼が、今度は割とはっきりと面倒臭そうな顔をした。
「見に行こうぜ」
行くとも嫌だとも言わず。代わりに、彼は読んでいた本に再び目を落としながら、小さく息を吐いた。
ただし、その日は昼に雨が止んでしまい、決行は次の雨の日の朝ということになった。バス停の男は、雨が降っている間しか現れない。逆に言えば、雨さえ降っていたら、真夜中でも彼は座っているのかもしれない。もちろん、それは勝手な想像だったが。
次の雨は、数日後に降った。「梅雨でもないんに」 朝食をよそいながら、母がこぼす。確かに最近雨が多いな、とは私も感じていたが、早々に機会が来たのでラッキーとも言えた。
何時もより随分早く家を出た。傘を差し、徒歩で向かう。
友人との待ち合わせ場所は、街の中心に架かる地蔵橋。中学校とは逆方向で遠回りになるが、私とくらげが何かする時、行動の起点はいつもここだった。
橋に着くといつも通り、くらげが私を待っていた。軽く手を上げると、彼も無言で手を上げた。そのまま、二人で中学校までの道を歩き出す。途中、町営バスが一台、私たちを追い越していった。
雨の向こうにバス亭が見えてくる。そこに、男は居た。掘っ建て小屋のような粗末な建物の中に、六、七人ほどが座れるベンチ。男はその一番端の席に、一本の黒い傘を立て掛け、座っていた。
私とくらげは男とは逆側に、くらげを男に近い方に座らせて、私は遠い位置に座った。こうすれば、くらげとの会話のついでに、男を観察することができる。
意識の二割ほどを割いて、隣の友人と、通学中の学生がするような取り留めもない話をする。といってもほとんどいつも通り、私が一方的に口を動かしていただけだが。
その内、男の身体の肩口がやけに濡れていることに気が付いた。男の脇にある傘は大人用の大きなものだったが、ここまで、おざなりな差し方をして来たのだろうか。
そんなことを考えている間も、私の口はほとんど無意識に、昨晩のテレビ番組の話をしていた。
「見たか?」
話の流れのまま、私は訊いた。打ち合わせも何もしていなかったが、それまで私の話を左から右に聞き流していた彼が、ちらりとこちらを見やった。そうして逆の、男の方に無造作に視線を向けると、
「……うっすら」
と言った。
唾を呑み込み、くらげの身体越しに、私はじっと目を凝らした。
男の傍には、誰も居ないように見える。
その内、次のバスがやって来た。時間切れだ。先にくらげが立ち上がり、私は後ろ髪を微かに引かれながらも、彼の後に続いた。
男の前を通り過ぎようとした時、不意にくらげが立ち止まった。全く突然のことで、危うくその背中にぶつかりそうになる。彼は無表情に、男をじっと見下ろしていた。
俯いていた男が顔を上げ、くらげを見やった。
視線が合う。二人とも、何も言わなかった。
バスの中から、何人かが怪訝そうに私たちを見ている。慌てた私は咄嗟にくらげの背中を押して、無理矢理バスに乗せようとした。
その瞬間、私の目の端に何かが映った。男の隣に、誰かが座っている。思わず二度見する。が、その時にはもう消えていた。ただ見間違いではなかった。確かに、そこに誰かが居た。
バスに入るよう、今度は私が袖を引っ張られた。
「……何か居たな」
バスの一番後ろの席に座ってから呟くと、彼は至って何でも無いような口調で、「あの人には、見えてないようだったけど」 と言った。立ち止まったのは、それを確認するためだったのだろうか。
ドアが閉まる音がし、バスが走り出す。私は背もたれの上にそっと身を乗り出し、後ろの窓から外を見やった。男は再び俯いて、地面を見つめていた。
「……教えてやった方がいいんじゃないか?」
私の言葉に、くらげは無言で首を横に振った。彼は背もたれにもたれかかって、薄く目を閉じていた。何を見たんだ、そう訊こうとして、止めた。確かに、私たちが彼に教えたところで、信じてもらえるはずもない。きっと馬鹿にされていると思われて終いだろう。
「見えない方が、いいよ」
目を閉じたまま、くらげが小さく呟いた。
再び、窓の外を見やる。雨の中、男は俯きその額に自分の組んだ両手を当てていた。何かを祈るように、もしくは乞うようにか。
バスは遠ざかり、男の姿はあっという間に小さくなって、見えなくなった。
それから数回、バス停で同じ男を見かけたが、ある雨の日を境にぱったりと現れなくなった。不思議に思い色々嗅ぎ回った末、私は男がある程度立ち直り、仕事にも復帰したことを知った。
そんなある日、バス停の前を通りすぎた際、ふと、ベンチの脇に見覚えのある黒い傘が残されていることに気が付いた。男の物だと思っていたが、違ったのだろうか。それとも男が忘れて、もしくは置いて帰ったのか。
その傘も数日後には消えていた。誰が持っていったのか、私は知らない。
【くらげシリーズ系】黒服の人々 後編
私の胸中とはまるで裏腹に、葬儀はしめやかに進められた。
えらく長く、それでいてほとんど何を言っているか分からない祝詞などを聞いているうちに、
次男の言葉に混乱していた私も、次第に落ち着きを取り戻していった。
一度、冷静になって考えてみる。
くらげの母親は、彼が生まれた直後に亡くなったと聞いている。
そうだとすれば、本当に彼が母親を殺したのなら、首も座らない赤ん坊が殺人を犯したことになる。そんなことはありえない。
けれども、彼が全くの嘘をついたようにも思えなかった。
だとすれば、おそらく彼女は、出産が原因で亡くなったのではないか。
昔よりは医療が充実した現代だが、ありえない話ではない。
もしもそれが原因だとしたら、彼女の死が、引き換えに生まれてきた赤ん坊のせいにされることだってあるだろう。
私の理性はそう結論付けた。これ以上の答えは、その時の私には考え付かなかった。
それでも、何か腑に落ちない、もやもやとした塊が腹の中に残った。
私の中の誰かが、「違うんじゃないか」と言っている。私はその声を無理やり胸の奥の奥へと押し込んだ。
するとその代わりに、また、あのおちゃらけた次男への怒りが湧き起って、それを鎮めるのにも一苦労がいった。
葬儀の方はすでに、祝詞から玉串奉奠へと移っていた。
仏式では焼香にあたる儀で、席順に遺族、親戚、一般という順に榊の枝葉を受け取り霊前に置いていくようだ。
当時の私は神葬祭の経験自体少なかったので、奉奠のやり方が分からず、目を凝らして前の人の動作を観察した。
二礼二拍一礼は分かるのだが、その前の榊の置き方だ。
何やら回転させているように見えたが、距離があるのと、背中で隠れてしまうため、良くわからない。
私の番が来るまでに、ちゃんと見て覚えておかなければならない。
そう思い、玉串を納めている人の背中を凝視していると、ふと私の目に別の何かが映った。
棺の上に、小さな光る何かが浮かんでいる。
それは蛍の光のような、小さな、淡く青い光の粒だった。しかも、一つではなく複数だった。
何だろう。焦点を合わそうとしても、いかんせん祭壇まで遠く、それが何であるかわからなかった。
祭壇には提灯があるが、それは少なくとも提灯の光ではなかった。風に遊ばれる風船のように揺れて、浮き沈んでいる。
一体、あれはなんだろう。
ふと気が付くと、ほとんどの人が奉奠を終え、次が自分の番だった。
まだ完全に動作を覚えたわけではないが、今になって誰かに助けを求めるわけにもいかない。
仕方なく、ぶっつけ本番で臨むことになった。
祭壇に近づくにつれて、棺の上にある淡い光がより鮮明になる。
斎主の前に進み出た時には、それが何であるかはっきりと見て取れた。
それは小さな、ゴルフボールくらいの大きさの、数匹のくらげだった。
その表面にちりちりと光の筋を浮かび上がらせ、空中にふわふわと漂っている。
どうやら、ゆっくりと天井に向かっているらしい。
そのうち、一匹の新たなくらげが、棺の中から顔を出した。
このくらげたちは棺の中から現れているのか。
あまりの光景に、私はしばらくの間、我を忘れていた。
自分の前に榊が差し出されているのに気づき、慌てて受け取る。
霊前に進むと、一匹一匹のくらげたちの表情がより深く見て取れた。
薄暗い部屋の中、それはとても幻想的であり、たっぷり非現実的でもあり、見惚れるには十分な光景だった。
これは何だろうという疑問さえ、綺麗に消え去っていた。
ふと、くらげたちの動きが変化したのに気が付いた。
天井へ向かっていたくらげの群れがその動きを止め、再び棺の中へゆっくりと落下していく。
そうして、最後のくらげが棺の中へと消えていった次の瞬間、玉串を持った私の手を、誰かの手がふわりと包み込んだ。
その手は目には見えなかった。しかし確かに、棺のある方向から私の両手を優しく握っていた。
そうして、私の手を玉串諸共ゆっくりと時計回りに回転させた。葉をこちら側に、玉串の茎が棺に向くように。
目には見えない。けれども、握られたから分かった。
その手は、小さく、しわだらけで、ごつごつしていた。そして、私はその手が誰の手かを知っていた。
『彼女』は奉奠の動作がわからない私に教えてくれたのだ。
不意に涙がこぼれた。それは感情の動きよりも先に、フライングして出てきたような涙だった。
玉串を置いてもしばらくの間、その手は私の両手を握ったままだった。
このままでは涙も拭けない、そう思った時、ふっと手を包んでいた感触が消えた。
制服の袖で、ぐい、と涙をぬぐい、棺に向かって、二礼、二拍手、一礼する。
ありがとうございます。
そう一言呟き、私は霊前を後にした。
目がにじんでいたせいか、棺の中から浮かび上がるくらげたちは二度と見えなかった。
席に戻る際に、親族の席に座っていたくらげと目があった。
涙の跡を見られないようにと目をそらすと、向けた視線の先に次男が居た。
さすがに真面目な顔をしていたが、どこか面白そうに私を見ていた。
その横には長男も座っていたのだが、彼は軽く目を瞑り彫像のように動かない。
三人が三人とも似ていない兄弟だった。
一般客の後、最後に斎主が自ら玉串を霊前に置き、玉串奉奠の儀は終わった。
その後、斎主が退出し、喪主であるくらげの父親の短い挨拶があって、葬儀は閉会となり、
出棺の準備のため、親族以外は別の部屋に待機することになった。
しばらく待っていると、大広間から、どん、どん、と釘を打つ音がした。
次いで家の中から棺が運び出され、門の外で待っていた霊柩車に乗せられた。
外は相変わらず水をたっぷり吸った重たい雪が降っていた。空は灰色。
遠くの山を白くかすみ、その中を黒い服に身を包んだ人々が動いている。
まるで、出来の悪いモノクロ映画のような光景だ。
火葬は近しい親族だけで行うらしく、私のような一般客やその他の人は、彼らが戻るまで家で待つことになった。
大広間に、茶や菓子が用意されているとのことだったが、私は家には入らず、彼らの帰りを外で待つことにした。
理由は特にない。強いて言うなら、出所の分からない意地だった。
外は寒い。何度か中に入るようにと言われたが、首を横に振り続けていると、彼らも何も言わなくなった。
家に入り、事情を知ってそうな人から、くらげの母の話を聞く。そういう考えも無くはなかった。
けれども何故か私には、もしも誰かに訊くとすれば、この話はくらげ自身の口から聞くべきだ、という想いがあった。
雪がひどくなって、私は屋根のある門の下へと避難した。上着も持ってきていなかったため、手も足もひどく悴んだ。
自分でも何をやっているのだろうと思ったが、それでも家に入る気は起きなかった。
火葬場で焼かれている祖母の遺体のことを思う。雪風に打たれている私とは真逆の状況だ。
といっても、敢えて変わってほしいとも思わなかったが。
ひとしきり馬鹿なことを考えていると、年配の女性が家の中からお菓子と防寒具を持ってきてくれた。
紋所の付いた赤いちゃんちゃんこ。亡くなった祖母のものだという。袖はなかったが、それはとても暖かかった。
火葬場から彼らが戻ってきたのは、二時間も経った後だった。
祖母のちゃんちゃんこを着、門で待っていた私を、親族たちのほとんどは奇怪な目で見やった。
次男は可笑しそうに笑い、長男と父親は何も言わず、くらげは真顔で「本当に、おばあちゃんかと思った」と言った。
その後は大広間での食事会だったが、大人たちのつまらない昔話に耳を傾けるつもりはなく。
私はくらげを誘って抜け出し、二階の彼の部屋へと上がった。
適当なところに座布団を敷いて座る。二人ともしばらくの間、口を開かずにいた。
色々な考えや出来事が私の中のあちこちで渦を巻いていて、それらは容易に言葉にならなかった。
「……今日は、ごめんね」
先にそう言ったのは、くらげだった。
彼は私に向かって『ごめん』と言った。しかし、こちらには謝られるような覚えはない。
怪訝そうに彼を見やると、彼は私とは目を合わさず、「何だか、気分を悪くさせたみたいだから……」と言った。
なるほど。くらげは彼の兄であるあの男のことを言っているのだ。
確かに嫌な気分にはなった。けれども、それは決して彼が謝るべきことではない。
話題を変えようと、私は無理やり口を開く。
「そう言えばさ……、棺の上に、小さいくらげが浮いてたよな」
すると、彼が不思議そうに私を見た。
「……くらげ?」
彼には見えていなかったらしい。
私は驚く。私に見えたのだから、当然、それは彼にも見えたのだと思っていた。
私は元々霊感など持っていない人間だ。それが、くらげと一緒にいるときだけ、僅かだが彼と同じものが見えるようになる。
今まではずっとそうだった。
「え、じゃあ、あの手も?」
くらげは首を横に振った。私は彼に、玉串奉奠の際に体験したことを一通り話した。
「そう……、おばあちゃんらしいね……」
そう小さく呟いた彼の口元は、かすかに微笑んでいた。
窓の外に目を移すと、ぼた雪はいつの間にか雨に変わっていた。
こんな雨の日、くらげの祖母には、空に向かって登る無数の光るくらげたちが見えたそうだ。
「なあ、くらげさ」
くらげの方に顔を向けると、彼は小さく頷き、「うん」と言った。
「ただの想像だけどさ。もしかして……。あのくらげって、生き物の死体から湧くんじゃないか」
棺の上を漂い、青白く光るくらげたち。あの時、私は一瞬だけだが、魂という言葉を連想した。
死体から湧き出る、くらげ。もし、魂というものが存在するのなら、あの光るくらげは、それに近いものなのではないか。
以前、どこかで聞いたことがある。雨は、そのたった一度で、驚くほど多くの生き物の命を奪うと。
生を失うのは、大抵は小さな生き物だ。その一つ一つの魂が発光する小さなくらげとなり、空へ向かって昇っていく。
祖母はその光景を見ていたのではないだろうか。
そんな与太話を、くらげは黙って聞いてくれていた。
私がしゃべり終えると、彼は肯定も否定もせず、窓の向こうの雨を見つめながら、「そうかもしれないね」とだけ言った。
またしばらく沈黙が続いた。
「おばあさんさ……。死ぬ前に、くらげに何か言った?」
ふと、気になっていたことを尋ねる。
死に目にはあえたと聞いていた。人が人に伝え残す最後の言葉。祖母は彼に何が言い残したのだろうか。
「……『強う気持ちを持っておらなぁいかんよ』」
くらげは、ゆっくりとその言葉を口にした。
「そう言った。……自分はもうじき居なくなるから、って」
私は改めてくらげを見やった。その言葉はもしかしたら、そのまま祖母の人生を表していたのかもしれない。
くらげに祖母が居たように、彼女には誰か味方がいたのだろうか。
私は、玉串を納め終えた後もしばらく離してくれなかった、あの小さな手の感触を思い出した。
あの手は、私に何か伝えようとしていたのではないか。
祖母が死んで、くらげは一度も泣かなかった。次男は私にそう言った。
死者が見えるのだから、悲しむ必要もないのだろう。その言葉の裏にはそんな響きがあった。
私はあの野郎が嫌いだ。
悲しくないはずがない。私は二人がどれだけ仲が良かったかを知っている。
いくらそれらが見えたからといって、死んだ者が生きている者と同じようにふるまえるわけがない。
私はそれをこの家で学んだ。死んだ祖父のために出された料理は、決して減ることは無かった。
例え骨になるまで焼かれても、例え雪の降る中突っ立っていても、死んだ者は熱さも寒さも感じることは無い。
いや、例え感じていたとしても、私たちにそれを知るすべはない。
悲しくないわけがない。
私は自分の肩に手をやった。柔らかな綿の感触。まだ、祖母の赤いちゃんちゃんこを着たままだった。
このまま着て帰りたい気持ちもあったが、いったん脱いで、彼の前に差し出した。
「これ、返す」
彼はそのちゃんちゃんこをじっと見つめ、それから「……うん」と言って手に取った。
「……それ着てみろよ。すんげぇあったかいから」
彼は無言でちゃんちゃんこを羽織った。意外と似合っている。
「な」と私が言うと、彼はまた「……うん」と呟き、そのまま抱えた両膝に顔をうずめた。
そうして彼は、まるで眠ってしまったかの様に動かなくなった。
本当は、彼の母親のことを訊こうかとも思っていた。一歩間違えればそうしていた。
私は彼を問い詰め、そして彼はきっと正直に答えてくれただろう。
私は寸前で、これ以上彼を追い詰めずに済んだのかもしれない。
きっと彼だって、張り詰めた糸のような均衡で保たれていたに違いないのだ。
訊くべき時。それは決して『今』ではなかった。
その名を呼ぼうとして私は口をつぐんだ。
膝に顔をうずめ動かない彼に、それ以上かけてやるべき何かを私は持ってはいなかった。
あったとしても彼には届かなかっただろう。当時の私たちは、まだほんの子供だった。
だからせめて、私は彼が顔を上げるまで、そこで待つことにした。
寝転がると、一階の大広間の話し声が微かに聞こえた。大きな家だから、なかなか声も届かないのだろう。
耳を澄ますと、すぐ窓の向こうに降る雨音の方がよく聞こえた。
例え彼が母親を殺していたとしても。たった一つ、これだけは言える。
彼はいいヤツだ。
寝転び、窓を見上げたまま、私は目を閉じた。
暗闇の中では、幾千幾万というくらげが色とりどりに薄く淡く発光しながら、
どこへ続くかもわからない空へと吸い込まれていった。